第22話 龍吟虎咆 二

 青玉セイギョクたちが脱出したときより、やや時間は戻る。

 舟の外に転がり出た男たちは、間合いを取って対峙する。

 自分と同じ顔――否、センのほうが年上に見えるか。玉髄ギョクズイは未来の自分を見ているような気分になった。

「兄が死んだせいで、某はコウ家を継がざるを得なかった」

 唐突に、センは語り始めた。

「家を継ぎ、子を生すは、貴族の義務。だが陰陽交接を禁じられた騎龍の身ではそれができない。だから某は、俗人として過ごさざるを得なった。お前が生まれるまでの一年が、やけに長かったよ」

 遷は饒舌だった。

「そして死んで、よみがえって、わかった。某はもう自由だと――」

「それが、阿藍アランに従った理由か」

「わかるだろう、お前にも」

 お前もまた、騎龍になるための修行を積みながら、あの家に縛られた身なのだから。

 遷の言葉に、玉髄は心が沈んでいくのを感じた。しかし怒りでも落胆でもない。冷静になっていくのを感じていた。

「……俺も『家を継げ』と言われたときは荒れたよ。何もかも思い通りにならなくて、毎日寝て起きるのさえ腹立たしかった」

 生きることは、思い通りにならないことの連続だ。

「おまけに、俺は不孝者だ。父祖の廟を守れず、子もなく騎龍となり、友人の師を死なせた」

 そして、後悔を重ね、無力さを痛感していくことの連続でもある。

「でも、それでも」

 それでも、玉髄は踏みとどまっていた。理由がある。仕えるべき王が、支えるべき仲間たちが、ともにあるべき友が、そして――愛する者が。

「俺にはまだ、守りたいと思うものがある!」

 思い通りにならずとも、もがいて、あがくだけの理由がそこにはある。

「来い、遷! 黄泉こうせんへ、叩き返してやる!」

「抜かせ!」

 また数合渡り合う。そして間合いを取る。

「なあ、遷。なぜ、龍を出さない?」

 上がった息を整えながら、玉髄は問うた。

「龍の彈なら、俺を難なく焼き殺せるだろうに」

「…………」

 遷は息こそ上がっていないが、答えない。

「人を彈で撃つべからず――騎龍の掟を、守ってるつもりか?」

 玉髄はわざとらしく両肩をすくめた。

「青玉を撃ったくせに」

「あれは赦しがあった」

「阿藍の赦しが? あの女は王でもなんでもねぇ」

 遷にまだ、騎龍としての誇りが一抹でも残るなら。

 玉髄はそれに賭けて、遷を挑発した。

「某を復活させてくれた。この腕と、脚をくれた」

「あんたの体じゃないだろう。空洞の鎧のどこがいい?」

「……貴様」

「俺は調子がいいぜー、青玉に騎龍にしてもらってから。体切り刻まれても生きてるし」

 玉髄は笑った。目は決して笑ってはいないが。

「何が言いたい?」

「何もかも中途半端で、片腹痛いんだよ! この腕なしのバケモノが!」

「黙れェェェッ!」

 遷が激昂した。

 玉髄の思惑通りだった。遷の中に虹玉仙コウギョクセンとしての記憶が残るならば、どう言えば怒りを誘発できるか。それを考えて、玉髄は彼を最も侮辱する言葉を放ったのだ。

「貴様に、貴様に何がわかる! 某の何が!」

「わっかんねーよ! テメーなんざもう親でも子でもない!」

「このオオオッ!」

 だが、挑発は半ば失敗だった。

 遷の技は大ぶりになるも、威力もまた上がっている。

 下から斬り上げられる。防いだ剣でその力を逃がし損ねる。玉髄の手から剣が飛んだ。

「しま……っ!」

 遷が腕を振りかざす。玉髄は咄嗟に腕を上げた。

 斬られる――!

 しかし、その瞬間は訪れなかった。遷の腕が止まっている。

 パキン、と何かが割れる音がした。玉髄は肩に違和感を感じる。右の肩口だ。

琥符こふが……」

 カツン、と小さな音がした。皮膚から琥符が外れ、衣の隙間から床に落ちた。

「琥符が、外れた?」

 阿藍の琥符が外れる。それが意味するのは。

「……阿藍が、死んだ」

 遷が、呆然とつぶやいた。

「お……オオ……!」

 次の瞬間、遷の顔半分に筋が浮かんだ。急激に皮膚の張りが失われ、筋肉のスジが如実に現れる。眉間が割れた。ぶつけた水瓶のように、細かなヒビが顔中に走っている。

 彼の右腕が、だらりと垂れ下がった。曲刀が床に落ちた。

「くう……!」

 遷が歯噛みしたのと同時に――仙槎せんさが大きく揺れ始めた。結界が消え、大きく傾く。それと同時に、鳴蛇メイダが仙槎から離れていく。

 振り返ると、白い龍に乗って一角イッカクと青玉が離脱するのが見えた。玉髄は勝利を確信した。

「どうやら、そっちにはあんまり時間はなさそうだな」

「まだだ……!」

「そう、まだだな」

 仙槎が崩壊し始めている。しかしまだ戦わなくてはならない。

「その顔を晒したまま、ここにいてもらっちゃ困る」

「やっと、解放されたと、思ったのに」

「そうだ、あんたを解放してやる! 俺たちが引き継いでやるから感謝しろ!」

 玉髄も見栄を切った。もはや、さえぎるものは何もない。

「来い、我が龍よ!」

 二人の騎龍が、龍を呼ぶ。黄金と翡翠の光が交差する。

「シィイイィィ――……」

 噛み締めた歯のあいだから息を吐き出す。鋭く尖った犬歯がのぞく。

 たがいの両腕が、それぞれの龍と同じ色に覆われる。鋭い爪をもつ霊気の籠手が現出した。遷の右腕も、ふたたび動き出す。どうやら霊気で動かしているようだ。

(戦いたい)

 心を突き動かす感情が、ひどく単純なものになる。

(戦いたい、戦いたい、戦いたい!)

 次の瞬間、仙槎が爆発した。砕けた白玉の瓦礫が飛び散り、結界の外にいた騎龍たちを襲う。琥符から解放された鳴蛇も彼らに襲いかかる。

 玉髄も遷も無事だった。二匹の龍がそれぞれの主を乗せて、大空へと舞い上がる。霊気が彈となり、幾筋もの尾を引いて、相手に襲いかかる。ぶつかっては弾け、大気に波動が重なった。

「でぇい!」

 すれ違いざま、竜頭の上に火花が散った。玉髄と遷の拳がぶつかり合った。次の瞬間には、龍が反転し鱗と鱗を激しく擦り合わせながら、たがいの主を接近させる。人間が拳を交差させる。うねる蛇体の上を無尽に動き回りながら、戦士たちは火花を飛ばした。

 誰も邪魔できない一騎討ちだった。

(次で決める!)

 玉髄は拳を構えた。

「おおおおおおオオオっ!」

「イイイェエエエエエッ!」

 ぱし、と玉髄の頬から血がほとばしった。横一文字に傷が走る。遷の爪は玉髄の頬をかすめたものの、空に突き立っている。

 玉髄は低く身を沈め――その右腕で、遷の胸を貫いていた。手の中に、彼の玉龍ぎょくりゅうを奪って。

「――はあっ」

 遷が大きく息を吸い、そして吐き出した。風のような音がした。

 ずる、と遷の体が玉髄から離れる。数歩あとずさって、遷はみずからの龍の上に倒れた。

「や、った……」

 玉髄は、数歩うしろに下った。頬を血が濡らしているが、そんなことは感じていない。

 不思議と勝利に酔うことはなかった。ただ、封じていた感情が溢れかけている。

 ――後悔。

 これでよかったのか。そう思う心が、玉髄に染み出してくる。

「これで終わる……」

 遷は穏やかな声でつぶやいた。

「何という顔をする。もっと誇らしい顔をしろ」

 玉髄の顔には、まるで敗れた者のような暗い影が落ちていた。

「某は遷。玉仙ギョクセンではない……」

「わかっている。父さんは十年前に死んだ。俺は、俺が倒したのは、遷だ」

 感情を封じる。玉髄はうつむいた。黒褐色の前髪が、顔にかかる。

「……父さん」

 顔を伏せたまま、玉髄はつぶやいた。

「夜光殿から聞いた。父さんの遺言」

「…………」

「……『我が子の重みを知っているから、戦えた』と」

 ずっと疑問だった。父は本当に自分を愛してくれていたのかと。

 夜光は死の間際、玉髄に告げた。玉仙は赤子だった玉髄を抱いて、それから騎龍になった。だから妖魅退治に命を賭けられた。守りたい者がいるから、と。

「俺はちゃんと、愛されてた。それを知ったから、あんたを倒せたのかもしれない」

 もうあれは、父ではないのだ――そう、悲しく思えたから剣を向けられた。

「十年間の迷いが、晴れたから」

「十年……」

 遷の顔に、初めて苦悶の色が浮かぶ。

「たった十年か……我らが守った時間は……」

「心配、するな。今度は俺たちが守る。もっともっと、長い時間を守ってみせる」

「ふ、ふふ……」

 遷が腕を伸ばす。玉髄は応えず、ただ立ったまま見下ろしただけだった。

 黄金に覆われた腕が落ちる。遷の瞳が閉じられた。

 金龍が吟じた。主を失い、暴走して応龍から離れる。

 遷の体が空中に投げ出され、まもなく金龍も玉龍に戻ってともに落下する。

 深い青色をたたえた湖が、その二つを受け入れた。小さな水柱が上がる。落ちた者が浮かび上がる。異形の人間が、安らかな顔で眠っていた。

「さらばだ、遷」

 決別の言葉。応龍の上に立った玉髄は、もう決して彼を父とは呼ばない。

 父の名誉のために。英雄という幻影を消さないために。いま死んだのは、ただの創られた人形――遷でなければならない。

 玉髄は冷めた心で、遷の亡骸を見つめていた。悲しみを感じること、それを頭が拒否していた。

(いずれ亡骸も沈む……)

 ざあ、と風が吹いた。湖の表面を撫でる。

 とうに三百の時間は過ぎている。けれども応龍は散じず、空に浮いている。

 琥符が割れたときわかった。もう騎龍としての自分を縛るものはないと。

「ズ――ちゃ――んっ!」

 声が降ってきた。

「一角、青玉!」

 青いたてがみと青い瞳をした、純白の龍が隣に浮かぶ。

「青玉、無事だったか! よかった……」

「ありがとう、玉髄。心配してくれて」

「一角も」

「うん! ほら、琥符もここに!」

 一角が阿藍から奪った琥符を示した。

「これ、使えるんだろうな?」

「うん、大丈夫」

「ほかの琥符は、阿藍の死によって無力化したみたいですが……」

「これが力を持つのは、琥師がこれを妖魅に使ってから。これまだ使ってないもん」

「よし、一角。お前だけが頼りだ」

 三人がうなずき合ったとき、地鳴りが響いた。湖の表面に、巨大な波紋が浮かび上がる。

「何だ!?」

 湖面を、四つの山が割った――ように見えた。水が渦巻き、山の中心に吸い込まれていく。

 遷の亡骸もまた、その渦の中に消える。なまぐさい魚の臭いが、漂う。

「ゴホ……ッ、何、あれ!?」

「あれは……あれが!」

 呆然とする玉髄らに向かって、山が延びてくる。激突され――三人も龍たちもそれに巻き込まれた。

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