第三十九話:背水の陣

 「エム・スポーツ」での仕事を終えた倫子が自宅に帰ったのは、夜の八時をいくぶん過ぎてからのことだ。

 日が昇っているうちは十分晴天であると言えた今日の天候も、その頃までには徐々にぐずつき、いまではときおり雨粒を滴らせるまでになっていた。

「嫌な天気」

 ぱらぱらと滴を降らす曇り空を恨めしそうに見上げながら、買い物袋を抱えた倫子は、足早に自宅めがけて歩を進めた。

 彼女が住んでいるのは、桜野市郊外に建つ古びたアパートだった。

 木造モルタル二階建て。

 風呂なし。

 トイレは共同という、二十一世紀にまだこんなアパートがあったのかと目を疑うほどの物件だ。

 そのアパートの前で、倫子は一台の見慣れたクルマを確認した。

 赤色のEF型「CR-X」

 明らかにそれは、とある知人の所有車だった。

 クルマの持ち主が車内から降り立ったのは、その直後のことであった。

 元気そのものを人型に凝固した感のあるひとりの少女が、おもむろに倫子の視界へと姿を現す。

「眞琴ちゃん」

 予期してなかった来客に、彼女は思わずその名を呼んだ。

 声の中には、驚きの成分が濃厚に含まれている。

「どうしたの? こんな時間に」

 その少女──猿渡眞琴という名前を持つその女子高生は、倫子に向け、まるで立ち会いに臨んだ剣士のようにまっすぐな視線を送ってきた。

 そしてその凜とした眼差しと同様、きっぱりとした言葉でもって彼女は告げる。

「今日は、リンさんにお話しを聞いてもらいたくてここにきました。少しだけ、お時間をいただけますか?」

 その口振りからただごとでない空気を感じ取った倫子は、ひとまず彼女を自室の奥へと招き入れた。

 六畳一間の狭い部屋。

 あたふたと慌てたような素振りでちゃぶ台を置き、ふたり分の番茶を用意する。

 来客向けの湯飲みをそもそも持たなかったものか、自身の分をコーヒーカップで代用しているのが実に倫子らしいと言えば倫子らしい。

 その間、当の眞琴は畳の上に正座したまま、部屋の主が対座するのを待っていた。

 足下に座布団がないことなど、まるで気にしていない様子だった。

 ようやく向かい合った倫子が何事かを口にするより早く、少女はぺこりと頭を下げる。

「夜分、突然お邪魔して申しわけありません。こんなこと頼めるひと、ほかに思い当たらなかったんです」

「それは構わないけど」

 一方的な彼女のペースに飲まれまいとしてか、倫子は、この妹めいた女子高生に向かってたしなめるようにこう言った。

「何か事があったのなら、それに関する詳しい話は聞かせてもらえるんでしょうね」

「それをいまからお話しします」

 すでに意は決してあったのだろう、眞琴は淡々と語り始めた。

 それは、高山と翔一郎との実戦教習があった夜以降、これまでの間に起きたすべての出来事と、自身が理恵から聞かされたむかし語りの内容についてのことごとくであった。

 意図した嘘や偽りなど、そこにはひと欠片も存在しなかった。

 もちろん眞琴も人間であるから、その語りたいこと語るべきことを残さず言葉にできたわけではない。

 しかしそれでも彼女は、自らの記憶と表現力とを総動員して、向かい合う倫子に対し包み隠さずそれらを伝えた。

 およそ語り部の感情や感想などは、そこに見出すことなどできなかった。

 それは、事実のみを誌面に綴る官僚文書のような語り口であった。

 常日頃から色彩豊かな感情を周囲に示す、猿渡眞琴というこの少女。

 倫子にとり、それは一種羨望の対象ですらあった。

 そんな彼女が見せた、いまの姿勢。

 直面したそれに明らかな戸惑いを感じたものの、それでも倫子は顔色を変えることなく、黙って眞琴の言葉を聞いていた。

 おかしいな、と倫子が違和感を覚えたのは、眞琴の語りが中盤を迎えたあたりでのことだった。

 眞琴は、本当に事実のみを告げている。

 普通なら、そこには相手に対して助言なり慰めなりを求める言葉が含まれていてもいいはずだ。

 だがそのような物言いは、ここまでひと言たりとも彼女の口から放たれていない。

 なぜだろう?

 目の前に座るこの少女は、自分にいったい何をして欲しいがために、わざわざこんな真似をしているのだろう?

 倫子が体感したものよりもはるかに短い現実時間を要しただけで、眞琴の発言は終了した。

 その言葉の最後に到るまで、彼女自身の感情の発露やこの件に関する意見の要求などがその口から放たれることはなかった。

 倫子は思わず対応に窮した。

 いま彼女の語った内容に対して意見を述べよと言うのならそうするし、助言を与えよと言うのならそうしよう。

 でも、それらを求められていないこの状況下で、自分はいったい何を話せばいいのやら。

 困惑してしまうのも、まずは無理からぬ話であった。

「で、眞琴ちゃん」

 結局、倫子は最も妥当と思われる言動でお茶を濁した。

「それをわたしに話して、あなたは何をして欲しいわけ?」

「何をして欲しいわけでもありません」

 それを受け、眞琴は断言した。

「ただ、知っていてもらいたかっただけです」

 それは、とても冗談を言っているようには思えない口振りだった。

 改めて当惑の色を見せながら、倫子が小さく息を吐く。

 それは当然の反応であろう。

「悪いけど、それ愚痴にすらなってないから」

 あきれ顔で倫子は告げる。

「どんなリアクション取ればいいのか判断に困るんだけどな」

 尊敬の対象である倫子から面と向かってそう言われた瞬間、眞琴は思わず息を呑んだ。

 自らの言動が不整合の極みであったことを、ようやくこの時点で察したのであろう。

「そうですね。言われてみれば、そのとおりでした」

 あからさまな照れ笑いを浮かべつつ、眞琴は思わず頭をかいた。

 その「頭をかく」という仕草が翔一郎のそれと瓜ふたつであったことに、彼女はまったく気付いていない。

 あはは、といつものように笑ってみせた眞琴は改めて姿勢を正し、今度は明確な内容をもって倫子に尋ねた。

「じゃあ、もしリンさんがいまのボクの立場だったら、この状況を前にいったいどんな行動を取りますか?」

「それってつまり、眞琴ちゃんの今後の身の振り方について、わたしなりの意見を聞きたいって意味なのかしら?」

「そう捉えてもらっても構いません」

「そうね」

 小首を捻って倫子は答えた。

「わたしなら、そんな面倒臭いオトコのことはさっさと忘れて新しいパートナーを見付けなさいって勧めるけど」

「嫌です」

 自ら求めたはずのその助言を、眞琴はひと言のもとに切って捨てた。

「絶対に嫌です」

 その揺るぐ余地などどこにもなさそうな眞琴の発言を耳にして、たちどころに倫子は悟った。

 そうか、これは「背水の陣」なのだ、と。

 そう考えれば、今宵の眞琴が見せているどこか奇妙な態度にもおおよその説明が付く。

 この娘は自分のところを訪れるよりもひと足早く、たぶん河合理恵とかいう先生から翔一郎の過去について話を聞き終えた時点で、もう自分が進むべき道筋を定めていたに違いない。

 では、なぜいま彼女はこの場で自分と対峙しているのか。

 それは、不退転の決意を胸にした眞琴なりのケジメなのだ。

 そして、彼女が誰に対してそのケジメを付けようとしているのかと問えば、それはもちろん自分自身に対してだ、と答えるしかない。

 そもそも「背水の陣」とは、「自らをあとに引けないぎりぎりの状況に置き、決死の覚悟で全力を尽くす」という意味合いを持つ。

 その全力を尽くすべき物事が具体的になんなのかを倫子は知り得る立場になかったが、それでも彼女は、この目の前にいる少女がある種の「戦い」に臨む意志を固めているのだと理解した。

 断じて負けられない。

 そういった凛々たる気迫が、彼女の瞳にみなぎって見える。

 なるほど。

 眞琴にとっていまの自分はそのために背負わねばならぬ「大河」なのだ、と倫子は断じた。

 自らの退路、すなわち自分への甘えを断つために必要な、明確極まりない「大河」の存在。

 眞琴は、彼女らしく不器用で、それでいてなんとも一直線な方法を用いて、いま自分自身を追い詰めようとしているのだ。

 に。

 そう、文字どおりにである。

 そのことを確信した倫子は、思わず相好を崩し眞琴の目を見た。

「何よそれ」

 瞬時にして成すべきことを得心し、軽く笑いながら少女に告げる。

「最初からわたしの意見なんて必要なかったんじゃない」

「やっぱりそうですか」

 こちらもまた笑顔を返して眞琴が言った。

「実はそうなんじゃないかって、自分でも思ってたんです」

「あきれた」

 なで気味の倫子の肩が、脱力のあまりすとんと落ちる。

 「それってさ、もう自分の中で決めていたことを、わざわざわたしに宣言しにきたってことよね」と言いながら、彼女は低いテーブルの上に頬杖を付いた。

「まあ、眞琴ちゃんらしいと言えば、眞琴ちゃんらしいアクションだけど」

「すいません」

 肩をすくめて眞琴が謝罪を口にする。

 倫子が突然話題を切り替えたのは、ちょうどその時であった。

 眞琴に向かって彼女は尋ねた。

「眞琴ちゃんは、わたしが愛車に『MR-S』を選んだ理由って知ってたかしら?」

 「いいえ」と答えて眞琴は首を左右に振る。

 そして、「ミッドシップレイアウトのライトウェイトスポーツだからですか?」と倫子に向けて聞き返した。

 エンジンが居住スペース後方にあることで様々な不便が発生するものの、その優れた重量配分が極めてシャープなステアリングをもたらしてくれるというのが、倫子の愛車「MR-S」に代表されるミッドシップの強みだ。

 いわゆるマニアにとっては、たまらない駆動方式であると断言してもいい。

 眞琴は、この三澤倫子という女性がわざわざ「MR-S」というクルマを自身の相棒に選んだ理由が、およそそのあたりにあるのではないかと予想した。

 本来アスリートたる者は、自らが高みに登るため、使用するアイテムの資質に対し滅多な妥協などしないものだからだ。

 眞琴にとって彼女とは、中途半端な陸上選手だった自分よりもはるかにストイックな、ある意味で目標とすべき女性であった。

 その「強さ」を突き詰めようとする姿勢は、憧れの対象ですらあった。

 だからこそ眞琴は、自分がそうあるべしという姿を投影した、

 いわば彼女が想う倫子の立場で推測を下した。疑うべき要素は何もないとさえ思っていた。

 だが、当の倫子はそんな眞琴の予想をあっさりと否定した。

 彼女は言った。

「ひと目惚れだったのよ。わたしの」

 そのひと言を聞いてあ然とする眞琴。

 その表情をいたずらっぽく眺めながら、さらなる言葉を倫子は綴った。

「当時、まだ高校生だったわたしの眼に映った青色のオープンカー。それはもうね、一直線に惚れ込んだわ。ろくに試乗もしないで、卒業と同時に即契約。いまから思えば、かなり無謀な話よね。

 そして、愛車ができれば当然のごとく走りたくなる。当時は『道を攻める』なんて考えはなくって、普通にのんびりドライブするのがあたりまえだった。

 本格的にクルマへはまったのは、それから随分経ってからのことよ。あとさき考えず勢いだけで仕事を辞めて、夜のアルバイトをしながら自動車整備の専門学校に通い、『MR-S』にすべてを注ぎ込む毎日が始まった。

 やまを攻めだしたのはその頃だったかな。

 案の定、それまで友達だと思ってた面々からは呆れられ、親からはすっぱりと縁切りされたわ。

 でも、後悔だけはしてない。

 だって、自分が求めたものがこの手に入ったのだもの」

 「人生ってさ、そんなものじゃないかな」と、真顔になって倫子が言った。

「損得だけで選んだ人生を嫌々歩くよりも、苦労するけど自分の脚で自分の決めた道を歩くほうが全然楽しいと、少なくともいまのわたしは思ってる」

 「眞琴ちゃんはどう思うかしら?」という質問で発言を締め括った倫子に対し、眞琴は完全な同意の意思を示して答えた。

「そのとおりだと思います」

 彼女は言った。

 しかしその直後、やや弱々しく否定的な発言をも付け加える。

「でも、なかなか思うとおりにもいかないんですよね。自分が選んだものが、本当に自分の求めていたものかどうかの保証もないわけで──」

「そんな時はね」

 聞きようによっては弱音にも取れる物言いに割り込み、倫子はきっぱりと言い切った。

「チューニングしちゃうのよ」

「チューニング……ですか?」

「そう」

 ぱちりと右眼をウインクさせて、ふたたび倫子は語り出す。

 自身の愛車「MR-S」を例にあげ、目の前で好奇心いっぱいの眼をしている眞琴に向かって力説した。

「『MR-S』はね、決して『速さ』を求めるクルマじゃないわ。もし純粋にわたしが『速さ』をクルマに求めてたら、もっと有利な選択肢があったでしょうね。実際、MR-Sに注ぎ込んだお金があれば、全然高性能なクルマが新車でも買えてたわけだし。

 でも、わたしは『MR-S』にこだわった。

 足回りは総取っ替え、軽量化はこれでもかってばかりに施し、しまいにはエンジンそのものまで載せ替えたわ。非効率的なのはわかっている。たぶん、そんなこだわりは勝負事の世界じゃ真っ先に排除すべき考えなんだと自分でも思う。

 だけど、わたしはそうしなかった。その道を選ばなかった。なぜならそれは、わたしが『MR-Sあのこ』にぞっこんだったから。

 当然、あのこを手放すなんて選択肢は、わたしの中にこれっぽっちもなかった。

 とはいえ、当時の彼がわたしのドライビングに応えてくれなかったのも明らかな事実。

 つまり、このまま行ったらわたしと『MR-Sかれ』とが同じ道を歩いていくのが不可能になっちゃうっていう瀬戸際の立場だったのよ。もちろん、わたし自身が走りを諦めるなんて路線は、言うまでもなく最初からアウト・オブ・眼中だったわ。

 現状をおとなしく受け入れることもできず、さりとて相方を捨てて自分の道を行くことも嫌ってなると、もう成すべきことはひとつしかない」

 力強く倫子は言い切った。

「だからわたしは、相方のほうを自分に合わせてチューニングしちゃったというわけ」

 そこまで熱弁を振るった倫子は、ひと呼吸置いて手元の番茶を軽くすすった。

 そのことにより自らを落ち着かせたのか、静かな口調に一転して眞琴に告げる。

「それって、人間の世界でも同じことが言えるんじゃないかしら」

 倫子はこの時、自分なりの言葉で眞琴を激励したつもりであった。

 いや、むしろ尻を叩いたと言ったほうが適切かもしれない。

 倫子は、眞琴の真意を理解した瞬間、自分がこの娘に求められている役割がまさにそれであるのだと自覚したのだった。

 猿渡眞琴という拳銃の安全装置を解除して、そのトリガーを引くこと。

 倫子は、彼女と翔一郎との関係を自身と愛車とのそれに例えることで、おのれの役割を果たそうと試みた。

 ひょっとしたらそれは、ややあいまいな例えであったかもしれない。

 しかし、倫子が目論んだその企みは、今回完全な成功をもって報いられた。

「ありがとうございます!」

 倫子の語りが終わると同時に、眞琴はがばっと一礼した。

 目の前に置かれた湯飲みを手に取り、中身の番茶を一息で飲み干す。

 直後、我が意を得たりとでも言いたそうな表情を浮かべ、少女はその眼を輝かせた。

 彼女は宣う。

「ボクが間違ってました。いまのリンさんの言葉で、それがはっきりわかりました」

 そして楽しげにその様子を伺う倫子に向け、眞琴は決定的なひと言を言い放つ。

「ボク、いまから『壬生翔一郎』の首根っこをひっつかまえてきます!」

 そんな決意を置き残し跳ね起きるように立ち上がった眞琴は、文字どおり脱兎のごとき勢いで倫子の部屋から飛び出していった。

 そしてひとり残された格好となった倫子は、少女の愛車CR-Xが放つ軽快なエキゾーストノートを窓越しに聞いた。

 全開だ。

 そこに迷いは感じられない。

 あわよくば、スキール音すらが響いてきそうな雰囲気だった。

 なんだか羨ましいわね、と倫子は思った。

 わたしにも、いまのあのと同じくらいのエネルギーがあったらな、などという他愛ない妄想にしばしの間浸りきる。

「もしかしたら」

 ぽつりと倫子は呟いた。

「敵に塩を送っちゃったのかしらね、わたし」

 そして小さく自嘲した彼女は、眞琴に向かって小さく応援の声を贈りながら、自室の窓をゆっくりと閉めた。

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