帰れぬ者

 天使ウリエルが去り、日は没し、夜の闇が世界を覆って支配下とする。


 東京といえば災害以前は、宇宙から観測しても煌々と光を放ち続けている、眠らない都市だった。24時間いつも電力を消費し、街には眩い明かりが常に灯っていた。

 だがそれも、遠い過去の話。

 今は太古の生活と同じく、日が沈めば常闇の世界となる。月明かりや手元に光源がなければ、荒れた大地をマトモに歩くことも難しい。


 渋谷の代々木公園周辺。ここ明治神宮も例外ではない。

 社殿の中を灯すのは、蝋燭ロウソクや火皿に油を注いだ行灯あんどんだけ。外では薪を燃やし篝火かがりびとするなど、数百年前のような照明装置しかなかった。


 神子は雲の切れ間から差す月明かりだけを頼りに、暗い明治神宮の廊下を歩く。自分の祭神、白峰神を探して。

 とはいえ、居場所は最初から分かっていた。赤い袴を踏んで躓かないよう気を付けながら、暗い廊下をやや早足で進む。

 目指す先は、昼間に天神やツクヨミと話し合っていた客間。天神が災害時でも勉強したいと希望する若者を集め、教室として利用している部屋だ。

 ちなみに神子は、白峰神に仕える巫女としての役目や、街の探索を手伝うという使命があるので、授業には参加していない。……というのは言い訳で、単に勉強から逃げているだけだった。


 そして神子は参加してない勉強部屋に辿り着き、障子を開ける。

 部屋の中では蝋燭の明かりがぼんやりと揺らめき、その僅かな光源と『画面』から発せられる光を頼りに、白峰神と数人の男子達が携帯ゲーム機で遊んでいた。


「白峰様!」


「何じゃあ神子。『ゲーム時間』はまだ終わっとらんぞ」


 災害時とは言え、気を紛らわす娯楽は必要。そのため子供達は一日に1時間だけ、この部屋でのゲームプレイを許されていた。

 たった1時間では足りないと不満を漏らす子供もいるが、発電機や消費電力を考えれば、あまりワガママは言えない。


 そんな子供達に混ざって、ゲームに勤しむ白峰神。きっかり1時間経過するまでは何があっても動かない気概でいるが、今はそんな場合ではなかった。


「ちょっと来て頂けますか。向こうでトラブルが起きてて……」


「そういうのは道真公に任せれば良いじゃろ。ワシは今からこやつ等を引き連れて、妖怪退治に行かねばならんのじゃ」


 神子の方など見向きもせず、白峰神は携帯ゲーム機の画面を凝視して、自キャラクターの装備や道具アイテムを整えている。


「『妖怪ハンター・ポータブルG』なんてやっている場合じゃないんですよ! いいから来て下さいってば!」


 急いでいる神子は白峰神の襟元を掴み、強引に部屋から引きずり出す。抵抗し暴れる白峰神を、有無を言わせぬ強い力で引っ張って行く。


「何をするんじゃ! 離さんか神子!」


「えー、白峰様やんねーの?」

「じゃあ俺らだけで狩りに行ってて良いっすか?」

「3人でもイケるもんな~」


「待って! ワシも行くから待っておれ! ワシも『G級ぬえ』の素材欲しいからぁぁぁぁぁああっ!!」


 白峰神の悲痛な叫びは届かず、哀れな神は自身の巫女によって、廊下を引きずられながら連行された。

 残された男子達はというと、貴重なゲーム時間を無駄にしないように、白峰神抜きでゲーム攻略を始めてしまった。


***


 白峰神が神子によって強引に連れていかれた先は、明治神宮に避難してきた人々の多くが身を寄せ合って過ごす、神楽殿かぐらでんの舞台だった。

 広い床に毛布や布団を布き、薄明りの中で人々が、今日も質素な食事を待っている。


 だが厳密には『普段通り』ではなかった。いつもと違う異変が起きている。

 皆が不安そうに一点を、小さな人だかりができている方向を見守っていた。その騒ぎの中心こそ、神子が白峰神を連れて来た『理由』。

 見れば30代ほどの男性が、周囲の大人達に両腕を掴まれ抑え込まれていた。


「何じゃ何じゃ。ケンカか?」


「それが……」


 神子の不安そうな声をかき消し、男性の怒声が神社中に響く。


「もうたくさんだ!!!」


 無精髭を伸ばした男性は興奮気味に叫び、宥めようとしている周囲と、目の前の天神に食ってかかる。顔を真っ赤にして瞳孔を開くその表情は、他の避難者達を威圧する程の憤怒に染まっていた。


「一体いつまで、こんな生活を続ければ良いんだ! マトモに飯にもありつけない、神社の敷地の外には出られない、先の希望も見えやしない!! おかしいだろ、こんなの!!!」


 男性の気迫に天神は困り顔になりながらも、何とか落ち着かせようと理性的に説得を試みる。あくまで優しい声色を維持しながら、暴れる男性を宥めようとする。


「もうじき救援は来ます。それまで外出禁止は続いてしまいますが、皆さんの命は我々が守り抜きます。必ず、何があっても。それまで、もう少しだけ辛抱してください」


 天神の説明を聞いても、男性は怒りを納めない。

 そんな言葉はもう何度も聞いた。その上で、全てを理解した上で、納得できていないのだ。


「『いつか』とか『もうじき』とか、そんなことを聞きたいんじゃないんだ! 『いつ』なんだよ!? 一体いつになったら、この状況から抜け出せるんだよ!! アンタ神様だろ!? もっとちゃんと、具体的に説明しろよ!!!」


 騒動の様子を、ツクヨミも遠くから見守っている。

 白峰神は男性の様子を見て、自分が呼ばれた意味を理解した。


 男性の主張は分かる。極限状況下での共同生活が続けば、ストレスが蓄積されるのも無理はない。

 だが明治神宮というこの狭い閉鎖空間で、もし争いが起きてしまえば、人も神もタダでは済まない。


 を防ぐため、白峰神が『暴力装置』として、いつかは機能しなければならなかった。たとえそれは、だとしても。


「一体いつなんだよ……!!」


 男性は周囲からの拘束を強引に振りほどき、天神の胸倉に掴みかかった。

 男の手が天神の服に触れる直前。白峰神の形相は変わる。白峰神は男の腕へと神速で手を伸ばし、止めようとする。

 たとえ、男性の骨に多少ヒビが入ってしまおうとも。己が暴力装置として、恐怖の対象になろうとも。


「一体いつ、家に帰れるんだ……っ!」


「!!」


 叫んでいた口から振り絞られた、弱弱しい声に、白峰神も天神も一瞬で動けなくなる。

 男性は――ボロボロと大粒の涙を流しながら、両手を握りしめ、天神の鎖骨の辺りを力なく叩いた。


「あそこで……。俺の家で……。嫁と3歳になる息子が、俺の帰りを待っているんだ……! 新築でさぁ、子供部屋も広くして……。大きくなっても、過ごしやすいようにって……。ずっと、待ってんだよ……っ。チクショぉ……! 帰してくれよおぉ……! 俺を家に、帰してくれねぇかなぁあ……!」


 膝から崩れ落ち、すすり泣く男性を、もう誰も抑え込もうとはしなかった。

 代わりに、悲痛な慟哭と、重苦しい空気だけが周囲に広まる。


 男性の怒りも、叫びも、悲しみも。ここにいる誰もが、多かれ少なかれ抱えているものだった。

 東京の中心地から追われ、帰宅できなくなった者。家族を失った者。失った家族の亡骸にすら、まだ出会えていない者。

 立場や性別や年齢もバラバラな中で、ここにいるほとんど全員に共通しているのは、『帰る家がもう無い』という点だった。


 白峰神は半ば茫然自失したように、何もない宙に手を伸ばし続けていた。所在を失った右手は何も掴めず、力を失い垂れ下がる。


(ワシは……)


 ――言葉が出なかった。


 傷つき弱った人間に対して、力ずくで制圧しようとしていた自分に。

 泣き崩れる人間に対して、かけてやる慰めが何も見当たらない、自分に。


「白峰神……?」


 気付けば白峰神は、踵を返してその場を後にした。何も言わず、何もせず。元来た廊下を、足早に戻って行った。


「し、白峰様っ……!?」

「よしなさい」


 横を通り抜けて行ってしまう直前、神子は声をかけようとした。だがツクヨミによって肩を掴まれ引っ張られ、白峰神を引き止めることはできなかった。

 神子は驚いた顔でツクヨミの方を振り向くが、彼女はただ、いつもの低血圧そうな面持で、首を横に振るだけだった。


「今は……そっとしておいてあげなさい。皆弱っているのよ。結界も、人の心も……神自身も。だから今は、何も言うべきじゃないわ」


 神子はもう一度、前を向く。

 だがそこにはもう白峰神の姿はなく、どうしようもできないもどかしさと、この状況が『限界』であることを――人々が共通認識とした絶望だけが、取り残されていた。

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