第7話──〈ランス大聖堂〉求め合い、触れ合う心・前編
──名前を呼ぶようになったのは、自分の方が先だった。
「みなさん私の事を『乙女』や『聖女様』と呼んで下さいますけど、ただの『ジャンヌ』で結構ですよ」
言われて、真っ先に応じたのはアランソン公だったろうか。
以来、少女のごく近くにいた幕僚の何人かは、『救国の聖女』である彼女に対し、親しみを込めて「ジャンヌ」と、その名で直接呼ぶ事が多くなっていった。
とはいえ、これを機に畏れ多くも神の使いである彼女を軽んずる風潮が出てもらっても困る。
オルレアン方面に派遣された軍の総責任者であり、いわば王家の代表として戦場に赴いているアランソン公はともかく、他の騎士や傭兵達があまり馴れ馴れしく少女に接する機会を与えるべきではない。そう判断したジルやラ・イールは、公の場ではあくまでも慇懃に『乙女』『我らが聖女』と彼女を敬い、宮廷の貴婦人に対するような姿勢を保ち続けていた──もっとも傭兵隊長の方は他人の目が無くなると、途端に『娘っ子』呼ばわりだったが。
そんな二人にジャンヌ自身は不満そうだったが、理解してもらうしかない。全ては彼女を護り、フランスを勝利に導く為で、その大義名分の前では、個人の持つ感情や希望が入る余地はないのだ。
しかしながら──ジルの場合、この大義名分は、己の中に芽生えつつある不可解な衝動を制御する良い言い訳にもなっていた。
──少女をその『個』の名前で呼んでしまったら、自分の中の何かが崩れてしまうかもしれない。そんな説明出来ない不安があったのだ。
◆◆◆
ところが。
そんなある時、冷静沈着で知られる男爵はらしくもなく、心乱された隙をイングランド側につかれて負傷した。
戦場に出た御使いたる乙女が、猛将の名を欲しいままにする彼ですら及びもつかぬ猪突猛進ぶりで、一人、敵兵の矢面に立つのを見てしまったからだ。
軍旗を掲げ、兵士達を鼓舞する事に夢中の少女は、自らを狙う射手の存在に気付いていない。
声を出すよりも先に、身体が動いた。
矢が風を切る音。
彼らにとっては悪夢を連れてきた魔女に他ならない少女に向かって、次々と躍りかかるイングランドの将兵達。
──馬鹿な、こんなところで彼女を失ってなるものか。
お前達になど、指一本、触れさせはしない──!
絹を裂くような悲鳴が上がった。
少女の前に飛び出したフランスの若い将軍の左胸に、鎧通しの矢が、深々と突き刺さっていた。
甲冑の下、生暖かいものが染み出して肌の上を伝い、広がっていくのが分かった。
大丈夫──目を見開いたまま立ち尽くしている少女に声をかけようとするが、喉元をせり上がってくるものが邪魔をして、言葉が出ない。
「──っ!」
凄まじい怒気と鮮血を吐きながら振り返る敵将へ、イングランドの弓兵は次の矢を射る。
どうせ致命傷だ。もう人質の用は足さない。ならば『アルマニャックの売女』共々、討ち倒して名を上げよう。そんなところか。
太腿へ、肩口へと続けて矢が吸い込まれる。青年の長身が仰け反った。耳障りな罵倒や快哉の声と共に、傷ついた騎士と少女に殺意が押し寄せる。
だが──とらせはしない。
まだ自分も彼女もここで果てるつもりはない──
ジルの身体に烈気が漲る。
悲鳴を上げるのは、イングランド兵の番だった。
瀕死の騎士の瞳が血の色に輝いたかと思った次の瞬間、何も知らずに躍りかかってきた兵士達は、次々と身体の一部を削ぎ落とされて、地面に転がっていた。
剣を構える青年以外、彼らの身に何が起こったのか、理解し得た者はいなかった。
まさに、何かの魔術としか思えないような、俄かには信じがたい光景だった。
そこからの展開は一方的だった。
突如現れた得体の知れない『怪物』の恐怖に、本能から凍りつくイングランド兵。
一瞬の躊躇。逃げるなら早く逃げればよいものを。
うっすらと蒼白の美貌に浮かびあがる表情。向かい合う者を怖気立たせるのに充分過ぎる凄絶な笑みだった。
恐怖を打ち払うように、イングランド兵は再び雄叫びを上げ、剣を振りかぶる。
しかし、もう遅い。
彼の剣はそのまま彼の祈りである。その真摯さにおいて右に出る者はいない。
白刃が空気を斬り裂き、哀れな獲物に葬送の舞踏を刻む。
断末魔を上げる暇すら与えられず、野鳥に啄ばまれる死体がさらに増えた。
「ひっ……」
恐慌状態に陥った敵兵が足を取られて仲間の遺体の上に突っ伏する。
異様な気配を纏って立ちはだかる騎士に、傭兵や下級の騎士は蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出し始めたが、それでも彼らを率いる立場の将ともなると、意地もあるのだろう。黒髪の美しい死神に、それでもなお、剣を構える者もいる。
だが、勇敢なるものであろうと、臆病なものであろうと、騎士の剣が彼らに与えるものは常に平等だった。
「やっぱりこいつらは魔女──」
切結ぶ間もなく剣を弾き飛ばされ、恐怖に引きつった男の胸元に、稲妻のような尖突が閃く。
易々と胸板を突き破った剣先は、その言葉と命とを永久に絶えさせた。
「──乙女よ」
騎士の喉にようやく声が戻る。
感情を押し殺した、低く、かすれた声。
「あまりにも突出し過ぎです。ここは一度退却を」
紡がれた言葉に、蒼褪めた少女がこくこくと頷く。
邪魔な矢尻をへし折りながら、聖女を気遣う騎士の瞳は、なおも不吉な紅い光を放っている。
自分を見る少女の瞳に怯えの気配を感じ取って、ジルは思わず目を伏せた。
その後も、陣羽織を血で染め上げた幽鬼のような騎士に抱えられたジャンヌは、彼の耳元でずっと涙声で「ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返していた。
ジルは唇を噛んだ。
もはや取り返しのつかぬ失態だった。
乙女をむざむざ危険に晒し、あまつさえ、その目の前で明らかに致命傷と分かる傷を負い、妖魔の力を使うところを見られてしまった。
ただ、力を使うだけならどうという事は無かった。だが今は一時に大量の失血をした事で、彼の意志とは関係なく、その身を気が遠くなるほどの吸血衝動が支配しつつあった。
薄れゆく人の意識に変わって、魔物の本能が急速にその存在を主張し始める。
このまま、抗う意志を放棄してしまえば、腕の中の少女に貪りつき、その魂ごとを全身の血液を吸い上げてしまうだろう。
今も無防備に晒されるその白い項に、贄の証を刻もうと、大きく開きそうになる咢を、ジルは最後の力で必死に抑え、長く伸びた牙で己の唇を食い破り、新たな血をにじませていた。
「──将軍」
ああ、そんな目で私を見ないでくれ。
貴方にだけは──貴方にだけはこんな姿を見られたくなかったのに。
苦悩に美貌を歪ませたまま、それでも聖女の騎士は手綱捌きも鮮やかに愛馬を疾駆させると、合流した副官に乙女を託す。
そして、物言いたげな彼女を残し、一人、あやかしの力を帯びた勇将はその本能が命ずる勢いのまま、前線へと舞い戻る。
戦わなければおさまらなかった。
この自分に失態を演じさせたイングランド兵に対する怒りと、血への渇望が、彼を荒れ狂わせ、その身を死の嵐と化した。
殺しても殺しても殺したりぬ。
誰か自分を止めてくれ。
──結局、イングランド側が撤退を始めるまで、騎士は聖女の下へは帰らなかった。
◆◆◆
「後は任せる──もう私は御終いだ」
幕舎に戻った後も、ジルはそう傭兵隊長へ一言告げると、彼の姿を認めたジャンヌが何か言葉を発するより先に、すぐに彼らへ背を向け、天幕を潜った。
合わせる顔などあるはずもない。自分が酷く惨めで情けなかった。
しかし、少女は決して彼を諦めたり蔑んだりはしなかった。
怯えていたのはジルの方だった。
「貴女は実際、恐ろしくないのですか……?
否、忌まわしいとは感じないのですか?
血に飢え、魂の渇きを癒す為に敵を屠り、その返り血を浴びる事で獣のように瞳を輝かせる、騎士とは名ばかりの亡者を」
全てを告白した後、渇望の炎を宿したままの瞳で、彼を追ってきた聖女にジルは問うた。
「そんなはずはありません……私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由など、あるはずがないでしょう?」
ジャンヌは穏やかに否定の意を示すと、騎士の冷え切った手を取り、胸の前で掲げながら、彼女の通り名そのものである慈母のような微笑みを浮かべた。
「……乙女」
「それに、貴方がそのような身体になったのも、全ては国と民を思うが為。
自らの身を賭して尽くす者を、神が見捨てるはずがありません」
温かな気配が、指先から伝わり、騎士の身体を包み込んでいく。
それは母の胎内に還ったような、言葉に出来ぬ安堵感があった。
彼女の放つ聖性によって、ジルの身体を支配し、闘争へと昂ぶらせていた異形の力が宥められ、人と魔性の狭間で彼を苛んでいた苦痛が和らいでいく。
波がひいていくように血の渇きが治まっていくのが分かる。まるでその救われ得ぬ魂ごと癒されていくようだった。
──ああ、彼女はこんな私でも、まだ『戦友』として──『人間』として見てくれるのか。
少女の労りの気持ちに気付いたと同時に、ジルの脳裏に閃くものがあった。
そうか。彼女もまた、自分を『聖女』ではなく、一個の人間として接して欲しかったのかもしれない。
「乙女……いいえ、ジャンヌ」
気が付くと、ごく自然にその名を呼んでいた。
「…………?」
「貴女に会えて、本当に良かった」
「……私も同じ気持ちです……」
この戦いを経てまた、ジルの中で少女の存在は、特別なものになった。
◆◆◆
しかし、自らの事は気軽に呼び捨ててくれて構わないと言うジャンヌではあったが、ジルが少女をその名で呼ぶようになっても、彼女の青年に対しての呼称は相変わらず『男爵様』『将軍閣下』のままだった。
だからジルは尋ねたのだ。
戴冠式を無事終えた後、ちょうど二人きりなった聖堂の中庭で。
一時に大勢の貴賓が集い、古くからの伝統に則って行われた厳かな儀式だった。さすがに緊張したのだろう。どことなく頼りない足取りで愛する少女が傍らにやって来るのを認めると、ジルはふらついて倒れそうになったジャンヌの身体を、慣れた手つきで素早く抱き留めた。
「大丈夫ですか?ジャンヌ」
「……ええ。大丈夫です。
あれほど立派な式典になるとは思っていなくて……ちょっとびっくりしてしまっただけです」
気遣いのこもった深い碧の瞳に、今や国の英雄となった『オルレアンの聖女』こと、ジャンヌ・ダルクは照れたように微笑んだ。
しかし言葉とは裏腹に、その顔色はお世辞にも良いとは言い難いものだ。
いくら『聖女』、『救世主』と誉めそやされても、彼女は元々貴族でも騎士でもない、ただの村娘に過ぎない。自分のような人の皮を被った化物とはわけが違う。
村娘にしては、そこいらの貴族の娘よりよほど度胸も気品も備わっていたが、ジルにとっては、初めて出会った時から、その身に圧倒的な神秘を感じつつも、あくまで彼女は庇護すべき対象であり──凍えて冷え切った心に甘やかな『幸福』とも言える感情を齎してくれる存在だった。
それを多くの人が『恋』と呼ぶものだと、最初に自覚したのはいつだったか。
──否、本当は出会ったあの瞬間から、自分は彼女に恋していたのかもしれない。
「御身は既に貴女だけのものではないのです。
このところあまり体調が優れないご様子。
無理をなさいますな」
「ふふ、貴方の目は誤魔化せませんね。将軍。
……いいえ、もう元帥閣下でしたね。ごめんなさい」
オルレアン開放の功績により、名将アルテュール・リッシュモンが退いたままになっていたその地位へ、25歳の誕生日を待たずして身を置く事になった戦友を、聖女は柔らかく目を細め、誇らしげな微笑みで祝う。
彼女の忠実なる騎士であるジルは、これに小さく頭を振った。
「私がこのような身に余る栄光を得る事が出来たのも、全てはジャンヌ、貴女のおかげです。
貴女とて、それだけの労を称えられる資格はあるのですよ?
いくら貴女が平民の出身であろうと、陛下も軍功目覚しい臣下に対しては、相応の処遇をされるでしょう」
「でも、私は別に……そのようなものが欲しくて戦いに参加していたわけではありませんし……」
この言葉に、ジルは彼にしては珍しく、おどけたように肩をすくめてみせた。
「それを言うなら、私とて、別に元帥になりたくて戦っていたわけではありませんよ。
今も『元帥』と呼ばれても自分の事だとはまるで思えませんしね。
どうせ貴女に呼んで頂けるなら、よほど名前で呼んで頂けた方が嬉しいです」
「え?」
「こんなところで恨み言も何ですが……お付のドーロンやレイモン、ルイは名前で呼んで下さるのに、私だけは貴女に名前で呼んで頂いた事が一度もないのです。
私はこれでも、貴女にとっては身近な──それなりに『特別な人間』になれたのではないかと自負していたのですが……それはただの自惚れだったのでしょうか?」
何やら戸惑う少女の顔を覗き込みながら、大真面目な顔で睨んでみる。そんな元帥からの抗議に、何故かジャンヌは酷く慌てた様子で、頬をうっすら赤らめながら、
「そ、そうですか?
あ、いえ、その……別に私にとってルイ達の方が特別だからとかそういうわけではなくて……ただ男爵様にはくれぐれもご無礼がないようにと思っての事だったのですが……えーと……」
頭一つ分よりも高い位置から見下ろしてくる彼に向って、心底申し訳なさそうな上目遣いで訴える。
「……すみませんでした、ジル」
ぽつりとこぼした後、彼女は今度こそ耳まで真っ赤になった。
「いやだわ私……!
ごめんなさい!元帥!けっして!けっしてそんなつもりでは……!」
騎士の位すら持たない、身分はあくまでも『田舎から出てきた農民の娘』に過ぎない自分が、貴族である青年を敬称すら付けずに呼び捨てる事の不自然さに気が付いたのだろう。
だが、ジルが彼女の口から出た響きに感じたものは、まったく別だった。
その場を必死に取り繕うとする少女の様子に、冷淡な態度を保っていたジルだったが、とうとう堪えきれずに吹き出した。
「……貴女でもそんなお顔をされる事はあるのですね」
笑い過ぎてこぼれ出した涙をぬぐいつつ、相手を安心させるように、くしゃりと色素の薄い髪を撫でてやる。
「貴女がそうお呼びになりたいのであれば、別に私はいっこうに構いませんよ? 私も貴女を『乙女』ではなく、こうしてジャンヌと呼ばせて頂いているのですからね。
それに実際、その方がより嬉しいですし」
それは紛れもない青年の本音だった。
彼女が口にするだけで、ありふれた自分の名前すら、何か神聖なものに感じられた。
「本当に……?」
「聖女に嘘はつけませんよ。
ただ、アランソン公達の目が気になるのであれば、その時はこれまで通り『男爵』でも結構ですので。
二人だけの時は、どうぞお気軽に呼び捨てて下さい」
どこか口調が弾んでくるのを抑えられないジルの一言に対し、
「……お気軽になんて無理です。
……だって私……」
「いかがされましたか?」
何やらもごもごと口篭るジャンヌに、相変わらず遠慮なく整った顔を近づけてくる少年のような元帥。
「……なんでもありません!」
肩をいからせ、ぷいっと上気させた顔を背ける彼女を見て、そういった駆け引きの機微に疎いジルはわけが分からず、その時は怪訝な顔をするしかなかった。
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