天上の使い

 白峰神と天神、それからツクヨミの三柱は社殿から外に出ると、12mはある明治神宮の大鳥居の上へ、軽々と飛び乗る。

 普通の人間である神子には、そんな風に宙を飛ぶ術はないため、鳥居の下から彼らを見上げる形だ。


 高い位置から三柱が見渡す東京の景色は、まさに地獄そのものだった。

 千代田区、中央区全体を覆う暗雲。その下には倒壊した建物と暗黒の大地が広がり、異形の者達が蠢いている。

 時折り遠方で輝く雷光は、天使と悪魔の戦いによるものだろう。


 終末の七日間の直後、東京都心を飲み込んだ大穴は、腐敗した大地と建物を吐き戻した。それから、無数の化け物も。

 かつての日本の中枢は見る影もなく、『地獄』と呼ぶに他ならない地域へと変貌してしまった。

 邪悪なる瘴気は日に日に広がり、絶望の都市圏は渋谷をも飲み込み、ここ明治神宮にまで迫ろうかという勢いだった。


「こっちも限界じゃなぁ……」


 今はまだ大丈夫だとしても、もうじきこの一帯も悪魔達が飛び回る場所になってしまうだろう。白峰神はそう推測していた。そうなる前に、何か対策を考えなければならない。


「明治神宮の『神域』も……。結界の力は弱まっている。ここが安全な場所であり続けるのも、時間の問題だね」


 明治神宮と代々木公園を覆う、目に見えない結界。それこそがこの神社を人々の避難所たらしめている大元だった。悪魔達は聖なる結界に阻まれ、神域の内部まで侵入することはできないのだ。


「明治天皇への信仰は消えたわけじゃないのに……。それでも結界が薄くなっているなんて、本当に悪魔達の瘴気は厄介だわ」


 白峰祭神や天神、ツクヨミのように、ほとんどの神は人に近い姿で実体化している。ニア・ハルマゲドンを経て、かつての信仰心を取り戻した民衆達の強い祈りにより、自由に身動きできる肉体を手に入れたからだ。


 だが、災害以前から厚い信仰を集めていたはずの明治神宮の祭神は、その姿を人々の前に現さなかった。

 なぜなら、明治天皇はその絶大な信仰と神力を以て、巨大な『結界そのもの』と成り、明治神宮を護り続けているからだった。

 そのおかげで明治神宮は東京崩壊以降も、魔なる者達の力が及ばない、強力な神域として存続できた。『大穴』に程近い、地獄との最前線でありながら、避難所として半年も人々を匿ってこれたのだ。


 しかしそれも――人々を瘴気から日々守り続け、本来の神力を消費したため――結界は、確実に弱くなっていた。

 信仰がある限り消滅することはないが、いつ悪魔達が力ずくで結界を突破してくるか、分からない状態だった。


「……何とかならんかのぅ。ワシゃあ明治公に恩義があるから、このままにしとくのも辛いんじゃが」


「アンタはそうかもしれないけど……。だからと言って、弱まった神域にいつまでも留まっているわけにもいかないわ」


「それは白峰神自身も理解しているさ。ツクヨミ様」


 話し合いを続ける神々を、鳥居の下から見上げる神子には、その内容までは聞こえてこない。


 いくばくかの疎外感を覚えつつ会議が終わるのを待っていると――視界の端で、季節外れの『粉雪』を捉えた。

 だがおかしい。今は6月の中旬。雪など降るはずがない。

 悪魔達がついに天候にも悪影響を及ぼしたのかと思った矢先、よく見るとは見間違いであることに気づいた。


 雪ではない。空から舞い降りてきたのは、蛍のように薄く発光する鳥の羽。

 神子はその羽を手で受け止める。羽は温かな光と熱を持っており、重さを感じさせないのにも関わらず、確かな存在感を放っていた。


「あのっ! 皆さ――」


 神子が羽の正体に気づき、鳥居の上の神々に声をかけようとする。

 その時には、もう既に、神子よりも早く『察知』していた三柱が境内へ飛び下りてきていた。


 三柱の神と一人の巫女。そんな彼らの頭上に、光る羽を舞い散らせ、一体の『天使』が明治神宮へ降臨する。


 白き肌と衣。白鳥のように大きな2枚の光る翼。絵画に描かれる姿よりも更に美しい容姿をした女性の天使が、白峰神達の前にゆっくりと降り立った。


「――極東の国に住まいし、土着の神と人の子よ……。私は熾天使『ウリエル』。本日は貴方達に、我らが父なる神の御言葉を伝えに参りました」


 『ウリエル』。四大天使、熾天使してんし智天使ちてんしともされ、多くの天使達の中でも上級の立場にいる天使とされている。

 旧約聖書外典『エノク書』などにその名が見られ、ノアの箱舟で有名なノアに、大洪水を知らせた天使でもある。


 そんな天使は『魔なる者』ではなく、聖なる存在。明治神宮の神域がどれほど巨大だとしても、悪魔達と違い何の制約もなく侵入することができる。

 ウリエルは丁寧な口調で自己の紹介と用件を簡単に伝えると、翼を畳んで真っ直ぐ白峰神達を見据えた。


(間近で見ると、本当に天使って綺麗だなぁ……)


 降臨したウリエルの姿を見て、巫女は率直にそう思っていた。

 悪魔と戦う天使達の姿を何度か目撃したことはあるが、巻き込まれないよう遠目から少し見る程度であった。

 加えて、天使は神域である明治神宮に自由に出入りできるものの、今までは興味がないのか不干渉の立場だったのか、天使側からコンタクトを取ってくることは一度もなかった。


 故に神子も白峰神達も、こうして真正面で天使と対峙し直接言葉を交わすのは、今回が初めてのケース。


「事前連絡もなくイキナリやって来て、一方的に『やはうぇ』の言葉を伝えるだけとは。礼儀のなっとらん天使じゃのぅ。それとも伴天連ばてれんの連中というのは、皆こうなのか?」


「白峰神。今は彼女の話を素直に聞いてみよう」


 創造主の名を気安く呼ばれ、宗教全体のことを悪く言われたと感じたウリエルは、一瞬不愉快そうな表情を浮かべた(少なくとも神子にはそう見えた)。

 だが天神のフォローもあって、ウリエルはまたすぐに真面目に澄ました顔で、主から預かった言葉を伝える。


「……まもなく、この地に大きな災いが訪れます。このままでは、多くの民が犠牲になるでしょう。その前に、民を連れて遠方へ逃れなさい。『悪意の災い』は民だけでなく、民が信仰する者……貴方達にも、牙を剥きます」


 淡々と、事務連絡のように感情を込めず、ウリエルは預言を授ける。

 「危険が迫っている」という天使の言葉に、神子は内心どうしようかと慌てふためていた。


 だが日本の神々は何も動じることはなく、変わらず天使を邪険に思いながら対応する。


「災害なんざ、とっくに及んでいるわい。こっちは首都が滅んでんじゃ。危険というなら、四六時中危険と隣り合わせで生活しとんじゃ」


「ご忠告には感謝致します……。ですが白峰神の言う通り、この場が危険であることは重々承知しています。我々も迅速に、人々を連れて避難しようと判断していたところです」


「好き好んでココにいるわけじゃないのよ。コッチにだって事情があんのよ」


 三柱それぞれの意見に、ウリエルは何か納得いかないような面持ちをしていたが――特に何かを言うでもなく、背の翼を開き羽ばたかせる。己の使命を全うし、もうここに用はないと言わんばかりに。ウリエル自身の感情など、差し挟む必要がないのだろう。


「……神の御言葉は、確かに届けましたよ。貴方達がどんな選択をするのか、天より見守っています。聖霊の光は、いつも貴方達の傍に……」


 ウリエルは翼をはためかせ、突風を巻き起こし、空高くへと舞い上がっていった。

 空を見上げてその姿が見えなくなったのを確認すると、白峰神はあからさまに眉をしかめ、ご機嫌斜めな様子を見せた。


「……天使っちゅーのはどいつもこいつも上から目線というか、自分ところの神以外は神とも思っておらん! まったく気に入らんのぅ。塩でも撒いておけ神子!」


「塩は貴重品なのでダメです」


 一神教の連中が嫌いな白峰神は、ぷりぷり怒りながら社殿へ戻る。

 神子とツクヨミもそれに続いて大鳥居の前から戻ろうとするが、ツクヨミは、何か考え事をして立ち止まっている天神に気付いた。


「……天神?」


 いつも笑顔を絶やさない天神が、顎に手を当てて難しい表情をしている。学問の神であり聡明な彼は、誰よりも深く物事を考察するのに長けている。


「先程はああ言いましたが、彼女の言葉は肝に銘じておいた方が良いでしょう。実際に我々は危機的状況ですし、『災い』を警戒しておくに越したことはありません」


「……そうね。でも、それも出雲からの増員が来るまでね。救援が来たら、今いる連中を連れて、さっさと逃げるんだから」


「………………」


 そう上手くいけば良いが――と思っても、口には出さない。目に見えない不確かな要素について言及しても、いたずらに不安を煽るだけだ。

 だが天神は確かに、自分の中で『嫌な予感』が膨らんでいくのを、強く感じていた。

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