天神

 白峰神と神子は、広い拝殿を迷うことなく進み、とある一室へ向かう。


 途中すれ違う人々は、皆この明治神宮に避難してきた人間達だ。

 病気を抱えて寝込む老人、赤ん坊を抱く女性、うな垂れる男性、走り回る子供……。様々な人が等しく悪魔達の脅威から逃れ、この神社で身を寄せ合って暮らしている。

 かつては、それぞれの日常を過ごしていた。政治家、主婦、警察官、学生、サラリーマン……。

 しかし今は職業の違いも貧富の差も世代間格差もなく、皆平等に『弱者』として生き残るための群れを成している。


 東京が崩壊した現在の日本では、誰も元の生活には戻れない。

 未来を悲観し、絶望から無気力になる者が出るのも、災害時には珍しいことではなかった。


 だがそんな中でも、依然と変わらぬ『役割』を全うする者もいた。


 白峰神と神子は、拝殿内にある、十畳ほどの客間の前に到着する。

 耳を澄まさずとも白い障子の向こうからは、穏やかな男性の声がハッキリ聞こえてくる。どうやら、もうじき『授業』が終わるようだ。


「――はい、じゃあ今日はここまでにしようか。ちゃんと予習復習するんだよ」


 その台詞の後、にわかに若者達の声が室内に満ちる。授業終わりの、あの疲労感と達成感が入り混じった、独特の騒がしさ。神子にとっては、かつての学生生活を思い出す懐かしい雰囲気だった。


 白峰神はそれを合図に障子を開ける。

 畳の部屋にいた十数人の若者達は筆記用具とノートをしまい、部屋を出ようと立ち上がっている所だった。

 彼らは入室してきた白峰神に気付くと「こんにちは白峰様!」「白峰様お疲れ様でーす」などと挨拶し両手を合わせ、何人かは神子にも声をかける。

 そしてその後、全員が退室していった。


 最後に一人残った背の高い男性は、眼鏡の位置を直しつつ、柔らかな笑顔で白峰神と神子を部屋に招き入れた。


「やぁ、おかえり白峰祭神。それにサカキバラ君。ご苦労だったね」


「おぅ。今戻りましたぞ『道真公』」


「ただいまです、湯島先生!」


 ベージュのパンツに白いワイシャツを合わせ、その上に紺のカーディガンを羽織る、温和そうな男性。シンプルな恰好ながらも端正な顔立ちのおかげで、とてもお洒落な着こなしに見えた。

 落ち着いた大人の雰囲気と、それでもどこか若々しさを感じさせる『先生』は、学校にいたら女子だけでなく保護者の奥様達からも人気を集めそうな男前だった。

 事実、この避難所で一番人気者な先生である。だからこそ神子も『湯島先生』と読んだ。


「これ、このバカチン巫女。お主はいつも道真公に馴れ馴れしくしおってからに。湯島先生じゃなく『天神様』じゃろーが」


 白峰神に注意され、肩をすくませる神子。

 その様子に『天神』は目尻を下げて笑い、一人一柱のために座布団を畳に布く。


「いいんだよ白峰神。榊原君は僕の巫女じゃないんだし、好きに呼んで貰って。それに僕は、先生って呼ばれる方が性に合っているからね」


 優しい微笑みを絶やすことなく、先程まで若者達が使っていた座布団と小さな机を片付ける『先生』。

 神子は先生が敷いてくれた座布団に正座しながら、隣にあぐらで座る白峰神の膝頭を小突く。


「ほーら見てください。湯島先生みたいな人が、気遣いのできる神様なんですよ」


「うるさいバカチン」


「痛っ」


 割と強めに頭を叩かれ、神子はそれから余計なことを言わず大人しくなる。

 そんなやり取りも微笑ましいのか、皆から先生と呼ばれる天神の穏やかな顔からは、堪え切れなかった小さな笑い声も漏れてしまう。


 『天神』。その真名を『菅原道真』。

 学校で誰しもが習う、日本史の有名人物。平安時代の政治家、貴族、歌人としても、後世まで名を残す偉人である。

 今では湯島天満宮、大宰府天満宮、北野天満宮など全国各地の神社に奉られ、学問の神様となって受験生達を見守り続ける存在。

 彼のその信仰性は実体化してからも、人々に知識を与える『先生』として教鞭を直接振るっていた。災害時であろうとも希望者達のために、神社の一室を学習教室にするほど。


「それで……今回の成果は、どうだったかな?」


「それがですねー、やっぱり食べられそうなものは見つかりませんでしたね~……。せめてお肉があれば、このサツマイモ生活にも潤いが……」


 白峰神は先ほどよりもさらに強く、神子の脳天に手刀を叩きこむ。

 頭を押さえ、声にならない悲鳴を上げて悶絶する神子。

 さしもの天神も、これには苦笑いを浮かべるしかなかった。


 確かに食料問題も重要だが、今天神が確認したいのは、そういうことではない。

 聞きたいのは、白峰神が神子と共に渋谷へ出かけた、その本来の『目的』に関する成果報告。

 白峰神は、単に神子の護衛のためだけに明治神宮を離れたわけではないのだから。


「……『生存者はいなかった』。人間どころか、野生化した獣の気配すら無かったわい」


「そうですか……。やはり……」


 白峰神と天神。二柱の真剣な雰囲気に気圧され、神子は口を挟むことすらできない。それにまた余計なことを言って叩かれたくないし、何より今は、ふざけてまで場を明るくする時ではなかった。


「今日まで新宿、渋谷、目黒区と探してきたが……。最後に生存者を見つけたのは、もう一月も前のことじゃ。そろそろ今いる者達を、西へ送った方が良いのかもしれんの。もしくは、杉並か世田谷の方まで後退するべきじゃ。まだ悪魔共の瘴気しょうきが及んでおらん地に……」


「……そうだね。それに食料だけでなく、諸々の物資が尽きかけている。しかし出雲からの連絡がない限りは、何とも……」


 かねてからの懸念を天神が口にした時、客間の障子が開かれる。

 常に顔色の悪そうなツクヨミは、まるでタイミングを見計らっていたかのように、天神と白峰神が話し合う場に入室してきた。


「――出雲大社には再三要請してるわよ。アタシだって仕事してんだから。でも向こうからの返事は『近日中二増員ヲ遣ワス』の一点張りよ。絶対アイツら、アタシに嫌がらせしているんだわ。日陰者だからって馬鹿にして……!」


 障子の枠に背を任せ、庭の方を向いてツクヨミは親指の爪を齧る。ブツブツと誰かへの文句を小声で吐き連ねる様子からは、今回は誤解も何もなく、本当にイライラして不機嫌な状態だと分かる。

 そんなツクヨミの様子も、割と『いつものこと』であると二柱はスルーし、ツクヨミから伝えられた情報を元に、今後の方針を話し合う。


「出雲大社からの救援がなければ、東京から脱出することもできん。移動中に悪魔に襲われては、流石のワシでも全員を守りきれる自信はない」


「……済まないね。いつも白峰神にばかり、戦闘役を押し付けてしまって」


「良いんですよ。他に取り柄もないしのぅ。それに『学業成就の神』としては、道真公の方がずっと上手じゃし」


 会話の途中ではあったが、どうしても気になる発言があったため、ついつい神子は口を挟んでしまった。


「……えっ? 白峰様って学問の神様だったんですか?」


「お主はもう少し自分の祭神について勉強せい、バカチン」


 今度はチョップされることはなかったが、冷たく言われてしまうと、それはそれで神子の心は凹む。


 白峰神は溜息を吐いて座布団から立ち上がると、障子にもたれ腕を組んでいるツクヨミの方へ視線を向ける。いや、それより更に『向こう』へ。

 白峰神が見ているのは、庭の景色でも神社の樹木でもなく、少しばかり先の未来についてだった。


 続いて天神も立ち上がる。大体の状況は把握した。後は、重要なことを確認しなければならない。


「増員が来るまで留まるにしても、ワシらはいつまでここに居れるかのぅ……」

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