1章 明治神宮の戦い
蝿の王
東京・渋谷109。
1979年より開店し、若者の街『渋谷』の顔であり続けた複合商業施設。
ファッションの最先端を生み出し続けていたそのマルキューは、今や崩れかけの廃墟と化し、苔と植物のツタに外壁の全てを包まれている有り様だった。
半年前のニア・ハルマゲドン以降、東京は民間人の立ち入りが禁止され、この地も例外なく放棄された。
109が見下ろす渋谷は、かつて多くの人が行き交い栄えていた街は、今や人気など一切なく、割れたアスファルトの大地が広がるばかりであった。
都会の喧騒など、もはや遠い思い出と成り果てた。
だが静寂と終焉のみが支配しているはずのこの街で、異常な羽音が響く。
人間にとって不快な害虫が飛び回るような、その音が耳元で鳴り止まないような異音が、ゴーストタウンを包む。
渋谷上空。『109』を示す看板の目の前。
その悪魔は、赤く巨大な数字とにらめっこしていた。
「……あ~~~……。どうするか……」
正確には、『109』ではない。この悪魔の仕業によって、かつての渋谷の顔は『106』に変えられてしまっていた。
昆虫のような背中の羽で宙を飛び、看板の『9』という文字を、力ずくで上下反転させたのだ。
そして次に悪魔は、『1』の数字に手をかける。頑丈に設置された看板を怪力で金具ごと引きちぎり、隣の『0』の上に叩き付ける。位置を調整し落下しないように、そして1と0を組み合わせて、『6』と辛うじて見えるように。
「よし……」
これで109は原型を無くし、哀れにも『66』という店舗名に変えられてしまった。歪で醜いその看板では、若者達の関心を惹き付けることなど不可能だろう。
「……もう一個『6』が必要だな……」
6と6と6。これで悪魔が作りたい数字は完成する。
だが看板が足りない。もっと言えば、数字を追加するスペースもない。
難題にぶち当たった悪魔は、尖った爪で頭の
それを鋭い牙で食いちぎり、大きな顎で咀嚼する。やや腐敗し
食事中も悪魔はブンブン羽ばたき、66の看板を見つめながら、良いアイデアが湧いてこないものかと頭を捻る。
その時。ふと、背後から――なかなか気の利いた提案がなされた。
「――隣にペンキで書いたらどうじゃ? 立体にこだわる必要もないじゃろう」
「おお、それは良いな。それじゃあ、そうす……」
ぞわり。
悪魔の全身の毛が逆立ち、考えるよりも先に身体が反射で動いた。
悪魔は食べかけの生肉を投げ捨て、丸太のように太い左腕を後方へと振り回す。
一切の躊躇はなく、純粋な殺意だけを込めて。声のした方向に。声はすれども、気配を全く感じなかった方向に。
悪魔の後ろから語り掛けた『声の主』は、悪魔が薙ぎ払った左腕の一撃をかわし、空中でひらりと舞い、『66』の上に降り立つ。
ビルの屋上から悪魔を見下ろす男は、真っ白な『
そんな狩衣の青年は腰に日本刀を差し、薄ら笑いを浮かべながら悪魔を観察している。
「屈強な身体と赤い瞳。暴食を貪り、背には虫の羽が生えておる……。……お主アレじゃろ。『べるぜぶぶ』とかいうハエの王様じゃろ」
キリスト教・ユダヤ教の中で、魔王サタンに次ぐ実力者として登場する悪魔ベルゼブブ。その罪は『暴食』。
一見すると、威圧的な巨漢の男性。だが高速で羽ばたく背の羽と、鋭い牙と爪。そして黒い体毛に覆われた姿が、彼が人ならざる異形の
「そういう貴様は……人間ではないな。見たことのない姿だ。新手の天使か?」
「ぶははっ」
『天使』。その一言で、青年は吹き出す。
着物の袖で上品に口元を隠しながらも、笑い声は漏れてしまっていた。
そんな態度が、大悪魔として恐れられてきたベルゼブブを不快にさせる。
「ワシゃあ『神様』じゃよ。悪魔や天使なんぞより、ずっと偉いんじゃ。ほれほれ手を合わせて拝まんか。二礼二拍手一礼が、この国での挨拶じゃよ」
またしてもベルゼブブの神経を逆撫でする発言。恐怖や絶望とは無縁の余裕。
――たとえ人間でなくとも悪魔の前で、そんな態度を取るのは、決して許しておけないものだった。
「唯一絶対の神はサタン様だけだ! 邪神である『あの御方』が地上へ昇り、この世界の全てを
「天使達も似たようなこと言っとったよ。『神は創造主たるやはうぇ様のみです』とな。……お主らアレじゃな。似た者同士じゃよな」
「黙れぇぇぇぇぇえええッッ!!!」
ベルゼブブの右腕が、蝿の大群へと変化する。
いや、元々この悪魔は『小さな蠅の集合体』なのだ。群れを成し、形を成し、筋骨隆々とした大男の悪魔の姿になっていたに過ぎない。
人間であれば、この肉食の蝿達に数秒で取り囲まれ、まず口と鼻を塞がれ窒息死し、次に全身の肉を食い千切られ、骨も残さず消え失せる。それは天使や神でも同じ。
しかし青年は――『渋谷66』の屋上から
腰の日本刀を抜き去り、重力に身を任せつつ、上段からベルゼブブの身体を一刀両断した。
そのまま落下しながら青年は身体を捻り、上空へと目線を向けて確認する。今しがた両断した、敵の亡骸を。
――だが、そこに悪魔の死体はなかった。
代わりに黒い『波』が押し寄せ、青年の腹部へ突っ込んできた。
「がッ……!」
青年はそのまま、
揺れる渋谷。舞い上がる瓦礫と粉塵。蜘蛛の巣のような亀裂が入ってから、深く陥没する道路。
立ち上がる者は――誰もいない。
「ふん……つまらん」
蝿の群れは攻撃を完遂すると、傷口を補填するため人型の身体に舞い戻る。
脳天から股まで両断されたはずのベルゼブブは傷を塞ぎ、優雅にアスファルトの大地へと降り立つ。
彼の身体は小さな蠅の集合体。刀で斬ったくらいでは、倒せる道理などあるはずがなかった。
「所詮は信仰を失くし、消えかかっていた土着の存在……。数百年前から悪魔として恐れられているこの俺に、貴様のような小物が勝てるわけないだろう」
ベルゼブブには『勝利の喜び』などという感情はない。
今もそうだ。他の天使達や土着の神、あるいは
淡々と、無感情に、邪魔者を排除する。それこそ、人間が鬱陶しい小蝿を叩き潰すのと、何ら変わらない心境であった。
交差点の真ん中で仰向けに倒れ、ピクリともしない神に見向きもせず。ベルゼブブはその場を立ち去ろうとする。『66』に一文字加えて、恐怖の刻印を完成させるため。
――まさにその時。渋谷に、高らかな笑い声が響いた。
「いや――はっはっは! 流石、西洋の連中は剛腕じゃのう。何食ったらそんなにガタイが良くなるんじゃろうな。やはりパンか?」
「……!」
仕留め損なった。
だがベルゼブブは己の慢心を認識はすれど、反省や後悔などとは無縁だった。
現に、瓦礫の布団から起き上がり、不敵に
運が良かっただけだ。むしろ不運な奴だ。さっきの一撃で消滅していれば、今から苦しい思いをすることもなかっただろうに。
しかしその男は、悲嘆や苦痛とは関わりなさそうな表情を浮かべていた。
「……お主はワシのことを、『信仰を失い消えかかっていた』と言ったが……。まさにその通りじゃ。この国の連中は、何とも身勝手でのぅ」
立ち上がって、狩衣に付いた汚れを軽く払う。身体の調子を確かめるように伸びをして、強打した背中と腰をトントンと叩いて、優しく労わる。
「不作や疫病で苦しんでいた時は神様仏様と崇めておきながら、科学が発達し豊かになると『神様なんていない』、『そんなものは昔の人の気休めだ』なんて言うんじゃ。そんで今東京が滅びたら、手の平を返して『お助け下さいお助け下さい』じゃ」
「……人間は身勝手で愚かだ。だから殺……」
「じゃがのう。それで良いんじゃ」
悪魔の言葉を遮り、続ける。
刀の切っ先を蠅の王に向け、『神』の言葉は続けられる。
「神様ってそういうモンなんじゃ。苦しい時は頼ればええ。悲しい時は祈ればええ。そんで心配事や悩み事が無くなったら、神様なんて忘れれば良いんじゃ。真の極楽には、神も仏もいないんじゃ」
滅びた渋谷に、風が吹く。
人が消えてから、代わりに栄えた木々や草花がざわめき、粉々に砕けたアスファルトの粉塵を何処かへ運ぶ。
「人の心を救うのが、ワシらの仕事じゃ。文明の発達と共に消え失せると思っとった神々が、今こうして実体化し、人と言葉を交わせるほどになった。それほど日本人は今、ワシらを必要としてくれておる。……こりゃぁもう心だけと言わず、身体と命も、ノリノリで守ってやらにゃあのぅ!!!」
――踏み込みで、道路が更に割れる。
人間には真似できない速度で、神は悪魔に斬りかかる。そしてベルゼブブが反応するよりも速く、神は悪魔の左腕を斬り落とした。
かと思うと、瞬時に後ろへ下がった。悪魔が反撃の為にふり払った右腕をかわし、なおかつ蝿の群れと化して襲ってきた左腕をも回避するためだ。
だが「先手を取ったくらいで良い気になるなよ」と言わんばかりに、ベルゼブブは全身を霧散させ、再び蝿の大群へと成る。
一瞬で神を取り囲み、黒い繭のような『檻』を形成してみせた。
しかしそんな『蝿の檻』に囚われても、神は余裕を崩さない。
「……お主らには感謝しとる部分もあるんじゃよ。民草が悪魔と天使の存在を『現実』として認識したからこそ、ワシらは戻ってこれた」
「ならば我等に感謝したまま、蝿の餌となれ! 土着の神よ!!」
檻が集束し、神を押し潰そうとする。
――その刹那。蝿の檻の中で、日本刀が神速で振り払われた。
吹き飛ぶ黒い檻。
何百匹かの蠅を斬り落としながら、斬撃は衝撃波にも似た威力を実現する。
たまらず蠅の群れは一カ所に集合し、再び大男の姿に戻ってから距離を取った。
「なるほど……それが貴様の力か」
ベルゼブブは一連の戦闘行動から、目の前の神の力量を割り出していた。素早い身のこなしと、そのスピードから繰り出される強力な斬撃。
信仰心を取り戻した神とだけあって、確かに並の天使達よりは歯ごたえがある強さだ。
――だが所詮はその程度。敗北など、毛頭考えられない。
それにまだ、ベルゼブブには『奥の手』もあるのだから。
この神には
このまま消耗戦に持ち込み、弱った所を一気に――。
「うーん……。この辺りじゃろうか」
「……?」
神はビルの前で、確かめるように足元を眺めている。死闘の最中に目線を下に向けるとは、信じられない行動だ。
そして。ベルゼブブの正面で対峙していた位置から、一歩だけ右に移動すると、戦闘中にも関わらず、刀を鞘に納めた。
その不可解な言動に、さしもの悪魔も理解が追い付かなかった。
「貴様、何を……」
「あー……。自業自得というか、因果応報というか……。つまりアレじゃ。『頭上注意』ってやつじゃな」
「!?」
ベルゼブブが気付いた時には、既に手遅れだった。
ベルゼブブが自ら破壊し、その位置を変えた『66』の看板。
それはビルの上に留まり続けること叶わず、『1』の数字がベルゼブブ目がけて落下する。
ベルゼブブが頭上を見上げた時にはもう、巨大な看板が眼前まで迫っていた。その質量に、重力落下の速度も加わった状態で。
悪魔は瞬時に身体を分解し、小さな蠅の群れとなって逃れようとする。
だが神は既に、一連の戦闘行動から見切っていた。その上で、悪魔に頭上注意と警告したのだ。
悪魔の弱点は『人型から蝿の群れに変わる際、ほんの一瞬だけ身動きができなくなる』。
――轟音が周囲に
看板は神のギリギリ左横に落下し、ベルゼブブはその下敷きとなったようだ。
肉食の蝿は、一匹も湧いてこない。
「やはりハエは、叩いて潰すに限るのぅ」
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