第5話──聖女の秘密と、抑えられない感情(おもい)・前編
オルレアンへの派兵が決まり、初めて迎えた朝。
あの昇りゆく日の光は今もこの目に焼き付いている。
心地よく張りつめた空気の中、新たな一日の始まりを告げる太陽の一矢が、ヴィエンヌ河に差し込む光景を目の当たりにした時、ああ、世界はこんなにも美しかったのかと、ジルは呆然とした。
少女の放つ輝きに照らされて、青年の目に映る世界もまた、急激に彩度を増したようだった。
四肢に力が漲っているのがわかる。不思議な気分だった。
まるでたった一晩のうちに、新たな自分に生まれ変わったようだった──
「──まったく、貴方と出会ってからというものの、いつも私は冷静でいられなくて、自分で自分に戸惑ってばかりでした」
周囲の思惑に翻弄されながら、見えぬ神の姿を探し、己の存在の意味を問いかける毎日。そんな若い男爵の日常に突如舞い降りた神の使い。
それまで当たり前だったものの全てが、聖女という新たな秩序によって、塗り替えられていった。
栄光への階段を昇ってゆく、驚きと喜びに満ちたあのひととき。
青年の生涯で、最も充実していたその時間には、常に彼女がいた。
「まあ、男爵様は本当に賢くていらっしゃるのね」
心底感心した様子で『ロレーヌの乙女』ことジャンヌが微笑む。
さながら、自分が目をかけていた生徒が、望んだ回答を導き出した事に満足する教師のように。あるいは、息子の成長を喜ぶ母のような調子で。
本来、七つも年下の小娘に言われたら、腹が立つのを通り越してその厚かましさに呆れるしかない台詞だが、ジルは微苦笑と共に、その言葉をありがたく拝領するだけだった。
実際、聖女は常人では計り知れない存在だった。
オルレアンの解放へ向かうにあたり、シャルル王太子は新たに彼女に対して甲冑一式と馬を贈った。清らかな姿に相応しい、白銀に輝く鎧と白い馬を。
その贈られたばかりの白馬を、つい先日、田舎から出てきたばかりの百姓の娘が見事に乗りこなしてみせたのだ。その様子に本職の騎士であるジルとラ・イールが舌を巻いた。
一朝一夕で身に着けられる技術ではない。自らも優れた騎手であるジルだからこそ、この娘の実力が付け焼刃でない事はすぐに理解出来た。
だいたい、幼い頃から馬に触れる機会がある貴族であっても、ここまで見事な手綱さばきを見せられる者はそういないのだ。ましてや、ただの農民が何故、ここまで初乗りの馬をさも当然のように操る事が出来るのか。ヴォークルールからの出 立前に簡単な手解きを受けていたとしても到底考えられない事だった。
愛らしくも勇ましい女騎士の姿に、ルネが見たら泣き出しそうだな……とジルは思ったものだ。
この少女は本当に何者なのだろう。
一体、何処から来て、何処へ行こうとしているのか。
農民の娘、やんごとなき人物のご落胤──耳に入ってくる噂は、どの話ももっともらしく聞こえる一方で、いずれも腑に落ちる答えではなかった。
ジルの中で、乙女の出自はますます神秘を増すばかりだった。
そんな彼の胸中を知ってか知らずか、奇跡の少女は屈託のない笑顔で、彼女の後見を務める若い男爵の顔を覗き込む。
叔父であるトレモイユ卿から「くれぐれも目を離さないように」と言い含められていたが、ジルが特別注意を払うまでもなく、彼女は彼に心を許し、むしろ懐いてくれているようにさえ見えた。
「──この時代の殿方ときたら、皆さん子牛並の脳味噌しかお持ちでないのかと不安でしたが、そばにいる貴方がお話の分かる方で、本当に良かった」
「お褒め頂き光栄です。
ですが、貴族と言えど、全てのものが等しく教育を与えられる世の中ではないのです。ましてや、貴女のようにとりわけ主の恩寵に恵まれる者がいるわけもない。
どうか、無知で無学な我々をお許し下さい」
この聖女にしてフランスの救世主である少女が、時折、優しい笑顔で苛烈な言葉や辛辣な評を下す事に、他の幕僚達は閉口していたが、ジルは特に腹を立てる事もなく、今も軽く受け流している。
馬術の巧みさにも驚かされたが、それ以上にジルを感嘆させたのは、乙女の底知れぬ知性の深さだった。
──広く世界の歴史上に知られるジャンヌ・ダルクは、当時、多くの人々がそうだったように、読み書きは全く出来なかったと言われている。
戦場における作法、戦術の基礎の基礎も知らない。全くの素人が、前線に乗り込み、その身に纏う神の奇跡と勇気だけで、押し寄せるイングランド軍を蹴散らし、敗戦続きだったフランス軍に勝利を齎したのだと。
故に、彼女は『奇跡の少女』と呼ばれている。
だが。
ジルだけは知っている。
彼女はただ、『フランス語』の読み書きが出来なかっただけなのだ。
それに気が付いたのは、ジャンヌ自ら「読み書きを教えて欲しい」と頼まれた時だった。
「せめて、自分で署名ぐらいは出来るようになりたいんです」
すこし照れ臭そうに言う少女に、
「それは素晴らしい。
貴女自らがしたためた文字のある皮羊紙ならば、そこにも神威が宿りましょう」
ジルは鷹揚な笑顔で請け負ったものだ。
そこで机の前に彼女を座らせ、ジャンヌが筆を執った時──ふと、ジルは呟いた。
「……乙女よ。
貴女は本当に文字を習った事がないのですか?」
「え?」
「いや……恥ずかしながら、私が初めて教師に文字を習った時は、ペンの握り方もよく分からなかったものですから。
貴女が特に迷うことなく、ペンに指を添えた事に驚いたのです」
「………………」
言われた聖女はペンを持ったまま、しばらく沈黙を守っていたが、やがて二人だけの部屋の中に、机上を筆が走る小さな音が、いらえの代わりに返ってきた。
皮羊紙の上に記されたものに、ジルが瞠目する。
『主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る』──聖書の中の詩編が、美しい文字でそこにはあった。完璧な文法のラテン語で。
「……本当に貴方は……貴方だけは私の事をよく見て下さっているのですね。男爵。
ご推察の通り、私は全く読み書きが出来ないわけではありません。
ただ、フランス語の知識だけ与えられていないのです。
『神様』がそうお望みでしたので」
「………………」
今度はジルが沈黙する番だった。
わけが分からなかった。
ラテン語に長けた農民など、馬術に秀でた娘以上にありえない存在だった。
「でもこれは内緒。
私と、貴方だけの秘密にして下さい」
「…………はい…………」
あのシノンでも見た悪戯っぽい笑みを浮かべて少女が言う。
ジルは頷くだけで精一杯だった。
頭が混乱していた。
何か自分はこの少女をめぐる、とてつもない陰謀に加担してしまったのではないか。そんな気すらしてきていた。
それからというものの、「読み書きを習う」というのは、二人きりで時間を過ごす時の良い口実になった。
辺りが消灯し、他人の目が無くなると、二人して様々な事を語り合った。
故郷の事。家族の事。そういった何気ない会話から始まり、興がのってくると、いつしか信仰についてや政治についての議論へと発展する。
少々意地の悪い問いかけをジルがしたとしても、ジャンヌはあっさりと切り返して見せた。
少女と会話を重ねる度、ジルは己の視野の狭さ、知識の浅薄さを思い知らされた。
信じられなかった。
それほど、彼女が『神様』から得た知識は多岐に渡り、またそれについて考察する頭脳もまた、人並み外れたものだった。
性別など関係ない。これほど弁が立つ人間に、ジルは出会ったことがなかった。
自分も当時にしては、軍務の傍ら、かなり学問に励んだつもりだったが、もはやそういう次元の話ではないのだろう。
目の前の少女が、自分よりもはるかに高い見識と能力を持つ人間だという事を、ジルは素直に受け入れ──聖女に対する興味は、畏敬の念が重なる事により、更に深いものになっていった。
ジャンヌもまた、彼女の『講義』に戸惑いながらもしっかりとついてくる男爵の反応が、嬉しくて仕方がないようだった。
やがて逢瀬を重ねるうち、彼女もまたジルの秘密を知るようになった。
人の身を捨てた、騎士の姿を借りた怪物の正体を。
これで少女との甘い時間も終わりだ──そんな覚悟を決めていたのに、聖女はわけもなくその事実を受け入れ、変わりなくジルを傍に置いた。
「貴女は私のようなものですら、分け隔てなく慈しんで下さるのですね」
ごく穏やかな口調の中に、少女の自分に対する恩情に感動を噛みしめながら、ジルは言った。
「貴女の力は素晴らしい。
お傍にいるだけで、私が抱えている人ならざる者の気配も宥められ、浄化されていくようです」
破壊しか生まない自らの力とは違い、聖女の光はあらゆるものを慰め、生きる為の勇気を奮い立たせる。そう称えるジルに対し、
「力は力です。
本来、力に正邪も善悪もないのです。
ただ、私と貴方の持つ力に与えられた役割が違うだけ。
私が持つ力が素晴らしいのであれば、貴方の持つ力もまた、素晴らしいものなのですよ」
全てを受け止める微笑みに、どれだけ救われた事だろう。
互いに秘密を共有する事で、かえってジルに対してより心を開いてくれた。そんな風にさえ感じるのは気のせいだったろうか。
「男爵閣下。貴方は本当に博学で聡明な、素晴らしい男性です。
これは、『神様』からあまり人に話してはいけないと口止めされていたのですが、貴方にだけは話してしまいますね」
そして彼女はジルに語り出す。
『神様』から見せられた、ここではない『遠い世界』の話を。
当時はまさに何かのおとぎ話にしか思えないような世界の話だった。
おそらく、仮に少女がジル以外の誰かにこれを話したとしても、『少女の妄想』『よく出来た吟遊詩人の作り話』で済ませて相手にしなかっただろう。
正直な話、ジルでさえ、想像のおいつかない世界を、辛うじて噛み砕きながら呑み込んでいくので精一杯だった。
──いわく、『遠く離れた場所でも、相手と顔を見ながらやり取りが出来るようになる』、『部屋に楽隊を呼ぶ必要もなく、音楽は楽しめる』、『馬より早く異動する手段が可能になる』、『空に輝く月にすら、人の手が届くようになる』──
そう。500年を経た今であればこそ、はっきりと理解出来る。
それは、全て戦いに明け暮れる自分達の時代から遥か先にある『未来』で起こる出来事だった。
「……そうですか。
その世界では貴女のような平民の子女であっても、分け隔てなく教育を受ける事が出来るようになるのですね」
「ええ。黒死病の猛威にさらされて、街が消える事も、夜盗に襲われて村が焼かれる事もない──この時代からしてみれば、夢のような世界です」
「素晴らしい。
本当にそんな世の中になるといいですね」
ただ、彼女が知った未来についての情報は、必ずしも希望に溢れるものだけではなかった。
二度の世界大戦、その闘争の末に一度に百万の民を焼く核の炎が生み出される事、人の身勝手で神の被造物である多くの鳥や植物達が世界から消える事──少女一人には耐えられないような、重苦しい『現実』もまた、容赦なく背負わされていた。
──これはあくまでもジルの推測だが、大戦が起こる事を知らされていたのだ。その争いの前に、このフランス『王国』が消えるという事も、彼女は知っていたのかもしれない。
そんな世界を垣間見せて、造物主は少女に何をさせたいのだろう。
このフランスとイングランドとの戦いの行方自体には、何も関係のない情報ではないのか。
彼女が抱えるものにどこか薄ら寒いものを感じて、ジルの表情が自然と険しくなった。
そんな青年の表情を見て、ジャンヌが慌てた様子で言った。
「あ、『神様』が下さる啓示や見せて下さる世界は、こちらで選ぶ事が出来ないので辛い時もありますけど……多分、伝えてこられる『神様』も同じくらいお辛いのだと思いますし……それに……」
「……それに?」
「私が見た世界は、必ずしも私達がいるこの世界と繋がっているとは限りません。
『神様』は全てこの『刻の断片』は『可能性』だとおっしゃいました。
今生きている私達が頑張れば、きっと素敵な世界に未来は繋がっていくはずです。
そう、だからきっと、この戦争もフランスが勝利します。
貴方と私、ラ・イール隊長達が力を合わせているのですから。
平和と調停の時代が、必ず私達の王国にやってきます……!」
立ち上がり、力強く言い切った。
そんな鼻息も荒く、頬を好調させている少女を安心させるように、ジルは淡く微笑んだ。
「……申し訳ない。
私が貴女を励まさなければいけない立場であるのに。
つい、深く考え過ぎてしまいました。
お許しを。乙女よ」
「いえ……私こそ。
お話を聴いて頂けただけで、何だか少し気分が楽になりました。
ありがとう、男爵様。
貴方が傍にいてくれて、私は救われました」
微笑み返す彼女に、ジルは何ともくすぐったい気持ちになる。
そう、この時はまだ、ジャンヌは自分の事を『男爵様』あるいは『将軍』とだけ呼んでいた。
自分もまた、多くの人々と同じように彼女に対しては『乙女』、と一歩退いた形で接するのが常だった。
ああ、そうだ。
彼女が自分を『ジル』と名前で呼んでくれるようになったのは、ようやく迎えたランスでの戴冠式での事だった──
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