英雄神
夜が明けてすぐ、白峰神と結界を失った避難民達は、明治神宮を出立した。
代々木公園から首都高速沿いの道を行き、東京を抜けて神奈川県は川崎市を目指す。その後は新横浜駅まで向かう。そこまで辿り着けば、『出雲大社よりの使者』が待っているはず。
出発直前に明治神宮を訪れた三本足のカラス、『
対応があまりにも遅すぎるとツクヨミは憤慨していたが、ともかく救援が来てくれるのは事実だった。何とか横浜まで行けば、安全を確保できる。
しかし明治神宮から徒歩のみで、横浜まで向かうのは相当な時間がかかる。
『終末の七日間』以前なら、東急東横線で1時間もかからずに移動できた。だが今は、電車も自動車も動いていない。しかも避難民達の中には、子供や足腰の弱い老人も数多くいる。
何とか午前中に多摩川を越えて川崎に入り、日没までには『出雲からの増援』と合流したい。天神はそう計画していた。
だが同時に、不安でもあった。体力的も精神的にも疲弊している人々を連れ、長距離の行軍が可能かどうか。
それに昼間とは言え、悪魔達からの襲撃の可能性がないわけでもない。最悪の場合は、犠牲が出るのも覚悟しなければならない。
そんな不吉な思いが浮かぶ表情を見せないようにと、天神は集団の先頭に立って、荒れた東京の大地を突き進んでいく。
休憩を挟みつつ、人々は何時間も歩いた。
そしてようやく、多摩川にかかる『丸子橋』へと差し掛かった。
東京と神奈川の県境。昔は多摩川にアザラシが出ただの、ドラマや映画の撮影場所として有名だのと、話題に上がって親しまれていた。
しかし現在では人も車も通らなくなった橋は、ただ静かに老朽化を待つばかり。
目的地まで半分は来れた。時間はちょうど正午だろう。天神は真上で輝く太陽を見上げて、時間を確認する。腕時計も所持しているが、そこは平安生まれの御老人。ついつい古臭い方法でお昼であると確認してしまう。
(ん……?)
――確かに太陽は、真上にあった。しかしその日光を遮るように、鈍重な雲がかかる。
その暗雲の動きに、天神の背筋が凍る。暑い日差しを隠してくれるだけなら、それは助かる。だが、あまりにも雲の動きが早すぎる。今日は風も強くないというのに。
人々も、辺りが急に暗くなったことに気付いた。そしてその異変の正体も。
悪い予感が、最悪の形で的中してしまった。
「天神ッ!」
最後尾を神子と共に歩いていたツクヨミが叫ぶ。
天神は不安そうな人々の間を掻き分け、全速力でそちらに向かう。
そして愕然とした。北西の空に浮かぶ、黒い『点』を視認して。
「ゆ、湯島先生……! アレって……!」
「……ツクヨミ様、すぐに皆を連れて橋を渡って下さい!」
「アンタはどうすんのよ……!」
汗を浮かべる天神。ツクヨミの言いたいことは分かっていた。『ここで戦うつもりか』と。それはあまりにも危険すぎた。それは天神自身も痛いほど理解している。
しかし誰かが『壁』にならなければ、全滅してしまう。
そうしている間にも奴らは近付いてくる。根源的恐怖を煽る、山羊のような鳴き声を上げながら。
人間大の巨大な凶器を手にした悪魔達――その数30を超えるバフォメット達が、逃げる人々を追ってきた。
「あ、悪魔だぁー!」
「殺される……!」
「い、嫌だぁぁぁ!」
悪魔の姿を見た人々は、恐怖に駆られて逃げ惑う。
しかしパニックに陥っては、かえって危険だ。午前中の移動でほとんどの者が疲れている。死の際に立たされては、恐怖が身体を動かすだろう。だがそれは、更に肉体を死に近付けることになってしまう。
「皆さん落ち着いて! バラバラに移動してはダメだッ!」
天神の声は届かない。転ぶ老人、泣き叫ぶ子供。それらを押し退けてでも、人は生きようとする。橋を渡ろうとする。
――マズイ。この状況を何とかしなければならないのに、天神の思考は止まりそうになる。
どうする、どうすれば。焦りと混乱で、冷静な判断が下せない。
迫る悪魔。逃げ惑う人々。戦うか逃げるか、どちらを選択しても、悲劇のイメージしか浮かんでない。
だが突然、逃げる人々の足が止まる。
橋を抜ければ神奈川県。しかしそこには行こうとせず、戸惑ったように、橋の真ん中で立ちすくんでいた。
「……!?」
何事か。そう思って天神が目を向けると――そこには、革ジャンを着た赤髪の男が立っていた。
新手の悪魔か。最初から挟み撃ちをするつもりで――。
全ての者が絶望しかけた瞬間、赤髪の男は驚異的な脚力で跳躍する。人々を飛び越え、天神達の頭上すら越えて――単身、飛来するバフォメット達へ突き進む。
「アイツ……まさか……!」
ツクヨミだけは、その正体に真っ先に気付いたようだった。
赤髪の男は、背に装備した二振りの刀を構える。そして神力を足場にして空を駆けると、右手の刀を大きく振るった。
「『
たった一太刀で、十数匹の悪魔が切断される。
醜い断末魔を上げ、血の雨を降らし、バフォメット達は絶命する。
そして左手に持った、もう一振りの剣。それを縦に振り下ろすと、大木のような太さの柄を持つ斧ごと、悪魔を両断した。
「『
僅か二回の攻撃で、三十を越える悪魔の軍勢を、壊滅状態に追い込んだ。
そして残りの悪魔すらも全て倒し、三分とかからずに勝利した。
赤髪の男は戦闘を終えると、丸子橋に降り立つ。
悪魔を倒し、実力を見せつけたことに満足しているのか、実に晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
だがその笑顔とは対称的に、ツクヨミの表情は今までにないほど険しかった。苦虫を噛み潰しても、ここまで眉間に皺は寄らないだろう、というほどに。
「……ほんッッと出雲の連中は性格悪いわよね! よりによって、アンタを送り込んでくるなんて……!」
「助けてもらっておいて、第一声がそれかよ~……。……でも相変わらずで安心したぜ、姉ちゃん!」
ツクヨミを『姉』と呼ぶ赤髪の男に、神子は驚く。
そして天神も、彼が何者であるか理解した。
「ね、姉ちゃん……!?」
「……これは心強い。彼は天照大神様と月夜見様の弟君であり、
イザナギとイザナミの息子にして、太陽神アマテラスと月光神ツクヨミの弟。三貴子の一人。そして神代における原初の英雄。
日本神話最強の一柱である、その英雄神の名は――。
「最強、無敵、そして最高ゥ! この
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