第6話──聖女の秘密と、抑えられない感情(おもい)・後編

「よお、元帥閣下。

 百合の紋がお似合いだな。

 色男がますます立派になりやがって。

 さすがの俺も嫉妬しちまうぜ」


「王国中の女の視線を独り占めするつもりか」などと笑いながら、盛装したラ・イールが気さくに声をかけてくる。

 自分と同じく、王太子をこのランスの地へと導いた立役者の一人である戦友は、豪快に笑いながら、その逞しい腕をジルの肩に回した。


 ──1429年7月17日。


 先刻、ノートルダム大聖堂で行われた戴冠式は、実に厳かで壮麗なものだった。

 多くの人々に祝福され、王太子シャルルはここに、晴れてフランス王シャルル七世となった。


 祭壇の前に立つ新しい王の神々しい雄姿に、そのすぐ足下に控えていたジルは、自然と目頭が熱くなるのを感じた。

 この晴れの日に、彼は初代国王クローヴィス以来、千年続く慣例に従い、式典に必要不可欠な聖油を奉持するという大役を任されていた。

 この身に余るほどの栄誉に、改めて騎士は彼の王に深い忠誠を誓ったのだった。


「何の事は無い。

 私はリッシュモン殿の代理に過ぎぬよ。

 私ごとき若輩が伯爵の地位を掠め取るなど……本当に申し訳なく思っている」


 同じブルターニュを郷里とするフランス最高の将軍であり、政治にも辣腕を奮う才人の無念を想い、ジルは目を伏せた。

 本来、天から舞い降りた鳩から受け取ったという伝説が残る聖油瓶を王の下へ運ぶ役目は、王国第二位の地位にあたる王国軍最高司令官、すなわち大元帥の地位にある者が務める事になっている。

 シャルル王やその側近の不興を買い、この晴れの舞台への出席をとうとう許されなかったリッシュモン伯に代わり、24歳の青年は、今や国王に次ぐ華々しい地位にあった。


 この唐突とも言える青年の昇進を推したのは、叔父で国王の侍従長であるドゥ・ラ・トレモイユだ。

 叔父は政敵であるリッシュモン伯を何としてでも宮廷から締め出したいらしい。そこで適当な理由をつけて、ジルをこの地位に据えたのだろう。

 さらに国王は、男爵に対し、王家の紋章である百合の花を、家紋の意匠として使用する事を許したのだった。通常、陪臣の身では考えられぬ厚遇と恩情であった。

 オルレアンから始まったこの戦いで、とりわけ目立った軍功を立てた覚えのないジルは、あまりの事に恐縮しきりだった。


「そうか?俺はあのすかした野郎より、お前さんが聖油瓶の運び手になって心底良かったと思っているけどなぁ」

「おい。王家の直臣である伯爵に対して失礼だぞ……」

「いやぁ。式典を見物していた聴衆は、みんな口を揃えて言っていたぜ?

『今度の聖油は、鳩じゃなく大天使ミカエル様が運んできた』ってな」


 若く力に満ちた国王に、奇跡を呼ぶ可憐な聖女、そして凛々しくも美しい騎士の青年の姿に、民衆は熱狂した。

 暗い時代はもう終わりだ。フランスは神の庇護の下、真の平和を取り戻すのだと。

 まだ王都であるパリを取り戻したわけではないのに、気の早い話だ、とジルは思ったが、国王すら頂く事を許されなかったフランスの未来に、やっと希望の光が挿したのだ。彼らの歓びもまた、理解出来ないものではなかった。


「ミカエルとはまた大袈裟な……だが、お世辞でも祝ってもらえるのは嬉しい。ありがとう」

「世辞が言えるほどこちとら器用な人間じゃねえよ。

 ……しかし、だ。男爵様も随分と人間が丸くなったというか、可愛くなったもんだな」


 にやり、と笑って傭兵隊長が言う。


「可愛くなったと言えば、聖女様もここ最近、とみに可愛くなったと評判でな。

 昨日の晩もさぞかし二人して楽しんだんだろうな。羨ましいことで」

「楽しむ?一体何をだ」

「……何っておい。

 お前さんも水臭ぇな。

 どうだ?聖女様のあそこの具合は。

 生娘だから締め付けが最高だろ。

 紳士な元帥閣下の事だ。毎晩ご丁寧な前戯をしながら可愛がってやってるんじゃないのか?」

「……なっ、

 何を言っているんだ、貴公は!!」


 周囲の目も憚らず、思わず大声を上げるジル。


「私は乙女の純潔を護る騎士だ……!

 その私が、彼女をて、手籠めにするなど……っ!!」

「お、落ち着け男爵!落ち着けって!!

 ……するってーと、何か?

 お前さん、ここまできて、まだあの娘に手をつけていないと、そういう事なのか !? 」


「信じられん……」と、異様なものを見る目で、じりじりと後ずさりながら、ラ・イールが首を振る。

 信じられないのはジルの方だった。

 この男は、ずっと生真面目にジルが聖女を警護する様子を見ながら、自分が彼女と出来上がっているものと思っていたのか。


「この……

 貴公が呑気に遊郭に通っている傍で、私が一体どれだけ苦労したと……」


 陰鬱な表情で何やら恨み言を呟いている男爵には目もくれず、傭兵隊長は天を仰ぎながら、なおも「理解に苦しむ……」「あの腰についてるもんはハリボテか」などと失礼千万な事をほざいている。


 確かに、これまでもラ・イールは、乙女とその騎士が夜を一緒に過ごす時、「哲学者ヅラしながら、しっぽり楽しみやがって。このスケベ男爵!」と言って憚らなかったが、まさか本気だったとは……

 怒りから一転、傭兵隊長の自分に対するあまりの信頼の無さに、言葉も出ない。


「~~~~~~~っ」


 力なく頭を抱えて膝をつく元帥。

 そんな戦友に、それまで天を仰いで神に問いかけていた赤毛の巨漢が、やおら肩を掴むと、据わった目で迫ってきた。


「おい、この苦行僧野郎。

 だったらこうして戴冠式も済んだ事だ。いい機会じゃねえか。

 昇進祝いだ。今夜一発、ぶち込んで来い」

「だからいい加減にしろと……!」

「なんだ、お前さん。

 噂通り、男色専門だったのか?」

「そんなわけないだろう!

 真っ平らな男の胸なぞ、見たところで萎えるだけだわ!」

「じゃあ、あの娘っ子はお前さんの好みじゃなかったと」

「……………………」

「そうなのか?

 俺はてっきり……」

「…………………………好きだよ」


 石畳に視線を落としながら、ぽつりと青年が零した。


「認めよう。

 私は彼女が好きだ。どうしようもなく好きだ。

 愚かしいほどにな」


 ああ、そうだとも。

 もうこれ以上、自分を偽りようがない。


「──私は彼女を愛している」


 彼女の全てを手に入れたくて、しかしそれが叶わない現実に、気が狂いそうになるのだ。


 このたった数カ月の間に、ジルの中で少女の存在はとてつもなく大きくなっていた。

 秘密の時間を過ごす度、戦を勝ち抜く度、自分に見せるジャンヌの表情が、仕草が、網膜に焼き付いていく。記憶に深く刻まれていく。


 そしてある夜、彼女を割り当てられた部屋へと送った後、一人寝台の上に身体を投げ出しながら、気づいてしまったのだ。

 少女を『王国を救う救世主』としてではなく、『一人の女性』として見ている自分の心に。

 他でもない自分が、道ならぬ恋に身を焦がしているという結論に至り、ジルは呆然とした。


 一度己の中の真実に気づいてしまうと、楽しかった彼女とのひと時も、恐ろしい忍耐を強いられる修行の場と化した。

 ジルがいくら懊悩しようと、聖女は唯一、話題を共有出来る男爵の下へ、今日も嬉々としてやってくる。


 幸い、ジルの努力の甲斐あって、聖女は彼の中で膨れ上がってゆく感情に気が付いていないようだった。

 傭兵隊長の愛の籠った冷やかしにも、内心冷や汗をかきながらしかめ面を作っていたジルに対して、いつもジャンヌは楽しそうに笑うだけだった。


 それが、余計にジルを複雑な気分にさせた。


 陣中に夜の帳が降りた後、満点の星の下、松明がわずかに照らす宵闇の時に、浮かび上がる白いうなじ。ほっそりとした指先。相手は年頃の娘で、男装してなお、女性的な魅力を隠し切れていない麗人だった。

 そんな少女が無邪気に肩を寄せてくる。時に男の手を握る。

 ジルもまた若かった。この状況でそういう気分にならない方がおかしい。


 ただ、少女が自分に向けている無条件の信頼を裏切りたくない──その気持ちだけで、彼は最後の一線を踏み越えずにいた。


 最初は、フランス全軍の旗頭である聖女の純潔を何としてでも守らなければならない、その義務感の方が強かった。 そしてこれは確かに、ジルとラ・イールが粛々と彼女に従う姿を見せる事で、功を奏していたのだった。

 あれほど気を揉んでいた粗野な傭兵達、高慢な貴族達も、乙女に対してはごく好意的な対応を見せ、特に傭兵や志願兵達の間での『オルレアンの聖女』の人気は今や絶大だった。自分達と同じように、平民の生まれである少女が、貴族と対等に渡り合うのが痛快だったのだろう。


 しかし、結果として、青年は自らを最も辛い立場に置く事になってしまった。


 聖女が与える希望はおしなべて公平なものである。乙女は誰のものでもない。彼女はフランスに恩寵を齎す神の花嫁なのだ。

 ──凡百の男が手を出して、許される存在ではない。


「…………っ」


 彼女は自分に心を許してくれている。

 それはあくまでも自分が、『聖女を護る騎士』としての立場に徹しているからだ。

 真理を探究するのを喜びとする賢者気取りの男爵の正体が、そこいらの男と変わらない獣の欲を持った人間だと知ったら、彼女は自分に失望し──きっと軽蔑するだろう。


 ましてや自分には妻がいる。望んだものではないにしろ、教会の秘跡を受けられるのは一度に一対の男女だけだ。婚姻が認められた妻以外と通じる事は、神に対する背徳行為であり、その裏切りを、聖女である彼女が許容するはずもない。


 何より、自分はもう、人ですらなかった。

 いずれそう遠くはないうちに、今の世界から去らなければいけない存在だった。

 ──いくら考えたところで、自分と彼女が幸せになれる道は残ってなどいないのだ。


 だったらこのまま、彼女の保護者として、共に戦場をかけたともがらとして、記憶に留めてもらえた方がよほどいい。


 彼女を裏切りたくない──そのもっともらしい言い訳に隠された本音は、『彼女が自分を見てくれなくなる事が恐い』──そんな情けないものだった。


「惨めなものだろう……笑ってくれても構わない。

 私は自分で自分の策に溺れた馬鹿な男だよ」


 このままだと臆面もなく泣き出してしまいそうだった。

 最後の矜持で、力なく傭兵隊長の腕を振りほどこうとする青年に、


「別におかしいことなんてないさ」

 旧くからの戦友は、ごく真面目な眼差しを向けて言った。


「それじゃあ何か?お前さんはこのまま禁欲を通した挙句、澄ました顔して自分がキリスト様にでもなるつもりかい」

「まさか……そんな事出来るわけがない」

「そうだよな。そんな真似したところであの聖女様は悲しむだけだ。

 ……なあ、男爵よ。この戴冠式、すぐ隣であんなキラキラした目をして喜んでいる乙女を見ても、お前さんは何も思うところはないのかね」


 こう問われて男爵は憮然とした口調で答えた。

 あえてこの男に指摘されるまでもなく、彼女に付き従う全ての幕僚が理解している話だ。


「……それは……ようやく念願叶って陛下がこの地で聖別されたからだろう」


「ばっかいえ!

 あの聖女様はもう貧乏臭ぇ陛下の事なんぞ見てねぇよ!」

「なっ……」

「どんだけ鈍いんだこのトーヘンボク!

 惚れた男の晴れ姿が嬉しかったからに決まってんだろうが!」


 不敬にもほどがある台詞を吐き捨てて傭兵隊長が凄む。

 それをたしなめようとして、若い元帥は、彼が放った言葉の意味を改めて咀嚼しながら、動きを止めた。


「惚れた……男だと?」


 それは一体誰の事だ。

 自分の事なのか?


 不思議そうな顔をしてこちらを見ている青年に、ラ・イールは大きく一息つくと、元帥の秀でた額をごつい指で弾いた。


「いっ……」

「……色恋沙汰にとことん疎い元帥閣下に百戦錬磨の俺様が特別に講釈してやるけどよ。

 お前さん、今日の今日まで乙女が綺麗な身体のままでいられたのが、まさか神の御加護の賜物なんて思っちゃいないよな」

「…………」

「たまりにたまった傭兵の前で、いくらありがたい説法をしたところで改心なんぞしやしねぇよ。

 奴等の望みはえらく即物的だからな。

 罰当たりなのを覚悟で聖女様の具合を確かめたい奴等はいくらでもいる。他ならぬお前さんがシノンで言ってた話だ」


 そうだ。だからこそ自分は少女の傍らに常にいた。

 だが、その自分が耐え難い誘惑に負けようとしている。


「まあ傭兵の奴らは本能に忠実なだけだが、貴族の奴等ときたらもっと性質が悪い。

 口では耳障りの良い事をほざきながら、あの娘を自分の都合のいい玩具として使うつもりの連中はいくらでもいるぞ。

 それでもここまで、いくら危ないところがあっても、最悪な目に合わずに済んだのは、他でもない。

 連中、俺とお前さん、そしてアランソン公の三人が恐くて手が出せなかっただけなのさ」


 この戴冠式において貴族の総代を勤め上げたアランソン公は、シノンの宮廷でジャンヌと引き合わされて以来、熱烈とも言える彼女の支持者だった。

 尊ぶべき王家の血筋である若い公爵は、日頃から物腰も柔らかな美男子として評判であり、宮廷の華でありながら、戦場においても勇ましく、人望も厚かった。

 ジャンヌもまた、彼女の言葉を信じ、ジャンヌが動きやすいように貴族の中で立ち回る公爵には、深い信頼を置いているように見えた。


「中でも男爵、お前さんは戦場ではおっかない事で知れ渡ってるからな。

 加えて、あの宮廷を牛耳ってる侍従長とも親類で、リッシュモン伯やヨランド王妃の覚えもいい。

 敵に回したら厄介だ。

 みんな仲良く指咥えて見ているしかないのさ。

 分かるか?もう兵隊どもの中では、お前さんと乙女は殆ど公認の仲なんだよ」


 腰に手を当て、心底呆れたように傭兵隊長は溜息をついた。


 つまりだ。

 聖女を聖女として敬い、奉ろうとしていたのはジルばかりで、他の者は初めから自分達を男と女として見ていたと、そういう事か。

 己のあまりの滑稽さに、ジルの全身から力が抜けそうになる。


「このところ荒くれ者共の間では、乙女がアランソン公とお前さん、どちらのものになるか、ずっと賭けの対象になってるんだぜ?

 そこで、俺の部隊はお前さんの方に大金をかけているわけだ」


 ラ・イールがおもむろにジルの背後を指差す。


「──だから、とっととものにしてこい」


 振り返る先には、興奮冷めやらぬ民衆に取り囲まれたジャンヌの姿があった。


「……俺達軍人は、明日の我が身がどうなるか知れたもんじゃないんだ。

 後悔のないようにしておけよ」


 諭すような言葉に、こちらに気が付いた乙女の朗らかな声が重なる。


「ジル──!!」


 男達の会話など知る由もなく、愛らしい女性の姿が自分の方に近付いてくる。

 込み上げてくるものに、ジルの身体の中心が否応なしに熱くなった。


 ふわりと、腕の中に飛び込んでくる細い少女の身体。


「しかしあいつ等、俺の事はしっかりはぶりやがって……俺だってなぁ……」などと文句を垂れている傭兵隊長の声は、もはや元帥の耳には届いていなかった。

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