第二章 如夢如仙
第6話 如夢如仙 一
五日後――今日は、建国節の大詰めである。
王都郊外では、夜通し地の
「やーれやれ、見事に誰もいなくなったな」
静まり返った屋敷の中で、
今日の祭は、王都で暮らす誰もが楽しみにしている。玉髄は体も落ち着いたので、「遠慮することはない」と家人たちに外出を許した。そうしたら、ほとんど誰もいなくなった。
なぁに、一日二日くらい侍女や下男たちがいなくても何とかなるだろう。
「若様、腕は大丈夫ですか?」
「
女茄というのは、
「お前は行かないのか?」
「はい。若様の腕のこともありますし」
「そうか、助かる」
玉髄は、吊ったままの右腕を左手で撫でた。三ヶ月はこうしていろ、と医者方士に強く言われた。不便で仕方ないし、何より仕事も鍛錬もできやしない。国王を守った名誉の負傷だが、損害は大きい。
「何をなさいますか? 本でもお取りいたしましょうか?」
「いや、
「ええっ、その腕でですか? 治られてからでも……」
「左腕は動くんだから、大丈夫。拭き掃除ならできるよ。そう念入りにはしないって」
虹家の屋敷には、改めて塀で区切られている一角がある。外からはもちろんのこと、屋敷の中からも塀の内をのぞくのは容易ではない。
そこは、虹家の廟堂だ。廟とは先祖の
ただ虹家の廟堂は特別で、ただのがらんとした一室でしかない。正月や先祖の命日に一族が集まったり、一族で決めねばならないことを話し合うための場所である。
では――御霊はどこに祭られているのか?
廟堂の奥、当主の座のうしろに小さな出入り口がある。その奥に、中庭を挟んで本当の廟がある。そこに先祖の魂を祭っている。そしてそこに入れるのは、代々の当主のみ。しきたりで、そう決まっていた。
玉髄は、さっそく廟堂に向かった。
「よっと……」
廟堂奥の扉を開ける。身をかがめて、腕をかばいながら中庭に出る。
「はい、お道具です。落とさないでくださいね」
「ありがとう」
廟堂の中から、女茄が桶を差し出す。桶の中には、掃除に必要なものがまとめられている。
「どうしましょう、お花の水も持ってきましょうか?」
「ああ。先にそうしようか」
玉髄は、中庭を見渡した。
(ほかの庭は、下人に任せればいいんだけどなぁ)
当主しか入れないのだから、供え物も掃除も花の手入れも、すべて当主の仕事だ。
「若様、お花のお水です」
「ありがとう、すこし待っていてくれ」
花に水をやり、玉髄はいよいよ廟の扉を開けた。中に掃除道具を入れ、また女茄のもとへ戻る。女茄は手持ちの灯火を玉髄に差し出した。
「はい、灯火です。気をつけてくださいね」
「ん、ありがとう」
灯火を受け取った。小さな火が揺れる。そして、また廟へ戻った。
廟の中は、扉を閉めると途端に暗くなった。昼間でも薄暗い。玉髄は、手元の灯火を、すえつけの灯台に移した。これで、すこしは明るくなる。
廟の床は石畳、そこに当主が座す場所がある。一番奥、一段上がったところに祭壇がある。祭壇にはそれをすっぽり覆う幡がかけられ、何が祭られているのか容易にはわからない。
祭壇の両隣には、霊峰を模した大きな香炉が置かれている。花を飾る瓶もだ。そしてその脇に台がひとつある。玉髄はその台に、面を戻した。いつもはここに置いてある。
「えーと、香、香……っと」
祭壇の横に置かれた香炉で、練香を焚く。さまざまな香木のほかに、
女たちの香では窒息しそうになったが、これは落ち着く。慣れた香りだからだろうか。
玉髄は腕をかばいつつ、当主の座に跪き平伏した。祭る祖霊、そして神への挨拶を済ませる。
「失礼いたします」
立ち上がり、また一礼して祭壇の
祭壇の上にあったのは、黒い棺だった。黒地に、朱色で霊草の文様が描かれている。それは見事だが、棺というには底が浅いだろうか。
そして何より特異と言うべきは――棺の蓋の上に、
玉衣とは、死者に着せる特別な装飾着だ。玉を板状に削り出し、それを金や銀の糸で綴る。そして顔も胴も指先も足先も覆う、一着の衣に仕立てる。できあがった形状は、衣というより鎧に似ている。それを着せられた死者は、まるで兵士のようにも見える。
「今日は軽くしか掃除できないけど、勘弁な」
玉髄は友に呼びかけるようにそう言うと、玉衣の表面を乾拭きし始めた。玉同士を綴る銀糸のあたりは、埃が絡まないように慎重に。
玉衣は本来、高貴な人間の死装束だ。玉には邪を祓う力があり、その衣を着ていれば亡骸が悪霊に狙われることもない。死後を心配する人間のために、手間をかけて作る。そして墓の奥に収められ、人目につくことはない。しかし――。
「あれ、ご機嫌ななめ?」
玉髄はまるで子供か恋人に呼びかけるように、玉衣に語りかけた。その全身を磨きながら、頭頂部のあたりに顔を寄せる。
玉衣の頭頂部には、翡翠色の
香の匂いが廟に満ちる。するとその璧の孔から、香の煙とは違う、透き通った青い霊気が流れ出してきた。
「ああ、よかった」
玉髄がほっと胸を撫で下ろした。
霊気がわだかまる。霞のような青色が固まって、床の上に座す。
「
玉衣から流れ出る霊気が形をなし、小柄な少女の姿に変わっていた。
玉髄と彼女の付き合いは、もう三年になる。
父・
そのため、玉髄は十五歳で当主となり、廟の手入れが義務となった。しかし当時の彼には、それが最高に面倒な仕事だった。ぞんざいに玉衣を扱う日が何度もあった。放置することもしばしばだった。
そしてある日、廟に入り玉衣を拭ったとき、玉衣の翡翠で指を切ってしまった。流れた血は玉衣のすきまを伝い、中に染み込んでいった。まったくの偶然だった。
気がつくと、廟の端に霞のような者が座っていた。
輪郭も表情も判然としなかったが、体の細くまろやかな形から少女だとわかった。
驚く玉髄に、少女は
玉髄はその面の力を悟り、武官として生きることを決意した。ただの武官ではない。
そして三年の月日が過ぎ、玉髄は劇的に変わった。
人前で愚痴を零さない。涙を見せない。当主である悩み、武官である悩みを打ち明けない。自己の力を驕ることもない。まるで鋼か巌のように、強く、悟った風な振る舞いで世を渡る。世間の人には、玉髄の振る舞いが健気で謙虚に見えたらしい。宮中で彼を褒める声が、ちらついた。
――そう、表向きは。
「ああ、この腕? 聞いてくれよ、王宮で宴があったんだが……」
玉髄は、少女に向かって愚痴を零し始めた。
玉髄は愚痴も悩みも自慢も、彼女に与えていた。そうすることで心に平穏を得ている。誰にも言えない悩みも、見せられない弱みも、すべて彼女に吐き出していた。
少女はただ微笑んで、それを聞いてくれる。
「
玉髄は前髪をかきあげた。青玉が首をかしげる。彼女は言葉を話さない。うなずいたり、首を振ったり――仕草だけで玉髄に答える。玉髄もまた、その仕草で彼女の言わんとするところを悟れるようになっていた。
「まあ、君とは一緒にいられるけど。夏の魚とか、欲しいだろう?」
青玉が嬉しそうに微笑んだ。
香を焚き、供物を捧げれば捧げるほど、彼女の形ははっきりとしたものになる。だから玉髄は、高価な香を惜しみなく使う。季節の花を食べ物を彼女に備える。
すべては、彼女の表情を、見たいから。
「で、さ。将軍にからかわれてさ。困ったよ。でもまあ、女官たちは好きじゃないけどね」
青玉が首をかしげた。
「ん? ああ、何というか、俺自身が好きなわけじゃないんだ、彼女らは」
玉髄は彼女の疑問に答える。
「それに、俺は――」
玉髄は言葉を切り、じっと青玉を見つめた。青玉はその視線に気づいて、首をかしげる。
「い、いや何でもない」
玉髄は目を逸らした。暗くてよく分からないが、若干頬が赤くなっているかもしれない。
玉髄は、青玉に惹かれていた。玉衣に包まれ、霊体でしか現れないこの少女が好きだった。
(ずっとそばにいてくれた。俺に力をくれた)
二人きりで会い続けた日々は、玉髄にとってかけがえのない価値を帯びている。
「青玉」という名前をつけたのも、玉髄だった。
「早く、目覚めた君に会ってみたい。君の声が……聞いてみたい」
青玉は困ったように笑う。「もうしばらく時間がいる」と彼女の視線が語る。
「あ、いいんだ。すぐでなくて。ゆっくりでいい。君の体と魂が治るまで」
青玉は肉体にひどい損傷を負い、玉仙に助けられて、ここで眠っているらしい。
けれども傷が癒え、動けるようになったとき、彼女は甦る。玉髄はそう信じていた。
「楽しみにしてるよ、その日を」
青玉がうなずいた。
「じゃ、そろそろ行くよ」
玉髄が立ち上がると、青玉もそれに倣った。すう、と彼女の美しい肢体が散じて霧状になる。そのまま、玉衣の頭頂部に吸い込まれていった。
霧が完全に消えたのを確認して、玉髄は玉衣を幡で覆い直した。
また神と祖霊への礼をして、玉髄は廟をあとにした。
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