榊原神子

 神と悪魔の戦いが終わり、静寂を取り戻した『渋谷06』前。


 恐る恐る様子を窺うように、一人のが06ビルから顔をひょっこり覗かせる。

 周囲を警戒し、なかなか道路側には出ようとしない。何か危険を察知すれば、いつでも逃げられる体勢だ。

 だが交差点の中央に佇む狩衣姿の神を確認すると、いくらかは表情が明るくなり、安心したようだった。


「……終わりました?」


「おう。終わったよ『ミコ』。そっちはどうじゃった」


 安全を確認し、落下した看板を避けて、神の元へと駆け寄る少女。

 紅白の巫女装束と、ストレートに伸ばした黒髪は純日本人然としているが、顔立ちは2020年の若者らしくパッチリとした目と、筋の通った鼻筋をしていた。

 すらりとした手足でありながら、『出る所』は出ていて『引っ込むところ』は細いラインを描いている。

 災害時とは思えない健康的な肢体を持つ彼女。その背中には、大きく膨らんだ風呂敷が背負われていた。


 彼女の名は『榊原さかきばら 神子みこ』。

 神子と巫女で同じ『みこ』と発音するため、ややこしい時はあるが、事実彼女は正当なる神職の巫女である。

 そして今し方ベルゼブブを撃破した神――『白峰祭神しらみねさいじん』に仕える身分であった。


「目ぼしいものは、やっぱり無かったですね……。いくつか女性物の服があるだけでした。あと化粧品とか。『シラミネ様』が外でドッカンドッカンやるせいで、も~怖くて怖くて物資調達どころじゃありませんでしたよ~」


 『白峰様』は神子の泣き言には応えず、道路に風呂敷を広げ、いくつかの服を確認する。

 最先端のファッションセンスを取り入れたオシャレな服ばかりだが、この災害時には防寒具にも使えない。

 何より、千年ほど昔の人間である白峰神には、現代人の美的感覚は全く理解できなかった。


「……まぁ、そこそこ質の良い布が手に入ったと思えば良いじゃろう。用が済めばこんな所からはさっさと退散じゃ。騒ぎに気づいた悪魔共が集まってくるかもしれんしの」


「ひぇえ……っ。かかか、帰りましょう! 白峰様!」


 不吉なことを言い残し、白峰神はスタスタと渋谷交差点を後にする。

 彼の言葉を聞いて顔が青ざめる神子も、すぐさま風呂敷を包み直し、白峰神の背中を急いで追った。


***


 渋谷の細道を抜け、井ノ頭通りへ出る。

 今や車が通らなくなった広い道路の中央を歩き、白峰神と神子の『一人一柱』は、井ノ頭通りを代々木公園方面へと向かう。


 この周囲で有名な建物といえば『東急ハンズ』が思いつくだろう。そのため井ノ頭通りのことを、かつては『ハンズ通り』と呼ぶ者もいた。

 だが現在の東急ハンズは店舗のガラスが割られ、内部も荒らし尽くされている。

 数日前に、『中には何もない』という充分に予想された、今更確認するまでもないであろう事実を確かめて来た神子としては、廃墟になった東急ハンズに気持ちを向けることもなかった。

 ただ黙々と、白峰神の後ろを付いて歩く。


「………………」

「………………」


 無人の井ノ頭通りを白峰神はやや速足で前を行き、神子の歩調に合わせるどころか、振り向きすらしない。

 神子は置いていかれないよう、なるべく歩幅を大きくする。

 両者の間には、気の利いた会話など存在しなかった。


「っ……」


 そんな沈黙が、神子を不安にさせる。

 つい半年前までは、行き交う人と車で煩いほどだった場所が、今や自分の足音しか響かない、荒廃した土地になってしまった。

 信号機は折れ曲がり、ひっくり返った自動車が道路脇に何台も横たわっている。

 たった半年で、東京は終末した世界のような風景に変わってしまった。

 ……『ような』ではない。東京という狭いエリアに限定して言えば、本当に終わってしまったのだ。

 あの鬱陶しくも豊かさの象徴であった都会の喧騒は、今は死に絶え、もう二度と戻って来ない。


「はぁ……っ」


 そんな静寂が、神子を苦しめる。

 いつ、どこから、悪魔が現れるかも分からない。

 悪魔達はニア・ハルマゲドン以降、我が物顔で東京の中心部を支配し、上空を飛び回っては、僅かに生き残った人間を見つけて襲う。

 隠れる場所も逃げ場もない。この開けた道路を歩いているところを、もし襲われでもしたら――ひとたまりもないだろう。そんなことを考えていると、ますます不安になってくる。

 頼りの神は、目の前を黙って進む白峰神だけ。


「……し、白峰様~……」


「何じゃあ」


 静寂と不安に耐え切れなくなった神子は、気を紛らわせようと、神の背中に声をかける。遠慮がちに、弱々しく。だが、何を話そうかまでは決めていなかった。


「え、えっと、その……。お、女の子に荷物を持たせるのって、どうなんですかねぇ……? ホラ、ようやく日本でもレディーファーストが浸透してきましたし……!」


「どこの世界に、神様に荷物を背負わせる巫女がおるんじゃバカチンが。それにあんな薄い着物、重くも何ともないじゃろうが」


「うぅ……。スイマセン……」


 白峰神の言う通り、神子が背負う風呂敷は軽く、歩くのに何の問題もない。

 ……だけどもう少しくらい、自分の巫女に優しくしても良いんじゃないですか! と神子は思ったが、それを言うとまた怒られそうなので、不満は腹の奥に仕舞っておいた。

 しかし会話が途切れるのも嫌なので、何とか話のネタを絞り出そうと考えを巡らせる。


「とっ、ところで、今日の晩御飯は何でしょうねー?」


「今日もサツマイモと氷砂糖じゃろうな。あと井戸水」


「……話は変わりますが、さっき戦った悪魔って強かったですか? でも白峰様の方が強くて、それはもうカッコ良く圧勝したんでしょうね!」


「勝手に自滅したようなモンじゃ」


「……そっ、そう言えばですねー! 私最近、口笛が上手に吹けるようになったんですよ! 今までは友達から『ミミズの断末魔』って……」


「神子ぉ」


 早足で前を歩いていた白峰神は立ち止まり、神子の方を振り向く。哀れむような、呆れたような、何とも形容し難い複雑な表情を浮かべながら。


「……無理して明るく振舞われても、鬱陶しいだけじゃ。大体、ワシと一緒にいて何がそんなに不安なんじゃ。泣く子も黙るこの白峰祭神様と同行して。怖いことなど、何もないじゃろうが」


 必死に話題作りしようとしていた心理を見破られ、神子は押し黙り、顔からは作り笑いも消える。

 風呂敷の結び目を握る手に力がこもり、ヒビ割れたアスファルトの道路を見つめる表情には、暗い影が差す。


「……怖いですよ」


 ポツリと呟く。その小さな本音が、引き金となってしまう。

 ずっと、我慢していた感情が溢れてくる。心の奥底に押し込め、蓋をして見ないようにしていた不安と恐怖が、膝と指先をカタカタと震わせ始める。

 だから抑えていた。一度堰を切ってしまえば、洪水のようにとめどなく出てきてしまうから。

 言葉にすれば己の弱さが、相手にとって迷惑なくらい溢れ出てきてしまうと、分かっていたから。


「明日どころか今日生き残れるかも分からない。明日生き残っても明後日は、来週は? そんな風に考えながら日々を過ごすことになるなんて、今まで想像もしていなかったんですよ。生まれてから16年間、ずっと」


 神子は半年前まで、都内の高校に通う学生だった。実家が神社であることを除けば、周囲と何ら変わりない、ごく普通の少女だった。

 そんな平凡な日常を過ごしていたところに――突如、ニア・ハルマゲドンが起こった。家族も、友人も、学校の先生達もほとんど死んだ。

 ある日突然『悪魔の恐怖に怯えながら、滅んだ東京で生き延びてください』などと言われたら、神子でなくとも心が弱り、挫けてしまいそうになるだろう。


 誰しもがそうなのだ。だから、これは仕方ないことだ。

 それでも零れ落ちそうな涙をぐっと堪えながら、神子は何とか泣かないように我慢する。今泣いてしまったら、きっと立ち直れないような気がしていた。


「人が殺される光景を何回も見ました。建物が壊れる様子をたくさん見てきました。こんな風に誰もいなくなった街を、もうウンザリする程歩いたんですよ……! ちょっとくらい良いじゃないですか、バカっぽい話をしても。楽しくなくても、笑うフリでもしてないと……ホント、やってられないんですよ……っ!」


 神子は、我慢しているつもりだった。だが白峰神を見つめるため視線を上げたその顔には、神子の右頬には、一筋の雫が流れ落ちていった。


「……!」


 神子は自身の涙に気付いているのかいないのか、何かを求めるような瞳を白峰神に向け続けるだけ。


「……はぁ」


 白峰神は神子の静かな泣き顔を見て、ひとつ大きく溜息を吐くと、大股で神子の眼前まで迫る。

 そして左手で神子の涙を優しく拭ってあげたかと思いきや、次に右手を手刀の形に変えて――彼女の頭をチョップした。


「ふんッ」


「あ痛ぁ!?」


「……本当にお主は半人前じゃのう。そういう時こそ『神頼み』じゃろうが。何を一人で抱え込んで悩んどるんじゃ。もう少しワシを信用せんか」


 白峰神は神子の不安を理解していた。

 こんな状況では、誰だって苦しいに決まっている。だからこそ、安心して欲しかった。神の傍にいる時だけは、悩みや苦しみが和らぐ。そんな存在でいたかった。それこそが神にとっての、白峰神にとっての『信仰』なのだから。


「ほれ」


 白峰神は神子の手を取り、ぎゅっと握って連れ立てる。

 先程と同じで前を進むことに変わりないが、その歩調は、神子に合わせたように少しゆっくりしたスピードになっていた。


「……背中の風呂敷も渡して良いぞ。ワシが背負ってやる。何なら、お主ごとおぶってやろうか?」


 ニヤリと笑って振り向く白峰神を見て、神子は顔を赤くし、握られた手を振りほどいた。

 そして風呂敷を背負い直すと、早足で白峰神を追い抜かして進む。


「……い、いいですよ、そこまでして頂かなくても! 子供じゃないんですから! う~……白峰様に慰められてしまった……。一生の不覚……」


「何でじゃ! 折角ワシが気を遣ってやったのに!」


「基本デリカシーがないはずの白峰様に、気遣われてしまったのが不覚なんですよ。避難所では漫画読んでゲームしてばっかりの神様なのに……。どうせなら私じゃなくて、発電機の残量に気を遣って頂きたいです」


「ソレとコレとは関係ないじゃろうが! だいたい、ワシは元々高貴でみやびな人間なのじゃ! 漫画やを嗜むのも、現代日本の文化に深い理解を示してじゃな……って待たんか! 神を置いていく巫女がどこにおるんじゃ!」


 神子を追いかける白峰神と、ふざけて悲鳴を上げながら逃げる神子。

 この時チラリと見えた神子の横顔に、白峰神は少なからず安堵していた。


 まだ根本的な問題は解決しておらず、将来への不安も多い。

 だが神子なら、この榊原神子という少女巫女なら、もう少しこの東京で頑張っていけるだろうと思っていた。


 そして神子もまた、白峰神の前では極力、心から笑おうと思っていた。不器用でテキトーな部分も多い人物だが、信じるに値する神様として。

 作り笑いではなく、いつか純粋な笑顔で、お礼を言えるように。地獄から救い、守ってくれた神に対して。


 もちろんそんなことは互いに表には出さず、目に見えない奇妙な『縁』だけで結ばれた神と巫女は、渋谷井ノ頭通りを走り抜けていった。



 ――だがこの時彼らは、気付くことができなかった。

 避難所へ帰る彼らを密かに付け狙う、小さな『追跡者』の存在に。

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