第3話 事件と逃走
「伊織様。窓を閉めたほうがよろしいのでは?まだ暖かいとはいえ、もう九月も終わり。夜は冷えますから、風邪を引かれてしまいますよ」
もう八十近い老紳士が伊織に言った。
彼の名を寺坂といい、この条善寺に仕えてもう五十年以上になる。
伊織が生まれた時からずっと側に居て何かと世話を焼いてくれたのがこの寺坂である。伊織にとって寺坂は、時に両親よりも近く、信頼できる存在だった。
「あぁ。今閉めるよ」
伊織は椅子から腰を浮かして、目の前の窓を閉めようと手を伸ばした。
「なぁ、寺坂」
「はい」
伊織の言葉に、寺坂は恭しく返事をする。
「俺は…間違ってると思うか?」
窓の外に見える三日月を見ながら、伊織はそう口にした。
「はて、何のことでしょうか」
振り返ると、寺坂はシワだらけの顔に笑みを浮かべて伊織を見ていた。
「…いや、なんでもない」
伊織は窓をぴしゃりと閉め、カーテンを引いた。
「私は、伊織様が良かれと思ってやることを間違っているなどとは思いません」
後ろから寺坂の声がかかった。
「誠の強者というものは、常に弱者のことにも気を配れるものにございます。そしてそれを、これっぽっちの苦にも感じておりません。弱者を弱者とも認識しないものなのです。世の中は強いものだけの世界ではないのですから、そう上手く回らなくて当たり前でございます。能ある鷹は爪を隠すとでもいいましょうか」
寺坂は言った。
「ところで、伊織様は何をそんなに心配なされているので?」
伊織はふっと頬を緩めた。
「ありがとう、寺坂」
「いえいえ、私は何も」
老紳士は歳に似合わず悪戯っ子のように笑った。
「それでは、おやすみなさいませ」
パタンと扉が閉まると、部屋は静寂に包まれた。一人でいると、その部屋の広さが一層増すように感じる。
伊織は深くため息をついて椅子の背に体重を預けた。昼間の出来事が脳裏にフラッシュバックする。
これからも、自分の隣には司がいる。そう信じて疑わなかった。司以上に最高の友人はこの先も現れることないだろう。
そんなことを考えて伊織はまた笑みを溢した。
そんな夜のことだった。
暗い夜の街を、赤い炎が照らし出し、星空を灰色の煙で覆い尽くす。人々は慌てふためき騒ぎ出した。
炎はまるで血のように赤く、赤く燃え上り、その勢いを弱めることはない。耳を劈くような悲鳴があたりにこだました。
純和風の大きく古い屋敷はよく燃える。
その様子を少し離れたところで見ていた少年は、少し寂しそうに眉を寄せて、静かにその場を立ち去った。
次の日の朝、伊織はそのニュースを担任の教師の口から聞くことになる。
八草 司が家に火をつけ逃亡した、と。焼け跡からは司の義父母と使用人達の焼死体が次々と見つかったのだった。
♢♦︎♢
伊織はただ唖然と部屋の中に立っていた。どうやって一日を過ごし、家に帰ってきたのかもわからない。ただ、すでにニュースは皆に知れ渡っているようだった。放心状態で帰宅した伊織に、誰一人として声をかけようとはしなかった。いつものように、寺坂が無言のまま荷物を受け取る。
「寺坂」
「はい、伊織様」
伊織に呼ばれ、寺坂は何もかもわかっているような様子で答えた。
「しばらく、部屋にこもる。誰も入れるな」
「仰せのままに」
恭しく礼をして、寺坂は伊織から離れた。
虚ろな足取りのまま部屋に入り、そこで足を止める。
いつもとなんら変わらぬ自分の部屋だ。いつも通りの日常のはずだった。
それが、どうして。
伊織はポケットから携帯を取り出して開いた。今日一日、怖くて一度も開けないままだったのだ。
みると、未開封メールが一件届いているようだった。
司からだ。
《伊織、ごめん。
君は僕を愚かだと思うだろう。
でももう我慢の限界だった。
僕のことは気にせず、君は君の道を歩んでほしい。いつかどこかで、君が成功したという噂を聞けたら嬉しいよ。
それじゃあ。いろいろありがとう。》
携帯に画面を冷たい滴が落ちた。
どうして何も言ってくれなかった。
相談してくれたら、なんらかの力にはなれたかもしれない。少なくとも、こうはならなかった。信頼していたのはこちらばかりで、司にとってはそうではなかったというのか。
司がずっと我慢していたことは知っている。その分、努力していたことも。
だけど、まさか、こんなことって…
伊織はその場に膝をついた。
音を立てずに涙が頬を伝う。
司はそんなことする人間じゃない、と心のどこかで信じている自分がいた。
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