出立

 白峰神とベルゼブブ達の激闘から、一夜が明けた。東京の空は、朝を告げるため白み始めていた。

 ほとんどの悪魔は夜行性である。太陽が昇り、日光が差し込めば、奴らは暗い巣穴へ帰る。故に昼間は人間が外出しても、ある程度は危険度が下がる。


 そして今。明治神宮に避難していた人々は、の用意をしていた。


 ベルゼブブの襲撃による人的被害は出なかった。だが白峰神と明治神宮の結界を失い、もうこの場所は安全地帯ではなくなった。朝昼は悪魔が出にくいとはいえ、全く出現しないわけでもない。もしまた別の悪魔が襲い掛かってくれば、今度こそ全滅は避けられないだろう。


 だから人々は、急いで荷造りをする。まだ薄暗さの残る代々木公園から脱出するため、誰も彼もがせわしなく動いていた。


「………………」


 そんな中で、一人の老人が明治神宮の前で立ち尽くしている。

 出発の準備は、もう出来たのだろう。そもそも持って行くような荷物自体、大して持っていない。

 剥がされた天井、壊れた壁。黒い血液があちこちに散らばり、境内も荒れている。台風や地震が来ても無事だった社殿が、明治神宮が、今は見るも無残な姿となっていた。

 老人はそれを、じっと見つめていた。

 そして天神は、彼の隣に立つ。


「神主……」


「あぁ、おはようございます。天神様」


 優しそうに目尻を下げるこの老人は、明治神宮の神主であった。災害時で神主の服装をしていないため、今はどこにでもいそうな好々爺といった見た目だ。だが彼は確かに、この神宮の守り人だった。何十年も前から、そして現在も。これから先も、ずっと『神主』であり続ける。


「……申し訳ない。我らの力が足りないばかりに……神宮を、守り切れず……!」


「何を言うのですか、天神様」


 申し訳なく思って頭を下げていた天神に、神主は優しく語り掛ける。

 悔しさと無念の混ざり合った表情をしていた天神は、はっと神主の顔を見上げた。


「白峰祭神様と明治様の御神霊が、我らをお救いくださったのでしょう? 天神様も月夜見尊様も、私達を守るために御尽力なされた。おかげさまで、誰も命を落とさずに済みました。感謝の言葉しかありません」


「しかし、社が……!」


「建物なら、また建て直せば良いのです」


 その言葉に、天神は驚かされる。この状況において、穏やかな神主の言葉には、確かな決意が込められていた。


「壊れたなら、再建しましょう。また戻ってきて、復興しましょう。どんな災害や困難が訪れようと、過ぎ去るまでじっと耐え、もう一度やり直せば良いのです。……この国は、私達はそうやって、二千年もやってきたじゃあないですか」


「神主……」


 天神は、目頭が熱くなる思いだった。人の強さに。か弱き人間が持つ、底知れない可能性を目の当たりにして。

 守らねばならないと思った。この小さく強い人を。懸命に生きる人々を、守らねばと。国を揺るがす脅威から、助け出さねばならないと、天神は改めてそう決意した。


 ……だが何も、精神的に強い人ばかりではない。

 悪魔の脅威。いともたやすく命を奪ってしまう恐ろしさ。それを昨夜まざまざと見せつけられた人々の心には、計り知れないトラウマが植えつけられたことだろう。


 一人、準備もせずに鳥居の下で座っている男がいた。

 昨夜、悪魔達が襲撃する前にトラブルを起こした男だ。天神と白峰神に食って掛かり、「家に帰らせて欲しい」と喚いていた男性だ。


「……いつまでそうしてんの?」


 背後から、ツクヨミが声をかける。

 憔悴しきった男は、ツクヨミの方へ顔を向ける元気すらないようだった。

 しかしいつまでもウジウジされていては出発できない。「迷惑よ」と言いそうになるが、さすがにそれは性格が悪すぎると、ツクヨミは言い留まることができた。


「俺……」

「……?」


 ぽつりと、男が言葉を漏らす。

 悪魔達の恐ろしさを目の当たりにして、心が折れたのだろう。彼の家は東京の中心部。昨夜のような、あるいはそれ以上の悪魔達がうじゃうじゃといる場所だ。そんな所に、簡単に帰れるはずがない。それを頭で理解するだけでなく、ようやく魂に刻みつけた。『刻み付けられた』と言っても良い。

 そしてそれを理解した後に男が考えたのは、単なる絶望ではなかった。そのような状況にも関わらず、己を守ってくれた神への想いだった。


「俺は昨日、あんな酷いことを言ってしまった……! 白峰さんは、必死に戦ってくれたのに……! 俺は、自分の都合ばかり考えて……っ! もう謝罪も、感謝もできないなんて……!」


 ボロボロと大粒の涙を流す。

 災害時において、他人を気遣う余裕がある人間は少ない。家に帰りたいという男の主張も、理解できなくはない。

 それらを全部ひっくるめて、神々は人間を守ろうとした。白峰神は、死力を尽くし命を守った。金持ちも貧乏人も、善人も悪人も区別せず。


「……いつまでも、大の男が泣いてんじゃないわよ。みっともない」


 冷たく言い放ったツクヨミはまた内心『しまった』と思いながらも、ぶっきらぼうに、水の入ったペットボトルを男に差し出す。井戸から汲み上げた、貴重な飲み水だ。


「ぁ、え……?」


「今日は暑くなりそうだわ。それに長い距離を歩くし。……だから、今から水分を無くさない方がいいわよ」


 男は水を受け取る。そしてその時、ようやくツクヨミの姿を見た。

 左の頬には大きなガーゼが痛々しく貼られ、頭には包帯を巻いている。昨夜、神子と白峰神を守ろうとした時に、ベルゼブブから喰らった攻撃による負傷だろう。

 彼女もまた、身を呈して人々を守ろうとした神の一柱。大怪我を負いながらも、それでもまだ人間の心を気遣っている。

 それを理解してまた、男は涙を零す。ツクヨミの不器用な優しさに。どんな状況でも決して人間を見捨てない神の温かみを、受け取った冷たい水から感じ取っていた。


「すいません……! ありがとうございます……! あり、が……!」


 泣きじゃくる男の頭に軽く手を置いて撫でてから、ツクヨミはまた社殿の方に戻る。

 心配がかかって面倒な人間は、もう一人いる。


「……アンタは準備できてるみたいね」


「ツクヨミさん……」


 既に荷造りを終えた神子は、壊れた神社の側で、どこか遠くを見つめていた。

 白峰神を失い、一番ショックを受けているのは神子だろう。しかしツクヨミが予想していたよりは、ふさぎ込んではいないようだった。


「アンタまでピーピー泣いていたらどうしようかと思ってたけど、大丈夫そうね。手間が省けて良かったわ」


「……私が泣いていたら、慰めてくれたんですか?」


「バッ……! ち、違うわよ! 私はただ、集団行動の足を引っ張るような奴が嫌いなだけで……!」


 顔を赤くして否定するツクヨミに、神子は思わず口元を緩める。

 本当はとても優しい女神様なのに、ツクヨミ本人はそれを認めようとしない。あくまで『根暗な夜の神』として振舞っているつもりらしいが、ふとした時に心優しい部分が出ることを、神子は知っていた。

 だからこそ、神子は信頼して本音を打ち明ける。


「ツクヨミさん……。何故か、涙が出ないんですよ……。白峰様が死んじゃって、すごく悲しいはずなのに……。大声上げて泣きたいって、思っているはずなのに。……私、どうしちゃったんでしょう……」


 自分の命を救ってくれた白峰神。いつも傍にいてくれた神子の祭神。

 彼がいなくなって、もちろん辛く悲しい。しかし感情に反して涙が出ない自分に、神子は戸惑っていた。

 この荒廃した東京で過ごして、人間らしい感情を失ってしまったのかと。あるいは、涙を流すほど白峰神を大事に思っていなかったのか。自分はそんな、薄情な人間だったのだろうかと不安だった。


 しかしツクヨミは、何でもないようにその考えを否定した。


「それは、アイツとの『縁』が切れてないからよ」


「縁……?」


「人間と違って、神は殺されても死にはしないわ。あのバカは、神力も魔力も出し尽くして消えたけど……。『白峰神』としての信仰が残っている限り、消滅することはない。誰かがその存在を認知し、信じている限り……。アイツはまた戻ってくるわ。今はただ、姿が見えなくなっているだけよ」


 神にとっての『死』とは、その存在を完全に忘れ去られること。

 逆を言えば、誰か一人でも覚えてくれていれば、そこに神は宿る。姿が見えたり話しかけるのはできずとも、信仰してくれる人間がいる限り、神が消え去ることはない。


「じゃ、じゃあ……!」


 神子の目に、光が差す。

 朝焼けと共に湧いたその希望に、ツクヨミは小さな笑顔で応えた。


「信じて待ってなさい。アンタ、アイツの巫女でしょ?」


「……はい!」


 神子はようやく、いつもの明るさを取り戻した。未だ、白峰神との縁は切れていない。それが分かっただけでも、歩き出せる力になる。


 そうして彼らは明治神宮を旅立ち、西へ向かう。――東京を離れ、出雲の土地へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る