強襲
白峰神は神楽殿を離れ、明治神宮拝殿のその奥、『御神体』が祀られてる本殿の前にいた。
御神体の前で静かに佇む白峰神の心中には、苦い後悔と、反省の大渦がうねっている。
あの場から半ば逃げるようにして人々に背を向け、ここまで来てしまった。
井ノ頭通りでは神子に偉そうなことを言っておきながら、いざ人間の深い悲しみを前にして、それを受け止めてやれなかった。
苦痛を和らげることも、救いを与えることも。傍にいて安心させてやるどころか、神自ら離れて行ってしまった。
「明治公……。ワシゃあ、どうすれば良かったのかのぅ……?」
本殿の御神体は、何も語らない。祭神の明治天皇は、今や神社を守る結界そのもの。
それと比べて、肉体を手に入れ自由に動けるようになったにも関わらず、大したこともできていない――と白峰神は深く落ち込む。自分よりも、物言わぬ明治天皇の方が、よほど人々を護り切って救済していると痛感する。
白峰神が神になってから、およそ900年ほど過ぎた。日本創世の頃より存在するツクヨミなどに比べれば、まだまだ若造。だが明治天皇は、
700年もの差があるというのに、歴然とした『神として』の格の違いがあるように思えてならない。
「……ワシ、神様向いてないのかもしれんの……」
誰にも見せない、本音が漏れる。
浅からぬ縁を持つ明治天皇の前でだけは、素直に気持ちを吐露できる。
それというのも、明治天皇は白峰神にとって恩人であり恩神であるからだ。数世紀も昔の神と、明治時代の人間との間にあった『絆』。それが今も、その絆だけは、この2020年という現代でも生き続けている。
『――どうか、お護り下さいませ』
200年も前に交わした、『彼』との約束。
だが本当にあの約束を守りきれるのか、今の白峰神には自信が持てない。
しかし俯いてばかりもいられない。暗い表情をしていては、また神子に余計な心配や不安を抱かせてしまうだろう。
神様は、人間にとっての希望でなければならない。だがどうすれば、人の心に希望の光を届けることができるのか。
悩んでいようが、状況は刻一刻と悪くなるばかり。
どんなに落ち込んでいようと、傷ついていようと、時の流れは止まってはくれない。
――最悪の災厄は、いつも唐突に訪れる。
「ッ――!?」
白峰神は察知した。明治天皇との絆とも呼べる繋がりが、ぷつりと切れてしまった感覚を。
「――!!」
天神は聞いた。明治神宮の内部にいながら、ガラスのような何かが崩れ去る音を。
「これは……!」
ツクヨミは見た。月明かりを覆い隠す暗雲の、その切れ間に見える、無数の黒点を。
三柱はそれぞれ、人間達よりも先に感覚的に察した。明治神宮を襲う、緊急事態に。
結界が、突破された。
***
日本刀を握りしめ、明治神宮から境内へ飛び出した白峰神が真っ先に捉えたのは、闇夜に浮かぶ悪魔の大群であった。
それらは巨大な人間の身体に、黒い翼を生やし、頭部は薄汚れた黒ヤギという不気味な特徴を持っていた。悪魔達の名は『バフォメット』。
キリスト教を冒涜する黒ミサの象徴とされ、魔女はバフォメットを信仰の対象にしていたという逸話もある。
バフォメット達は長柄の斧や槍をその手に持ち、明治神宮の上空で白峰神を見下ろしながら、おぞましい声でメエエェと鳴き叫ぶ。
腹の底に低く響く、根源的な恐怖を煽るその声に、避難者達は顔を青ざめる。
ツクヨミと天神の指示によって、人々はすぐに社殿の一カ所に集められた。だがほとんどの者達は、この時点で気付いていた。今日まで自分達を護ってくれていた神域が、突破されたことに。
(だが何故じゃ!? この程度の
鞘から刀を抜いて構える白峰神は、それだけが得心いかなかった。
山羊頭のバフォメットは、いわば悪魔達の尖兵・雑兵。上級の悪魔の侵入すら阻む結界を、連中だけで破壊できるはずはない。壊すなら『大罪』クラスの悪魔を集めるか、もしくは――。
「まさか……」
白峰神が思い至った、その『最悪の予想』は、残念ながら正解であった。
外部からでは、どんな悪魔にも突破できない。では、内側からなら?
汗を浮かべる白峰神を嘲笑うように。大鳥居をくぐり抜け、一匹の『蠅』が明治神宮境内へ侵入し、飛び回る。
結界にすら感知されない、小さな悪意。だがそれらが集まれば、結界を内部から破壊する悪魔を形成することも可能。
「ははは……っ。ワシか、神子か……。気付かんうちに、連れてきてしまっておったようじゃな……」
白峰様は焦りを通り越し、無意識に乾いた笑い声を漏らす。
だがすぐに日本刀を固く握りしめ、大声で叫んだ。
「ツクヨミぃ! 結界を張り皆を護れ!!」
ツクヨミと天神、そして白峰神も。神社などの建物や一定のエリアに、聖なる結界を展開する力は持っていた。
だが、明治天皇ほど強力で大規模な結界を作り出すことはできない。せいぜい、人々を狙うバフォメット達から数十分だけ時間を稼ぐ程度だ。
「……道真公。もしもの時は、頼みましたぞ……!」
更に白峰神は保険をかける。それは本当に、どうしようもなくなった時のために、後のことを全て天神に任せるという言葉だった。
だが言われずとも、天神は理解しているだろうと白峰神自身も分かっていた。
「……神子ぉ」
そして最後に、自分に仕える巫女の名を呼ぶ。
境内に続々と侵入してくる蠅を見つめながら。蠅達が集合し、人型の肉体を形成していく光景から視線を移し、神社の方へと振り向く。
「し、白峰様っ……」
社殿から不安そうに見つめてくる神子に、白峰神は優しく笑いかける。いつもと何ら変わりない、威厳を全く感じさせない不敵な笑みで。
「今からワシがこやつ等全員ぶっ飛ばすから、夕飯まで長引いても、ワシの分のイモはしっかり残しておけよ。腹ペコ巫女。それから……」
白峰神は神社に背を向け、再び刀を構える。指を鳴らして自らも結界を張り、明治神宮の窓や扉を全て閉じる。
神子の視界から、白峰神の背中が見えなくなる――その直前。白峰神の言葉は、ハッキリと届いていた。
「白峰さ……ッ!!」
どうか、笑っていてほしいから――。
「――泣くんじゃないぞ」
月明かりと篝火が、バフォメット13体及び、『大罪』の上級悪魔1体を照らす。
単騎で迎え撃つは、日本の神『白峰祭神』ただ一柱。
人々の命を護るため。また明日からも続く未来を護るため。大切な者の笑顔を護るため――白峰神は、分の悪い戦いに臨む。
「……さて。お主は確かに昼間、渋谷で叩き潰したと思ったのじゃがのぅ。ワシのおかげで心を入れ替えて、仲間を引き連れその日のうちに参拝とは。なかなか良い心がけじゃぞベルゼブブ。賽銭はちゃんと持ってきたか?」
全ての蠅が群れに合流し、屈強な大男の姿を形作る。
リベンジの炎に燃える悪魔ベルゼブブは、白峰神の軽口に付き合うつもりはない。
「発言には気を付けろ、土着の神。何が貴様の最後の言葉になるか分からんぞ」
「『瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』……。辞世の句にしては、ろまんちっく過ぎるかのぅ」
「……貴様は殺す。貴様だけは必ず殺す……! 我がプライドと、サタン様の名にかけて、一片の欠片も残さず我らが喰らい尽くす!!」
ベルゼブブは腕を振り上げ、それを合図にバフォメット達が降下してくる。
上空から襲い来る悪魔達に立ち向かい、白峰神は白刃を振りかざし、戦いの雄叫びを上げた。
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