第23話 龍吟虎咆 三

「ズゥちゃん! ズゥちゃんってば!」

「……一角イッカク、ズゥちゃん言うな!」

「よかった、いつもの玉髄ギョクズイだ!」

 しばらく気を失っていたようだ。玉髄は一角の声で目覚めた。

 とたんに、なまぐさい空気にむせた。おまけに全身がぬるぬるしている。龍も消え去っている。

「うわっ気持ち悪っ! 何だこりゃ!?」

「妖魅の体液です。毒はありません」

 青玉セイギョクだった。青い髪を、強い風になびかせている。

「青玉……大丈夫、だったか?」

「はい。ありがとう」

 玉髄はそう言うのがやっとだった。もっといろんなことを、と思ったが言葉が出なかった。

「ここは……」

 三人は小山のような、茶色くぬるぬるとした地面の上にいた。周囲には岩山や枯れ木に見えるものがあちこちに突き立ち、陰気な沼地にいるようだ。

「これはコン、まさしく神代の妖魅です」

「!?」

 玉髄はあたりを見回す。

 湖の中心に小山ができて、その上にいるようにしか見えない。

「水の中から頭を出して、それから動きがありませ……」

 ありません、と青玉が言いかけたとき、地面――否、鯤が動いた。

「うおっとっと!」

「きゃあっ!」

 何せ足元はぬめぬめとした体液に覆われていて、すこし傾斜が増しただけで滑る。

 玉髄が踏ん張ると、そこに一角と青玉が反射的にしがみついた。

「だ、大丈夫か?」

 玉髄は改めて思う。この二人を守らなければ。

 青玉があたりを見回す。地面の揺れはおさまっていた。

「どうやら、復活直後でかなり鈍化しているようですね」

「そうだな、こいつが……国を崩す妖魅、なのか?」

「絶好の機会です。一角、早く封印してしまいましょう」

「うん! やるよ!」

 一角は手に持っていた琥符こふをパン、と鯤の皮に押しつけた。

「……あれ?」

 ぬるぬるぬる、と鯤の体液が噴き出してくる。

 琥符は皮にめり込むことなく、その体液に押し戻されて虚しく滑る。

「あれ? ま、待って、ちょっと待って!」

 危うく琥符が滑って流されるところだった。あわてて拾い上げる。

「おい! まさか、琥符が使えないんじゃ……」

「ち、違うよ!」

「体液に阻まれて、琥符が皮まで届かないようですね」

「どうする?」

「邪魔ならば排除すればいいのです。龍の力ならば、できる」

 たがいに視線を合わせ、うなずきあう。言葉はなくとも、心が通っている。

「来い、我が龍よ!」

 玉髄がおのれの龍――漆黒の応龍オウリュウを呼び出す。二人の少女を乗せ、ともに鯤から離脱する。

 応龍は高度を上げた。

「でっかー……」

 小山にしか見えなかった鯤の姿がようやく見える。

 蟠湖ハンコは峰国に数多く存在する湖の中でも、大きい方だ。その湖の半分を埋めて、巨大な頭部が水面から持ち上がっている。体中に、古木や岩が張りついている。十年湖底に沈められ、蓄積され続けてきたものだろう。

『玉髄、無事だったか!』

 玉髄の頭の中に、思念が響く。剛鋭ゴウエイの声だ。

「将軍、琥符の奪取に成功しました。しかし、体液にはばまれて撃てません」

 玉髄は口で発声しながら、思念を送る。一角や青玉にも状況を伝えるためだ。

「彈で頭部を集中して攻撃してください。体液をそれで蒸発させ、琥符を皮に撃ち込みます」

『わかった。全部隊に通達!』

 剛鋭の思念が、空に浮く騎龍たちに伝えられる。

「一角、攻撃が始まる。収まったらすぐに鯤を封印するぞ」

「うん!」

「青玉は、彼女を助けてやってくれ」

「はい、必ず」

 晩春の朝日がどんどん高くなっていく。空気が張り詰める。

『撃て――!』

 龍から一斉に彈が放たれた。赤、黄、青、緑、紫――おおよそこの世を覆う鮮やかな色彩が、雨霰と降り注いだ。

 彈は次々と鯤の表皮に着彈する。そのたび、水が蒸発して白い煙が上がり、皮はボロボロになってささくれ立つ。岩や枯れ木も弾き飛ばされる。

「よぉし、行くぞ!」

 カッと鯤の口が四つに割れた。――その瞬間、山がひとつ消し飛んでいた。

 玉髄らがそれを認識したときには、暴風と土煙が大気をかき混ぜ、応龍はまるで木の葉のように流される。ほかの龍も同様だ。

「きゃあああっ!」

「うおおッ!?」

 玉髄はとっさに身を伏せ、一角の手をつかんだ。にもかかわらず、彼女の体が大きく舞い上がる。琥符がその手から離れる。

「しまった!」

「来い! 我が龍よ!」

 青玉が応龍から飛び降りた。衝撃波の中に、青玉の白い龍が現出する。龍が青玉を受け止める。青玉は、琥符をしっかりと捕まえていた。

「あ……あぶな……!」

 どっと玉髄は冷や汗をかく。琥符を撃つどころではない。

 崩国の妖魅――その力を目の当たりにした。あたりは一転、巻き上げられた土と水、そして風が渦巻く戦場となる。

 鯤が口を閉じた。頭部からは白い煙が上がっている。そこから割れ目が入った。茶色い皮が裂ける。全身にその裂け目が広がっていく。

「何だ!?」

 風に引きずられるように、ずるずると鯤の皮が剥がれ落ちていく。中から黄金の光がほとばしり、新たな鯤の体が生まれる。口はくちばしに、ヒレは翼に、尾は尾翼に。

「し、しまった! 鯤が目覚めます!」

 青玉が珍しく狼狽した。

「鯤は目覚めて、生きながらにその生をホウに変える……!」

 まさにその通りのことが起こった。巨大な魚は、巨大な鳥へとその生を変えた。

 鵬の全身は、瑠璃るり色だった。そしてその体の頭から背、尾にかけてを、白い一筋の縞が貫いている。円錐型のくちばしは、鈍い銀色に光っている。炯々けいけいと光る眼は、それだけで雷さえも呼び起こしそうだ。

 翼は孔雀の尾羽を広げたような形で、六枚ある。うち前方の二枚はひときわ大きい。

 最も大きい翼は、真横に広がったまま動いていない。だが、そのうしろについている四枚の翼が、細布のはためくようにゆっくりと動いている。ぬらりと光っている。

 それを見た龍たちが吟じた。強大な敵を見つけた、生命のうなりだ。倒すべき敵だと、龍たちは鳴いた。

 鵬もまた咆哮した。水面に巨大な波紋を呼び、大地を震わせる。

「うわっ!」

 玉髄と一角は思わず耳を手で塞いだ。その咆哮だけで、暴風が起こった。しかもその風は、肺腑が腐りそうなほどの臭気を帯びている。思わずせき込む。

 風の中を、龍の彈が斬り裂いた。

 鵬は、騎龍たちの攻撃などものともせず、今度は翼を広げ、ゆっくりと羽ばたかせる。

 暴風が起こった。騎龍らがその風に流される。攻撃の手がゆるむ。風に流された仲間に彈が当たるのを懸念して、撃てないのだ。

「どうする、このままじゃ封印どころか……止められないぞ!」

 ただでさえ強く吹いていた風が、大きく乱れている。その乱れた空気に、龍たちは胴を流され、尾を取られ、ひげとたてがみをかきまわされている。

 玉髄の龍も例外ではない。翼を風に取られ、何度も体勢を崩しかけている。

「玉髄! 力を合わせましょう。鵬を押さえるだけの力を出さなければ、琥符も撃てません」

「どうやって!?」

「すべての龍の力を合わせます」

 青玉は辟邪獣の面を取った。自分の顔につける。

「一角、玉髄にしっかりつかまって」

「う、うん」

 一角は玉髄の背につかまった。

『騎龍の皆さん、聞こえますか?』

 青玉の声が、はっきりと頭の中に響き渡った。

『我が名は青玉、身に一千の龍を飼う龍師です』

 青玉の思念は、まるで水晶のように澄んでいた。頭の中に、彼女の表情さえも浮かび上がりそうな明朗さを含んでいる。

『いまより、鵬を押さえることのできる龍を現出させます。あなたがたのやることは一つ。白い大龍が現出したのち、そこに彈を撃ってください』

 自分たちを彈で撃て――青玉はそう言っていた。

 誰かが抗議の思念を上げるかと思ったが、不思議とそれはなかった。青玉の意思に迷いがないことを感じ取ったのだろう。

「玉髄、やりましょう」

「ああ、いつでもいいぜ」

「応龍!」

 漆黒の応龍と、純白の龍が垂直に伸び上がった。跨る青玉と玉髄は落ちないように太腿に力を入れる。一角も必死にしがみついている。

 黒と白の龍が、たがいの尾を絡み合わせる。青玉が腕を伸ばす。玉髄もそれに応じた。

 手をつかんだ瞬間、玉髄は自分の中に力が流れ込んでくるのを感じた。否、流れて、出て、また戻ってくる。手から入った流れが、玉龍を経て、足に下りて応龍に流れる。応龍から白龍に注ぎ込み、それが青玉に戻る。

 青玉の衣服が消滅する。白い体に長い髪、両足の金環と、左腕の腕輪だけの姿になる。足首の金環は浮きあがって回転し、鈴に似た音を立てる。

 青玉の体から光が放たれる。その体が、爪先から脚、腰、胸――と順々に、青く光る菱形に覆われていく。全身を鱗に包まれていくようにも見える。

 そしてその菱形は、一枚一枚異なる色に変化していく。白、灰、赤、黄、翠、青、紫――同じ系統の色でも、ひとつとて同じものはない。光が織り成す色のすべてを、ここに描いているようだ。雨上がりが起こす、虹のように。

 虹色の輝きに、その澄んだ美貌まで包まれて、無機質になった彼女は、唱える。

「来い、我が龍たちよ」

 言葉が散った瞬間、彼女の体からいっせいに鱗がはがれる。彼女らから一定の距離を取って、銀河のごとき輝きが大気に浮かぶ。

 青玉が面を外し、投げ上げる。その瞬間、絡み合った二匹の龍の周囲に、数百頭の龍が現出した。投げ上げた面を追うように、まるで組紐のようにたがいに絡み合っていく。どの龍からも光が放たれ、あたりを輝きで満たす。

 そして龍たちは応龍と白龍をも取り巻き、その光を増していく。光が増すたびに、バラバラだった龍の色が淡くなり、白に近づいていく。

 白い光が、二匹を包み込む。玉髄らもその中に内包される。

 青玉の手が、玉髄から離れる。その姿が光の中に消える。あらゆる色の光が同化し、白さはますます高まる。

 さらに、外から流れ込んでくる力がある。ほかの龍たちの力だ。

『行って』

 青玉の声がした。途端、玉髄は外に放り出される。

「――!」

 玉髄の目に入ったのは、巨大な白龍――鵬と同等の大きさを持つ龍だった。

(これが……龍師の……いや、青玉の力!)

 応龍はその白龍から急速に距離を取る。

 それと同時に白龍が動いた。鵬に巻きつく。白い光の体が、紺色の大鳥を締め上げた。

 鵬のくちばしが八つに割れた。まるで花が開くようだ。また山を吹き飛ばすか。

「――!」

 しかしその前に白龍が動いた。鵬の口を、巨大な口で噛みつき、押さえ込む。その口から放たれようとした力が行き場を失って暴発する。湖岸が大きくえぐれ、落雷よりも凄まじい轟音を上げて、土と水を巻き上げる。

 そこまでだった。白龍は完全に鵬を押さえた。鵬の翼が止まり、風が弱まる。

 その機会を待っていたかのように、応龍――玉髄が動いた。鵬に迫る。

「一角! できるな!」

「やってみせる!」

「よぉし、撃て!」

 玉髄が腕を振り上げた。応龍の周囲に、翡翠色の彈が浮かび、鵬を撃った。頭部に着彈し、その体液が蒸発する。

「玉髄、これを!」

 一角は琥符を鵬に向かって投げつけた。玉髄がふたたび彈を撃たせ、援護する。

 翡翠色の彈が琥符を乗せて、鵬の頭に激突する。鵬が悲鳴のような声を上げた。しかし琥符は落ちずにそこにある。喰い込み始めている。

「よし!」

 一角は玉髄から離れ、応龍の上に立ち上がった。玉髄が支える。応龍は空中でとどまり、一角の安定が保たれるように体を水平に伸ばした。

「我が名は一角娘、師は九陽門主・夜光ヤコウ!」

 両手を広げ、天地に宣言する。金茶色の髪が風とみずからの霊気で巻き上がる。

黄帝コウテイが琥の術を用いて、ここに妖魅を封ず!」

 銀色の額当てが輝く。

亀足きそくの山が崩れ、東海が埋もり果てるまで、この場所を出ることまかりならぬ!」

 見開いた瞳に、決意が浮かぶ。この国の守護者となる覚悟――かつて彼女の師がそうであったように。一角は、その呪文を叫ぶように唱えた。

「封琥!」

 鵬の叫びが上がった。

 琥符を基点として、黄金の光が幾筋も鵬の全身に回る。翼を束縛し、口を塞ぎ、浮力を封じて湖底に引きずりこむ。水が大波となり、崩れた湖岸の土砂が流れ込む。

「白龍が!」

 鵬が沈んでいくのに引きずられるように、白龍もまた湖に沈んでいく。しかし鵬と違い、その体が徐々に霧散していく。純白だった蛇体が、虹色を帯びる。それぞれの龍が、それぞれの色を取り戻し、解けて消えていく。

「……青玉!」

 玉髄はその名を呼んだ。

 龍はすべて消え去り、彼女の姿はどこにもなかった。

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