第18話 白石蒼苔 二
西側には、やや開けた場所がある。人の気配がした。
玉髄たちは木々に紛れ、様子をうかがう。
「な……」
玉髄は絶句した。
開けた場所には、質素な家屋がいくつも見える。そこにいるのは、どれも方士のようだった。皆でわいわい酒盛りなどに興じている。あちらでは木簡を広げ、あちらでは碁に興じている。まるで宿場町のようでもあった。
「あそこが、
「いや、修行する方士たちが集まって、自然とできた集落に見える」
阿藍は数多くの妖魅を従えている。それを隠すだけの余裕は見当たらない。
「阿藍の術は、
その妖魅らの気配がない。
「俺が確かめましょうか?」
「できるか? 無理はするな」
「ええ」
玉髄は斜面を下り、藪の中から集落の端に飛び出した。――まるで、山中を歩いていた旅人が、足を踏み外して滑り落ちたと言わんばかりに。髪を留めていた簪を取り、わざとらしく
「いてて……」
わざとらしく尻餅をつき、体についた草を払う。
「まあ、どうかされましたか?」
一番近くにいた女が、玉髄のもとに近寄る。どうやら玉髄の正体はバレていない。
「山道に迷ってしまって……ここが見えたと気が緩んだら、足を踏み外してしまいました」
「まあ、それは……。お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫そうです」
玉髄は苦笑して見せた。彼自身、嫌というほど自覚している女の心をざわつかせる笑みだ。
その女もまた、クスクスと笑う。嫌みのない笑顔だった。どうやら、玉髄の正体には気付いていない。阿藍の仲間ではないのだろう。
「ここは、いったいどういう場所ですか? 普通の村とも思えませんが……」
「我らは方士の集まりです。修行のために、共同生活を営んでいます」
「へえ……」
「こちらにいらっしゃって」
女は玉髄を伴い、集落の奥へと案内する。
奥へ行くほど、真面目そうな方士たちが目に入る。誰も彼も目を閉じ、瞑想している。
集落の奥は、行き止まりだった。白い岩の絶壁が、高く高くそびえている。かなりの高さまでその壁は続き、上はもやがかかってよく見えない。
「ここで修行していると、時折、紫雲とともに虹の橋が下りてきます」
「虹の橋?」
「はい。選ばれた方士だけが、その橋に乗って、この崖の上まで行くことができます。そうして天に昇り、仙人になれると言われています」
昇天によって、ただの人から仙人に変わる。方士が夢見る到達点だ。そのための場所がここにあるというのだろうか。
「崖の上には、何がある?」
「さあ……私も、いまだ行ったことはありません。昇天された方だけが、見ることができます」
「昇天した者は、ここに帰ってきたか?」
「ほほ、天に昇られたのだから、地上には戻ってこられませんよ」
女が笑った。
「さあ、戻りましょう。今日はここでお休みになっていけば、よろしゅうございますわ」
また、集落の方へ戻る。誰も玉髄らを不審に思っていないようだ。どこからも殺気を感じないし、不穏な空気も感じない。
(ハズレ、か?)
「こちらへ」
女は、軒下に置かれた卓に、玉髄を誘った。
「おお、どちらの方士殿かな?」
白髪白鬚、典型的な隠者の姿をした老人が座っている。
「ええと、俺は……」
「道に迷われた方のようですわ」
「そうか、それは難儀なことじゃったな」
玉髄は、髪をまとめ直す。
「よい簪をしておられますな」
「そうですか?」
「上等な翡翠の簪ですわね。翡翠は
女が薬湯らしき湯気の立つ杯を差し出した。
その時、女の顔が一瞬だけ伏せられる。それを見て――玉髄はハッと気がついた。
(この女……どこかで会ったか?)
既視感がある。
(
ここへ来るまでに寄った村。そこで見た少女に、よく似ている。
(……どういうことだ?)
玉髄は
「ん……?」
玉髄は動揺した。
(どうして視えない?)
玉髄は周囲の気を視ようとした。けれどもできない。彼らを包むであろう気が、視えない。
(俺が気を視ることができないのは……)
玉髄が視る「気」というのは、生物の生気だ。当然ながら、生きていない者の気は見えない。
(俺は、俺は――)
玉髄は固まっていた。
「どうされました?」
女が顔を上げる。
あたりがシンと静まり返っている。先ほどまで、あんなににぎやかだったのに。その場の全員が、玉髄を見ている。氷のように冷たく、光のない目を見開いて。
ぞく――と玉髄の背中を、氷の滝が滑り落ちる。悪寒だけではない。嫌悪と困惑を含む焦燥感。冷や汗がにじむ。
「これをお飲みになったら、阿藍尊師にお会いなさいませ」
女の目の奥にあるのは腐った眼底。
「ようこそ――
玉髄は剣を抜いた。ためらいなく女の首を狙う。細い首が飛ぶ。しかし血が出ない。
(やはり人妖か!)
方士たちが襲いかかってきた。ある者は素手で、ある者は杖で。
「ハッ!」
突っ込んできた相手を横に躱して、うしろ回し蹴り。右の踵が男の顔面に入る。鼻が潰れて歯が飛び散る。間髪入れず体の回転を利用して、左の拳を別の者に入れる。下ろした足を踏ん張り、先とは逆の方向に回る。右手の剣が攻撃を弾き返す。
「うおおおおッ!」
玉髄の口に鋭い牙がのぞく。殴り飛ばし、蹴り落とし、そこらの椅子やら幡やらを振り回す。
(いける!)
玉髄の心のどこかが、冷静につぶやいた。
腕力も脚力も視力も格段に上がっている。一対多数で戦っているいま、それが如実にわかる。
何より確信が違う。絶対に躱す。絶対に当たる。絶対に次はこう来る。絶対にこうやってやる。絶対に勝つ。――闘争本能が、彼の体の芯を突き動かす。
「うおおおおおおッ!」
最後の者を殴り飛ばす。息が上がっていた。
「玉髄君!」
「玉髄!」
「夜光殿、一角! こいつら、人じゃなかった」
「ああ……」
駆けつけた夜光が、倒れ伏した方士のそばにしゃがむ。
「玉髄君、剣を貸してくれ」
「はい」
夜光は方士に向かって拱手すると、その腕に剣を突き立てた。皮膚を切り開き、その肉を調べる。
「土を
ボロボロと、黒茶色のカスのようなものが、切り口からこぼれる。
「
一角が方士の胸元を示した。黄金色の琥符が、皮膚にめり込んでいる。
集落で楽しげに会話していた方士たち。彼らはすべて、人の手で生み出された偽物だった。楽しげに会話していたのも、遊んでいたのも、修行していたのも、すべて作り事だった。
吐き気を催しそうな邪悪が、ここにある。
「……玉髄君」
夜光が剣をぬぐい、玉髄に返す。
「これから、さらにおぞましいものを見るかもしれない。ここで、
「夜光殿」
玉髄は剣を鞘に納める。動かなくなった方士を見下ろして、眉を寄せた。
「阿藍は、不老不死を目指していたと言っていましたね」
「ああ」
「これが、阿藍の到達した不老不死なのではないでしょうか?」
あまりにおぞましい方法だ。死体をあさり、土を詰め、琥符を打って偽物の命とする。
「満足して死んでいった者、悔いを残して死んだ者、いろいろいると思います。でも、こんな茶番に付き合わされる筋合いは、どこにもない」
怒りと悲しみが、心臓に流れ込んで留まり、沈んでいくようだ。
「阿藍を捕まえて、術を解かせます。青玉も、父さんも、取り戻す」
「……わかった。そなたがそこまで言うなら。私も、彼女を許せない」
「お師匠様……」
「一角も来るな?」
「もちろんです!」
ワアッと人の声がした。三人は反射的に身構える。
「祖母様……?」
取り巻き連中をかき分けて、青河が前に出る。玉髄の姿を認めると同時に怒鳴った。
「玉髄、あれほど手を出すなと言ったじゃないか!」
「黙りなさい!」
玉髄は、真っ向から怒鳴り返した。
「これでもまだここの連中がマトモだと言い張りますか!」
玉髄は、足元に転がっていた首を取った。最初に首を刎ねた、女のものだ。無造作に突き出す。
「な……ッ」
青河たちが絶句した。
女の首が笑っている。死に顔がそうなのではない。「くきゃくきゃ」と壊れた声を上げて笑っている。やがて女は白目を剥いて黙った。だらりと舌が垂れ下がる。
「何だい……これ……!?」
「これが、この山にいる方士の正体。領地内の墓場から盗んだ死体を、人形に造り直したもの。紛い物の生者だ!」
「そんな馬鹿な……!」
「もちろん、よその墓をあさる気力がある連中だ。最も近い場所の墓も……わかりますね?」
「――!」
青河が目を見開く。
「ここは死者の巣です。生きてちゃおかしい連中が、狂った琥師の意で巣を作った!」
倒れ伏す、方士たちの亡骸。どれもこれも、本当は方士などではない。琥符の力によってそれを演じさせられていた、哀れな死者たちだ。
「俺はこれからこの山の上に行きます。この上にいる琥師と戦います。大切な友人が、助けを待ってるんです!」
「だ、だけど、玉髄。お前は……」
「黙れ!」
玉髄から敬語が消えた。キレている。漆黒の瞳は、憤怒が沸騰して狂気の湯気で曇っている。妖魅でさえ、これほど恐ろしい目はしないだろう。
「ここからは常人の出る場所じゃない。老将軍、常軍を率いて山を下りよ」
「あんた、誰に向かって……!」
「俺が上だ。俺が一族の当主で、一族に命令する者だ」
一角たちも初めて見た。
玉髄は見た目はさりげなくしていても、本当は腹に据えかねている。
「だから命ずる。虹青河、領地の異常を速やかに把握し、それを鎮める手立てを考えろ。場合によっちゃ、王家に詫びを入れて王国軍でも寄越してもらえ」
阿藍への怒りだけではない。不甲斐ない自分への怒り、自分を役立たずにしようとする身内への怒り、そんなものが入り混じっている。
「もし拒否すれば、俺は虹家当主としてあんたを斬らなきゃいけない。じゃなきゃ、王家より賜った土地をみすみす穢された罪を贖えない。祖霊にも申し訳が立たない。父さんの名誉も地に落ちる」
父さん――
「わかりましたね?」
玉髄は迫った。青河は黙り込んでいる。言葉に詰まり、明らかに困惑している。それが明らかにわかるあたり――玉髄によく似ている。
そのとき、あたりに黄金の光が満ちた。
「何だ?」
「紫雲が……?」
光とともに、崖の上から雲が下りてくる。まるで霧のように草木を隠し、家屋の中まで満たす。倒れた方士たちの亡骸も、かすむ。
「――来る!」
「あっ、玉髄!」
玉髄は怒りを放棄し、踵を返して走り出した。絶壁の前に急ぐ。虹の橋が迎えに来ると言う、聖なる壁の前に。
(紫色の雲、黄金の光――)
紫雲で視界が霞む。玉髄はカッと目を見開いた。
虹が落ちてくる。断崖絶壁の上から、まるで橋を架けるように。その先端が玉髄の真上に伸び、影を落とした。
(まやかしだ!)
玉髄は飛んだ。三日月のように体を伸ばし、一回転する。虹の頭が地面に落ち、その上に玉髄は降り立った。重い音が響き、大地に虹が突き立つ。
「蛇か!」
虹だと思われたのは、大蛇だった。長さも太さも、常識を遙かに超えている。
玉髄はひるまず、その蛇の体を駆け上がる。湾曲した丸太状の蛇体は、最悪の足場と言わざるをえない。しかし騎龍の力が、体の均衡を保ってくれているのがわかった。
「玉髄!」
うしろから、一角もまた駆け上がってくる。彼女は白毛の豹に似た獣に乗っていた。尾が三本、風に揺れる。鋭い爪が蛇の鱗に喰い込み、難なく昇る。
「あたしたちも行く!」
「一角、その獣は!?」
『私だ。このまま行くぞ!』
豹の口から、夜光の声がした。妖魅を憑依させる術――彼独自の、琥符の使い方だ。
「はっ!」
ついに崖の上に到達した。平らな地面が出迎える。蛇の体から飛び降り、玉髄は顔を上げた。夜光は術を解き、背に乗っていた一角を降ろす。
三人の目に入ってきたのは、真っ白な塞だった。
「
玉髄はそうつぶやいた。
しかしその前庭は地獄だった。いたる所に白骨が積み重なっている。
「……なるほど。普通の方士がここに迷い込んだとしても、ここで殺されて」
「人形にさせられるわけですね、お師匠様」
玉髄は半ば呆れつつ、嫌悪感も覚えた。怒りも嫌悪感も限界に近い。すぐにでも殴り込みたい気分だ。
大蛇の尾がピクピクと動いている。頭が下でめり込んだままなのだろうか。
「……下の祖母さまたちに、こいつの相手ができるのかね?」
ただのでかい蛇なら、倒せないこともないだろう。だが、それ以外の力を持っているならば厄介だ。
「玉髄、あれ!」
一角が、玻璃の城を指差した。
玻璃の城の上を、大きな鳥が旋回する。遷が乗っていた一本足のフクロウだ。
「間違いない、か」
フクロウは羽音を立てて、玻璃の城に降り立つ。人間じみた顔がこちらを見て、まるで嘲笑うかのように歪んだ。背には何も乗せていない。見張りといったところだろうか。
「お師匠様、どうします?」
「おそらく、ただでは通してもらえないだろうな」
その時、玉髄の頭の中に素晴らしい考えが閃いた。否、素晴らしいかどうかはわからないが、すくなくとも彼の欝憤をいくばくか晴らす考えだった。
玉髄は大蛇の尾をつかむと、足を踏ん張った。
「フン!」
筋肉が一挙に盛り上がる。そのまま蛇の尾を引っ張る。
「玉髄、何をするつもり!?」
「二人とも、端に避けていて!」
ガリガリガリガリと岩を削る音がして、大蛇が引きずり上げられた。腹を削られながらも、大蛇は口を開けて玉髄に襲いかかる。
「フッ!」
蛇の牙が迫ると同時に、玉髄は大きく息を吸って、唾液を噴きかけた。自分の牙で口の中を傷つけ、そうして出した血が混じった唾液だ。血混じりの唾液は霧のように蛇の目を襲う。
「シャ――――ッ!?」
バケモノを退ける辟邪の血。その血を浴びて、大蛇は悶絶した。
「うおおおおおおおおおッ!」
その悶絶も押さえ込み、玉髄は全身に力を込めた。尾を持ち上げ、思い切りぶん回す。虹色の円が描かれる。存分に勢いをつけたのち、玉髄は大蛇を玻璃の塞に向かってブン投げた。
蛇体は綺麗に弧を描く。
「喰らいやがれ――ッ!」
フクロウは慌てて翼を開いたが、遅かった。大蛇が激突する。二匹の妖魅は、ともに塞から滑落し、動かなくなった。
宣戦布告。
そう呼ぶには十分すぎる。
「玉髄、やるぅ……」
「これでも足らねえ」
玉髄は、玻璃の城にまっすぐ対した。
「王国軍紅龍隊・辟邪にして虹家当主、虹玉髄! 悪しき琥師・阿藍をここに討滅せん!」
朗々と名乗りを上げる。
夜光が苦笑した。一歩前に出て、フッと真顔に戻る。
「峰国宮廷琥師、九陽門主・夜光! 阿藍よ、そなたに琥師たる資格はなし!」
張り上げた声は、玻璃の城に反射する。
一角も、キッと表情を引き締める。
「同じく九陽門下、一角娘! 琥符を私利私欲に使う琥師は許しません!」
二人の琥師もまた、覚悟を決めたようだ。
「ここまで来たら、小細工も無駄だ」
夜光がそう言った瞬間――玻璃の
「向こうも、わかっているようだ」
「行こう、玉髄!」
三人は、しっかり大地を踏みしめ、そして白く輝く塞へと入っていった。
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