第十四話 『走り去る』 (run away)

 通学中のバスの窓から観える風景はいつもと変わらなかった。もうすぐ学校前に着く頃合い、学校のある陸地までのひたすら長い一本道に差し掛かったところだ。観えるものはひたすら海、海、海。海をじっと観ているだけでは、この不安な気持ちはまったく収まらなかった。


 走るバスの振動音を聞きながら、美霧が何をするつもりなのかをずっと考えていた。考えたところで、何も思いつく事なんか無い。バスが学校に近づくに連れて、不安がむくむくと増大して全身を覆っていくのを感じていた。

 隣には、黒のタンクトップに黒のジャケット、デニムのショートパンツを履いたニーナが静かに、背筋をぴんっと伸ばして座っている。制服はもうとうにヤマゲンに返していたのだ。美霧とは、バス停で会うことになっているらしいので、制服を着る必要はないのだ。

 

 ニーナは、その碧い瞳はまっすぐ前を見つめていた。しかし、何かを観ているという風ではなく、彼女も何かをずっと考えこんでいる様子だった。ニーナは、あの後、電話の件については何も話さなかった。いつもどおり、起こしに来て、何も言わず朝食を取り、家を出るときに一緒に付いてきた。ニーナなりに、美霧会ってどうするのかをシミュレーションしているのかもしれない。


 結局、何も思いつくこと無く、美霧と会ったときにどうするかも決まらないままに、バスは学校前の停留所に到着した。

 学校前のバス停留所は、学校の校門からは少し離れた場所にある。正確には、バス停留所は学校の脇を通っている通り沿いにある。バス停がある場所から先に20メートルほど歩いた辺から、左方向に正門へ続く道が100mほど伸びている。

 バスを降りると、幅10mほどの歩道の先に美霧とヤマゲンが立っていた。彼女らは、こちらに近づいてきた。

 

「やあやあ、昨日ぶり~」


 脳天気なヤマゲンが手を振りながら走り寄ってきた。


「おぅ」


 適当に返事を返す。今はヤマゲンの相手をする余裕は自分には無かった。美霧の方へと眼をやると、彼女はゆっくりとこちらに歩みを進めて来た。

 ヤマゲンは、今の事を、ニーナがここに来た事を美霧にどう聞いているのだろうか? まあ、ニーナが学校に来るから迎えに行きましょうっていうぐらいか。恐らくそうだろう。ヤマゲンの事だから何も考えずに、そうかと思っただけだろう。


 チラッとニーナを観ると、その碧い瞳は鋭く美霧を睨んでいた。臨戦体制だなこりゃ。自分も余裕が無いが、ニーナも余裕が無さそうだった。


「いえーい」


 ニーナに飛びつくヤマゲン。なんだかヤマゲンが独りだけ浮いている感じがする。おそらくまったく事情を知らないのはヤマゲンだけなんだろうな。それはそれで不憫な気もするが、構っている場合ではない。


 ニーナが苦笑しながらヤマゲンのノリに付き合っている。そこだけ観れば微笑ましい光景なんだけどなあ。出来れば何事も無く、このまま終わって欲しかったが、それじゃ此処に来た意味が無いのだろう。どういう事になるのか検討もつかないが、何事かが起きるのは確かなのだ。


 美霧がようやくそばまでやって来た。随分と時間を掛けたものだ。ニーナを警戒しての事だと思うが、もしかしたら彼女もいろいろと思いを巡らして躊躇しているのかも知れない。


「ニーナさん」


「うん。わかってる」


 美霧とニーナはそれだけ言うと頷きあった。昨日の夜の電話で話してあったのだろう。そのたった一言だけで二人は理解したのだ。

 やはり、ヤマゲンの記憶を元に戻すのか? でもその後、どうなる? そもそもヤマゲンはニーナを認めなかったからこういうことになったんだろ? 今でもヤマゲンはニーナを認めないだろうか? それ以前にニーナのやった事を許すだろうか?


 美霧の方を観ると、ニーナから少し離れた位置をキープしていた。会話をするには不自然なぐらい離れている。かなりニーナを警戒してるんだろうなあ。よく視ると彼女の握りしめた手は微かに震えていた。

 怖がってるのか? 何を怖がってる? ニーナの何を怖がってる? 自分はそんなにニーナを怖いと実感した事が無い。しかしそれは、そもそも正しい感覚なのかどうか? ニーナを疑い出すと切りが無い。そしてそんな風に考えたくなかった。


 ニーナはその掌をヤマゲンの額にあてた。


「お? なになに? オレ熱無いよー?」


 ヤマゲンはそれだけ言うと、動かなくなった。それはまるで彼女だけ時間が止まった様な感じに見えた。


 数十秒ほど経っただろうか? 体感覚的には、そのぐらいに感じた。実際にはほんの数秒だったのかも知れないが、ヤマゲンが眼をぱちくりしたと思うと、ふぅーっと息を吐いた。ニーナに何事か話そうとした素振りを見せたが、それをニーナの言葉が制した。


「ごめんなさい。山依さん」


 ニーナは静かにつぶやきながら手を離すと、俯き、そして走り去った。


 呆気にとられた。


 何が起きたのかさっぱりだ。走る去るニーナの後ろ姿を眼で追いかけながら、今視た事象を理解しようとして立ち竦む。


「やまねこ! ニーナを追いかけて!」


 ヤマゲンの悲痛な声に我に返り、慌ててニーナの背を追いかける。幸いニーナが走り去っていった方向は、バスで来た道。つまり、陸地へ向かう一本道だ。横道が無い為、隠れられたり見失ったりする事はない。

 ったくぅ、こんな朝から全力疾走とかありえねえよ。


「はぁはぁ・・・」


 息が上がる。肺と心臓が痛い。


 そういえば、運動なんて体育の授業ぐらいしかしてないから、すぐに息が苦しくなりやがる。運動系のクラブ活動でもしてりゃあもちっとはマシだったろうになあっと少し後悔。まあ、こんな事になるなんて想像出来なかったらしょうが無いんだけどな。


 ニーナとの距離は中々縮まらない。一応こっちの方が早いので徐々に追いついているんだが。しかし、ニーナのやつ、足はえええよ。こんなに早かったのか。知らなかった。


 ぜぃぜぃ


 こっちのスタミナが切れるのが早そうだ。やべええ、逃げられるかも? 足の裏も痛えし、畜生め。


 ぜぃぜぃ


 はっはっ


 ぜぃぜぃ


 はっはっ


 ん?誰かの息を吐く音に気がついて、音のする方を見ると、ヤマゲンが走って近づいて来ていた。


「こらあああ、やまねこぉぉぉはぁはぁ・・・遅いぃぃ遅いぞぉはぁふぅ・・・」


 ヤマゲンのやつ。あいつもニーナを追いかけに来たのか。友達思いのいいやつだな。


 ん? 友達?


 あいつ、記憶元に戻ったんじゃないのか?


 ニーナもペースが落ちたようで、差がまた縮まってきた。どうやら追いつけそうだ。さすがにもう足がガクガクしてきたよ。


 タッタッターっとヤマゲンの走る音が近づいて来る。くっそ、ヤマゲンに追いつかれてしまった。こいつ体力有りやがるなあ。


「なんで ぜぃ おまえ ぜぃぜぃ まで ふぅ 来たんだよ はぁはぁ」


「んっとね。さっき、手のひらから、ニーナの声が、聞こえたんだ」


「はぁ? 手を繋がなくても 聞こえるのか?」


「うん。聞こえた。たぶんあれは、伝えようとしたんじゃなくて伝わっちゃったものだわ」


「伝わっちゃった もの?」

 

「うん。言葉とか思考とかじゃなくて、こころみたいな感じ。いっぱい謝ってた」


 そっか、ニーナなりに罪悪感、感じてたんだな。やっぱり。


「なあ? いったい何がどう・・・」

 

「やまねこ! 走れえ!」


 ヤマゲンが悲壮感溢れる声で吠えた。なんなんだ、こいつ。いったいどうしたんだ?


「ニーナ、たぶんわたしたちの前から消えるつもりだよ」

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