月夜見尊
井ノ頭通りを抜けて代々木公園の敷地に入り、公園内の豊かな緑を進むと――『避難所』へと辿り着く。
そこは全国的にも有名な『明治神宮』。
かつての明治天皇とその妃、
由緒正しき神社として、祭事だけでなく大相撲の横綱土俵入りが催されることでも有名。
一時期パワースポットとして話題となった『
そんな明治神宮は現在では、東京に取り残された人々の避難所として機能している。
その境内に――全速力で大鳥居をくぐり抜け、汗だくになった神子が走り込んできた。
「ゴォーーール!!!」
あの後、何故か白峰神との本気の追いかけっこに発展し、『どっちが先に帰るか』という真剣勝負が、どちらともなく始まった。
全力疾走のせいで息は上がっているが、走りにくい巫女装束をものともせず、神子は僅かな差で白峰神に勝利してみせた。
高らかに突き上げられた右手が、勝利の喜びを物語っている。
「くっ……! このワシが人間の小娘ごときに負けるとは……っ!」
数秒遅れで境内に入ってきた汗だくの白峰神は片膝を付き、悔しそうに神子を見上げる。
神子は高らかに胸を張り勝ち誇って、自身の祭神を指差す。
「瞬間の移動速度は速くとも、白峰様には持久力が無い! どうですか、これが中学時代に全国大会まで進んだ陸上部女子の実力ですよ!!」
「おのれぇぇぇぇぇ!」
「フハハハハハ!!」
心からの高笑いが、白峰神に浴びせられる。
そんな一部始終を見ていた『神』が、呆れたように明治神宮の社殿から声をかけた。
「……何やってんの?」
黒とも紫ともつかない、あえて表現するなら『夜色』の着物を身に包んだ女性。そんな美しい、20代中盤くらいの見た目な美女が、低血圧気味な表情を浮かべて神子に問う。
夜色の和服も金の髪飾りも、そして美貌も、不健康そうな顔色に反して高貴な雰囲気を醸し出していた。
だが彼女の姿を初めて見た者なら、皆同じく『暗そう』という印象を抱くだろう。
そんな、魅力なのか欠点なのか測りかねる女性が、そこにいた。
拝殿へ続く階段に座るその美女に気づいた神子は、爽やかな汗を拭いながら、駆け足で向かう。
そして『女神』の前で、背負っていた風呂敷を下ろすと、軍人のようにビシッと敬礼してみせた。
「ただいまです、『ツクヨミさん』! 白峰様と榊原神子、ただいま帰還しました!」
『
日本神話に詳しくない者でも、その名前くらいは耳にしたことのある者も多いかもしれない。
アマテラス、スサノオと共にイザナギから生まれた太古の神。太陽神アマテラスの対になる存在として、与えられた属性は『月』もしくは『夜』。
他の姉弟に比べ、日本書紀や古事記に記された活躍こそ少ないが、それでも日本創世の過程で生まれた神として、今でも重要な位置に座している神だ。
彼女がいるからこそ、この世には夜が巡ってくるのだともされている。
「ハイおかえり。それで、食料は見つかったの?」
抑揚のない淡白な口調で、ツクヨミは本題から入る。
――できることなら、神子が触れてほしくなかった本題に。
「え、えっーと……」
全力疾走の影響だけではなさそうな汗をかきながら、神子はツクヨミの前で、恐る恐る風呂敷を広げる。
その中身はというと、胸元の大きく空いたワンピース、虹色のストール、柄物のストッキング……などなど。半年前に『流行を先取り!』として売り出されていた商品達だ。
当然、食料品はひとつも入っていない。
「……何よこれ。こんなんじゃ、腹の足しにもならないわよ。アンタ馬鹿じゃないの?」
鋭い目つきで、ギロリと睨む。元々眠そうな低い声色が、より不機嫌さを強調しているかのようだった。
冷や汗を流す神子は、ツクヨミの視線から逃げるように目を逸らし、必死に弁解を考えた。
「い、いや、だって……。そもそもマルキューってそういうお店ですし……。食料なんて見つかるわけが……」
「『渋谷109周辺での探索』と言っただけで、別に食料が見つかれば何だって良かったのだけど。アンタの辞書に『柔軟性』って言葉はないの? ゆとり教育の被害者なの? 餓死したいのかしら?」
「うぅ……スイマセン……」
ガックリうな垂れ、落ち込む神子。
この時――ツクヨミは、『しまった』と思っていた。
神子は避難民を代表して、悪魔が
そもそもこの荒廃した東京で食料を見つけるなんて、成功率が低い任務だと最初から分かっていたのに。
これではまるで、
事実、ツクヨミの言葉は厳しいものではあるが、単に任務の失敗を確認しただけだ。
だがそこに生来の口の悪さと不器用さ、加えて常に不機嫌そうな目つきが合わさり、神子に精神的ダメージを与える結果となってしまった。
(マ、マズイわ。何とか傷つけないように、この娘をフォローしてあげないと)
だがツクヨミは知らない。こんな時、どんな言葉が適切なのか。
古来より孤独な夜の神として君臨し続け、人間や他の神々とマトモに接してこなかった彼女には、気の利いた台詞など思いつくはずがなかった。
「……こ、これじゃあ今日の献立もサツマイモと氷砂糖ね。千年前の農民でも、もう少し豪華な食事してたわよ」
凍り付く神子の表情。
そして、自身の発言を一瞬で後悔する月の神。
(……って、違ぁぁぁう!!!)
本当は励ましてやりたかった。食料が手に入らなくて残念だけれども、諦めずに次も頑張っていこう……そういった類のことを、言いたかったはずなのに。
どうして口をついて出るのは、吐き捨てるような冷たい言葉と嫌味だけなのか。
神子と同じか、あるいはそれ以上の精神的ショックを自分で自分に与えたツクヨミは、二の句も告げず深い自己嫌悪に襲われていた。
そこへ――両者の間に吹きすさぶ、極寒の空気を断ち切るように。
ようやく呼吸を整えた白峰神が割って入る。まだほんのりと、額に汗を浮かべながらも。
「ツクヨミぃ、あんまりウチの巫女をイジメないでやってくれんかのぅ」
「なっ、ち、違……!」
白峰神はツクヨミの弁明に耳を貸すことはなく(聞こえなかっただけかもしれないが)、明治神宮社殿の前に広げられたオシャレ服達ををまとめて抱え、拝殿へと上がっていく。その奥には、明治天皇を祀る本殿が納められている。
神子もそれに続いて、草履を脱いで拝殿へ向かう。
階段に座るツクヨミの横を通る際、遠慮がちに会釈したのが、ツクヨミの傷心を更に
「……違うのよぉ~……」
弱々しい釈明の声は届かず、ツクヨミの対人関係におけるトラウマが、またひとつ増えたのであった。
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