第19話 白石蒼苔 三
「……ずいぶん静かだな」
もうしばらく歩いているが、何者とも接触していない。
「何だか……」
「
「う、ううん。何でもない」
一角が少しだけうつむく。怖いのだろうか。
「大丈夫、一角。俺も、
「うん。そうだね」
二人の様子を、夜光が見つめていた。
「すまぬ」
「え?」
「本当は、私が止めるべきだった。二十年前に、
阿藍と行動をともにしていた、と言っていた。それがどの程度の関係だったのか、夜光は語らない。けれども後悔しているようだった。
「私はもう誰も失いたくはない。大切に思う者を、誰も」
「お師匠様……」
「そして私も死なない。この国のために」
短い言葉の中に、夜光の決意があった。
塞の中を半周して、ようやくさらに奥へと向かう扉を見つけた。
「水……?」
床のほとんどが深く掘り下げられており、あたかも池のように水が満たされている。蓮が浮かび、薄紅色の花をつけている。
足場は、部屋の奥に向かってまっすぐ伸びた橋だけだ。奥には、また扉がある。
「……大丈夫そうだな」
足音が高く響く。玉同士が触れ合うような、
奥の扉を開くと、ふたたび池の上に橋がかかる部屋があった。今度は蓮ではなく、石像がいくつか水面の上に建っている。異形の獣が伏せた姿を模した、
部屋の最奥は、まるで王の玉座だった。金色の紗を装飾として垂らし、白玉の壁には虎を意匠化した文様が黄金の線で刻まれている。
「
その部屋に入った瞬間、玉髄が叫んだ。
玉座のそばに建てられている、獣人の像。そこに青玉が縛りつけられていた。口には布を噛まされたままだ。
玉髄はそのまま進もうとして足を止めた。玉座に、人影を認めたからだ。
「よく、来てくれたわね。歓迎歓迎」
「……
宮廷琥師・阿藍――忘れようにも忘れられない、艶めかしい美貌が薄く笑った。
「夜光も来てくれたの。嬉しいわ」
「阿藍、我々がこれまで見てきたもの、説明してもらおう!」
「見ての通り。妾のお人形たち、気に入ってくれた?」
玉髄はいまにも阿藍に飛びかかりそうだ。それを察して、一角が制す。
「何が目的だ? 何をしようとしている?」
夜光もまた、その瞳に怒りを宿らせている。
「……崩国の妖魅」
阿藍は頬杖をつき、こともなげにその言葉を口にする。
「あなたが封じたんでしょう? 妾は、それが欲しい」
「なぜだ!?」
「くく、くくく」
阿藍は肩を震わせる。
「なぜ? なぜって聞くの?」
笑った阿藍の顔には、まるで覇王のような自信が溢れている。心底、この状況を楽しんでいる。そう見えた。
「妾は不死に到達した。いずれすべての方士も貴族も、妾にひれ伏す」
不死――琥符を使い、死体をあたかも生者のように動かすこと。そのために、どれだけの生者が苦しむか。しかし、そんなことは彼女には関係ないのだろう。
「それでね……あなたの封じた崩国の妖魅も、不死だったのでしょう?」
阿藍は軽く身を反らし、玉座に座り直す。
「不死だったから、倒せなかった。友人の龍を使って押さえつけさせ、その血で作った最高の琥符でようやく封じることだけできた。そうでしょう?」
阿藍の言葉に、夜光の髪が揺れた。見開いていた瞳に、怒りが宿る。
「妾の使う妖魅に、相応しいと思わない?」
「……狂ってやがる」
「狂ってなんかないわ。妾はまともまとも」
そう、彼女の顔には自信はあっても狂気はない。心の底から、自分のやっていることを肯定している。だから状況を楽しみ、笑っていられる。
まともなままの狂人。だから彼女は、十年も宮廷琥師として勤めていられたのだ。
「馬鹿なことを! 阿藍、貴様、自分が何をしようとしてるか、わかってるのか?」
「ええ、よぉくわかってるわよ」
ニイ、と阿藍の目が細く歪む。
「あなたもわかってるんでしょう? 妾がそうするためには、あなたの命が必要だって」
「あいにくだが、私は殺されるつもりは微塵もない。そなたを捕え、公に引きずり出して罪を償わせる!」
「……崩国の妖魅にかけた琥符の術、解いてくれると嬉しいんだけど」
「断る!」
「でしょうね」
阿藍はスッと手を上げた。
突如、池の水が割れて水柱が上がった。飛沫が琥師らの視界を遮る。
「――!」
その中から、
「ぐあッ!」
夜光は弾き飛ばされ、壁に激突する。気を失って倒れる。
「キャアッ!」
遷は関髪入れず一角に向き直り、彼女を引っつかんで飛んだ。濡れた体から雫が飛び散る。
入ってきたときには気付かなかったが、壁の高い場所に足場があった。遷はそこに降り立つ。一角を左の小脇に抱えている。
「離して! 離してよぉ!」
一角はもがくが、遷の左腕はびくともしない。完全に抱えられて、足さえつかない状態だ。
「テメッ……一角を離せ!」
玉髄はまったく何もできなかった。夜光を助け起こし、遷に向かって怒鳴る。
『断る』
夜光は鎧で覆われた手先を、一角に向けた。指先は鋭い爪になっている。
一角が身をすくめる。
「夜光、玉髄。武器を捨てなさい」
阿藍は勝ち誇ったように要求する。
「その剣と、袖に隠した琥符を。ああ怖い怖い」
玉髄は剣帯ごと外す。夜光は両手を差し出す。金色の琥符が数枚乗っている。
「池の中に捨てるのよ」
「く……」
「玉髄君、言う通りにしよう」
夜光が両手を無造作に振った。ポチャポチャポチャ、と水が砕ける。玉髄も剣を放った。バシャ、と少し重い音が響いた。
「そう、いい子いい子。そして、跪いてくれると嬉しいんだけどな」
「ふ……ざけるな!」
玉髄は思わず声を荒げた。
しかし阿藍はまったく意に介さず、不敵に笑うばかりだ。
「跪くの。我が愛しきモノ」
阿藍がそう言った瞬間――玉髄は床に崩れ落ちた。
「玉髄君!?」
「うう、ぐうううううッ!」
膝をつく。額を床にこすり付け、うめき声を上げる。
衣の肩口が光っている。皮膚に喰い込んだ琥符が発光している。
「しまった、琥符か!」
「うおおおああ――ッ!」
玉髄は苦悶の叫びを上げ、床に突っ伏す。意識が曖昧になり、起き上がることもできない。
「阿藍、そなた!」
玉座から、阿藍が立った。傲岸不遜に笑い、両手を広げる。
「ようこそ、我が宮へ!」
水中から人妖が飛び出し、夜光に襲いかかった。
『起きろ』
顔に水をかけられて、玉髄は意識を取り戻した。気絶していたらしい。
一角と夜光は、池の上の石像に縛り付けられている。数人の人妖がその周りに控え、何もできないように見張っている。
「一角! 夜光殿! くそっ、離せ! 離せ!」
玉髄は上半身を裸にされ、台に乗せられて固定されていた。鎖で拘束されている。
「どう思う、青玉?」
阿藍が、獣の像に縛りつけた青玉に尋ねていた。青玉の口から、布は外されていた。
「三人に……手を出さないでください!」
「だから、さっき話したことをしてくれれば、許してあげるわ」
「遷に
遷を騎龍にする――とんでもない要求をしている。玉髄は叫んだ。
「青玉、俺に構うな! 龍を呼び出して――」
龍を呼び出して戦え――そう叫ぼうとした瞬間、彼の腹に遷が拳を入れた。息がつまり玉髄は言葉を失う。
「邪魔をするな」
「やめて! 手を出さないでと言ったでしょう!」
青玉は、龍を呼び出す呪文を封じられていた。仲間の命、という呪詛で。
「大人しくしないから悪いのよ」
阿藍は呆れたようにため息をつき、首をかしげた。
「それにそれに、資格ならあるわよ。……遷」
遷はうなずき、左手で右手首をつかむ。そして無造作にひねる。鎧に包まれた右手が、パキンと音を立てて外れた。
「な……っ」
玉髄は言葉をなくす。
遷の鎧の中には、あるはずの腕がなかった。鎧の中は空洞で、暗い空間がどこまでも続いているかのように見えた。
「……どういう術だ」
「可哀想でしょう? 遷のもとはいい素材だったのに、右腕と右脚がなかったの。だから、妾が新しいのをあげた。素敵素敵」
「右腕と右脚……?」
「おまけに前あった騎龍の力も失ってるから、青玉に頼むのよ」
阿藍は不敵な笑みを崩さない。
「力さえあれば、遷もそんな面に執着しなくていいの」
『そう、力さえあれば。某も……』
遷は腕をもとに戻し、面に手をかけた。ゆっくりと外す。異形の辟邪獣の下から、人間の顔が現れる。黒褐色の髪、整った容貌――そして漆黒の瞳には、墓場の火のごとき暗い光が宿っている。けれども人を蠱惑する魅力がそこにはあった。
水面に、遷の顔が映る。彼の顔は、玉髄に瓜二つだった。
「……!?」
玉髄は言葉を失った。
青玉が顔をしかめ、逸らす。
「父……さん……?」
玉髄は呆然とつぶやいた。漆黒の瞳が限界まで見開かれ、揺れる。
遷はまさしく、その人であった。
「そう、素材はね。ああ、記憶も結構残ってるのよ。だから、とっても上手くいったわ」
阿藍は遷から面を受け取る。
「王宮で妖魅を暴れさせれば、玉髄はしゃしゃり出て大怪我するだろうって」
玉髄は悟った。遷が騎龍の体術を駆使するのも、そして何より玉髄と同じ
すべては阿藍の
暴れた妖魅を押さえようとして、玉髄は腕を折った。
「父さん! どうして!? 父さんはこの国の英雄だって……!」
「某は遷だ。新たな腕と脚を頂き、我が思いのままに生きろと言われた」
遷はにべもなく突き放した。
「だが、足らない。いまのままでは足らないのだ。某は欠けている。某には魂がない」
彼の眼底にもまた、狂気がある。
阿藍は玉座を立つと、遷にまとわりつく。
「可哀想な遷。もう大丈夫、あなたの魂を分けたものはここにある」
言いながら阿藍が取り出したのは、黄金色の玉龍だった。
「騎龍になった者は、龍と魂を共有するという。ならば前のあなたが使っていたこれに、あなたの魂はある」
玉龍を龍師から与えられることで、人は騎龍となる。
その龍師は、いま彼女らの手の内にいる。
「だから、青玉。彼を騎龍に戻してあげて」
「約束、してください。三人を返してあげて」
「ええ。あなたが約束を果たしたら、ね」
「青玉、やめろ!」
玉髄の制止を、青玉は聞かなかった。
「玉龍を、前に出して……」
青い髪が、霊気によって揺れ始める。
「金なる龍、彼の者の龍となれ!」
青玉の体から、霊気が渦となって放出される。
黄金の玉龍が宙に浮いた。遷の胸に向かって放たれる。
「おお、おお……!」
遷が初めて興奮した声を上げた。
胸についた傷に、玉龍が貼りつく。遷の全身を、金色の霊気が包み込む。山吹に似た黄金の霊気が集約し、蛇体をなす。遷の瞳に、赤味を帯びた金色が宿る。同じ色の光鱗が、彼の喉に刻まれる。
金龍が現出した。池に飛び込み、水の中を周回して頭を水面からもたげる。
「ああ……某の龍!」
遷は喜びにうち震えている。
一方、青玉はぐったりと頭を垂れた。
「三人を解放してください」
「まあ、待ちなさい。ほら、遷!」
遷はやや興が削がれたようだったが、それでも阿藍に従う。玉髄が拘束された台に近付く。人妖たちが寄ってきて、玉髄の口を無理やり開かせた。
「うがっ!?」
噛みついてやろうと顎に力を込めた。人妖がそれ以上の力で押さえつけてくる。
遷が無造作に玉髄の口に手を突っ込んだ。ボキン、と歯の折れる音がした。
「!」
玉髄の口の中に、血の味があふれる。左上の犬歯を折られていた。
「何をするのですか!? 三人には手を出さないと!」
「知ってる? あなたみたいに頑強な仙人は、翡翠か眷族の牙でないと傷つかないの」
青玉の言葉など聞こえていないように、阿藍は笑った。
「遷」
遷がうなずいた。青玉が拘束された石像の真ん前に立つ。池の中から金龍が首をもたげ、そのうしろに控える。
遷が牙を空中に放り上げた。金龍の周囲に、霊気が渦巻き始める。
「撃て!」
遷の声に合わせて、金龍が彈を放った。針のように集約された力が、空中に浮いていた牙に当たる。もろともに青玉の額に撃ち込まれる。
「――!」
青い瞳が見開かれる。長く豊かな髪が逆立った。白い体がのけぞる。
「ア……」
青玉の瞳から光が失われた。全身から一気に力が抜ける。髪も垂れ下がる。
「これでよし。これでもう、逃げられることはない」
最初から、そのつもりだったのだ。阿藍は四人を逃がす気など微塵もない。
「次はあなた」
阿藍の目は、すでに玉髄らを人とは見ていない。自分の望みを叶えるための、ただの素材と見なしている。
「琥符を作るの。あなたの血で」
人妖たちが、手に手に刃物を持っている。アリのように、玉髄の周囲に群がる。
「うわあああああアア――ッ!」
胸に突き刺さる刃物の感触。喉を逆流する血が、気管に入って息が詰まる。
流れ出た血は、集められて玉の箱に注がれる。人の頭部ほどもある、四角い箱だ。
その箱が満たされるまで、玉髄は身を切り刻まれ続けた。
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