第四十話:導いてくれるひと
天候は完全な雨に変わった。
分厚い雲に覆われた夜空から断続的に降り注ぐ雨粒が、八神街道に敷き詰められたアスファルトの表面を半ば漆黒の河のように塗り潰していく。
山の斜面に刻まれたその道筋には、当然民家などひとつもない。
道幅こそそれなりに広いものの、そこは片側が登りの、そしてもう一方が下りの急斜面とに挟まれたワインディングロードであったからだ。
街灯など存在しないそんな道路の端に寄せ、翔一郎はおのれの愛車を停止させた。
あいかわらず丁寧な動きだった。
速度計がゼロを指すのと前後してエンジンが止まり、彼の「レガシィB4」はたちまち穏やかな眠りに就いた。
ヘッドランプの灯火が消え、黄色いハザードランプが点滅を開始する。
静まりかえった周囲の空間に、降雨が奏でるドラムの音と規則正しい点滅音とが不似合いなハーモニーを織りなしていた。
そんななか、翔一郎はおもむろに愛車から降り、外界の巷へと足を踏み入れた。
車内から取り出した安物のかさを広げて頭上にかざす。
そのままゆっくりとした足取りで愛車の前に回り込むと、彼は夜の市街地が見下ろせる断崖脇のガードレール下へ、いましがた買ってきたばかりの缶コーヒーを一本置いた。
米国の州にちなんだ名を持つ、某有名メーカーのオリジナルブレンドだった。
いまは亡き彼の親友、長谷部崇が当時愛飲していた銘柄である。
こころなし雨脚が強くなってきているように感じられるさなか、しかし翔一郎は、白いガードレールの下に鎮座するその円筒状の物体を身動ぎひとつせず見下ろしていた。
「世の中って奴は、本当にどんどん変わっていくものなんだな」
そう翔一郎が独り言を口にしたのは、彼がこの場所に立ちすくんでからどれほどの時が経ってからのことなのだろう。
「八神の魔術師」という異名を戴くこの男は、まるで誰かに語りかけるがごとく、淡々と言葉を紡いでいく。
「だけど、ここの様子だけはいつきてもあんまり変わり映えしないぜ。なあ崇。おまえはこれをどう見るよ?」
疑問符が、その唇を割って出る。
もちろん、返事などあるわけもない。
それをこの世の誰よりも理解していながら、なおも翔一郎はそこにいるはずのない何者かに向かって話しかけることをやめなかった。
彼にとって、ここはいわゆる「聖地」だった。
それも、自らの犯した罪を象徴する忌まわしき「聖地」だった。
時をさかのぼること十余年。
長谷部崇というひとりの好漢が、この場所において人生を終えた。
そのことを、彼は忘れてなどいなかった。
忘れられるとも思えなかった。
耳の奥に残るけたたましい破壊音と、まぶたの裏に焼き付いた血塗れの車内。
いまでもときおり翔一郎は、その情景を夢に見る。
深夜に飛び起きることもしばしばだった。
だが、翔一郎にとってのそれがどれほど重々しい原罪であったとしても、ほとんどの人々にとってのそれは、とうに忘れ去って久しい些細な事故に過ぎなかった。
いまでは誰ひとりとして花を手向けようともしないこの現場。
おそらくだが、ここでひとが死んだという事実をおぼえている人間も、さほど多くはないのであろう。
翔一郎は視線を上げ、眼下に広がる市街の夜景に目を向けた。
特別にきれいだとも華やかだとも思えない、どこにでもある灯りの群れ。
おのれが現役の走り屋としてその足跡を刻んでいた頃と、それはたいして違いのない光景ですらあった。
『わたし──今日を境に、
唐突に、理恵の放ったその台詞が翔一郎の脳裏に蘇った。
彼女は自身の言葉をもって、おのれが過去に縛り付けられることを決定的に拒絶した。
それまでにかかった年月がいかに膨大なものであったとしても、いまの翔一郎には、理恵の下したその決断が尊敬すべき英断のように思えてならなかった。
「なあ崇」と、ひと言挟んで、翔一郎は死者に向かって語りかけた。
「あの理恵がおまえのことを忘れるってさ。忘れて、それで自分の道を行くんだと」
冷たいオンナだと思うか?、と、すでに黄泉路へ去った親友に対し質問を放つ。
返ってくる言葉はない。
それでも翔一郎は話し続けた。
そのほとんどが理恵を弁護する内容だった。
とうとうと彼は語った。
「おまえは若いままだからわからないだろうけどな、俺もあいつも、もう立派にオジサンオバサンで通用する歳なんだぜ。そんな歳になるまであんないいオンナを自分のもとに引き留めておいていたんだ。本当なら、そいつは犯罪に近い悪行だぞ。全人類の損失って奴だ。
それにな。あいつはあいつなりに考えたうえで、やっと自分の進路を選んだんだ。ここは男らしく、笑って見送ってやるのが筋ってもんだと思うんだがな。違うか?
もし文句があるんなら、いますぐここに化けて出てこい。この俺が、直接話を聞いてやる」
かさを打つ雨音が断続的に響くなか、翔一郎はわずかな時間口を閉ざし、そして最後にこう呟いた。
「これで、とうとう俺とおまえのふたりきりになっちまったな、『ミッドナイトウルブス』も」
ことここに及んで、さすがの翔一郎も否定することはしなかった。
「若気の至り」「恥ずかしい過去」「黒歴史」──いろいろと口では否定的な言葉を羅列しておきながら、実は誰よりも「ミッドナイトウルブス」というものにこだわりを見せていたのが自分自身であったのだということを、だ。
それがある種の皮肉にすら感じられて、翔一郎は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「心配するな、崇」
亡き友に向かって彼は告げた。
「今度こそ、俺は逃げたりしないよ」
一条の光が翔一郎を照らし出したのは、ちょうどそんなおりでの出来事だった。
光源は、クルマのヘッドライトである。
夜の八時を過ぎるとめっきり交通量が減少する八神街道であるが、この時間帯だとまだ車両の影を見ることも少なくはない。
ゆえに、このクルマがそのまま武蔵ヶ丘市方面に走り去っていったのであれば、翔一郎がそれに関心を向けることもなかっただろう。
だが、今回はそうでなかった。
翔一郎の視界内に進入してきたそのクルマは、まるで彼の姿を見出したことを契機とするかのごとく唐突にブレーキを踏んだのだ。
そしてそのまま速度を落とし、翔一郎と道路を挟んだ反対側の路肩に寄せて、おもむろにその足を停めた。
あからさまに異様な行動であった。
こんな時間、こんな場所になんの用だ?
翔一郎は訝しんだ。
自分のことを棚に上げた形となるが、彼がそう思うのも無理はなかった。
車両がトラブルを起こしたとかいう突発的な状況でもない限り、こんなへんぴな場所を、それも夜間に訪れる人間がいるなどとは到底考えられないからである。
停車したクルマの車種はすぐにわかった。
EF型の「CR-X」だ。
赤色に塗装されたそれが眞琴の愛車であることを、翔一郎は即座に察した。
そして、我が目を疑った。
その表情には、あからさまな困惑が色濃く浮かびあがっている。
時を分かたず、運転席からクルマの主、猿渡眞琴が降り立った。
端から持ってきていなかったのだろうか、かさの類をさす素振りは寸分も見せない。
見る見るうちに、降りしきる雨が彼女の全身を濡らしていった。
しかし眞琴はそれを厭わず、まっすぐ翔一郎のもとへと歩み寄ってくる。
それを見た翔一郎が、慌てて数歩を踏み出した。
自らのかさへ彼女を迎え入れようとしたのである。
だが眞琴は、彼の好意を完全に無視した。
文字どおり一瞥しただけで翔一郎の前を素通りした彼女は、暗い夜道に浮かびあがる白いガードレール際までやってきた。
そして、足下の何かを覗き込むようにして膝を屈める。
その視線の先にあったもの。
それは、何の変哲もない一本の缶コーヒーだった。
言うまでもなく、わずかばかり前に翔一郎がそこに置いたものだ。
「ここが、長谷部崇さんの亡くなった場所なんだね」
そのままの姿勢を保ちながら眞琴は言った。
それを聞いた翔一郎の動きが、驚愕の色彩をともなってたちまちのうちに凝固する。
かすかに震えるその唇が、「どうしてそれを……」という短い言葉をやっとのことでひねり出した。
その発言を受けて、眞琴はやにわに立ち上がる。
濡れて額に張り付いた前髪をうっとおしそうにかきあげながら、彼女は凛と背筋を伸ばし翔一郎と向かい合った。
「ボクの学校に『河合理恵』っていう保健の先生がいるの。優しそうな女のひと。翔兄ぃも知っているひとだよね」
眞琴の口が理恵の名を口にしたとたん、翔一郎は言葉を失う。
それが、彼女の知っているはずのない名前であったからだ。
眞琴はそこでいったん間を置き、翔一郎の顔色を伺う。
しかし、彼女は発言すること自体をやめたわけではなかった。
すっと小さく息を吸い込むと、なおも眞琴は語り続ける。
淡々と、そう淡々と感情のこもらない口振りで。
「今日、その先生の口から聞いたんだ。『ミッドナイトウルブス』のこと、長谷部さんや先生自身のこと……そして、翔兄ぃのこと」
強い意志の力を含んだ眞琴の視線が、うろたえ気味の翔一郎を真正面から貫いた。
ずきんと鈍い痛みがその胸を襲う。
「そうか……」
あたかも十三階段を登る罪人のごとき表情で、翔一郎は眞琴に問うた。
「軽蔑……したろ?」
眞琴は首を左右に振った。
その行為に意外そうな目をしてみせた翔一郎とは対照的に、彼女は揺るぎない態度でもってその問いかけを否定する。
そして大きく息を吸い込み、意を決したように口を開いた。
「ボクの知ってる翔兄ぃは──」
彼女は、翔一郎に向かって言い放った。
「ボクの知ってる翔兄ぃは、休みの日は昼まで寝てるし、起きたら起きたで寝癖は付けてるし、靴下は脱ぎっぱなしだし、ボクが見てないとなんにもできない駄目兄貴だ。
でも、それでも、顔を上げたらいつだってボクの前を、自分の足で立って歩いていてくれた。いつだって、自分の道を自分で選んで、自分の目で前だけを見てた。
ボクはそう思ってた。
心の底からそう思ってた!
でも……本当はそうじゃなかったんだね。いまの翔兄ぃは、自分自身を鎖で縛って、前なんて向こうとしていなかったんだね。必死になって理由を作って、自分自身を嫌いになろうとしていたんだね。
違う。
違うよ。
そんなの違う。
絶対に違う!
そんなの、『ボクの翔兄ぃ』じゃない!」
昂ぶる感情に引きずられ、ついに眞琴は絶叫した。
こらえきれなかった大粒の涙がその両眼からこぼれ落ち、たちどころになだらかな頬を濡らしていく。
叩き付けるような激情が言葉となり、翔一郎めがけて奔流のごとくに放たれた。
噛み付かんばかりの勢いで彼女は叫ぶ。
「翔兄ぃがここで犯した過ちを、いったい誰が許さないって言ったの? いったい誰が許せないって決めたの?
世間? 常識? そんなの関係ない!
ボクは許すよ。誰がなんと言っても、ボクは翔兄ぃを許す!
だからボクは、いまの翔兄ぃにボクの翔兄ぃを悪くなんて言わせない!
ボクの
思いの丈をすべて吐き出し、少女は涙をぐいっと拭った。
呆然と立ち尽くす翔一郎を尻目に、乱れた呼吸を整える。
大きく深呼吸を二度。
改めて
沈黙は長く続かなかった。
「翔兄ぃ。ここが新しい出発点だよ」
直前までの激しさと打って変わり、まるで静水のように眞琴は告げた。
「止まったままの翔兄ぃの時間、ボクが腕ずくで再起動してみせる」
「随分と大仰なことだな」
眞琴の放つ気迫にたじろいでいた翔一郎が、ようやくのことで言葉を返した。
「で、いったい何をするつもりなんだ?」
「ボクとバトルして」
眞琴が即答する。
「コースは八神表の下り一本勝負。もしボクが勝てば、翔兄ぃには八神街道に戻ってきてもらう。そして『八神の魔術師』という伝説を、途切れてしまった『ミッドナイトウルブス』という伝説を、もう一度、今度はボクたちと一緒に築きあげてもらう」
「俺に勝てる気でいるのか?」
軽く苦笑いを浮かべた翔一郎の質問に、彼女は大きく頷くことで答えた。
翔一郎が破顔する。
肩をすくめて彼は尋ねた。
「じゃあ俺が勝った時、おまえは何をしてくれるんだ?」
「ボクの
勝負に負けた暁には、おのれの純潔を賞品として差し出す。
寸分も迷うことなくそう宣言した眞琴の顔を、翔一郎は息を飲みながらまじまじと見詰めた。
そうすることしかできなかった。
本気か?
翔一郎は絶句した。
コイツは、自分が何を言ったのかを理解してるのか?
だが、彼の心中に次々と湧き起こった疑問符の群れは、一向にぶれることのない眞琴の瞳が瞬く間に薙ぎ払った。
その根幹には、紛れもない狂気の色が含まれていた。
ただ勝利するため、それだけのために自らのすべてを投げ出してなお厭わないと信じる、言葉どおりの死兵の眼差し。
そんなものを目の当たりにして、思わず翔一郎は戦慄した。
否応なしに背筋が震える。
目の前に立つひと回り以上年少の娘が発する覚悟と対峙し、彼の精神と肉体とは完膚なきまでに圧倒された。
知らぬ間に、物理的な退却をも余儀なくされる。
右の踵が無意識のうちに後退したことを、彼ははっきりと自覚した。
もはや完全に気圧されていたと評しても差し支えない状況だった。
翔一郎の耳奥に理恵の声が木霊したのは、まさにその瞬間のことだった。
ポプラ公園での別れ際、彼女から託された他愛ない願いごと。
そう。
あの時の理恵は、翔一郎に向けてこんな誓いを求めたのであった。
『もし、あなたの前にいまのあなたを導いてくれるひとが現れたとしたら、その誰かを受け入れるにしろ拒むにしろどちらの場合でも構わないから、その「想い」だけは真剣に受け止めてあげて欲しいの』
その「導いてくれるひと」という一節が、翔一郎の中で眞琴の姿と重なって映った。
根拠も理由もどこにもない。
だからこそ翔一郎は自問した。
自問せざるを得なかった。
おまえ……なのか、と。
答えは出なかった。
代わりに彼の脳裏へと導き出されたのは、ほんの短い台詞がひとつだけだった。
その言葉を発することが果たして何を自らにもたらすのか、その時の彼は微塵も理解してなどいなかった。
だが、それでもなお、翔一郎はおのれに向けられた魂の刃に対し、まったく同様の真剣さでもって応じたのだった。
そしてそれは、追い詰められた「魔術師」が見せた最後の抵抗であったのかもしれない。
「いいだろう」
彼は眞琴の申し出を受諾した。
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