第10話 ウルフ01

 里の規模が大きくなると、それを郷と呼ぶという。

 初めて郷と呼ばれるその土地を訪れた時、セイリンはあまりの広大さに目を回すような思いがした。

 いったいいくつ分の里が入るのだろうか?

 通りの先にそのまま里の出口が見えるような、そんな場所も少なくなかったので、通りの先にまた別の通りが続き、そうしてどこまでも家々が続いていくような郷の様子に、セイリンは心底驚いた。

 これでも都にはまだまだ規模が及ばないというのだから、いったい都というのはどれほどまでに大きいのだろうか?

 ひとつの平地を埋め尽くすようなそんな郷がいくつも並ぶという都は、確かにこの世のすべての物があってもおかしくない。

 術士というのが希少で、その多くが都に詰めているというのが、やっとセイリンの心にも納得できた。

 それほどに広大な土地に、人が住んでいるというのならば、それを守る人もまた大勢が必要なのだ。

 最初、郷に入ろうと正門を訪れると、セイリンは検非違使に止められた。

 これまでとは違い、郷ほどの大きさになると、入るのにも厳重な身元の改めが必要なようだ。

 と、言うよりも、今までの土地にも人は住み、里をなし、暮らしていたのだが、都の人々から見れば、それは辺境であり、未開の地と同じことなのだという。

 だから大した改めもなく行き来ができたらしい。

 セイリンが老爺のくれた印を見ても、検非違使は待てと言うばかりで、なかなか通してはくれなかった。

 何かを書き連ねた、名簿のようなものをしきりに確かめては、セイリンを胡乱な目で見ていた。

 どうやらその名簿には都の術士の名前が載っているらしい。

 なのに、セイリンの名前はそこにはない。

 連れている転変した魔獣、ウサギともキツネとも、既に何とも付かなくなりつつある天府のことも、その名簿には当然載ってはいない。

 だがしかし、術士の印の偽造は困難だし、盗んだというのならば載っていないのは逆におかしい。

 転変した魔獣も、そこらで鳥の雛を拾うのとは訳が違う。

 自ら捕るにせよ、誰かに下されるにせよ、そう簡単にはいかない。

 天府は明らかに発牙していて、それも尋常ではない魔獣だ。

 そんな魔獣がただの少年にも見えるセイリンにどうこう出来るはずがない。

 罪人なのかどうか、などといった問題以前に、セイリンの存在というのは、これまで郷を守ってきた検非違使にとっては非常識そのもので、それこそ御伽草子の異類物に現れる幻想が目の前に現れたようなものでしかなかった。

 色々と聞かれてはいたものの、特に問い詰める風でもなく、またセイリンも聞かれたことには何でも素直に答えてきたために、検非違使はその内に、訳の分からないことに、ただ困っているという風を隠さなくなった。

 セイリンにしても、何かしら意にそぐわない事をさせられている訳でもないので、待てと言われるままに待つばかり。


 その内に、ひとりの男が現れた。

 男の着物にはセイリンと同じ紋。決して若くはない。カルラよりも年上かもしれない。身なりはとても整っていて、姿に威厳が感じられた。

 正門から少し離れた場所にある取り調べを行う部屋に入ってきた男は最初、セイリンの近くには来ずに、入り口近くで検非違使と何事かを話していた。

 ちらちらとセイリンを見ては、何やら難しげな顔で話している。

 やがて話が終わったのか、検非違使は離れ、そうしてセイリンの近くにやってきた。


「私の名前はギョウブスオウという。そなたと同じ術士だ。そなたの身はひとまず私が預かることとなった。まずは私のところに来てもらおうと思うのだが、それで良いか?」


 セイリンはスオウの言葉に頷く。

 何しろ郷は広大で、右も左も分からない。

 ただ通り抜けるだけでも大変そうでもあった。

 それを世話してくれるというのなら、ありがたいことだ。

 セイリンも簡単に自己紹介をしてスオウに続いて郷の中へと入った。


 郷の中はすさまじい人の賑わいだった。

 右を見ても、左を見ても人がいる。

 こんなにも賑わっている土地というのをセイリンは初めて見た。

 セイリンの目に付くのは、人々の色だ。

 今まで誰もが着ているものは同じようなものばかり。

 生成りの色か、染めていても藍染めくらいのもの。

 それ以外の色などというものは社くらいでしか見ることがなかった。

 しかし、この郷では皆が色々な色のものを着ていた。

 朱。萌黄。山吹。芥子。紺碧。

 着ているものの色のせいか、その顔にも活気があって明るく見える。

 立ち並ぶ家々も2階建てどころか、3階建ての物も多く、通りの家越しにそれよりも明らかにもっと高いであろう家も数多い。

 そんな中を歩くのに、天府の存在は明らかに異様なのか、セイリンが進むのに付いてくる魔獣の存在を見て、人々は何も言わずとも口々に何かを言いながら道を空けた。

 どうやらこの郷の人にとっては、転変した魔獣というのはそれほどに奇異ではないようだ。

 おおむね見覚えのない魔獣がただ珍しいというような反応だった。

 中にはスオウに声を掛ける者の姿もあった。

 スオウという人間は郷ではなかなかに信頼されているようで、その声はいずれも好意的な響きを帯びていた。

 やがて、一軒の高い建物につく。

 木造のそれは、家と呼ぶには明らかに大きく、宿にしては飾りも素っ気もないつくりだった。

 スオウは正面の入り口からは入らず、裏へと回る。

 するとそこには通りからは隠されるようにして、小屋と呼ぶには大きな建物がある。

 なにしろ正面の扉が大きい。

 これならば天府であっても、身を縮めなくても入れるだろう。

 セイリンはそれで、その小屋が何なのかに思い至る。

 スオウが開けると、やはりそこは転変した魔獣を休ませるための場所、獣舎のようだった。

 既に獣舎には1頭の魔獣が身を横たえて休んでいる。

 それはオオカミの魔獣だった。

 天府よりは小さい。オオカミとしては三回りくらい大きいといったところ。

 魔獣として決して小さくはないが、大きくはない部類だろうか。

 オオカミから逸脱するような発牙の仕方はあまりしていない。

 牙と爪が大きく発達していて、普通のオオカミよりも割合として頭が大きい。

 魔獣特有の縦に長く開く顎のためだろう。

 そしてその額には面がある。

 それはあの猿と同じ、阿形の面だった。

 スオウが入ると、閉じていた瞳を開けて、最初スオウを、続いてセイリンと天府を見た。

 その瞳はやはりどこか怒気を感じさせるもので、術士でなければ威圧され、思わず息が止まったに違いない。

 スオウはオオカミには近づかずに、声でもって命じた。


「サイロウ、決して天府を傷つけることのないよう」


 決して人当たりが悪いとは思えないスオウが、どこか冷たい口調で命じるのをセイリンは不思議に思って聞いた。

 天府にもしばらくはここで休むことになることを話してから、スオウと共に改めて家の中へと入った。

 しばらくの間、ここで泊めてくれるとのことで、ひとつの部屋に案内され、そこで荷を開き、少ししてからまたスオウに呼ばれて別の部屋へと赴く。

 どうやらそこはスオウが仕事をする部屋のようだった。

 卓がひとつ。近くの棚には何やら書の類が並べられている。

 スオウと対するように座ると、改めてお互いのことを話した。


 スオウはこの郷に都から派遣された術士で、もうひとりの罠を作る者と共にこの郷を守っているという。

 サイロウも都から連れてきた魔獣であり、この地で転変させた訳ではないようだ。

 セイリンもこれまでの道のりのことを話した。

 老爺のこと。山でのこと。カルラと共に山を出たこと。里を歩き、旅をしていること。

 今までに出会った魔獣のこと。

 猿。ムカデ。

 そして金剛のこと。

 スオウは余計な口は挟まずに、じっとセイリンの話を聞いていた。

 スオウが口を再び開いたのは、セイリンがすべてを語り終えてからだった。


「そなたがどういう術士なのかは大変よく分かった。そうか。ならば名が知られていないのも当然。それにそなたもどうやら知らないことが多そうだ。これも何かの縁。私から色々とそなたに話したいと思う。……まずはその前に食事としよう。こちらへ」


 別の部屋へとスオウに案内され、食事を振る舞われる。

 食事もこれまでとは違う。

 野菜のひとつひとつに丁寧な飾り切りが施してあったり、器も光沢のある美しいものだ。

 味もしょっぱいか甘いか、そんな具合だった道中とは違い、噛みしめるほどに味わいが増すような料理で、セイリンはそれを喜んで食べた。

 スオウはその様子を何か微笑ましく感じたようで、セイリンの食事を邪魔することのないように、簡単に料理の話をするに留めるだけであった。

 やがて食事を終え、それから改めてと言うようにスオウは座り直して、話し始める。


「そなたも知っている通り、かつて人は魔獣に追い詰められ、野の獣と変わらない生活を送っていた。安定した生活などは望むべくもなく、魔獣とは逃げるものであり、戦うものではなかったという。それでも僅かながらの土地に里を作り、魔獣に抵抗を続ける人々がいた。彼らは武器をつくり、その武器でもって人々を守り、少しずつではあっても里を発展させていった。ある日、その里にひとりの男が突如として現れたという。傍らには決して人と相容れないはずの魔獣の姿があり、里の人々を驚かせた。男は里に受け入れられ、里で暮らし始める。それからだ。里がみるみる内に大きくなっていったのは。武器があっても魔獣というのは恐ろしい相手で、戦えば必ずひと死にが出た。ところが男は魔獣を従えて魔獣と戦い、時にその戦っている魔獣すらも従え、人々を守った。その者の名前をミロクという」


 ミロク。それはセイリンに転変させる術を教えた老爺と同じ名前。

 その名前はセイリンの持っている印にも確かに刻み込まれている。


「やがて里は発展していき、今の都の元となった。だから都では術士というのは大変敬われている。それこそ権力などという言葉では表しきれないほどに。高名な術士は都では誰もを自由に出来る。都では衛士も検非違使も、魔獣を従えた術士には逆らえない。そんな状況がずっと昔から続いている。さて、そこにひとりの術士が現れた。最も尊敬されるミロクの名前を受け継ぐその方には疑問があった。法があり、秩序があり、しかし術士はそこに含まれない。術士も人だ。人ならば、術士であっても法と秩序を受け入れなくてはならないのではないかと」


「術士は都しか守らない。都の外にも人々は住んでいるというのに。都の人には未だに都の外に対する忌避感ば強い。それこそ都の外に住む人間は人間ではなく獣の仲間なのだと口さがなく言う者もいる。元々、都の外というのは、都に住むことのできない卑しい者、罪を犯した者が放逐され、それで拓かれた土地だという一面は確かにある。だが、そんなことは遥かな昔のことだ。かつては罪を犯した者がいたのかもしれないが、その子々孫々まで罪人なのかと」


「その方は人の世を変えたいと思った。より人の世界が広がれば良いと願っていた。だが結局は諦められ、名を譲り、そして都を去った。その方こそが七十三代目の弥勒。そなたの師だ」


 セイリンは初めて老爺のことを人から聞いた。

 ただの人ではないとずっと思っていた。

 なのに何故山で暮らしているのかと。

 やはり都に暮らしていたのだ。そしてそこで何かがあったのだろう。

 何があったのか、それを知りたいと思い、スオウに尋ねたが、スオウは首を横に振った。


「それまで魔獣が出た時しか都の外に出なかった術士を、もっと外と関わりを持ち、外で暮らす術士もいるべきだとミロク様が仰られた時、私はそれに志願し、都を出た。それ以来、私はここで暮らしている。私が既にミロク様が都にいないと知ったのは、随分経ってからだったし、その時には当代によって先代の話をするのは法度とされていた。だからすまない。私も知らないのだ」


 何かを悔いるように、スオウの視線が下った。

 セイリンもそれを責めるわけにはいかず、言葉が続かなかった。


「あの方は色々なことを変えようとなさっていた。横暴で他者を省みることのない術士が多い中で、あの方はどこまでも清廉だった。私はあの方に憧れた。生憎と面をつくり、魔獣を従える才はそこそこにあったが、罠に関してはからきしで人に頼らざるを得なかった。あの方のようになれない自分を随分と恥じたが、今は誇りを持っている」


 どこか遠くを見るような目つきで、懐かしさを覚えているようにスオウは語る。

 少し意味が分からなかったので、セイリンは率直にそれを聞く。


「ん?……ああ、そうか。あの方は風習やしがらみについてはそなたに何も話されなかったのだな。ミロク、この名は都でたったひとりしか名乗れない。面をつくり、罠をつくってそれを活かし、魔獣を捕らえ、自らつくった面でもって転変させる。そのすべてを知り、そのすべてに精通している者、その者を弥勒と呼ぶ。都でも両の手で十分なほどにしか、それを行える者はいないのだが、ミロクとは、その中でも最高の実力者であることを示している」


 術士とは、なんなのか?

 セイリンにはわからなくなっていたのだ。

 かつては、魔獣を転変させるために、何もかもを行う者のことだと思っていた。

 そうして転変させる者のことだと。

 だが、カルラはそうではないと言った。

 そして、スオウの話でもやはり違っている。

 なによりも、ミロクとは、その名が意味するものは何なのか?


「都では術士になろうと望む者は多い。だから子を集め、面を作らせる。中でも際立った者を弟子とし、そうでない者は衛士となるか、あるいは諦めて家の商売を継ぐかだ。術士の弟子となった時点で、身分は術士になる。だが術士の弟子となっても、実際に術士になれる者は稀だ。ほとんどが脱落して、脱落した者は罠を作ったりして術士を助ける。……というのが建前で、実際は術士に使われる者が多い。そうして術士は脱落した弟子を下に見るようになる。普通の人々にとってはどちらも術士とみなされているが、脱落した弟子を術士は術工と呼ぶ。そして何年かすると術工にやらせるばかりで自分ではしなくなる。面をつくるのが術士の基本だ。だが、それすらしない術士ばかりになる。それがならわしなのだと言わんばかりに。私はそうなりたくなかったのだが、結局は罠については術工を頼らざるを得なかった」


 得手不得手は誰にだってあるだろう。

 セイリンにだってそれはある。

 幸いだったのは、およそ転変に関わることにおいて、それがなかったことだ。

 老爺はそれをどう思ったのだろうか?

 いつから老爺はセイリンに転変の術のすべてを教えようと考えたのか?


「この今の状況では、何もかもをひとりで行える者はいないのが当然なのだが、もう仕組みとして都では出来上がってしまっている。それを先代のミロク様は変えようとなさっていた。……失敗されてしまったようだが。さて、そんな状況でもこのミロクという名は残さなくてはならない。つまり、なにもかもをひとりで出来る者が育たなくては困る。これは一部の家によって担われている。代々ミロクの名を受け継ぐ者を輩出してきた家だ。この家の者たちは他の術士とは違った場所で育てられる。引退した術士、時にミロクの名を継いだ者直々に教えられ、そのすべてを教えこまれる。血によってなせることなのか、実際に才能ある者も多く、ミロクの名を受け継ぎ、また次代を育てようと今も教え込んでいるのだろう」


 ならば、あの老爺もそうした家の者だったのだろうか?


「いいや、あの方は違った。確かに術士の家柄ではあったが、今までに一度もミロクの名を継いだことのある家柄ではなかった。あの方だけが特殊で、際立っていたのだ。だからこそ疑問も多く、そして望まれることも多かったのだろう」


 スオウが語る、都の今と術士と老爺について。

 それをセイリンは興奮したり、納得したりしながら聞いた。

 それからスオウは老爺の話を聞きたがったので、山を下りる前の話を語って聞かせた。そうこうしている内に日が落ち、ひとりの男が現れた。

 この郷をスオウと共に守っているという術士、都の言い方ならば術工になるのだろう、ガンギとだけ、ぶっきらぼうな調子で名乗った。

 結われた髪は短く、髭も伸ばしていて、身なりは正直あまり整っているとは言えない。

 セイリンのことを聞いても、僅かに頷くくらいで、自分から何かを尋ねることはなかった。

 どうやら寡黙な男のようだ。

 セイリンはどこか老爺のことを思い起こし、悪い印象は持たなかった。

 スオウ、ガンギ、セイリンの3人で酒を呑んだ。

 スオウとセイリンは嗜む程度にだったが、ガンギはあおるように呑んでいた。

 どうやら強いらしい。

 酒を呑みながらも、多くのことを話し、聞いた。


 スオウもガンギも、セイリンのことは噂では聞いていたという。

 名の知られていない旅の術士がいるらしい、と。

 ひとつの里を救ったと話を聞いた。

 また、別の話では里を滅ぼした魔獣を倒したとも聞いた。

 スオウもガンギも、どうせただの噂、そんなことは有り得ないと思っていた。

 だからセイリンがこの郷に現れたと聞いた時には、まさかとやはり疑ったという。


「都以外から術士が現れることはない。なにしろ現状が現状なのだから。まさかそんな噂の術士が現れるとはな」


 スオウが笑う。ガンギの口の端にも笑みがあった。

 自分がそんな風に噂になっているとは知らなかったので、セイリンは照れた。


「魔獣も良い魔獣を連れられている。あの目を私は久しぶりに見た。先代と同じ目だ。静かで、月を見ているような気分になる」


 天府の目をそんな風に例えられたことはなかった。

 言われてみれば、確かにそんな目のようにも思えた。

 そうだ。老爺の魔獣も、そしてセイリンの魔獣も、目が違う。

 金剛にせよ、特に驕ったところの見られないスオウの魔獣にせよ。

 それはやはりあの面のせいなのだろうか?

 尋ねようと思ったが、セイリンは段々と眠気を覚え始めていた。

 カルラに言われていたことを思い出す。

 限界が近いのだ。

 ここで無理をしても、ただ迷惑をかけるだけだろう。

 素直に眠くなってきたことを伝えると、旅路で疲れも残っていただろうに、遅くまですまないと謝られた。

 自分がなんと言ったのか、それも覚束ないままに部屋へと戻ると、既に布団が敷いてある。

 倒れるようにして、セイリンは横になった。

 良い人たちだった。

 良い人たちだと思う。

 だからこそ、眠りにつく刹那に、不意に思った。


 なのにどうして、あのオオカミの魔獣はあんなにも怒気をはらんだ目をしているのか?と。

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