第2話 母と友
家に帰ると、使用人達がいそいそと出てきて伊織の荷物を受け取った。
「伊織様、奥様が部屋でお待ちです」
メイドの言葉に、伊織は顔をしかめた。もうテストの結果は母親の耳に入っているらしい。
「伊織。そこに座りなさい」
座敷の部屋に入ると、伊織は母親の前に黙って正座をした。浅葱色の着物を着た母は、二十年前にこの条善寺の家に嫁いできた。今じゃ立派な条善寺の女だ。
「先生から電話がありました。貴方、もう後がないんですって?条善寺の嫡男として恥ずかしくないんですか」
伊織は黙って母親を見つめた。
「私は貴方がそんな成績をとるような人間でないと知っています。何か、私に隠してはいませんか」
この母親はやけに勘が鋭いことがある。
伊織は少し間をおいて答えた。
「何もないよ、母さん。俺がただ気を抜いていただけだ」
母の目が真っ直ぐに伊織を捉えた。たまに、この目の前ではどんな嘘も無意味なものに思えてくる。母親とは、どんな子にとっても絶対的な存在なのかもしれない。
「…わかりました」
しばらくして、母は観念したように目を逸らした。
「次からは気をつけなさい」
伊織はほっと息をついた。やっとこの空間から解放されると思った。
しかし、退室するために腰を上げようとすると、鋭い声が飛んできた。
「待ちなさい、伊織」
伊織びくりとして直ぐにその場に座り直した。
「伊織。もう八草のとこの子と仲良くするのはやめなさい」
これには流石の伊織も驚きを隠せなかった。
「仲良くするなって、母さん!司とは幼馴染で…」
「関係ありません」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、背筋が凍りつく。
「貴方はこれからの条善寺を、世界を担っていく人間です。私も、貴方の交友関係にまで口出ししたくはありません。でも、あの子だけは、やめておきなさい」
母のいつになく真剣な言葉に、伊織は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「今後、八草の家に行くことを断固禁じます。いいですね」
その言葉に、ただ頷くことしかできなかった。母は、何もかも知っていて言っているのだろうか。伊織は衝撃のあまりに目の前が真っ暗になった。
♢♦︎♢
次の日、伊織はいつも通り登校した。相変わらず周囲の人間は伊織を見下したように嘲り笑う。いつもならどうってことないはずなのに、今日は何故か言葉がチクチクと身体を蝕んでいくようだだった。
「伊織?どうした。元気ないじゃないか」
見かねた司が心配そうに声をかける。
「あ、あぁ。ちょっとな…」
伊織は言葉を濁して俯いた。
「伊織。何があったのか?僕に…」
「何でもないって言ってるだろっ!」
突然大声を上げた伊織に、教室中の視線が集まる。
はっとして司を見ると、驚いて目を丸くした後、少し哀しそうに目を伏せた。
やばい、言いすぎた…
「ごめん、司。本当に何でもないんだ。ただ、少し1人にしてくれないか」
伊織の言葉に、司は頷いてその場を去った。
「ごめん…」
母の言葉通りにしたいわけじゃない。司はなにも悪くない。ただ、家に縛られている自分が、何の罪もない親友を傷つけてしまった自分が、どうしようもなく惨めに思えた。
♢♦︎♢
「どうせ、もう僕と仲良くするなとか言われたんでしょ」
昼休み、沈黙を破るように司はそう言った。いつもの空き教室、開いた窓から吹き込む秋風が冷たく頬を撫でる。
「…よくわかったな」
「わかるよ、それくらい。どれだけ長く一緒にいると思ってるの。君のお母さんが言いそうなことだってわかるさ。あの人は、本当に君を大事にしてるんだ」
「条善寺の跡取りを、だけどな」
無愛想に言い放った伊織に、司は少し悲しそうに眉を寄せた。
「それで?君はその忠告を聞いて僕から離れる?」
それは、まるで伊織を試すような言い方だった。
「…そんなわけねぇだろ」
一呼吸おいて、伊織はしっかりと答えた。
「母親なんかに、条善寺なんかの為に、親友を手放してなるものか。それに…お前がいなきゃ、俺はこの学校で一人になっちまう」
笑って言った伊織に、司は呆れたように言った。
「全く…君は、本当に馬鹿なんだな」
「おめぇにいわれたくねーな」
そう言って二人は笑い合った。
これでいいんだ。伊織は思った。
家も、親も関係ない。自分で自分のことを決められないような人間が、いい大人になれるわけなんてないじゃないか。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、2人は空き教室を出た。
後手に扉を閉めるとき、一瞬、司は目を閉じ…次に開いたときには、まるで何かを決心したようにしっかりと前を見据えていた。
そんな司の様子に気づかない伊織は、足早に教室へと戻っていく。
そして、二人の運命が狂いだしたのだった…。
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