第5話 変化と転機

伊織はおぼつかない足取りのまま家へとたどり着いた。


司とミカエルと名乗る謎の天使が忽然と伊織の前から消えたのは、もう三十分以上前のことだ。


やっとのことで、家に帰ることを決意した伊織はススキを踏み倒しながら足を進めたのだった。


無事、条善寺の家の前まで来て、伊織は少し安堵した。いつも通りの家だ。

今までの出来事は全部夢で、明日からまたいつも通りの日常が始まる。そんな気さえしていた。


だが、ここからが問題だ。


「さて…どうやって中に入ろうか」


条善寺家の門はしっかりと閉ざされている。中に入るには、呼び鈴を押すしかないのだろう。

すると、たちまち伊織は中へ連れ込まれまるで鬼のような形相の両親の前に引きずり出される。今の伊織には、それはあまりにも過酷だった。


「伊織様…!」


扉の前で立ち尽くしている伊織に声がかかった。


「寺坂!」


伊織の幼い頃から専属の執事である寺坂は、屋敷の塀の陰から伊織を手招きしていた。


「寺坂!どうして…」


「話は後にございます。こちらへ…」


寺坂に導かれるままに、伊織は裏へと回った。



「さぁ、ここから…」


屋敷の裏にある小さな扉の前で寺坂は立ち止まると、ポケットから取り出した鍵で扉を開けた。

どうやら、そこは屋敷の厨房に続いていたらしい。


「ここは…?」


「使用人達だけが使う裏口にございます。今なら旦那様と奥様はダイニングにいらっしゃりますので、今のうちにこちらからお部屋へ…」


伊織は頷いて寺坂とともに屋敷の中へ入った。


「とりあえず一安心にございます」


周りに人がいないのを確認すると、寺坂は部屋の扉を閉めて言った。


「ありがとう、寺坂。でもどうして…」


「私が使えているのは、条善寺のお家ではなく、貴方様ですよ」


寺坂はそう言って少し笑った。


「今日のところは私が上手く言っておきます。どうかゆっくりお休みくださいませ。ただ…ほとぼりが冷めたら、しっかり旦那様とお話をするのですよ」


「あぁ…わかってる」


寺坂は一礼して、静かに部屋を出て行った。

伊織は、扉が閉められるとすぐに、ベッドに倒れ込むように体を埋めた。



いろいろなことが一気に起こりすぎた。ここ数日で、伊織の体は、思考回路が正常に機能しないほど疲れ切っていた。天使の存在、司の行方、寺坂がなぜあそこにいたのかなんてことも、伊織には想像もつかないことだった。伊織は睡魔に鉛のように重い体を任せてあっというまに眠りに落ちていった。


♢♦︎♢


次の日の朝、両親の目を盗み重たい体を無理やり引きずり登校すると、また信じられないことが起こっていた。


「お、伊織!おはよう!」


「伊織くん!おはよー」


今まで遠巻きにされていたクラスメイトたちが、急に手のひらを返したかのように伊織に接するようになっていたのだ。

いや、もうずっと前からそうであったかのように、伊織はクラスの中心となっていたのだ。まるで、それが本来あるべき形であるかのように。


訳が分からぬまま、伊織は教室にいた。なんとも不思議な感覚だ。そして、いるべき人物がいない。


「なぁ…司のことなんだけどさ」


なぜだか言葉が口をついて出た。何を言おうとしたのかもわからないが、そう口にだしていた。


「司?誰だよそれ」


クラスメイトから帰ってきたのはそんな反応だった。


「どうした?寝ぼけてんのか?」


伊織は驚いてクラスメイトの顔を見渡した。全員がキョトンとして伊織を見ている。

まるで、八草 司という人間なんて元から存在しなかったかのように。


『本来あるべきところへ』


昨日の天使の言葉が蘇る。


あぁ、あれはこういう意味か。


司という人間の存在が完全に消えたことで、この世界も変わってしまった。つまり、司がいない、本来あるべき姿に世界が戻ったとでも言うのだろう。

伊織はこのまま、クラスメイトに囲まれて、世界が誇る条善寺グループの跡取りとして、誰もが羨む人生を送るはずだった。


けれど…


「悪い。俺は、そんなの望んじゃいねぇわ」


突然そう言って立ち上がった伊織に、辺りは騒ぎ立つ。


「おい、伊織!どこに行く気だよ?」


「わかんねぇ!わからないけど…こんなとこにはいたくないんだ!」




二度目のエスケープだった。


劣等生とはいえ、それなりに真面目にやってきた伊織にとっては、もう後戻りはできない状況だ。


それでも。

そんな行き当たりばったりの人生も、悪くないかな、なんて少しだけ、考えていた。

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