多摩川丸子橋決戦

 悪魔王サタンは万物を腐食させる瘴気を放ちながら、一歩、また一歩と近付いてくる。


 神子はスサノオの背後に隠れ、決してその姿を直視しようとはしない。細長い足を見るだけで精一杯だ。もし目線が遭いでもしたら、間違いなく『取り込まれる』。その確信があった。


 一方、最強を自負するスサノオは、真っ向からサタンに眼光ガンを飛ばす。

 肩を揺らしながらサタンへ歩み寄る姿は、さながら小銭を巻き上げようとするチンピラのそれ。

 指先一つで斬り裂かれそうになったのが、よほど屈辱だったのだろう。「今度は俺様が叩っ斬る番だ」と言わんばかりに、距離を詰めていく。


 そこへ――上空から、高速で丸子橋に飛来する大きなプレッシャー。


「……!」

「!!」


 一足一刀の間合いに入ろうとしていたサタンとスサノオは、その気配を察知し、瞬時に飛び退いた。

 神と悪魔の間に割って入った炎の剣が、丸子橋のアスファルトを溶かす。

 届く熱風に神子は顔をしかめ、サタンは笑い、スサノオは舌打ちする。


「……やぁ。これはこれはセラフィム・ウリエル。顔を合わせるのは何万年ぶりだろうか」


「ルシファー……! 貴様……!」


 熾天使セラフィムウリエル。

 その天使は神子もよく覚えていた。つい昨日、明治神宮に避難する神子達の前に降り立ち、災いを警告しに来たばかりなのだから。

 そして神からの預言、ウリエルの予言通り、明治神宮はベルゼブブ達に襲撃された。


 しかし白峰神や神子の前に姿を現した時と今では、様子がまるで違う。

 何があろうと事務的な態度を崩さない印象だった彼女が、今はサタンに対して感情を剥き出しにしているように見える。

 ウリエルの手に握られた、輝く西洋剣から吹き出す火炎が、より一層それを引き立たせていた。


「黙示の日にはまだ早い……! 貴様ら悪魔は何を企んでいる……!? 地上に一体、何の用ですか!」


「用も何も、ベルゼブブを討ち倒した者の顔が見たくなってね。しかしどうやら『見えなくなっている』ようだ。……まぁ、スカイツリーの頂上からの眺めにも少しばかり飽きてきたところだったし。ちょうど良い暇つぶしになると思って」


「おいテメエらぁ! 俺様をシカトしてんじゃねぇぞコラァ!!」


 折角サタンと斬り結ぶつもりでいたスサノオは激昂し、ウリエルとサタンに向かって聖剣を振りかざして立ち向かう。二刀の神器を軽々扱い、天使と悪魔との、三つ巴の戦いを繰り広げ始めた。

 天使ウリエルは別に日本国の敵ではないため、争う必要はないのだが、頭に血が昇っている今のスサノオには、神子の声は届かないだろう。


(た、大変はことになってしまった……!)


 神職とはいえ、ただの一般人である神子には、超高次元の戦いを前に立ちすくむことしかできない。

 逃げようにも、後ろにあるのは崩落した橋と多摩川の急流。眼前では神と天使と悪魔の最終決戦。巻き込まれないように、ひたすら姿勢を低くして怯えるばかりだった。


「神を裏切り、堕天した追放者が……! 今ここで滅します!!」


 『神の炎』を司るウリエル。その手に握られた剣から爆炎が噴き出し、スサノオごとサタンを焼き殺そうとする。

 だが神聖なる英雄であるスサノオには浄化の炎はあまり効かず、サタンにも黒翼の羽ばたきでかき消されてしまう。


「キミに私を滅ぼすことができるかな? ミカエル最も神に近い者くらいでなければ、傷付けることすら難しいんじゃないかな」


「黙りなさい……っ!」


 冷静さを欠いているウリエルの剣は届かない。しかもサタンは丸腰にも関わらず、スサノオの聖剣やウリエルの剣戟を防ぎきっている。

 余裕の微笑をたたえたままの悪魔に、スサノオはストレスが溜まるばかりであった。


「スカシやがって悪魔野郎……! だから俺様をシカトしてんじゃねぇッ!!」


 ほんの一瞬、スサノオは神力を爆発的に増大させる。

 通常なら、白峰神のように全身が砕け散るほどの神力増加。だがバイクのエンジンをふかすように、一瞬の増加であるため自爆はしない。たった数秒だけ、全ての身体能力を何倍にもさせる高等技術だった。

 そしてその神力増加によって、天叢雲剣がサタンに届く。黒い翼に刃先が掠り、カラスの羽根のような羽毛が宙に舞う。


「……!」


 サタンは大きく飛び退き、スサノオとウリエルから距離を取る。

 翼はすぐに自己再生されたが、その表情はどこか、思う所がありそうだった。


「……面白い」


 少しだけ口角を吊り上げると、指先を暗雲渦巻く空へと向ける。

 するとアスファルトの大地が割れ、地の底より無数の悪魔が湧き出てくる。各々が武器を持ち、魍魎のごとくおぞましい声を上げ、丸子橋に雪崩込んできた。


「サタンめ、小癪な……!」


「ハッ! ザコをいくら呼び寄せても無駄だぜ!!」


 ウリエルは炎の剣で、スサノオは聖剣を振りかざしてサタンを目指す。

 悪魔王はその様子を、楽しそうな微笑で見守っていた。


 だが直情的なスサノオは、戦いに熱くなるばかりに見落としていた。ここでサタンがバフォメットを呼び寄せた意図を。

 サタンの狙いは――スサノオの神としてプライドを、へし折ることだった。


「き、きゃあああああああっ!」


「!? しまった!!」


 スサノオが振り向くと、そこではバフォメットに襲われそうになっている神子の姿があった。戦う力がなく逃げ場もない状況では、どうすることもできない。

 スサノオは踵を返して走る。本来ならひとっ跳びすれば間に合う距離。だが今はサタンの瘴気が邪魔をし、神力で宙を飛ぶこともできない。


 そうしている間にも、巨大なバフォメットが神子の眼前で斧を振り上げる。

 当たれば切断どころでは済まない。その大きな斧の刃にすり潰され、神子は芋虫のように臓物をぶちまけるだろう。

 スサノオが来るまでは、まだ遠い。神子は腰が抜け、その場にへたり込んでしまう。

 せっかく白峰神に助けてもらったのに、ここで命を無駄にしてしまうなんて。

 恐怖と申し訳なさが混ざり合わさり、神子は涙を浮かべて死を覚悟した。


 ――その時、新たなる乱入者が神子の前に現れた。


 多摩川上空に到着したヘリコプターから、『彼女』は生身で飛び降りる。

 そして着地と同時にバフォメットの両腕を斬り落とすと、目にもとまらぬ速さで頭部をも切断し、踏み砕いた。


「Amen」


 神子は最初、何が起きたか分からなかった。だが、純銀の鎖鎌を握る女性の背中を認識した時、ようやく助けてもらったと理解できた。

 こちらを振り向き向日葵のような笑顔を向けるその修道女シスターはとても美人で、見惚れそうになる。

 黒い返り血を浴びながら、それでも笑っている点に目を瞑れば。


「……大丈夫ですか? お嬢さん」


 丸子橋の上に降り立った、そのシスターの姿を捉えた時。サタンは初めて高揚したように笑ってみせた。


「ほう……! これはこれは……!」


 そしてサタンとは違った意味合いではあるが、ウリエルもまた勝利を確信したように表情を和らげる。


「……到着しましたか」


 遠方で天使と悪魔がそのようなリアクションを見せているとは知らず、神子とスサノオは呆気に取られる。


 だがシスターは穏やかな笑顔を貼り付けたまま、神子に手を差し伸べた。


「本来なら、異教徒を助ける義理はないのですが……。その姿は巫女さんジャポネーゼ・シスターですよね? 同業者として、ついつい捨て置けませんでした」


「は、はい、えっと……。……あ、ありがとうございました……?」


 悪魔の返り血を被りながらも笑顔を浮かべるシスターに手を貸してもらい、神子は立ち上がる。

 何はともあれ、このシスターに助けて貰ったのは事実なのだから。流暢な日本語を操るシスターに、神子は素直に礼を言う。


「悪に負けてはいけません。善をもって悪に勝つのです」


 シスターはそう言って神子に背を向けると、悪魔達がうごめく東京方面へ向かう。

 両手に銀の鎖鎌を持ち、バフォメット達へ歩いていく。


(この女……)


 スサノオは驚いた。こんな人間がいるのかと。

 これだけの悪魔を前にして。魔王サタンがすぐそこにいるのに。この女性は、シスターは――笑っていた。


「悪を成す者の故に心を悩ますな。不義を行う者の故に妬みを起すな。彼らはやがて草のように衰え青菜のようにしおれるからである。主に信頼して善を行え。さすれば汝はこの国に住んで安きを得る。主によって喜びを成せ。主は汝の心の願いを叶えられる。汝の道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主はそれを成し遂げ汝の義を光のように明らかにし汝の正しいことを真昼のように明らかにされる。主の前にも出し耐え忍びて主を待ち望め。己が道を歩んで栄える者の故に悪しき謀を遂げる人の故に心を悩ますな。怒りを止め憤りを捨てよ。心を悩ますな。これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで失せ去る」


 純銀の鎌でバフォメットの首を刈り、足を薙ぎ、一直線に突き進む。

 スサノオの横をすり抜け、ウリエルすらも通り越し、サタンへと迫る動きは、人間のそれではない。もはや獣。猟犬の動きだった。

 そして数秒で橋を駆け抜けたシスターは高く跳躍すると、愉快そうに笑うサタンに向かって、鎖鎌を振り下ろす。

 瞳孔をかっ開きながら、腹の底から笑いながら。


「『道を塞ぐ者』よ……! 豚に憑りつき溺れ死ね!!」


「これはこれは、『ローマ・カトリック』!!」


 攻撃を素手で防がれたシスターは、一旦サタンから離れ、ウリエルの横に並び立つ。

 サタンはその様子を、今までになく楽しそうに見つめていた。


「噂は同胞達より、かねがね聞いているぞ……! ヴァチカン秘密機関『熱心党』所属、S級祓魔師エクソスト! 『シスター・マリアンヌ』!!!」


 ヨーロッパよりの使者。カトリック教会所属のキリスト教徒、シスター・マリアンヌ。

 悪魔祓いの専門家である彼女が今、混沌とした日本に介入する。


「シスター・マリアンヌ。熾天使ウリエルの名の下に命じます。我らが神の教えに背く悪逆の徒を、討ち滅ぼすのです……!」


 悪魔王を前にして、鎖鎌を握ったシスターは笑ってみせる。『死』の象徴でもあるサタンの首を、逆に鎌で刈り取ろうとしてみせる。


Amenエイメン(そうあれかし)……!」

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