逃走者

 逃げていた。

 俺達はただ走って、走って、逃げて、逃げていた。

 俺の手を握り返す、小さな手。そこから伝わる体温と焦り。この手だけは、絶対に放してはいけない。

 汗ばんだ手を引き、息を切らして、割れたアスファルトの大地を駆ける。


 ここは東京――。半年前、地獄に変わった都市だ。


「マサ兄ちゃん……!」

「振り向くなヒカリ! 前だけ見て、走るんだ……!」


 躓きそうになりながらも、走る速度は緩めない。

 体力はもう限界に近い。しかしココで足を止めてしまえば、俺達の命は終わる。こんな中途半端な場所で、終わらされてしまう。


「メエエエェェェェェッッ!!!」


 ――東京を地獄に変えた、『アイツら』によって。


「くっそ……!!」


 痙攣しそうな足を叩き、ヤツから逃げるため必死に加速する。


 黒いヤギの頭をした、人間より数倍はデカい体躯を持つあの悪魔は『バフォメット』。

 数の多い雑兵みたいなもんらしいが、それでも手に持ったギロチンのような大斧は、人間など一撃で裁断できる威力を誇る。

 俺らみたいなガキなんて、軽く一振りしただけで原型すら留めなくしてくれるだろう。


 バフォメットは紫色の雲がかかる空を羽ばたき、俺達の頭上から追ってくる。

 振り向いてそれを確認した時、悪魔バフォメットの背後にスカイツリーがチラリと見えた。電波塔としては世界で一番の高さを誇り、しかしもう電波を送信する事はなく、そして俺達にとっては世界最悪の『絶望』の象徴だ。


(もう、二度と……戻るかよ!!)


 あんな場所。地獄の釜の底みたいな所に、戻りたくはない。

 逃げるんだ。俺とヒカリの二人で。安全な場所まで。


「あ、ぅッ!」

「ヒカリ!!」


 しかし考え事をし過ぎていたせいか、注意が足りていなかった。俺が先走りすぎた。

 ヒカリは隆起したコンクリートの道路に足を取られ、転倒してしまった。

 俺の歩幅に合わせるのはムリがあったか。すぐにヒカリを抱きかかえ、そのまま再び走り出す。


「痛くないか……!?」

「大丈夫だよ……! ヒカリ、もう3年生だもん……!」

「そうか……!」


 汗だくの顔で、ヒカリを安心させてやるために笑みを浮かべる。偉いな、強い子だな、と。

 しかし実際は、かなりキツイ。

 逃げる分にはヒカリを抱えて走った方が速いが、小学生とは言え人間一人をお姫様抱っこしたまま、長距離を走るのは辛いものがある。


「……部活、辞めなきゃ良かったかな……!」


 今更になって、高校で陸上部ではなく帰宅部を選択したことを後悔する。だがもう、何を言っても手遅れだ。

 口うるさい親も、課題ばかり出す先生も、騒がしいクラスメイト達も、無気力に日々を過ごす場所だった学校も、もう何もない。

 みんな、皆死んだ。全部壊れて、もう俺にはヒカリしか残っていない。


(だから……! 失うわけにはいかない……!!)


 喉がカラカラで声も出ない。足の感覚が無くなり、今どっちの足を前に出しているのかも分からない。体力の限界だ。

 走るスピードは明らかに落ちている。背後から迫り来るプレッシャーは、もうすぐそこまで接近していた。

 振り向かなくても分かる。腹の底に響くヤギの鳴き声。巨大な刃物が空気を切り裂く音。凍る背筋。


 もう、ダメだ――。


「マサ兄ちゃん!」


 最期に聴くのがヒカリの声で良かったかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、『イノチ』を放棄した俺の脳へ響き渡らせるかのように――甲高い銃声が聞こえてきた。


「!?」


 ゴーストタウンであったはずの墨田区に鳴り響く銃声。その音に、俺の身体は硬直する。

 この状況で一瞬でも停止する事は、足を止めるのは死を意味するが、バフォメットの刃は俺達に振り下ろされはしなかった。

 悪魔はおぞましい声を上げ、出血する右目を押さえ、酷く苦しそうに身悶えしていた。


「こっちだ! 早く!!」


 大声の後に、また銃声。

 ビルの陰から、道路に立つ悪魔に向かってアサルトライフル銃を放つのは、迷彩服を着た――自衛隊員だ……!


 眼鏡をかけたその自衛隊員の横をすり抜け、ビルの陰から路地裏へと逃げる。

 そして自衛隊員のオジサンも、ある程度悪魔に銃弾を撃ち込み終えると、俺達の後を追ってきた。


 間一髪俺達は、生き延びることができたのだ。




***



 迷路のような狭い路地を抜け、スカイツリーが見下ろす隅田川を目指す。

 俺とヒカリ、そして自衛隊員のおじさんの三人は周囲を警戒しながら、人っ子一人いなくなった街を走る。


「まさか生存者がいたなんて、驚いたよ……!」

「あ、ハイ……。俺の方こそ驚きです……。助けてくれて、ありがとうございます……!」


 大通りに出る直前、自衛隊員は手の動きだけで俺達に『待て』と指示する。建物の陰から道を覗き、脅威が無いか確認している。


「……そういや自己紹介が遅れたね。陸上自衛隊十条じゅうじょう駐屯地所属、福原達郎三曹です。そしてコレは相棒の89式5.56mm小銃。自衛隊の標準装備だけど、信頼できる代物さ」

「えっと……桐谷聖也、です……」

「亀有小学校3年2組、真里谷まりや光です!」

「マサヤ君にヒカリちゃんか。詳しいことは、安全な場所まで辿り着いてから詳しく話そう。とにかく今は、僕から離れないで」

「はい……!」


 息を整えた俺は、福原さんと共に道路に出る。周囲にも上空にも、悪魔の姿は見えない。

 またしっかりとヒカリの手を握って、迷彩柄の背中に付いていく。

 福原さんの身体は横にやや広いが、自衛隊員なので鍛えているのだろう。何も知らなければ『丸眼鏡をかけた温和そうな小太りの人』といった印象だが、周囲を警戒する動きはプロのそれだ。素人の俺が言うのも何だが。


 今まで、大人なんて子供を見下すような連中ばかりだと思っていた。その中で更に、公務員なんてものは税金で楽をするような職種だと。

 災害以前の、俺の甘ったれていた認識は直さなければならないな。福原さんの頼もしい背中を見て、そう思った。


 やがて俺達は、大きな川に掛けられた赤い橋に差し掛かった。


「……よし。この吾妻あづま橋を渡れば浅草に行ける。今はとにかく西へ向かうんだ。二人とも、もう少し走れるかい……!」

「あい!」

「俺も大丈――」

「――伏せて!!!」


 橋を渡ろうとした直前。俺達の方を振り向いた福原さんは、そう叫んだ。

 瞬時にヒカリを抱き寄せ、俺自身は福原さんの大きな手でしゃがませられる。

 そして絶叫を上げる銃の金切り声。しかしそれも数発の後、ピタリと止んだ。

 ――肉を断ち切る、嫌な音と共に。


「がっ……!!」


 俺は見てしまった。

 俺達の後方から飛んできた巨大な斧の刃が、銃ごと斬り裂き、福原さんの胸元に突き刺さる瞬間を。


「マサ兄……」

「見るなヒカリッ!!!」


 ドチャリ、と。表現もしたくない音が耳に入ってくる。

 福原さん肉塊は、橋の上で力なく崩れ落ち、そこに血溜まりを広げていく。


 俺はただひたすらに、橋の上で芋虫のように転がりながら、ヒカリにこの光景を見せないよう、小さな頭を強く抱きしめていた。


「メェェェエエエ……ッ!!」


 右目の潰れたバフォメット。俺達を追ってきた奴だ。

 だが福原さんの銃で撃たれた目は既に回復しつつあり、おぞましい声を上げながら近づいて来る。

 立たないと。逃げないと。ヒカリを守らななければ。橋の反対側までは、まだまだ遠い。


(立てよ……! 動けよ! ビビってる場合じゃねぇだろ……!!)


 そうしている間にも一歩、一歩と『死』は迫ってくる。

 焦れば焦るほど、逃げなければと思うほど、俺の身体は動いてくれない。

 腰が抜けた。足の震えが止まらない。もう流しているのが汗なのか涙なのか鼻水なのか、分かったもんじゃない。


 そして悪魔は俺達の目の前に立つ。福原さんの死体から斧を抜き取り、手に持って大きく振りかぶる。

 俺達を見下ろすその白濁色の瞳からは、何の感情も感じられない。


 あぁ、俺は今日ここで死ぬのだと、そう理解できた。


「マサ兄ちゃん……!」


 ぎゅっと、ヒカリの手が俺の服を掴む。


「ッ……!」


 そうだ。怖いのは俺だけじゃない。ヒカリの方が、ずっとずっと不安なんだ。

 もう、失いたくない。何も奪われたくはない。


 ……なら、動くしかない。立つんだ。生きるために。それ以外に、方法はない!


「ああああああぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!!」


 上擦った声を出し、俺はヒカリを抱えたまま立ち上がって、前方にダイブした。ヒカリを庇いながら、悪魔の横脇をすり抜ける。背中からコンクリートに滑り込んだので、摩擦で背中が熱い。

 そしてその直後、バフォメットの斧が振り下ろされた。

 一秒前まで俺達がいた場所には斧の刃が深々と突き刺さり、吾妻橋に亀裂を入れる。

 もし回避があと一瞬遅れていたら、なんて想像したくない。しかしどうにか、生き残ることができた。


 人生最大限の勇気を出し、首の皮一枚繋がった。だがもうダメだ。二度も立ち上がる余力はない。


(……俺にしては、頑張った方かな……)


 たかだか普通の高校生だった男にしては、よくやった方だろう。そんな風に、せめて最期くらいは、自分を肯定しながら死んでいきたい。

 先程までの勇気も失せ、卑屈な諦めに身を任せた俺が見上げた空は、薄暗く曇っていた。


 だが俺は、見たのだ。


 その空を舞う――いや跳躍してきた――小さな『金の十字架』を。


「『Amenアーメン』」


 正確には、十字架のネックレスを首から下げたオッサン。

 その人はバフォメットの頭上に飛び乗り、やたら長い銃を脳天に突き付けると、一息に引き金を引いた。

 弾丸は悪魔の頭部から股下にまで貫通し、バフォメットは糸が切れたかのように、その巨体を吾妻橋に倒れ込ませた。


 橋が大きく揺れた後に、静寂が戻る。

 そして一発で悪魔を仕留めたそのオッサンは、悪魔の死体から降り、金の十字架をぶら下げながら俺達に近づいてきた。

 無精ヒゲにシルバーの髪。日本人ではない。だがその人は俺達の前に立つと、手を差し伸べる事なく、しかし聞き取りやすい日本語で言い放った。


「……どうしてこんな所に子供がいる」


 混乱する俺は、そんな単純な問いかけを理解するのにも時間を要した。

 ただ、その聖職者っぽいオッサンを『狼みたいだ』と感じていた。


「……まぁ良い。英国国教会特務部隊『ゲルニカ』部隊長、『ルーサー・マガール』だ。……これも神のお導き、とまぁ……牧師らしいことも一応言っておく。……出会った人間には最初に名乗るのが、この国のルールなんだろ?」


 地獄に仏、でも神でも天使でも悪魔でもなく。俺達はその日、誰よりも『神を信じない』牧師さんに出会った。

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