第11話 ウルフ02

 翌日、セイリンは夜も明けきらない内に目が覚めた。

 幸いなことに、体の不調はない。

 ここはいったいどこなのか?などという不覚もない。

 ここは郷に詰める術士、スオウの役宅だ。

 まだ早い時間にも関わらず、人が動く気配がある。

 下働きの者だろうか?

 そう思って部屋を出れば、意外にも出くわしたのはスオウだった。

 挨拶を交わして、外へと出て、獣舎に向かう。

 中に入れば、気配に目を覚ましていたのか、既に天府がこちらを向いていた。

 サイロウにしても同様だった。

 近づくセイリンに、天府は鼻を身体にこすりつける。

 暇だから出せ、そんな風に言っているようでもあった。

 セイリンはなだめるようにその鼻をなでてから、トンと軽く叩いた。

 ただ文句を表したかっただけなのか、それで納得したように頭を伏せて、そのまま目を閉じる。

 笑い声がして振り返れば、スオウがこちらを見ていた。スオウとサイロウには天府とセイリンほどに距離は近くなく、離れているとすら言っても良い。


「良い魔獣だな。転変した魔獣には己自身が表れる。良く先代が仰られていたことだ」


 言ってからスオウは己の転変させた魔獣を見た。

 その目にはなにか否定的な色が見える気がした。

 見たくないものを見るような、そんな目。

 何か聞くべきかと考えてもみたものの、どう声を掛けたら良いか、セイリンにはそれが分からずに、結局は聞かなかった。

 微かな気配がした。

 セイリンが迷っている間に感じ、そちらに気を取られたせいもある。

 セイリンの気のせいではないらしい。実際に天府も頭を起こして、目を開いていた。

 ひたりと、何かを突きつけられたような、そんな鋭い気配。

 鋭いのだが、か細い。

 何かしていれば紛れてしまうような、そんな些細な気配。

 スオウはそれには気づかなかったようで、天府やセイリンと同じように、急に獣舎の入り口の方に目をやったサイロウに何か?と問いかけている。

 だが、セイリンが獣舎の外に出ても、特に異変は見られなかった。

 既に日が昇り始めた空は雲ひとつない。そこに鳥の姿もない。

 カラスの魔獣が急降下してきたりもせず、猿の魔獣が下り立っても来ない。

 一瞬だったとはいえ、魔獣である2頭が意識を向けるほどだ。そこらの子どもが興味本位で覗いていたなんてことではないだろう。

 そう考えても、見回してみたくらいでは何の異変も見つけられない。

 スオウのどうかしたか?という尋ねに、気のせいでしたと簡単に返し、獣舎を出た。2頭の魔獣は心配しなくとも良いだろう。

 害意を持った何者かが近づいても、魔獣1体の相手をするのにも甚大な被害を覚悟しなくてはならない、そんな相手が2頭もいるのだ。容易に何かを出来るはずがない。

 セイリンは思い出していた。山で暮らしていた頃を。

 今の気配は獣の気配に似ていた。

 身を潜めて、じっとこちらを見ている。そんな気配に。

 じっと見るのはこちらを警戒しているからだ。

 じっと見るのは油断があれば襲おうと考えているからだ。

 警戒し、襲おうと思うのは、果たしてスオウなのか、それともセイリンか。

 結局、この日、気配を感じたのはこの時だけだった。

 あくまでも、この日は、ではあったが。


 スオウに請われて、セイリンはスオウの仕事部屋で面を見せた。

 ガンギは今日は姿を見せていない。聞けばいつものことで、昼過ぎには現れるだろうと、スオウは答えた。

 今、セイリンの手元には、セイリンの手によるみっつの面がある。

 老爺の元を出る時に持ってきたものふたつと、旅に出てから新たに作り出したものひとつだ。

 新たに作り出したものは、暇さえあれば手を入れるようにしている。

 スオウが特に時間を掛けて見たのは、その新たに作り出した方だった。

 未だ荒削りのままで、仕上げには程遠い。

 なのに、スオウにはそこに目を離せなくなる何かがあるらしい。 


「これはきっと良い面になるだろう」


 スオウは面から目を離して、セイリンを真っ直ぐに見て微笑んだ。

 この時点でもうそんなことが分かるのだろうか?

 相変わらずセイリンには自分の作るものが良いのか、悪いのか、その判断が正確にできているという自信はない。

 老爺のそれと比べて、今でも劣っていると考えているし、そしてもうそれと直接見て比べることはできない。

 だが、今、セイリンの手元には見て比べることが出来るものがひとつある。

 あのムカデの魔獣がつけていた割れた面。その片割れが。

 実際に、セイリンは時たまそれと見比べることがあった。

 自分の作るものはほとんど無表情に近い。

 割れた片割れは明確に怒りと分かる表情が浮かぶ。

 どうしてこのような表情を浮かべるのか?その理由にこれまでは答えられるものはいなかった。しかし、セイリンの前には今、スオウがいる。

 実際にその面を作り、使っているものが。


「そうか。阿形、吽形の面をそなたは知らないのだな。忘我の面にはいくつかの基本とされる型がある。そなたが作られる面は古拙と呼ばれる面だ。最も古くから伝わる面の型で、今では弟子になりたての術士が修練に一通りの型の面を作る時くらいにしか鑑みることはないだろう。……先代がずっと古拙を作られていた?それは、何故なのだろうな……。古拙の面では、転変させる時に魔獣の意志が弱まると言われている。だから今では実際にこの面で転変させる者はいないのだが」


 その話をセイリンは訝しんだ。

 老爺の魔獣はすべてこの面でもって転変していた。

 とても意志が弱いとは思えなかったし、それは天府にしても同じだ。


「確かに。そなたの魔獣の意志が弱いとはとても思えない。そもそも、そうか。よくよく考えてみれば、古拙の面でもって転変した魔獣というのを私は初めて見たのか」


 スオウも子どもの時分には、古拙の面を作ったという。しかし、それから言われるままに、教えられるままに他の面を作るようになり、初めて転変させた時にはもう古拙の面を思い出すことすらなかったらしい。

 老爺はスオウが古拙と呼ぶ、この面しか作らなかった。それ以外の面を作っているところなど、一度も見たことがない。

 だからそれが当たり前で、どうしてその面しか作らないのかなどと尋ねたことなどあるわけがない。

 面にはそれしかないのだ、そうセイリンはずっと考えていたのだから。


「都を離れられて、何かに気づかれたのかもしれないな。あるいは、私はこれを古拙の面だと思うが、実際には何かが違うのかもしれない。お会いしたいものだな」


 スオウは自分の願望を最後に呟くように口にした。そこにはそれが叶わないという現実を踏まえて口にしているようだった。

 術士というのは自分の意志ひとつで簡単に動いてはならない。

 術士が離れれば、その地が危険になるのだから。

 何かあった時に、いませんでしたでは済まない立場。衛士とは比べものにならないほどに、その立場は重いという。

 だからこそ、セイリンがこの郷を訪れた時、検非違使は驚いたのだ。

 何の前触れもなしに術士が現れることなどあり得ないと。

 セイリンは確かに術士だ。だが、都に属する術士ではない。

 セイリンはセイリン自身に属しているだけ。

 老爺ですら、セイリンを束縛しようとはしなかった。

 今までにいなかったというだけで、どこにも属していない術士が旅することは罪ではない。スオウはそう咀嚼して、セイリンを受け入れた。

 スオウは先代のミロクが何を考え、セイリンを育て、そして都に送り出したのか、その答えが一瞬見えた気がした。

 しかし、スオウはそれを口にはせずに、代わりに面についての説明を続けた。


「阿形、吽形の面は転変した魔獣の意志をより強くすると言われている。特に魔獣と戦う時に、怯まず、躊躇せず、魔獣の性を残しているかのように勇猛に振る舞う。阿形は始まりを、吽形は終わりを示す。己の敵に先んじて戦いを挑む果敢さと、己の主人を最後まで守る勇猛さをそれぞれ表しているのだ。転じて、最も信頼するべき魔獣には吽形を、そうではない魔獣には阿形の面を使う術士が多い」


 サイロウがつけていた面は阿形の面だった。

 それが意味することはつまり、スオウはサイロウをあまり信用していないということか?

 スオウがサイロウと対する時、そこには距離を感じる。

 セイリンは思い切って尋ねてみる。

 スオウはサイロウが嫌いなのか?と。

 スオウは最初笑った。そして否定の言葉を口にしかけて、躊躇う。

 躊躇いは戸惑いでもある。

 自分の心の内に、そういう一面があるのではないかと、不意に思った。

 思ってしまったら、そうなのではないかと思う気持ちが大きくなる。


「ははっ……いや、そうか。そなたの言われる通りなのかもしれない。私にはかつて1頭の魔獣がいた。吽形の面を付けた魔獣で、この郷の近くで転変させ、名をハクヨウとした。白い羊に似た魔獣で、左右で対の鋭い黒角を持つ、見事に発牙した魔獣だった」


 スオウの目が遠くを見る。その目は現実を写していなかった。


「私はハクヨウと共に幾度と無く魔獣と戦った。いくつかの魔獣を転変させて私は自信を深め、ハクヨウもまたいくつかの魔獣を食し発牙し、強くなっていった。郷の人々からも信頼されていたし、また守りもしっかりとしていて凶悪な魔獣が入り込んでくることもない。だからずっとそんな生活が続くと私は考えていた」


 スオウはそこで一度、言葉を切った。思い出しても感情をたかぶらせないように、呼吸を整えるように、息を吸い、改めて話しだす。


「ある日、1頭の魔獣が現れた。それはカラスの魔獣だった。空から突如として降下してきて人をさらう、恐ろしい魔獣だった。多くの人が犠牲となり、私はそこでなんとしてでもカラスを狩ろうと策を案じた。ハクヨウと私ならば出来ると思ったが、そう思っていたのは私だけだったようだ。ガンギは反対したし、ハクヨウも気乗りしていない様子だった。それでも人は減り続ける。鳥形の魔獣は追うだけ無駄だ。空には罠を張ることはできず、降下してきた一瞬を狙うしか無い。そこで郷の外に罠を張り、香を炊き、私自身を囮としてカラスが現れるのを待った」


 カラスの魔獣。その話にセイリンは1頭の魔獣を思い浮かべる。それはもしかして、あの魔獣なのではないのか?黒曜と呼ばれる恐るべき転変した魔獣。


「果たして、カラスは現れた。一見して何もないと思われる場所に、ひとりでいる人間なんて、格好の獲物だと思ったのだろう。カラスは降下してきて、私は行けると思った。その時だ。そこにオオカミの魔獣が現れたのは」


 2頭の魔獣が現れては、いくら罠があり、強く発牙した魔獣がいても、どうしようもなかった。そう語るスオウには苦渋がにじむ。どうしようもなくなる前に、出来ることがあったのではないかと。


「私は失敗し、その代償はハクヨウが払った。ハクヨウを残して私は逃げたのだ。結局、カラスは都から来た他の術士が捕らえた。そして私は人を襲うべく郷に現れたオオカミの魔獣を捕らえ、転変させ、サイロウと名を付けた」


 サイロウさえ現れなければ。

 まるで責めるような気持ち。

 ハクヨウを死に至らしめたのはサイロウだ。

 ハクヨウを殺した相手が身近にいる。

 実際に殺し、食したのがカラスであったとしても、すべてはサイロウによって引き起こされた凶事としか思えない。

 それからスオウはサイロウを従えているのだが、どうしても考えてしまう。

 ハクヨウのことを。

 どうしても比べてしまう。

 ハクヨウとサイロウとを。

 決してハクヨウに比べて、サイロウが格別に劣っている訳ではない。

 今までにも十分に働いてきたし、転変する前と後ではその中身は別の存在と言って良い。

 それはスオウにも分かっている。いや、ずっと分かった気になっていた。

 サイロウはもはやあの時に割り込んできた魔獣とは別の存在なのだと。

 だが、それでもどうにも距離を置きたい気持ちがあった。

 セイリンにはっきりと、嫌いなのか?と聞かれて、やっとスオウは自身で理解したのだ。

 結局のところ、ハクヨウのことが好きだった。それを死に至らしめたサイロウのことが嫌いなのだと。


「ここしばらくはずっと魔獣はこの郷に現れてはいない。それでも願っていたのかもしれない。他の魔獣が現れることを。それがサイロウを殺すことを。そうしたらきっと私はサイロウを殺したその魔獣を喜んで捕らえ、転変させていたのだろう。……浅ましいことだな」


 自嘲的な笑みは寂しげで、呟きは涙のようにこぼれた。

 実際にスオウは泣いてはいない。

 セイリンにはそのことが、逆に痛ましいと思えた。


「すまない。つまらないことを聞かせた。どうしてこんな話になったのだったかな?」


 セイリンは阿形、吽形の面についてからだ、と答え、そして尋ねた。

 では、金剛とは?と。


「ああ、そういえばそなたは会われたのだったな。コンゴウとは、先程にも話したミロクの名を継ぐ者を排出してきた家の名だ。いくつかある中でも、コンゴウの歴史は古く、それこそ初代の頃には既にもう存在していたという。確かにあのカラスの魔獣を転変させたのも、金剛の家の者だった」


 姓とは職業、あるいは職能を持つものを表しているとセイリンは聞いていた。

 この場合の家というのは、どうも印象が違っている気がする。

 それを尋ねると、スオウは少し考えてから口にした。


「必ずしも同じ家に生まれた者が同じ姓を持つとは限らない。人は例え親子であっても、その能力まで似るとは限らないのだから。しかし、こと術士の家系においては同じ姓を持つ者がほとんどだ。親は子も術士であって欲しいと願い、子もそれに応えようとする。子の多くは術士を志す。そして、術士の子には術士の才を持つ者が多く、親にしても小さな時からそうなるべくして育てる。例えばそこらの商家であれば、店を継げるのはひとりの子だ。であれば、子が幾人もいれば継げない子も出る。普通、そうした場合は職人の弟子に出すか、あるいは衛士や検非違使を志すように勧める。術士の場合はそうじゃない。術士の数は少ない。これほどまでに世に必要とされているにも関わらずだ。だからといって、誰にでも教えて良い術ではない。悪用されれば最悪、里が、郷が、それこそ都であっても滅びかねない。少しでもそんなことは考えもしないような人を育てたいと考えた時に、家というのはひとつの保証になる。そうしてひとりでも術士を輩出できれば、その家は次も術士を輩出しようと努める。だから、術士においては、その姓というのは家を指しても間違いではないということだ」


 セイリンも同じような事情で老爺から術を教えられたのかもしれない。

 セイリンの心根を見て、教えても大丈夫かどうか、確かめている時期がセイリンが知らないだけで、きっとあったのだろう。


「コンゴウという家は都においては一族皆が術士の一大勢力と言っても良い。従える魔獣の数も多く、その魔獣でもって常に新たな魔獣を増やし続け、都の守りの要となっている。……敵も多く、色々と言われることの多い家だし、実際に尊大な人間も多い。だが、私はあの家には恩義を感じているのだ。実際に、都にいる頃に世話になることもあった。言われるほどには悪い家ではないと私は思う」


 スオウはセイリンの実感とは逆のことを口にする。

 カルラも言っていたことではあった。

 力がなくては守れない。

 あの男には力があった。

 そして実際にそれで人が助かっている。

 そう言われても、やはりセイリンにはあの男のしたことを許せるとは思えなかった。

 きっと、スオウにとってのサイロウみたいなものなのかもしれない。

 スオウが殊更に金剛のことを悪く言うつもりはないようなので、セイリンもその思いは口にはしなかった。

 正しさとは何か?

 セイリンが正しいと感じることがある。

 それが他の誰かにとっても正しいと、どうしたら分かるのか?

 セイリンには分からない。

 どうして誰にとっても正しいことがないのだろうか。

 そんな状態で、どうして誰もが進んでいけるのか。

 セイリンが迷うのはいつも人のこと。

 魔獣に対しても、ひとりで旅をしていても迷うということは極端に少ない。

 山にいる時には迷うという気持ち自体がなかったように思う。

 心を決めたいと願っても、決めることができないもどかしさ。

 そうした苦悩に近い思いが顔に出ていたのか。

 スオウがセイリンを微笑むように見ていた。

 セイリンはそれには気づいていない。

 スオウは思っていた。

 きっとこの少年は良い術士になるだろう、と。

 それこそ、術を教わったというあの方と同じ名前を継げるほどに。

 根拠は何もない。

 しかしながら、少年の表情から受ける印象と、少年の作る古拙の面の印象、それはとても似ている。

 顔形が似ているということはない。

 それでも確かに少年の心根が面に確かに表れているのだ。

 以前に作ったという面と、今作っているという面とでは明らかに違いが見える。

 荒削りでも、迷っていても、それでも正しく、美しくあろうという気高さが確かにそこにはある。

 まるで光り輝くように、以前のものよりも輝きが増している。

 面は術士を表す。

 ならばこの少年もこれからますます輝くのだ。

 既に少年と呼べる時分からはとうに遠ざかっているスオウには、それが眩しくて、その眩しさが不思議と嬉しいと思えた。

 その嬉しさはスオウにとって、昔、先代のミロクに会った時と同じものだ。

 だからこそ、スオウは確信に近いほどに感じていた。


 例え都とどれだけ縁がなかろうとも、この少年には次のミロクの名を継ぐ、それに足る資質があると。

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