都は遠く、道は続き
第8話 センチピード01
ひとりの少年が道を歩いている。
少年の姿はこうだ。
ややゆったりとした藍色の着物に、薄茶色の革衣を巻きつけた旅装。
首には半眼の瞳の面を掛け、荷をまとめた大判の布、平包を胸の前に結び、結び目には幅広の山刀が差してある。
腰には幾重にも絹の銀糸が巻きつけられた糸コマ。
面差しには幼さが残るが、眼差しにはどこか精悍さが見え隠れしていて色気を感じさせた。
長く伸びつつある髪は結われている。
それは成人の証。
姿はともかく、この少年は既に成人しているのだ。
雨や風をよけるための羽織りの布には紋があった。
面と糸の意匠。
その意匠が示すのは、少年の能力である。
その能力とは、傍らにいる不可思議な獣に大いに関係している。
ウサギとも、キツネともつかない大型の肉食獣。
その獣が少年の傍らに付き従っていた。
長い両耳の間には、両耳よりも遥かに長い鹿を思わせる角があり、その額には少年の首に掛かっている面と同じく、半眼の面が赤い紐で結われている。
面は被っているというよりは、額に乗せているだけのようにも見え、実際にその獣の両目は一切、面に掛かっていない。
発達した両足はまさしくウサギのそれだが、長い体躯と爪のある前足はキツネのよう。
このような獣は本来、地上のどこにも存在しない。
つまり、この獣はただの獣ではない。
魔獣。
人を食べて、己の姿を自在に発達させる、人智を超えた獣。
魔獣は何も食べずとも飢えず、それで死ぬことはない。
しかし、それでもこの獣は周囲にある生き物を襲い、食べつくす。
まるで何かに命じられたように。
そして、この魔獣はそれまで自らにはなかった器官すらも発現させる。
それは発牙と呼ばれる現象だ。
爪や角、牙。
鱗や毛皮。
そして時に翼まで。
普通の獣が成長、発達するのとは訳が違う。
発牙した魔獣は、個でもって新たな種となるのだ。
発牙は魔獣が人を食べると起こる。
あるいは人を食べた他の魔獣を食べても起こる。
他の生き物では起こらないそれが、人を食べるとどうして起こるのか、それをまだ人は知らない。
体は巨大で、大の大人でも苦もなく食べ、好んで人を襲う、人の天敵。
それが魔獣。
そのはずなのだが、少年の傍らにいるウサギの魔獣は静かな目をして、ゆったりと、少年に歩調を合わせて進んでいく。
面をつくり、罠でもって魔獣を捕らえ、そして転変させる。
それが少年の持つ特殊な技能だ。
転変とは、魔獣に夢を見せることだという。
魔獣に人の夢を見せ、まるで人のように振る舞えるようにする。
人格を持っているかのように賢く、本来の暴虐性は消え去ったようになくなる。
ウサギの魔獣はそうして、少年によって転変し、今は少年に従っているのだ。
少年はそれを山の中で老爺から教わり、少年は山を下りた。
少年の名はセイリン。
ウサギの魔獣の名は天府。
成人したばかりの少年が目指す都は、まだまだ遠い。
通りを歩いていると、天府が不意に耳をピクリと動かした。
そうして、探るように鼻先を天に向けて、耳をしきりに動かす。
天府がこうした動きを見せるのは、初めてではない。
人には聞こえない音。
人には分からない匂い。
それをこの魔獣は探ることが出来る。
きっとこの周囲、それもセイリンが見渡せる範囲よりも、かなり広くにある異変に気づいたに違いない。
既にセイリンは動きを止めていた。
天府も歩みを止め、しきりに周囲を探っていた。
やがて、天府はひとつの方向を見定めると、転がる玉のようにあっという間に駆け出していく。
どうせ走ったところで、魔獣である天府の走りには追いつけない。
セイリンは、その後をゆっくりと追っていった。
セイリンが天府に追いつくと、既に事態は終わっているようだった。
短刀を投げ捨て、地に伏せる男が7人。
幾人かは腕で這って天府から逃げようとしているのだが、既に腰が抜けているのか、その進みは微々たるものだ。
残ったものは頭を抱えて、うわ言を呟き、現実を否定するように天府から目をそらしている。
天府は彼らに対して何をするでもなく、身を起こしたままにじっと見つめていた。
セイリンが現れ、その前足を撫でると、天府はようやく腰を下ろした。
その動作の気配に驚いたように、男たちから短い悲鳴が上がる。
「ひぃっ!ねっ、ねむりたまえ!きっ、きよめ給え!守り給い、幸え給え!」
「死にたくない!なんで……なんでだよぉ」
きちんと口をきける者もいるようだが、まともに思考できているとはとても思えない。
この場に新たにセイリンが現れたことすら、誰も気がついていない有様だった。
セイリンは短く息を吐いて、声をかける。
落ち着くように。
天府が取って食べたりはしないと。
セイリンの声に、何事かを呟いていた男がようやく頭を上げ、セイリンを見た。
その目には、夢でも見ていると言わんばかりの、自身の正気を疑う心が浮かんでいる。
何度か声をかけると、ようやくすべての男がセイリンを見た。
しかし、その目は誰もが同じで、やはり自身の正気を疑っているようだった。
自分は旅の術士であること。
天府が既に転変している魔獣であること。
それを幾度も説明して、ようやく男たちはきちんとセイリンを見た。
御伽草子にある異類物に出てくるようなキツネ、それに化かされたとでもいうような、そんな呆けた様子ではあったが、とりあえずは落ち着いたらしい。
男たちは道の外れでいったい何をしていたのか?
それをセイリンが問うても、男たちはなかなか口を開かない。
どうやって聞いたものかとセイリンが考えると、伏せていた天府が頭を上げて、その目で男たちを見た。
男たちがそれに気づいて見る間に顔色を悪くする。
目配せするようにお互いを見合った後、ようやく話しだした。
簡単に言ってしまえば、男たちは盗賊だった。
人を脅し、人から奪う。
そうして酒を飲み、気を紛らわせては、日々を生きながらえているという。
本来ならば、見張りの男が道を行く旅人や商人を見定め、これはという者がいたら残りの男たちに知らせ、全員で手に持った武器でもって脅し、奪うのだ。
ところが、天府がその見張りの男の気配に、その攻撃的な意志に、見張りの男が気づくよりも早く気づいたのだろう。
天府は見張りの男を追い、男は仲間のところに逃げた。
その顛末が今という訳だ。
「俺たちは誰も殺してないし、恨まれるほど酷いこともしていない。なぁ、あんた、見逃してくれよ……」
どうやら頭目らしき男がうなだれるようにしてセイリンに頼んだ。
セイリンが未だ、少年の風貌を残していることに、情けを期待しているという風ではない。
酷い目にあって、こんな酷い目に合うくらいなら、もっとちゃんとするからと言うようでもあった。
しかし、セイリンにはどうしたものかと困るばかりであった。
男たちは酷いことをされたと思っているが、セイリンにとっては何もしていないに等しい。
天府がちょっと殺気立っている人間を見つけたから、確認したくらいのものだ。
このあたりがまだセイリンは、ずれている。
普通の人々にとって魔獣というのが、野で出くわせば気絶するくらいに恐ろしいものなのだという認識はない。
魔獣が恐ろしい存在だ、という認識は確かにあるのだが、それでもその認識は明らかに普通の人々の抱く恐ろしさと比べたら、どうしたって軽い。
だから改心したのだ、と言われても、実際にどうなのかはセイリンには分からない。
セイリンの姿がなくなれば、また同じようなことをするかもしれないし、そもそも人を殺したことがないというのも嘘か本当かも分からない。
それでもセイリンにしてみれば、信じてここで別れても良いと思えた。
嘘を言っているとはどうしても思えない。
それでも迷う心があるのは、セイリンに人里とはどういう場所なのかを説き、旅をしていくにあたっての心得を伝授してくれた男、カルラの言葉があったからだ。
誰もがセイリンのように正直であるとは限らない。
自らの利となるように嘘を吐く者もいるし、また自分自身を欺いて、嘘を嘘とも思わない者もいる。
そうした者がセイリンを騙し、利用しようとすることもあるだろうと。
そうは言われても、やはりセイリンには良く分からないのだ。
気をつけなさいと言われたから、気をつけてはいるのだが、実際に気をつけてどうしたら良いのかが分からない。
この男たちは罪を犯した。
それを確かに自分たち自身で認めたのだ。
ならば、後は検非違使の仕事だろう。
しかし、この男たちが真実改心して、以降罪を犯すことがないというのなら、ここで放免しても良いのではないか?とも思えてしまう気持ちもあった。
それくらいに、男たちは今、憔悴しているように見える。
そこまで考えて、セイリンは男たちに聞くべきことがあることに気がついた。
好き好んで盗賊になったのならば、やはり許すことなどできない。
だが、以前に訪れた里では、里に魔獣が出没するようになった結果、日銭を稼ぐ方法がなくなり、それでどうしても仕方なく盗みを働いたものが多数出たという。
それと同じようならば、考える価値があるのではないだろうか?
セイリンが男たちにどうして盗賊などになったのか、それを聞くと、男たちはやはり最初は言い渋り、それでも天府の存在に圧されたかのように話しだした。
結局、セイリンは男たちと共に次の里に向かい、そこで検非違使に引き渡した。
一応、男たちに出くわした経緯と、どうして男たちが盗賊になったのか、その訳を自分からも話し、好んで盗賊になった訳ではないらしいことは話した。
どうやら既に被害の届け出はあって、近々、近辺を捜索するつもりであったようで、礼と共に、いくらかの謝礼が貰えた。
そこで、検非違使に男から聞いた話の一部を確認のために尋ねる。
「ああ。その話か。確かに本当だ。まあ、実際にその里の者なのかは確かめないと分からんが、魔獣が出て、空になった里は確かにある」
ここを出て、すぐのところに追分がある。
一方は都に通じ、もう一方は別の里へと続いていく。
それぞれが二度と交わらない道だ。
その別の里へと通じる道を行けば、里よりさらにその先に別の里へと通じていく。
そうして道の先に、ひとつの里がある。
そこから先にはもう別の里はない。
その里に魔獣が出たのだ。
なんとか逃げ出した者が助けを求め、実際にその里に多数の衛士が向かったのにはふた月も掛かったという。
だが、衛士が辿り着いた時には、その里には既に魔獣の姿はなく、また生きている者の姿もなかった。
いくつもの家々が崩れ落ち、至るところに雑草が生え伸び、山の獣が我が物顔で歩き回るそこは、もはや人の住めるような場所ではなくなっていたという。
里の至るところにあったという血の跡。
それがすべてを物語っていた。
里にあった者は衛士も、民も、皆、食い殺されたのだと。
それだけの人間を食べた魔獣ならば、放ってはおけないとして、衛士たちはしばらくはその荒廃した里を中心に魔獣の姿を探したという。
ついでに調べた要石の配置に異変は無く、それはつまり、あの猿のように、要石を飛び越えてこれるだけの大物だったということを指し示す。入り込んだ時点で大物の魔獣であったならば、今は、どれほどに発牙しているのか?そう考えれば、なおさら放っておけるはずがない。
だが、魔獣はどこにもいなく、影も形もなかった。
結局、魔獣の討伐は諦められ、荒廃した里はそのまま打ち捨てられた。
そのままの里の状態では、すぐに暮らせず、更にその里に戻るべき人間はごく僅か。こうなってはとても里の復興など、成し得るはずがない。
いつか、どこかの里で人が増えて、新たな土地が求められた時には再び里として、切り拓かれるのかもしれないが、それはずっと遠い未来の話。
再度人が住めるよう、元の状態に戻すのに必要なのは、ただの人手だけではない。
既に防備が綻んでしまった里では、魔獣でなくとも、ただの獣であっても入り込めば、大事になってしまう。
それを防ぐためには衛士が必要なのだが、ただでさえ、里ひとつ分の衛士が消えたのだ。そう容易に代わりは準備できない。
一度、破綻してしまえば、余程の大きさの里でもこんなものだと、検非違使は淡々と語った。
今までにもあったことだと。
そう珍しい話ではないのだと。
ひとつの里が、そうして消えたのだ。
里に魔獣が現れ、逃げ出した男たちがいた。
何も持たず、己の身ひとつで逃げ出した男たちの手には、何の財も残っていない。
土地を得るにも、家を得るにも、何も持っていなかった。
逃げ出した先の里では、厄介者として扱われた。
魔獣に襲われた男たちを、穢れた者として、その里の者たちは扱ったのだ。
その者を追って、再び魔獣が現れるとも限らないと。
ただ襲われ、ただ逃げ出しただけなのに、誰も助けてはくれない。
あの魔獣からもそうだったし、魔獣から逃れてからもだ。
そして、男たちはまとまり、里でひとつの蔵を襲い、逃げた。
以来、男たちは逃げ続けているのだ。
まるで、あの魔獣が今も自分たちを追ってきているかのように。
その影からずっと逃げ続けるように。
……それが、男たちが語った、盗賊になった理由だった。
ひとつの宿に身を落ち着けると、セイリンはひとり考えた。
ムカデ。
どうやったらそれを捕らえられるだろうかと。
男は語った。
それは巨大なムカデだったと。
どこまでも続く長い巨体を持ち、表面はまるで鱗のように光を反射して輝いていたという。
それが里そのものを囲っていたと。
検非違使の紹介で話を聞きに行った衛士によれば、混乱の中で、どこに行ってもムカデに行き会ったように思えただけで、実際にそこまで大きくはなかっただろうという話だった。
それでもただの魔獣の範囲に収まるとは思えない、長い体躯の持ち主だったことは疑いようがないらしい。
セイリンが使う罠は、獣の範疇に収まる相手を念頭に置いている。
つまりは二足で動くか四足で動くかの違いはあっても、四肢があり、頭があり、そういう相手を捕らえるように考えられている。例え、足の数が何本増えても、それは問題ではないのだが、ムカデとなると話は別だ。
それでは獣ではなく、虫の範疇だ。
獣のような腕はなく、足は体のすべてについているように、無数にある。
果たしてそんな相手に糸がかかるだろうか?
これはこまったことだ。
四肢の無い相手として、使ったことはなかったが、一応、鳥を捕まえる罠というのも老爺から聞いていたが、そうした虫のような魔獣を捕らえる罠というのは聞いたことがない。
誰に聞こうにも、この里にも術士はいないという。
転変した魔獣が多数いれば、無理矢理にでも組み敷けるだろうかとも思ったが、想像ではそれでも難しいのではないかと思えた。
そもそもそんな数の魔獣もいない。
セイリンが床につくまで、床についてからもその方法というのを考えていたけれども、眠りに落ちるまでの間に思いついたことは何ひとつとしてなかった。
だが、男たちから聞いた話がセイリンの耳に残っている。
男たちは言った。
そういえば、あの魔獣の頭にも、天府のように何かが載っていたような、と。
翌朝、目を覚ましたセイリンは、その里に行ってみようと思い立った。
既にその魔獣も行方が知れないというのなら、今更その里に行ったところで危険はそうないだろう。
まさか今もそこに魔獣がいるとは思っていない。
ただ、実地でその魔獣の痕跡を見れば、何か思いつけるのではないかと思ったのだ。そして、もしも男たちの見たものが面であるならば、その魔獣が何だったのかを知りたいとも思っていた。
以前に出くわした虎の魔獣のように、傍らに誰もいないのか、それとも、誰かが転変した魔獣を悪用したのか。何もない可能性の方が高いのは分かっている。
それでも、直接自分の目で何かないか、見たい。
それに、魔獣によって人が住めなくなった里というのを見ておく必要があるとも思っていた。
今、里には多くの人々が通りを行き交っている。
顔には笑みを浮かべている者もいるし、実際に笑い声を上げる者もいた。
平和で、安穏とした光景だ。
だが、あの男たちにとっては、里はそうではなくなっていたという。
魔獣に襲われ、住んでいた里をなくしたというだけで。
もしかしたら、あの猿に襲われた里も、そうなっていたのかもしれない。
一時に暴れて何もかもを壊すような魔獣でなかったとはいえ、襲われ続ければやがてはそうなっていたということもあり得るのだ。
男たちの天府を見る目は異様だった。
ただの怯えとは違う。
何もされずとも、自身のすべてが軋みを上げているような、そんな痛みを伴っている感情がそこにはあった。
セイリンには、最初、分からなかったが、想像した。
何もかもを奪う存在を。
老爺も、カルラも、今周りにある何もかもをも、それを奪う存在があるとして。
セイリンの中に、何か砂嵐が吹き荒れるような、そんな光景が一瞬見えた気がした。
しかし、今、目に映っているのはやはり安穏とした里の光景だ。
そんな里の光景を見て、やはり見ておく必要があるとセイリンは強く思った。
セイリンの中に結びつかない思いもある。
人と人の関係。
魔獣と人の関係。
それはうまく言葉にはならない思いだ。
だが、男たちのあの荒んだ目が脳裏に残る。
その目は魔獣によって生まれたものだが、それだけではない。
人に拒絶された結果として生まれたものだった。
セイリンには今の里の光景が、あの男の目に繋がるとは、どうしても思えなかった。
セイリンは天府とともに、里を出、追分けに至り、そして都とは別の道へと進んだ。
その里は既に野山と変わらない有様だった。
至るところに雑草が生い茂っている。
ネズミのような小さな獣だけにとどまらず、崩れた家の中からシカが飛び出してくる場面もあった。
人がいてこその家であり、誰もいなくなればそこは容易に家ではなくなるというのは聞いていたが、それにしても、ここがかつては人が行き交っていた里の中とは到底思えない。
至るところに虫が飛び交い、足元を這い回っている。
これが荒廃なのかと、セイリンはうすら寒い思いでその様を見て歩いた。
もはやここは、人が住む場所ではないのだ。
そんな中をセイリンは、魔獣の痕跡を探して歩いた。
ところが、思うような痕跡は見つからなかった。
巨大であったというならば、体は決して軽くはないはずだ。
なのに、それらしい足あとというものは残っていても良いはずなのに、どうしてかそれらしいものがなかなか見つからない。
無数にあるという足、それに体重が分散されることで、ひとつひとつの足あとを残さずに移動している?
雑草をかき分け、時間を掛けて探しても、結局はそれらしい痕跡は見られたものの、それだけでは体の正確な大きさは分からなかった。
それでも、いくつかの想像はできた。
きっと、この魔獣は相当に素早いはずだ。
元々、虫というのは獣の比ではないくらいに素早く動く。
大きくなっても、それは変わらないはずだ。
そして一切の足あとがないということは、この魔獣には動くのに溜めが要らないということ。
ひとつひとつの動作がそのままこちらを追い詰める動きになり、自在に体を曲げ動かし、どこまでも人を追い、襲う。
鱗のようだったという外皮も、硬いに決っている。
長大な体は、一時に全部を拘束できなければ、きっと捕らえることは不可能。
頭を抑えても、残った体で暴れられれば、近寄ることはできないし、罠も緩む。
想像以上に厄介な相手だと思えた。
もしも出くわしたら、捕らえようなんて考えずに、頭を潰すか、体を断ち切るか、とにかく即死させる手段を講じなければならない相手。
だからこそ、セイリンは疑問に思った。
そんな相手を捕らえられる術士が果たしているのだろうかと。
本当に、その魔獣の額に面は載っていたのだろうかと。
セイリンが物思いにふけっていると、天府が離れたところから、僅かに声を出した。
魔獣の上げる咆哮とは似ても似つかない、くぅ、と甘い声だった。
その声に天府を見ても、天府は声を出すばかり。
そこに何かがあると言うように。
天府が立つ、崩れた家の側へと近づき、そしてセイリンは見た。
崩れた家の中、荒れた部屋の隅に、ひとりの男がいるのを。
壁に背を預け、足を伸ばし、うつむいている。
その顔は影になっていて見えないが、眠っているように見えた。
そう、眠っているだけで、死んでいるようには見えなかったのだ。
暗い部屋の隅なので、様子はきちんとは分からなかったが、この里の状況から考えて、あの男がまともに四肢を残していられるはずがない。
惨劇があった後に、この里を訪れたものだろうか?
ただ、髪は結ってはおらず、ざんばらで、胸のあたりまで髭が伸びており、とても身綺麗とは呼べない。
生きているにせよ、死んでいるにせよ、確かめようと思って、セイリンが崩れた壁から這入ろうとすると、気配を感じたのか、男が顔を上げた。
はっとした表情。
それはすぐにむき出しの敵意に彩られる。
まるで魔獣のような表情だった。
「くそがっ!こんなとこまで追ってきやがったのか!?房宿!!どこだ!?俺を守れ!!」
声を掛けるよりも先に、男は悪態をついて叫び、首から下げていた小さな笛を咥えて吹いた。
すると、後ろの天府に急に引っ張られた。
まだ中には入っていなかったセイリンの腰の糸コマを咥えて、引いたのだ。
何を?
とセイリンが問うよりも早く、天府はそのまま跳び、近くの家の屋根へと下り立つ。
衝撃に左後ろ脚の部分が崩れて落ちたが、天府はなんとか体勢を整えて屋根の上に立つ。
そこでやっとセイリンを下ろした。
なぜ、天府が逃げ出したのか、それは問わずとも明らかだった。
村の一角から土煙が上がる。
ひとつの家が崩れた。
きっと何を避けることもせずに、まっすぐにこちらへと向かってきているのだろう。
待つというほどのこともなく、それは姿を現した。
ムカデの魔獣。
天府の3倍、4倍はあろうかという長大な赤が水中を泳ぐ魚のように這い現れる。
男が房宿と呼んだ相手は、間違いなくこれだろう。
その証拠に、確かにそのムカデの頭には、ひとつの面があった。
それはかつて、カルラが吽形の面と呼んだ、怒りを思わせる面だった。
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