第9話 センチピード02
ムカデの魔獣、房宿はすぐに自らの敵を見定めたとでも言うように、セイリンに向かって突進してきた。
天府と共に立つ家の壁に無数の足でもって這い登ってくる。
決して身軽ではなさそうなのに、それでも確かに落ちることなく向かってくる。
それをセイリンもまた黙って見てはいない。
すぐさま天府の首を抱えるようにして、その背に乗る。
天府も言われずとも、自分が何をすれば良いのかは分かっている。
ムカデが到達するのを待つこと無く、跳躍した。
跳躍の衝撃に耐えられずに屋根は崩れたが、それでも天府はムカデから逃れて、再び地へと下りる。
そのまま走りだし、房宿から距離を空ける。
房宿もまた、それを黙って見てはいない。
悲鳴にも似た叫びを上げて、天府を追って走り出す。
無数の足が滑らかに、休むこと無く動く。
めまぐるしく動く足によって、房宿はただの獣以上に素早く追ってきた。
セイリンは考えている。
あの魔獣、房宿が間違いなく里を襲ったのだ。
しかし、房宿は転変していた。
ただの魔獣ではないのだ。
なぜ、転変した魔獣が里を襲うのか?
その答えはかつて、カルラと問答した時に出ている。
つまりは人が襲わせたのだ。
あの男が術士で、人を襲わせたのだ。
人が人を襲う。
これは確かにないことではないのだろう。
実際に、セイリン自身も、あの盗賊の男たちに会った。
だが、人が魔獣を使って人を襲うというのは、まるで訳が違う。
あの男にどんな恨みがあったのか。
かつてこの里で冷たくされたことがあった?
それにしたって、皆殺しにされなければならないほどの理由とはなんだ?
それはあの男に聞かなければ分からない。
ただ、恨みよりも先に、そうなのではないかと思える答えがある。
あの男は、房宿をただ強くしたかったのではないか?
魔獣が人を食べれば、発牙し、より強力になる。
男はそれが目的だったのではないか?
セイリンが考えている間にも、天府は跳ね回って里の中を逃げる。
今、分かっているのは、転変した魔獣でもって里を襲わせた男がここにいて、そして今度はセイリンたちに襲いかかってきているということだ。
天府は里の外には出ずに、逃げまわる。
セイリンを背に乗せていては、天府本来の速度では駆けられない。
実際、どうやら天府の方が早そうなのだが、危うい場面もあった。
房宿はセイリンたちをまっすぐに追ってくる。
家があろうと、塀があろうと、お構いなしに。
天府はセイリンを乗せているので、そんなことは出来ない。
それでも、障害物にぶつかれば、いかにまっすぐ向かってきていても、速度は落ちるし、一瞬、セイリンたちを見失ったようになる。
何もない野山で追い合いをするよりは、里の中の方がマシ、それはセイリンの判断でもあった。
だが、いつまでも逃げまわっていることは出来ない。
だからセイリンは既に、房宿を狩ることを決めていた。
どんな理由があろうとも、里を襲い、こんな有様にした魔獣を放っておくことはできない。
あれを捕らえて、自分の意に従うように結ぶのは難しいし、そうしたいとも思えない。
頭から伸びる顎は強大で、大木でも断ち切りそう。
外皮はまるで刀剣にも似た輝きを見せている。
かなりの発牙をしている大物だ。
それでも、セイリンはあの魔獣を従えたいとは思わなかった。
幾度か房宿に迫られながらも、セイリンに気づいたことがあった。
それを為すことができれば、倒せるかもしれない。
男の姿はない。
まだあの場所にいるのかもしれないし、もうどこかに逃げたのかもしれない。
やはり、対処するべきは目の前の魔獣だ。
セイリンは天府を駆けさせながらも、里の家々の配置を記憶しながらも考える。
そうして、ひとつの蔵を見かけた時に、出来るかもしれないと考え、天府に話しかけた。
天府はセイリンの言葉に従うように、大きく跳ぶ。
手近にあった家の屋根に飛び乗り、すぐに飛び越す。
房宿は家に登りもせず、迂回するのも面倒だとばかりに家に頭から突っ込み、そして突き抜けた。
すぐに房宿の目に、天府の姿が映る。
だが、その背にはセイリンの姿はない。
房宿にも転変しているだけの知性がある。
だから、背に乗る人の姿がないことに、迷うように一度動きを止めた。
その瞬間、天府は吠えた。
セイリンが天府と初めて出会った時のように、低く、相手を震え上がらせる声だ。
その声は、房宿の敵意を掻き立てる。
まるで挑発されたように。
お前を食うのは、己自身であると宣告されたように。
房宿の頭の中から、消えた人間のことが忘れ去られた。
目の前に敵がいる。
房宿は、そのことのみにはっきりと囚われる。
天府もただ背を向けて走るのをやめていた。
悠然と立ち、房宿が迫るのを待った。
魔獣と魔獣。
お互いに転変した魔獣同士が、初めて真っ向から対峙した。
房宿の口からも、金切り声が上がる。
まるで震えた空気が、聞くものを切り裂くような声。
その声を合図にするように、天府は跳んだ。
セイリンは一軒の石造りの蔵で、罠を仕掛け始めた。
あまり時間はない。
天府に命じたのは、時間稼ぎだ。
里の中を動き回られないように、ひとつところに封じ込めるようにと。
セイリンは天府が真っ向から房宿に挑んで勝てるとは思えなかった。
いくら爪や角、牙があろうとも、あのムカデの魔獣を一撃に倒すことは不可能だ。
天府が一撃を与える間に、もしもその長い体でもって組み付かれ、押さえつけられでもしたら、それだけで終わってしまう。
発牙した魔獣同士ならば、多少の傷を負っても、相手を食べれば傷は修復できる。
それを房宿も本能的に知っているはずだ。
ならば多少の手傷を気にする必要はない。
発牙の段階にしては、房宿の方が明らかに格上。
相性もよく無さそうだ。
しかし、天府にはセイリンがいる。
こんなところで天府を死なせるつもりは毛頭ない。
急ぎながらも、正確に、その蔵の状態を見極めて、ひとつの罠となしていく。
じりじりと日が傾いていく中、時折、天府の声を聞いた。
まるで悲鳴のようにも聞こえたが、今は助けにいけない。
山刀一本で向かっても、何の助けにもならない。
この罠の完成をもってして、やっと天府を助けることが出来るのだ。
焦る心に苛まされながらも、セイリンはようやくその罠を完成させた。
すぐに近くの通りに出て、口に手をやり、力強く息を吹く。
甲高い音が里中に響き渡る。
時折聞いた争うような音も、天府の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
それでもセイリンは信じて待った。
天府が必ず、応えてくれると。
一瞬が永劫に。
どこも崩れかけの家が並ぶ中、まるで自らも崩れていくような、そんな思いがセイリンの胸に去来する。
不意に、セイリンは匂いを感じた。
血なまぐさい匂いだ。
濃厚で、身体にまとわりついてくるような、そんな香り。
セイリンはそれを知っている香りだと思った。
いつか嗅いだ香りだ。
セイリンが知っているモノの香りだ。
そしてセイリンは見た。
体を真っ赤に染めながらも、セイリンへと向かって跳躍してくる天府の姿を。
角の一部が欠け落ちている。
噛まれて毒にやられたのか、右前足が思うように動かせないようだ。
それでも転がるようにして、一心にセイリンへと駆けてくる。
背後にはムカデの魔獣の姿がある。
いくつもの足が欠け落ちていた。
未だ身体に繋がってはいるものの、ぶらぶらと不規則に揺れ、今にももげて落ちそうな足も多い。
それで決して浅くはない傷を負っている天府でも逃げられているらしい。
房宿の長い体の背の一部、そこには緑とも黒ともつかない濁った体液が溢れている。
房宿の身体に比して、決して大きくはない傷だった。
それでも、天府は善戦したのだろう。
天府が一際大きく跳び、セイリンの目前に、崩れ落ちるようにして着地する。
いつもの静かな目が、セイリンを見た。
その目には、確かに為すべきことを成したのだと、己自身を誇るような輝きがある。
だが、これで終わりではない。
セイリンは天府の背に再びまたがり、その血に濡れた身体にしがみついた。
天府も、終わりでないと分かっている。
一度、再び崩れ落ちそうになりながらも、なんとか己の四肢で立った。
房宿が迫る。
それをセイリンも、天府も見なかった。
天府が力を溜め、ふわりと浮かび上がるような錯覚。
次の瞬間には宙に、そしてセイリンが罠を張った蔵の屋根へと至り、そしてその向こう側へと跳んだ。
着地の衝撃に、天府は堪えられなかった。
体幹を崩し、そのまま転がる。
背にあったセイリンも放り出され、転がった。
その瞬間に、轟音が響く。
あいも変わらず、房宿が蔵を突き破り、そして倒れたままの天府に迫る。
ムカデのアギトが開いた。
セイリンは体を起こしながらも、その目を見た。
真っ黒で、獣と違って意志を感じさせない目だ。
夕刻に迫る日の光を受けて、輝いていた。
確信したのは勝利か。
アギトだけでなく、その口も開いているのをはっきりと見た。
天府の倒れたままの背に、房宿のアギトが迫る。
後ほんの少し。
その間が埋まれば、天府の背に牙のようなアギトが突き立ち、それで終わり。
そのほんの少し。
それが、いつまで経とうとも埋まることはなかった。
今まで絶えず動き回っていた房宿の動きが、その瞬間確かに止まる。
房宿の頭に絡まるものがあった。
幾筋もの銀糸、それが確かに房宿のアギトに、頭に、足に絡みつくようにして動きを封じていた。
罠。
いつか、己がかかり、そして転変することになったであろうそれに、再びまた己がかかったのだと房宿が気付く。
その瞬間の感情は怒り。
転変する前のそれを取り戻したかのように、開いたままの口から絶叫が上がる。
まともな判断というのは消え去ったのか。
ムカデの魔獣は無理矢理に己の体を進ませ、意地でもそのアギトを天府の背に突き立てようと抗った。
ミシリ。
ミシリ。
何かを裂くように、密やかな音を、セイリンは確かに聞く。
ほんの些細な綻びは、房宿の意地によって、簡単に破綻する。
房宿には何が起こったのか、分かっていないだろう。
セイリンも、これほどの長駆の魔獣を銀糸でとどめて置けるとは考えていない。
全力で暴れられれば、絶対に罠は緩む。
銀糸の掛かりは甘く、そんな状態で動きを封じることは不可能。
例えセイリンが近づき、新たに銀糸を掛けようとしても、房宿にとってのほんの少しの体の動き、その膂力だけでセイリンの骨すら砕かれかねない。
だからセイリンは近づかない。
そういう罠を張った。
ミシ。
ミシリ。
はっきりと、その破綻する音をセイリンが聞いた時、房宿は天府の背にアギトを突き立てるよりも先に、己の体に異変が起こるのを感じた。
轟音が響く。
蔵が崩れる。
里の有力者のものであったのか、決して小さくない蔵が一気に崩れ落ちる。
内部に房宿の体を残したまま。
崩れ落ちた蔵が無数の石礫となって房宿の体の中ほどを塞いだ。
足の一本も動かせないほどにだ。
ただでさえ、天府によって減らされていたということもあって、房宿は残った足では抜け出すことが出来ないようだ。
更に、これはセイリンには予想していない、そして未だ知らないことなのだが、蔵の中の柱の一本が、天府が作った房宿の傷を刺し貫いている。
セイリンにとって悪いこともある。
蔵が崩れ落ちた衝撃で、頭に掛かっていた銀糸の幾本かが緩んでいた。
体全体が動かせずとも、頭は動く。
まだ終わっていない。
セイリンはそれを終わらせようと走る。
手には拾った棒に山刀を括りつけてつくった槍。
天府に終わらせてもらおうとはセイリンは考えていない。
封じられた身体に意識を向けていたのか、セイリンの動きを房宿は見ていなかった。
ただ、感じた。
己に迫る存在を。
その長い触覚で。
再び房宿が自らに迫る存在に意識を向けた時、セイリンは既に間合いに入っている。
手にしていた槍を突き出す。
ただただ真っ直ぐに。
それは吸い込まれるように。
房宿の口の中へと山刀が入り。
それはそのまま内側から房宿の頭の中へと突き立つ。
血の匂いがした。
天府のものとも違う、青臭さがあった。
血を得たニオイガネが更なる血臭を放つ。
突き立った刃が、その鋭さを増したように、するりと突き通った。
房宿の頭に角が生えたように、刃が現れる。
偶然にもその場所は房宿の面のある場所だった。
面が割れた。
絶叫。
今までに聞いたどれとも違う、魔獣の悲鳴。
それでも魔獣の生命力というのは、ただの獣とは違うというように、房宿は己の口に突き立つ槍の、その棒を噛み砕いた。
勢い余ってセイリンは倒れる。
場所は房宿の頭の真下。
セイリンを殺すのに、何をする必要もない場所。
そのことを房宿は知ってか知らずか、頭が落ちる。
セイリンを潰すように。
緩やかさすら感じるほどに、すっと。
このままではセイリンは押しつぶされる。
例え、この瞬間に、セイリンがそれを理解していたとしても、どうすることも出来ない間。
だが、その間はやはり、埋まらなかった。
房宿の頭のすぐ下、その腹に、いくつもの角が突き立つ。
天府の角が突き立つ。
房宿の頭はそれ以上落ちることはなく、そのまま静止した。
時折、痙攣するように体が動くことはあっても、それ以上、暴れることはなかった。
里を襲い、人を食べた転変した魔獣は、そうして最期の時を迎えた。
ムカデの魔獣、房宿が完全にその命の火を消したのを確認してから、セイリンは男を探して歩いた。
最初に見た家には既にその姿はない。
あるのは付いて間もないと思える血のしずく、その跡。
部屋の暗さに見えなかったが、どうやらあの男は傷を負っていたようだ。
セイリンに会い、逃げようと動きまわって傷口が開いたのかもしれない。
セイリンはその血の跡を追った。
男を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。
枯れかけの細い木に体をもたれかけさせて、最初に出会った時のように、足を伸ばしていた。
その目がセイリンを見る。
むき出しの敵意を隠しもせずに。
「房宿は?」
意外にも、男の声には案じる気配があった。
セイリンは一瞬、迷ったように間をおいた。
嘘をついたところで、なんの意味があるだろうか?
だから、セイリンは正直に話した。
罠にかけ、殺したと。
「……ちくしょう。やっとあそこまで発牙させたのに……やっと復讐ができるってのに……ちくしょう、なんで」
セイリンは驚いた。
自分がやったことを理解していないのだろうか?
あまりにも簡単に発牙させたという言葉が漏れた。
人を食べさせたのだと、何の悔恨もなく、男は口にしていた。
戦慄が背筋を駆けた。
この感覚は覚えている。
あの男に会った時にも感じた。
だからこそ思わず、セイリンの口からその名前がこぼれた。
金剛。
この男は、あの男と一緒だ。
己の利のために、他人に犠牲を強いる。
人でなし。
言葉としてはずっと前に聞いていた。
だからその言葉を知っている。
ただ、その人でなしに、自分は行き会ったのだと、この時はじめて自覚した。
男はセイリンの言葉を勘違いしたようだった。
「そうか……お前が金剛の者か。ちくしょう。そうと知ってたら迷わず逃げたのに。ちくしょう」
言葉にしながら男は懐に手を入れた。
出されたのは一振りの短刀。
その刃の輝きには見覚えがある。
セイリンはそれを見て、男の言葉を否定するよりも早く、己の山刀を構えた。
拭ってはいたが、その刃には房宿の血の匂いが残っている。
男はその匂いを嗅いだのか、初めて敵意がその目から消えた。
「ああ、なんか懐かしい匂いがするなぁ……最初から、こうしてれば良かったのかなぁ」
既に男はセイリンを見てはいなかった。
空っぽな目。
虚ろな笑い。
手にした短刀は迷わず男の首に向けられ、そのまま刃はためらわずに引かれた。
血がしぶき、男は倒れた。
セイリンが止める間もなかった。
短刀を取り出す時に開いた胸にはさらしが巻かれ、さらしは首を切るよりも前に、既に血で汚れていた。
何があったのか、結局はセイリンには分からずじまいだった。
男は復讐のために、里を襲ったという。
だが、誰に復讐するために?
そもそも男はどこから来たのか?
男の体には、決して浅くはない傷があった。
魔獣によるものではない。
その傷は刃によるもの。
人によるもの。
ならば、誰があの凶悪な魔獣が側に仕える男に傷を負わせたのか?
男は追い詰められていた。
あんなにも発牙した魔獣が手元にいたにも関わらず。
男の血を吸って、男の手にしていた短刀が血臭を放つ。
血の色は赤く、鉄錆た匂いだった。
人でなしが流した血。
それは確かに、人の血だった。
男を改めたが、大したものは出てこなかった。
手にしていた短刀。
少しばかりの軟膏。
どこかで拾ったのか、木の実がいくつか。
男が身体に巻いていたもの、それをセイリンはさらしだと思ったが、実際にはその布は違ったようだ。
血で汚れていたが、何かが描かれていることを見つける。
見覚えのある紋。
術士の紋。
それが確かに染め付けられていた。
この男は術士だった。
それも、セイリンが老爺に認められたように、誰かに認められた術士。
セイリンが持つ、金属片の印は探してもなかった。
道中で失くしたのか、自ら捨てたのか、確かめる術はない。
セイリンは知らない。
男の名前すら。
分かっているのは、あの魔獣の房宿という名前だけ。
男を示すものは何ひとつとして見つからなかった。
男の身を改め終えると、セイリンに近づく存在があることに気づいた。
振り返れば、そこに天府がいた。
今までと違う姿の天府が。
確かめるように名前を呼ぶ。
天府。
目の前の魔獣はそれに応えるように声を上げた。
魔獣の上げる咆哮とは似ても似つかない、くぅ、と甘い声。
確かにその声は天府のものだ。
長い耳もある。
さらに太く、鋭くはなっていたが、欠け落ちた部分も治った以前と同じ形の角もある。
姿はウサギのような、キツネのような。
そこは同じなのだが、ふた回り以上も体が大きくなっている。
実際に大きくなったのは、ひと回り分くらいなのかもしれない。
だが、それも分からないくらいに、天府は大きく見える。
理由はその毛にあった。
どこかゴワゴワとしていた毛が、ふわりと柔らかく、ほんの少しの風でも揺れるような豊かな毛並みになっていた。
尾は大きく、長く、太い。
それはどこか、リスを思わせるようで。
そして、明確に1体の魔獣を思わせた。
以前にセイリンが訪れた里を襲った魔獣。
幾本もの矢を避けて無傷。
自在に家々の屋根を飛び回るしたたかさと、人の作った家を容易に打ち壊す剛力を持った猿の魔獣。
あの魔獣を思わせる、そんな威容だった。
その体のどこにも傷はない。
血で汚れていたはずの体も、今はすべてが生え変わったかのように真っ白で、セイリンは思わず触れて確かめた。
天府が僅かに身を震わす。
まるで自らの敏感な部分に触れられたことを、恥ずかしく思うような、そんな仕草だった。
繊細な毛は、どこまでも柔らかで、セイリンの手を包み込むよう。
きっとこの毛はあのムカデの触覚のように、いや、それ以上に空気の流れを掴んで己の目で見る以上に周囲を理解するのだろう。
その尻尾もまた風を掴み、宙でも体を制御し、その背にセイリンが乗っても、さっきのように放り出されることはなくなるのだ。
セイリンは笑った。
きっと、あの猿の魔獣に対して、何も出来なかったことを、未だに気にしているのかもしれない。
爪も、牙も、白銀を思わせる、硬質な輝きを放っている。
これならば、あのムカデの魔獣の外殻ですら、容易に切り裂けるのではないだろうか?
セイリンは、天府に命じていた。
房宿を食べるようにと。
あれだけの発牙した魔獣を食べれば、天府は房宿以上の魔獣になる。
それを分かっていて、命じたのだ。
里を襲い、人を食べた魔獣を食べさせた。
襲わせたのは自分ではない。
殺したのは自分ではない。
そう思っても、セイリンをためらわせる気持ちがなかったではない。
だが、放っておいても仕方がないのだ。
ならば、己の利となるようにする他ない。
その思いが一層、ためらわせようともしていた。
己の利とする。
それは恥ずべきことではないのか?
この男も、金剛も、己の利とするために、魔獣に人を襲わせた。
その魔獣でもって、より天府を発牙させることに、抵抗があるのだ。
言葉でもって、具体的にこうだ誰かに説明できるような思いがある訳ではない。
それでも、漠然と、自分の行為が彼らの行為と似ているのではないかと思わせた。
天府が角に気を使いながらも、その鼻先をセイリンの手に寄せた。
気遣うように、そっと息を吹きかける。
セイリンもまた、その鼻先に手をあて、そっと撫でた。
カルラの言葉がよみがえる。
何よりも、自分の命を大切に。
そのためには力が必要なのだ。
セイリンが明確な他者の敵意に、殺意に晒されたのは初めてのこと。
人が人を憎み、殺そうとする。
それが他人事ではなく、自分の身に降りかかった。
男には誤解があったと思う。
しかし、その誤解を解く術も、時間もなかった。
相手には転変した魔獣の存在があり、セイリンが無力であったならば、とっくに命はない。
人の世は、理でもって動いているようで、その実、生きるには力がいるのだ。
相手の暴威に晒された時に、己自身で身を守らなくてはならない。
魔獣であれば、不用意に山に入らなければ、出くわすことは減る。
慎重に周囲を調べれば、そうした魔獣がいるのか、いないのか、それを探ることもできる。
だが、悪意ある人間というのは、魔獣のようには分からない。
男と出会った時、セイリンには男がどういう相手なのか、知ることは出来なかった。
人は魔獣ではない。
しかし、魔獣のように、他者を蹂躙する人間がいる。
これは困ったことだ。
カルラの言うように、多くの人と話し、それで人を見分けるしかないのだろうか。
なんにせよ、セイリンには自分の命を守る必要がある。
そのための力がいる。
天府をより強く発牙させるというのは、そのためだ。
そのためだ、と思いながらも、セイリンには何か、引っかかる思いは残った。
これは、自分のために、この男を利用したのではないのか?と。
この男のモノを自分が奪う行為のように思え、それならば男の行為を許しているようなものなのではないのか?と。
男を荒れ果てた社の墓所へと埋めた。
弔う方法というのを知らなかったので、単に埋めただけだったが、知らない以上は仕方がない。
終えた時には既に日は沈んでいた。
セイリンはそのまま社の中で休んだ。
何か考えるべきことがたくさんあるような気がしたが、疲れていたし、考えたくないとも心のどこかで思っていたのかもしれない。
セイリンはそのまま眠り、眠れば翌朝まで目覚めることはなかった。
荒れ果てた里を出る前に、セイリンは思い出したように房宿を狩った場所へと訪れた。
セイリンは山刀を抜く際に、房宿の割れた面を外しておいたのだ。
その時にはそれはとても忌まわしい物のように思えた。
吽形の面。
男が使い、そして金剛が使った怒りの面。
それをもう一度、良く見てみようと思った。
面は造った者の心根を表すという。
ならば、もう一度、その心根を確かめたいと思った。
ところが、そこで奇妙なことが起こる。
割れた面、その半分しかそこにはなかった。
崩れた蔵、そのひとつの石の上に置いておいたそれの片割れしかないのだ。
確かめるように屈むと、セイリンは気がついた。
足あとがそこにはあった。
確かに人の足あとだ。
セイリンよりは僅かに大きい。
房宿の血で汚れた地に、確かにそれが残っている。
ここに来て、面の片割れだけを持ち去り、消えた人間がいる。
セイリンが連想したのは、男の傷。
男には房宿があってなお、傷をつける者がいた。
天府を見たが、もはや匂いも何も残っていないのか、じっとセイリンを見返すだけ。
うすら寒い思いを不意に抱いて、セイリンは片割れとなった面を懐に入れて、荒れ果てた里を後にした。
最初に盗賊の男たちを検非違使に引き渡した里まで向かい、そこで衛士と検非違使を集めて、事情を話した。
男がいたこと。
ムカデの魔獣がいたこと。
男が自決を選んだこと。
男を社に埋めたこと。
天府の姿が見違えていたことで、魔獣を倒したということには一定の信が得られてようだった。
ただ、それでも少し調べたいので、一度、あの里まで一緒に行って欲しいと言われた。
断る理由もなかったので、セイリンは了承した。
あの里に行く前に、セイリンは盗賊になった男たちに面会した。
そこで、同じようにあの里であったことを話し、最後に割れた面を頭目らしき男に渡した。
男はそれを受け取り、まじまじと眺めていたかと思うと、不意に涙を落とした。
言葉もなく、時々、喉が鳴った。
男を追う魔獣はもういない。
もういないのだと、セイリンは語って聞かせた。
男は片割れとなった面をセイリンの手に戻すと、少しだけ笑った。
その笑いは、ぎこちなくはあったけれども、確かに心からのものだと思えた。
「ありがとうございます。きっと、必ず、この御恩は忘れません。ありがとうございます」
男たちのためにやった行為ではないのだと、セイリンが言っても、男たちは下げた頭を上げなかった。
セイリンが牢を去っても、ずっと。
それからしばらくして、あの里に向かい、衛士の検分に付き合い、再び里へと戻り、それでセイリンは開放された。
これから都に問い合わせて、術士の名簿を改め、逃げ出した者がいないか確認し、事の真相を明らかにするのだという。
そこまでセイリンが付き合う義理はない。
片割れとなった面は、結局、セイリンが持っていた。
術士というのは、やはり基本的には敬われるべき立場のようで、そうしたいと言っても、誰も阻もうとはしなかった。
再び追分に出ると、そこで一度セイリンは立ち止まった。
かつては右に行った。
そっちはあの荒れ果てた里へと繋がる。
左に行けば、やがて都へと繋がっていくという。
都。
人に聞けば、そこにはこの世のすべてがあると言う。
すべてとは何だろうか?
セイリンにとっては、今、自分の身にあるものと、老爺のいるあの山がすべてだった。
セイリンは追分を左に進む。
都には金剛がいる。
きっとカルラもいるはずだ。
都は未だ遠く、セイリンはその道を進んだ。
分かりたいことを分かるために。
老爺やカルラに言われたからではなく、自ら知りたいと思い、セイリンはその道を選んだ。
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