魔法を使って将棋を指したらダメだなんて誰が決めたの?

いそのたかみ

第1話 眠り香子

 焦る気持ち、はやる気持ちを集中させようと目を閉じて(集中、集中!)と心のなかで唱えていると、

「それでは、定刻になりましたので成田アマの先手番で始めてください」

 不意に記録係の声が聞こえてきたので驚いてしまい、

「よろしくお願いします」

 と言った声が完全に裏返ってしまった。こんな調子で大丈夫だろうか、わたし。


 駒を持とうと伸ばした手の指先がブルブルと尋常じゃない勢いで震えているのを見て、あわてて引っ込めた。すごい。自分では思っていないほど緊張しているんだ。

右手の指先を左手でギュッと抑えこんで、深く息を吸い込んで呼吸を整えた。こういうのを、『気息を整える』というらしい。

 落ち着こうとして上を見上げると、頭上にあるカメラのレンズと目があってなおさら慌ててしまったけれど、いやいや大丈夫、これはわたしのことを撮ってるわけじゃなくて、盤面を撮っているだけだからと思い直し、左手でメガネの位置を直してもう一呼吸ついた。

 それから、右手の人差し指と薬指とではさむようにして駒を一枚つまみあげる。

(うん、大丈夫)

 木の手触りを指先で確かめるように滞空時間を長く保ってから、駒を人差し指と中指に持ち替えて、最初置いてあったマス目からひとつ前のマス目に向けて打ち付けた。

 パチっという音を立てて初手7六歩を着手すると、それに続いて周りの記者の人達が一斉にカメラのシャッターを切り、一斉に炊かれたフラッシュのせいで目の前がほとんど真っ白になってしまった。




 午前中はそんな感じで、フラッシュのせいではなく、初めての将棋連盟会館での対局という慣れない大舞台での緊張と,たくさんの人から注目されているというプレッシャーから頭の中が真っ白になっていた。

 ほとんどまともに考えることができなかったけれど、幸い持ち時間は一人5時間(!)とたっぷりあるので、一手になるべく多くの時間を使ってあまり先へと進みすぎないように気をつけた。おかげで朝10時に開始してからお昼まで2時間かけて、局面はまだまだ矢倉の定跡型。どちらがいいとか悪いとかがない、決まりきった手順の途中で止まっている。


 これで昼から調子が戻ってくればいいんだけど、

「昼食は控室に届いていますから」

 と、記録係の男の子から声をかけられてはじめて、すでにお昼休みの時間に入っていることに気がついたぐらいなので、本当は結構まずいかもしれない。正直な話、自分が何をお昼ごはんに頼んだのか全く記憶に無くて、

「あの、すいません。わたし何を頼みましたっけ?」

 と、記録係の子に聞き返してしまったほどだった。


 控室には他に対局をしている棋士がそれぞれご飯を食べていて、わたしも隅っこの方に座って『うな重(梅)』を食べることにした。将棋といえばうな重。素人にはわからないかもしれないけれど、そういうものだと決まっているのだ。対局者としてこの将棋連盟会館に来てうな重を食べることはわたしの積年の夢だったので、無意識下でもこれを注文していたのだろう。緊張のせいでほとんど味も分からず、ただ喉を通って行くだけだったのが残念だ。


 胸がいっぱいで半分くらい残して呆然と座っていると、

「ナ・リ・コちゃん」

 と、声をかけられた。はっとして視線を上げると、目がさめるような美女がわたしに向かって微笑んでいた。

「あ、銀河さん」

「元気? って言おうと思ったけど、ぜんぜん元気そうじゃないね」

 銀河さんは苦笑して、わたしの向かい側の席に腰を下ろした。

 銀河さんというのは、千鳥銀河女流二段のこと。20歳の現役女子大生にして美人女流棋士としても名高い彼女とは、以前女流棋士とアマチュアとの交流戦で対局してからの知り合いで、それからというもの田舎から出てきて右往左往しているわたしのことを気遣ってあれこれと声をかけてくれる、とても頼もしい存在だった。優しくて美人で頭も良くてもちろん将棋も強くてと完全無欠に見えるんだけど、欠点もないことはない。

「あのー、わたしの名前、ナリコじゃないんですけど」

「ふふ。いいじゃない。成田なりた香子かおるこ、略してナリコちゃんじゃない」

「人に変なアダ名を付ける癖さえなければ完璧なのになあ」

 と、わざと口に出して言ってみた。

「どう? はじめての男性プロ棋士との公式戦は。やっぱり緊張してる?」

「緊張するかなって思って覚悟して来たんですけど、予想以上でした」

 そう言ってから自分の指先を見つめた。さすがにもう震えてはいないけれど。まだ自分の体じゃないみたいだ。

「さっき入り口からナリコちゃんに向けて手を振ったんだけど、まったく気づいてなかったよね。心ここにあらずというか」

「はい。手は震えるし頭の中は真っ白になるし、せっかくのうな重も全然味が分かんなくって。こんなに緊張する方だったのかなわたし」

それを聞いて銀河さんはニッコリと笑った。

「みんな最初はそんなものよ。対局室もシーンとしてるから、余計緊張しちゃうんだよね。どこかに気分転換に出ればよかったのに」

「あ、そういえばそうですね。でもこのあたりのことはよく分からなくて…」

「そうか。じゃあ今度一緒になるタイミングがあったら、わたしがよく行くお店に連れてってあげるね」

「ありがとうございます。あれ?そういえば銀河さんって、今日対局がある日でしたっけ?」

「ううん。今日はちょっとついでがあって近くに来たから、かわいい後輩がどんな顔してお昼ごはん食べてるかなと思って、覗きに来ただけ」

「わざわざ、わたしのために…?」

 次の瞬間、銀河さんの両手がわたしの右手を包んだ。銀河さんの指は細くひんやりとして外の寒さを物語っていて、それは、火照っていたわたしの心を鎮めてくれるような冷たさだった。

「大丈夫。あの時の実力を出せば、きっと勝てるから」

 そう、あの時。銀河さんとの対局とのことを思い出して、わたしはうなづいた。

「うん、いい目になってきた。それじゃ、頑張ってね」

「はい、今日はありがとうございます」

 手を振って棋士控室を出て行く銀河さんを見送りながら、その時のことを思い出していた。あの日初めて、わたしの中の“扉”が開いたのだった。




 特別対局室に戻ると、すでに本日の対戦相手、来島来夢四段は座って盤面に目を落としていた。

 失礼します、と声をかけて向かいに座って、まじまじと彼のことを見た。髪の毛は一応整えてあるけれどどちらかというとモサモサしていて、黒いフレームのメガネをかけて色白で、いかにも将棋を指しそうな顔をしている。今年プロになったばかりの新鋭で、24歳というけれど全然そんな風には見えない。スーツを脱いで私服になったら、うちの将棋部に混ざっていても気が付かないんじゃないだろうか。

 あまりまじまじと見ていたせいで来島四段がチラリとこちらの方を見たので、さりげなく視線をそらして彼の後ろ側にある床の間の方を見やった。何やら高そうな掛け軸には眉をしかめて恐ろしそうな顔をしたダルマが描かれていて、それを見て(これって、手も足も出なくて負けたってことかな)と思って一人で可笑しくなってしまった。

 それから窓の方に目をやると、薄灰色の空を白いものがチラホラと横切って行くのが見えた。東京でも雪が降るんだ。そんなことを思ったわたしは思わず立ち上がって、とととっと窓の近くまで駆け寄ると、鍵を外してテラス窓を開いてしまった。

 その瞬間、ほんのちょっとの隙間から、ビル風が雪とともにものすごい勢いで入ってきた。

「すいませんすいません」

 慌てて閉めながら謝って、盤の前に戻ってからもう一度頭を下げて謝った。

「ごめんなさい。ちょっと気が動転してて」

 来島四段は微笑んで、

「いやあ、対局中だったら大変だけどね。もしかして、暖房効きすぎてた?」

 と尋ねてくれた。

「いえ、ぜんぜん大丈夫です」

「北海道から来たから、暑いのが苦手なのかなって思って」

「あ、むしろ寒さに弱いんですよ。家の中は常に暖房焚きっぱなしで」

「へえ、そうなんだ。北国なのに寒さに弱いなんて、ちょっと意外だね。雪はどう?」

「そう、それで、いま外を見たら雪が降っていて、そのせいで思わず…」

「窓を?」

「はい」

 さっきしでかしたことを思い出して、わたしは小さくなった。それを見ていた彼は小さく笑って、

「緊張、解けたみたいだね」

 と言った。そうだ。いつの間にか周りのものがよく見えるようになっていた。さっきまでのわたしは、起き抜けにメガネが見つからない時以上に全然何も見えていなかったのに。

「外の空気を吸ったおかげかもしれません」

 わたしは照れ笑いしながらそう答えた。もしくは、銀河さんの手の冷たさのおかげかな。




 13時に対局が再開されて、しばらくは淡々と駒組みが進んだ。

 相矢倉から後手の来島四段が6四角と上がって、わたしの銀を挟んで飛車を睨んでいる。このままでは銀が動けないので飛車を1筋に回って端攻めの構えを見せた。さらに銀を2筋に進出させて、こちらからの攻めの準備は万端。だけど来島四段は端を守らず、じっと角を7三に引き上げたのだった。

(これは…、大丈夫だと見られているの?)

 誘われているのか、それとも気がついていないのか。普通に考えたら前者なんだけど、この後にどういう手順が待っているんだろう。チラリと対局時計を見る。午前中に考えすぎたせいで、持ち時間にかなり差がついてしまっていた。このまま銀を出て一気に攻めるべきか、それとも自重してじっと我慢すべきか。考えてもちょっとやそっとでは分かりそうにない。

(奥の手を出すしか無いかな)

 そう決めて、わたしは居住まいを正してから深く息を吸い込んで目を閉じた。まぶたの裏の暗闇に意識を集中させていく。だんだんと周りの音、空調の音や廊下を歩く人の足音が遠くなっていき、わたしの意識は“扉”に向かって飛んでいった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 意識が現実の世界へと引き戻され、はっと目を開けて時計を見る。目を閉じる前から、まだ1分くらいしか経過していないようだった。

 再び盤面に目を戻し、なるほど、ここで攻めても一気には押しつぶせないし、角を引いたのは5一の地点を守るためでもあったのね、うんうん、と一人うなづいて、わたしは銀ではなく、桂馬を跳ねて力を貯めることにした。


 それからはわたしが攻めて、彼が受けるという展開に進んだ。夕食休憩を挟んでほとんど受け切られそうになりながらもどうにか細い攻めを繋いで繋いで、対局が終わったのは22時を回ったころだった。

「ありません」

 と力なく言った来島四段の額には汗が滲んで前髪がはりついていて、かきむしった髪の毛はぐしゃぐしゃに乱れていて、戦い終わった男の顔をしていた。わたしも同じような顔をしているのだろうか、と思う間もなく周りの記者の人たちは朝と同じようにバシャバシャとシャッターを切るし、鏡を見る余裕もなく来島四段は、

「ここで2三玉と歩を取ったら」

 と感想戦を始めてしまったのでそのまま応じざるを得ないしでちょっと大変だった。それでも彼との感想戦は凄まじかった。わたしとは全然読みの量が違う。ひらめきの量も違う。読み筋は蛇口からあふれでるぐらいに出てくるし、聞いているだけで脳の奥がビリビリとしびれてきた。わたしがもっとすんなり勝てる手順が思いもしなかったところに隠れていたことを教えられ、どちらが勝ったのか分からない有様だった。

 一時間ぐらいそれを続けたところで、

「ところで、もう遅いけど電車は大丈夫?」

 ふと、彼が言った。

「あ、大丈夫です。明日の朝一番の新幹線で帰りますから」

「ああそうか、でももう遅いから、このぐらいにしておこうか」

 と言った。本当はもう少し続けていたいような気持ちだったけれど、体の底がぐったりと疲れているのを感じたので、素直にその通りにした。

「あの、今日は本当にありがとうございました」

 それを聞いて、彼は駒を片付けながら少し微笑んだ。

「いや、ぼくの方こそ勉強になったよ」

「いえ、わたしの方こそ!」

 それから駒袋の紐をきゅっとしばって箱に詰め、

「また公式戦で会えるといいね」

 と言ってくれた。わたしは、力強く首を縦に振って

「はい!」

 と答えた。それからさらに取材を受けて、将棋連盟会館を後にしたのは0時を回った頃だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 呼んでもらったタクシーに乗り込んで、昨日から泊まっている東京駅近くのホテルの名前を出した。車が走りだしたところでスマホの電源を入れると、堰を切ったように通知、通知、通知の山がやってきてブルブルと震え続けた。お父さんや将棋部の友達からのメールやメッセージが続々と届いている。その中からわたしは、まず一通のメールを探し当てた。


<初勝利おめでとう>


 桂太からのメールだ。送信時刻は終局時刻とほぼ一緒。棋譜中継をずっと見ていてくれたのかな。早速読もうと思った矢先、

「お客さん、将棋の人?」

と運転手さんから声をかけられてしまった。

「は、はい!」

「いつも遅くまで大変だねえ」

「いや、あの、わたしはそんな、いつも遅いわけじゃないですけど」

「じゃああれだ、記録係の! 夜遅くまで大変だけど、若いうちは修行だからねえ」

「えーと」

「お客さん若いから知らないだろうけど、むかし大山って強い人がいてさ」

「大山名人、ですか」

「詳しいねお客さん、升田大山、知ってるかい?」

「いやーさすがにそれは常識というかなんというか」

 まいった。話し好きの運転手さんにあたってしまった。はやくメールが読みたいのに。


 ホテルの部屋に戻るとコートを脱いでハンガーに掛け、制服姿のままベッドに倒れ込んだ。疲れた。脳のあたりがギシギシと悲鳴を上げているようだ。はやく眠ってしまいたかったけど、とりあえずスマホを開いて、桂太からのメールを確認してからにしよう。




 <初勝利おめでとう>

 アマチュア龍神戦での活躍を見ていたからもしかしたらと思っていたけど、あの勝率7割を超える来島四段に本当に勝ってしまうなんて本当に凄いと思う。

 ネットでの反響もすごかったよ。このままタイトルを取っちゃうんじゃないかなんて言われてて、ぼくもそれを楽しみにしています。棋譜中継のコメントで「成田アマは長考の際、目を閉じてまるで眠っているように見える」なんて書かれてて、『眠り香子』なんてニックネームがつけられているみたい(笑)

 今日は疲れていると思うから返信は不要です。あした部室で感想を聞かせてください。




 桂太が喜んでくれて嬉しかったけれど、『眠り香子』の部分で胸がチクリと傷んだ。

「なんかズルいな、わたし」

 今までも多少の罪悪感はあったけど、来島四段の溢れ出るような才能に触れてしまうと、今日は特に(わたしが勝つべきではなかったんじゃないか)という思いを強く感じてしまう。

 寝返りを打ってあおむけになり、しばらくホテルの天井をながめてから目を閉じて、まぶたの裏側の暗闇へと意識を集中させた。周りの音がだんだん聞こえなくなっていき、視界が完全に暗くなり、そして目の前に扉が現れた。細かく彫刻が施された重厚な扉。真鍮製とおぼしき金色の取っ手を掴んで、わたしはわたしの心のなかにある小部屋の中へと入った。




 赤い絨毯に細かく模様が入った壁紙、天井からはシャンデリアが吊り下がっていて、それほど広くもない室内をぼんやりと照らしている。わたしは部屋の中央に進み出て、そこにある黒いテーブルの傍らに立った。テーブルの上には将棋盤によく似た、9×9のマスが書かれたボードが置いてある。ボードの上にある袋を手に取り、紐をほどいてその中身をボードの上にバラバラっとあけた。黒くて丸く平べったい石の表面に、漢字でもアルファベットでもない何かの文字が彫られている。それを一枚ずつボードの上に並べていき、40枚の石を将棋と同じ配置に並び終えた。それから、石を交互に動かして来島四段との対局を再現する。


 これがわたしの秘密、わたしの強さの源だった。この部屋の中でどれだけ考えていても現実世界の時間はほとんど進まない。対局中にこの部屋にやってきては、時間を気にせず盤と駒を使っていくらでも、納得がいくまで研究ができる。

(来島四段から指摘された筋は、ここですぐ角を切って攻めちゃうんだったかな)

 パチパチと並べては戻し、進めては考えなおすのを繰り返し、ようやく彼の言っていた意図を理解できた。そうか、そういうことだったんだ。

 それから椅子にどっかりと腰を下ろして、改めて自分の弱さに凹んでしまう。

(ほんと、ダメだなわたし)

 自分の頭で考えているとはいえ、こんなやり方で勝ってほんとうに良いのだろうか、というのはいつも考えている。いつか辞めようとは思うんだけど、苦しくなるとついこの部屋に逃げ込んでしまうのだ。それからため息をついて石を元の袋に戻し、扉を開けて部屋を出た。




 現実に戻ったわたしはスマホの時計を確認した。時間の表示は部屋に入る前と変わらない。ほんの何秒かしか経っていないんだろう。ついでにアラームを5時30分にセット。明日は6時30分の新幹線に乗らなくてはならない。制服を脱いでハンガーに掛け、頭を洗うべきかどうか悩んだけれど今日のところはシャワーを浴びるだけにして早々に眠りについた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 翌朝、新幹線の車窓から外の風景を眺めながら、自分が最初にあの部屋に入った時のことを思い出していた。

 女性のアマチュアのみの大会で運良く勝ち抜いて、女流オープン戦に出た時のことを。一回戦で銀河さんと当たったわたしは、彼女が得意としている相振り飛車からの猛攻に序盤から苦しめられていた。

 一見すれば無理な攻めに見えるけれど、正しく受ける方法を考えるには時間が足りなすぎた。どうにか受けても続けざまに激しい継続手が飛んできて、わたしの方の持ち時間だけがどんどん減っていく状況。考えたい、もっと考えれば正解が導き出せるはずなのに、考えるための時間がどんどん失われていく。息をするのも忘れるぐらい脳をフル回転させて、目をつぶって必死になって考えていた時、不意にあの扉が現れたのだった。

 夢かな、と思ったけれど扉の取っ手を掴んだ時の金属の手触りは夢とは思えないぐらいにリアルで、まろびでるようにして部屋の中に入ったわたしが転びそうになって手を伸ばしたところにあの机があった。その時のボードの上にはすでに石が並べられたままになっていて、なぜか直感的に、(これは将棋だ)と思ったことを覚えている。

 そんな不思議な場所に紛れ込んだことを疑問に思う前に、わたしはボードの上の石を銀河さんとの対局中の局面に並び替え、夢中になって検討を始めた。ようやく正解を見つけ出した時にようやく我に返って、半ばパニックになりかけながら扉の外に出た。

 その途端、目の前にいきなり現実が戻ってきて、

「わっ」

 思わず声を出してしまった。その時のことをあとで銀河さんに聞いたら、

「呼吸が深くなって寝息みたいのを立てるもんだから、この人対局中に眠っちゃったの?って不安になってのぞきこんだのよ。そしたらナリコちゃん、いきなりビックリした声を出して目覚めるんだから、こっちの方が驚いたわよ」

 とのことだった。ほんと、もうしわけない。

 銀河さんも記録係の男性も目をまんまるにしてこちらを見ていて、

「すいませんすいません」

 と謝りながらも、夢のなかで見つけた手を指して、どうにか勝てたのだった。

 その日の午後の対局には残念ながら負けてしまったけれど、家に帰って試しているうちに自由にあの部屋へ行き来できるようになり、その結果としてわたしはいま、17歳の女子高生にしてプロ棋士と戦える力を手に入れたのだった。


 東京から北上するに連れて外の景色はどんどん白く染まっていき、降り積もる雪で完全に白で塗りつぶされたと思ったら急に真っ黒に覆い隠されて、新幹線が青函トンネルに入ったことに気づいた。昨日の夜はあまり眠れなかったから列車の中で寝ようと思ったけれど、考え事をしているうちに眠る時間が無くなってしまった。対局の後はいつもそうだ。気が高ぶって、布団に入っても眠れない。午後の授業で寝てしまわないように気をつけないと。

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