第12話 ウルフ03

 昼を過ぎると、スオウの予言通りにガンギが姿を現した。

 セイリンはガンギに願って、いくつかの罠を見せてもらえることになった。

 ガンギはわざわざひとつひとつの解説をするつもりはないらしく、罠の置かれた部屋に案内すると、さっさとどこかへと消えてしまった。

 罠にはセイリンが見たことのないものも、いくつもあった。

 セイリンが使い慣れているのは銀糸を使ったものだが、やはりそれだけでは捕らえられない魔獣も出てくる。

 術工と呼ばれ、罠を専門にしているだけあって、ガンギの罠は精巧に、頑強に作られていた。

 柵を利用したものや、檻のような罠、他にも一見しただけではどのように仕掛けるのか、想像もつかないような罠も多い。

 下手に触ると、壊れはしないだろうが、変に作動してしまうかもしれない。

 そう思って、簡単に確認するにとどめ、どう作動するのか想像するだけでもセイリンは楽しめたし、勉強にもなった。

 そうして罠を見ていると、気配を感じて振り返る。

 そこには誰の姿もない、なんてことはなくて、ひとりの幼い少年がどこかぼんやりとした表情でセイリンを見ていた。


「だれ?」


 唐突な問いに、やや面食らったものの、セイリンは少年の前に屈み込み、自分の名前と、スオウと同じ術士であることを話した。

 話の内容が理解できたのかどうかも分からない内に、少年は、たたっとどこかへ向かって駆け出していってしまう。

 見知らぬ人間が恐ろしかったのか、それとも単に自分には関係のない人間だと判断したのか。

 歳の頃はセイリンよりは随分と下だろう。

 自分にも同じくらいの年の時分があったはずだが、セイリンには自分がその頃がどんなだったかはうまく思い出すことが出来なかった。

 それが普通のことなのか、それとも自分は忘れっぽいのか。

 その後も、しばらく考えてはみたものの、覚えているのは朧気な断片ばかり。

 罠も一通り見たので、礼を言おうとガンギの姿を探すと、ひとつの部屋に先ほどの少年といるのを見つけた。どうやらそこがガンギが普段仕事をしている部屋のようで、中には工具の類が並んでいる。

 ガンギに尋ねると、ふたりは親子なのだと分かった。

 そう言われてみれば、顔の形がどことなく似ていた。

 親と子は似るもの。

 そんな話は聞いていたのだが、自分の両親のことは既に覚えていないし、今の自分とも比べられない。里でも親と子とを見比べる機会というのもなかった。

 セイリンはここではじめて、そんな話の意味をこういうことなのかと知って、つい笑ってしまう。

 特段、ふたりのことをどうこう思ってという訳ではなかったのだが、ガンギがややむっとした顔をして、それに合わせるように少年も眉間にシワを寄せる。

 その表情も、ふたりは似ていたのでついつい笑ってしまいそうになるのをセイリンはなんとかこらえて謝った。


 ガンギとスオウの付き合いは長いのだが、ガンギは妻を娶り、スオウにはその機会はなかったという。

 都にいる時分には、異性のことよりも、術について、魔獣について知ることの方が大事で、他のことに気を使う余裕はなく、都を出てからもハクヨウを失ってからはより一層、魔獣について調べ、この郷に尽くすように生きてきたようだ。

 縁談の類がなかったという訳ではない。

 術士というのは大変な地位にあるのと同じで、それこそ年頃の娘のいる親のところに挨拶に行けば、どうぞとその場で娘を差し出されてもおかしくないという。

 ガンギの表情では冗談を言っているようには聞こえなかったが、どうやら今のは冗談のようだ。

 だが、本気でそれを行えば、いや、そんなことをしなくてもスオウがそれとなく誰かに妻が欲しいと言うだけで、きっとその日の内に良家との縁談が進められることだろう。

 しかし、スオウはそんなことをしない。縁談が来ても、相手に失礼のないようにそつなく断ってしまっているらしい。

 本人がしたがらないことを、ガンギも勧める気はないし、その内に諦めて所帯を持つだろうと思っていたら、随分と長い時が経ってしまったようだ。


「スオウの家は既にアイツの兄貴が継いでる。家を継ぐ必要が無いのなら、自分に必要ないとか考えてるんだろうよ」


 素っ気ない調子で言ったが、スオウの身を案じているのは目を見て分かった。

 少年がガンギの道具に興味を示して触ろうとするのを、ガンギが「やめろ」と端的に言う。言葉は相変わらずぶっきらぼう。しかし、少年の手を止めるガンギの手には苛立ちは見えず、必要以上の力は込められてはいない。

 その光景を見て、セイリンは少しだけ思い出す。

 セイリンが面を作り出してすぐの頃。

 老爺が同じようにしてセイリンの手に触れたことがあった。

 その手も、今と同じようではなかったか、と。

 セイリンには老爺に対する遠慮があった。

 しかし、老爺にとっては自分の子どもと同じような心持ちで接してくれていたのかもしれない。

 少年がガンギの手を無邪気に叩いて笑う。

 ガンギは宥めるように少年の頭を乱暴になでた。

 このふたりから見える親愛、それがセイリンにはこそばゆいように感じられた。

 いつか自分にも子と共に歩む時が来るのだろうか?

 想像してみても、うまく像を結ばない。

 やはりそれは他人事のようにしか思われない。

 セイリンが未来のことを思う時、しっくりくるのはどちらかと言えばスオウであり、老爺であった。

 いつかスオウのようになり、その先に老爺のようになる。

 そんな自分ならば想像できる。

 しかし、ガンギはスオウにはもっと別の今が、幸せがあったのではないかと思っている。いや、今からでもそんな幸せを探すべきだと。

 ならば、自分もそれでは駄目なのだろうか?

 ガンギに聞いてみようとも思ったが、色気づきやがってと毒されそうだったので、言葉には出さない。

 正しいことと、幸せなことは違う。

 ふとそんなことを思ってしまい、じゃあ自分の幸せとはなんだろうか?と、セイリンはこの時初めて思った。

 またセイリンに考えるべきことが増えた。

 変わっていく。

 セイリンはまた少しずつ変わっていることに、まだ気がついていない。





 郷の中を見て回り、必要な物を買い揃えたり、人々の様子を見たり。

 そうしているだけでも数日が過ぎてしまった。

 いつまでも郷にいる訳にはいかないので、そろそろ都を目指そうかと思う。

 そうスオウに告げると、スオウはそれならば出立する前に周囲の森を見回るのに付き合って欲しいと頼まれた。

 郷の近くには大きな山はないのだが、森はある。

 昼でも中に入れば暗い森だ。

 深くまで入れば魔獣に出くわす可能性も高くなる。

 普段は郷にほど近い辺りを見回るだけなのだが、術士がふたり、更に転変した魔獣が2頭もいれば安全性はかなり高くなる。

 常々、森の奥の方には大物の魔獣がいるのではないかとスオウは疑っていて、それを確かめたいと考えていたという。

 これまで要石を超えて郷に現れたことはないのだが、見回りに出た衛士に犠牲が出ている。頭の良い個体なのか、警戒している時には現れず、かと言ってずっと警戒していることは出来ず、警戒を緩めると襲われる。スオウもなんとかしたいと動いていたのだが、スオウが森に入った時には出たことがなかった。

 そこでスオウは魔獣が出るまで奥に奥に入り込み、どうにかその魔獣を捕らえるなり狩るなりしたいと思っていたという。

 だが、不用意に入り、かえって郷を危険に晒すわけにもいかない。

 だからこそ、セイリンが滞在している今がこの上ない好機だった。

 セイリンにしても、ガンギの使う罠を、他の術士の森での動き方というのを見てみたかったので、すぐに承知した。

 それならばと、その日の内に準備を済まし、あくる日には森を目指そうという話になった。

 様子を見に行けば、大あくびをしていた天府にしても、今までの憂さ晴らしには調度良いだろう。

 セイリンは早い内から床につき、翌日は日が昇るよりもかなり早くに目を覚ました。


 森は話に聞いていた通りに鬱蒼としていて、ほんの数本先の木の影から魔獣が飛び出してきてもおかしくないような、そんな深い森だった。

 天気は曇り。雨が落ちてくる気配はない。

 朝には少し霧が出ていて、あまりに濃くなるようだったら入るのは延期にしようかと話していたのだが、森に到着した昼過ぎには霧だけじゃなく空も綺麗に晴れていた。

 先頭を何があっても良いようにサイロウが進み、その後にスオウとガンギが、そのさらに後にセイリンが付き、最後は天府の布陣で進んでいく。

 途中、何度か獣の歩いた跡を見つけたが、どうやらただの獣のようで、魔獣らしい痕跡はない。

 日が傾き、暮れる前には野営する場所を決め、簡単な天幕を張って食事を用意した。

 歩いている途中に見つけていた野草と干し肉を、同じく見つけていた沢から汲んできた水で煮ただけの簡易なもので、郷の食事に慣れてしまっていたセイリンには物足りないように思え、そしてそんなことを思った自分に驚きもした。

 山や森に入ったら、基本的に完全に眠ることはない。

 いつ魔獣が襲ってくるか、その予測は誰にも出来ない。

 香を焚いたりせず、汗などの放つ匂いにさえ気をつければ、痕跡がそこかしこに見られるようなおよそ近くにいない限りは大丈夫とはいえ、それでも不意に遭遇がないとは限らない。

 罠の準備までには至らなかったので、今、魔獣には遭遇したくはない。

 天府とサイロウがいるので、余程の大物出ない限りは対処ができるが、どうせならば捕らえて転変させた方が郷のためにも良い。

 火の匂いが魔獣を呼び寄せることもあるので、火すら起こしていないため、夜の森は暗闇そのものだった。

 明かりがなくとも、2頭の魔獣がいれば、魔獣に限らずどんな獣が近づいてきても察知もできる。

 月明かりはおろか、星明かりもない深闇の中、交代で休みながら夜が明けるのを、雑談することなく、静かに待った。

 セイリンが見張りを行い、ふたりが休んでいる中、思い出したのは天府を捕らえた穴の中のことだ。

 あの穴の中も月の光がささなければ本当に暗かった。

 天府も同じことを考えていたのか、身を寄せるセイリンに長く発牙した尾でもって同意するように二度三度と叩く。

 今までずっと閉ざされた獣舎の中で、ひたすらに暇だっただけに、久しぶりに野山に出られて機嫌は悪くないようだ。

 戯れるように尾に触れたり、軽く叩いたりしていると、視線を感じてそちらを見た。

 暗いので何も見えないのだが、はっきりとこちらを見ていると気配で分かる視線だった。

 一瞬、いつか獣舎で感じた視線かと考えた。あれから郷の中でも度々、感じることが確かにあった。

 それはセイリンがひとりでいる時であってもだ。

 視線を感じて身構え、懐に隠した山刀に手をやり待つ。

 そうしていると、何もなかったように、気配は霧散してしまう。

 遠くに離れたのか、単にセイリンを見るのをやめただけなのか。

 それすらも分からないままに。

 こんな山の中までに?

 疑問に思ったが、視線は確かに感じる。

 確かめようかと腰を浮かしかけて、気がついた。

 どうやらそれはサイロウが伏せている辺りで、つまりはサイロウがこちらを見ているのだろう。

 試しにサイロウの名を呼んでみると、気配は消える。

 目をそらしたのか、閉じたのか。

 まさか郷の中で感じていた視線がサイロウのはずはないので、あの視線とは関係ないものだ。

 しかし、何故急にサイロウがセイリンを見たのか?

 いや、セイリンと天府とを、か?

 もう一度、名を呼んでみようか迷ったが、ごく浅いとはいえふたりは眠っているようだ。

 あまり何度も名前を呼んで起こしてしまうのも忍びない。

 再びじっと黙って待つと、やがてガンギが身を起こして声を掛けてきたので、セイリンは休んだ。

 眠っている間にも、一度、サイロウがセイリンを見ている気がした。

 夢心地でセイリンは尋ねる。

 なぜ、サイロウはそんなに怒った目をしているのか?と。

 サイロウはセイリンを見ていた。

 その目には怒りがありつつも、どこか寂しげで、哀しい目のようにも見えた。

 




 いくら鬱蒼とした森でも、日のあるとなしとではまるで違う。

 朝になり、霧もなく、動くのに支障のない時間に3人は再び森の奥へと進み始めた。

 奥に行くに連れて、そこかしこに魔獣のものと思しき足あとや、奇妙に削れた木々、削られただけでなく倒された木も見られるようになった。

 足あとは大きく、沈み込んでいる感じから見ても、決して小物ではない重量の持ち主のようだ。

 そこでガンギはサイロウの背に括っていた罠を展開し始める。

 セイリンにとっては意外な場所だった。

 沢がある訳でもないのだが、霧が多いせいか地面はぬかるんでいて、そこかしこが苔に覆われている。

 ごつごつとした岩も多く、合間を常緑の木々の根が地の上で這いまわり、人が動きまわろうと思えば、滑り、根に足を取られ、野山に慣れたセイリンですら転びかねない。

 ガンギはセイリンが良くやるように穴などは掘らずに、そして周囲の木も利用する気はないようだ。というよりも、周囲の木は魔獣の体重を支えるにはあまりにも細い木が多い。

 不思議に思ってスオウに聞けば、ガンギは今回、サイロウ、天府の力を借りる気はないようだ。

 純粋に罠のみで魔獣を捕らえようとしているという。

 スオウはガンギの耳には届かないように、小さな声でセイリンに告げた。


「若い術士に、熟練の術工の力を見せたいのだろう。あれで意外に」


 と、そこで「うるせいぞ」と、ガンギがスオウを睨んだ。

 スオウは微笑して「分かった分かった」と受け流した。

 ガンギは手際よく罠を組み上げていく。

 セイリンがしっかりとした罠を仕掛けようと思えばかなりの時間がかかるのだが、ガンギは組み上げ始めてからそれほどの時間を要しないで罠を完成させた。

 傍目にはいくつもの鋼の棒が地面に放射状に並べられているだけにしか見えない。

 だが、これで罠は完成しているという。

 ガンギはもうひとつ、天府にも背負わせていた同じ罠を、同じくあっという間に組み上げ、後はこの罠にいかにして魔獣を掛けるか、というだけになった。

 今、この付近にいると思われる魔獣は1体。その魔獣は四足で動き回る、サイロウに似たような魔獣に違いない。

 動きは素早く、天府のように跳躍はしない。

 ガンギの罠は鋼の棒の組み上げ方で、余程奇抜な発牙の仕方をしていないかぎりは対応できるという。

 さて、どうするのかとセイリンが考えるよりも前に、スオウは既にどうするかを考えていた。


「今回は魔獣が2頭いる。1頭を護衛に残し、もう1頭でこの罠まで追い込めば良い」


 ガンギもそのつもりだったようで異論はなし。

 セイリンも他に何か良い方法がある訳ではないので、指示に従うことにした。

 スオウがサイロウに命じて走っていく。

 サイロウは匂いを追うのは得意のようで、命じられれば一度も止まること無く3人の視界から消えた。

 特に香を炊いたりもせずに、お互いに背を向け合って周囲を探る。

 言葉はなくなり、緊張感が高まっていく。

 天府も伏せること無く身を起こし、その耳には何かの音が、声が届いているのか、時折ぴくりぴくりと反応するように動かしている。

 そうして不意に、天府がひとつの方向を見た。

 それはサイロウが消えていった方角とは奇しくも反対側だった。

 天府がセイリンをかばうように前へと出る。

 スオウとガンギは下がり、ちょうど罠と天府が向いた方向とが一直線になるように位置を取る。

 声が響く。

 湿り気が感じられるような、こもるような吠え声。

 それはサイロウのものか、それとも魔獣のものか。

 まだサイロウの姿は見えていない。

 魔獣の姿も。

 既に魔獣は走りだしている。

 以前のように、止まり、見合ったりはしないだろう。

 獲物を見つけたら、容赦なく食らいつく、それだけだ。

 やがて、暗がりを疾駆する黒い影が見えた。

 見えたと思った時にはあっという間に影は姿に変じる。


「……なに?」


 声を発したのはスオウだった。

 セイリンも困惑した。

 走ってくる2頭の魔獣の姿がある。

 だが、一見しただけではどちらがサイロウなのかが分からないのだ。

 いや、困惑したのは一瞬だけで、すぐにどちらがサイロウなのかはその額の面で判別できた。

 しかし、それにしても2頭の姿があまりにも似通っている。

 黒い頭の大きいオオカミが2頭。

 体格としてはわずかに後ろを走る、面のない魔獣の方が大きい。

 と、そこで気づいた。いや、最初に目にした時からなんだろうかとは思ったのだ。

 暗い森にあって、時折、光を反射して光るものが面のない魔獣の頭にある。

 艶やかな黒。

 スオウが目を凝らすようにして、それを見、そしてそれが何であるか気づいた時、スオウは衝撃を受けた。

 誰かに殴られたのではないかと思えるほどの衝撃だった。

 その魔獣には角があった。

 左右一対の黒角。

 その角は、かつてスオウが従えた魔獣、ハクヨウのものと同じ形をしていた。





 スオウが衝撃を受けている間にも、魔獣は迫る。

 サイロウが自分の役目を心得ていて、ツノ付きの魔獣を背に引っ張るようにして走る。

 体格的にも似ている魔獣2体は速力も同じようで差は縮まりもせず離れもしない。

 しかしこのまま走り続けられても、罠には掛けられない。

 うまくサイロウを逃し、ツノ付きのみを罠に掛けなければならないのだ。

 それにはスオウの指示が必要、なのだが、スオウは口と目を開いたままで動かない。

 ガンギが異常に気づいた時には既にサイロウが間近に迫っていた。

 天府!とセイリンが叫んだ時には、既に天府が地揺れを起こして跳躍する。

 サイロウが天府を躱し、背後のツノ付きへと襲いかかる。

 ツノ付きもまた恐るべき反応を見せて、横へと跳ねて天府を躱す。

 見合うことはないだろうと思っていたツノ付きが、2頭の魔獣を見定めるように2歩、3歩とゆっくりと歩いた。

 躱された天府には若干の隙があったのだが、その時にはサイロウが振り向いていたのだ。

 天府にぶつかっても、今度はツノ付きに隙ができる。

 ぶつかった瞬間は動きが止まる。

 そこをサイロウに襲われてはたまらないと判断したのだろう。

 まるで転変した魔獣のように知恵を働かせるそのさまはいつかの猿を想像させた。

 どうすれば良い?

 山刀を抜き放ちながらもセイリンはツノ付きをじっくりと見た。

 セイリンにしても、スオウにしても、ガンギにしても、かつてのカルラのようには魔獣に対して切り込むことは出来ない。

 協力して敵対する魔獣が2頭いる、このままでは頭の良さそうなツノ付きは逃げるのが賢明と判断するかもしれない。普通、魔獣がいきなり逃走を選ぶことはないのだが、そういうこともあるかもしれないとセイリンには思えた。

 と、予想外のことが起こる。

 スオウが足を踏み出していた。

 誰も1歩目には気づかず、2歩目でセイリンもガンギも気付き、既に3歩と進んでいた。

 緊張感のない歩みだった。

 スオウの目はツノ付きのその黒いツノしか見ていない。


「ばかやろう!」


 ガンギが手を伸ばして、その肩を掴んだ。

 その瞬間に、サイロウが意識をツノ付きから離してしまっていた。

 己の主人の身を確認してしまっていた。

 ツノ付きが牙を剥き、その首を一息に噛んでいた。

 天府が飛びかかろうとした時には牙でもって掴んだ首を、尋常でない膂力でもって振り、盾にするように天府へと向ける。

 その時、ツノ付きは確かにセイリンから視線を切っていた。

 人間がどれだけいてもものの数ではないと経験から考えていたのか。

 セイリンは手にしていた山刀を投じていた。

 完全に天府へと意識が移ったその瞬間に。

 直線に飛んだ山刀はツノ付きの後ろ足へと到達して、躱されること無く突き立った。

 大したダメージはないだろう。

 だが、足に痛みを覚えてツノ付きが両の目のうちのひとつをセイリンに向けた。


 そこでセイリンは走った。

 逃げるように。

 ツノ付きを見ようともせず。

 セイリンは考えた。

 それはあのツノ付きの考えをなぞらえるように。

 発牙を繰り返して賢くなった魔獣には、転変していなくとも人のように考えるものもある。

 それはつまり、人でも魔獣の考え方を理解できるということだ。

 ツノ付きにとって、この状況はどうだろうか?


 獲物である人間がいて、邪魔する魔獣が2頭いる。

 魔獣2頭が協力して自分に対するのはうまくないが、獲物がいるのならば持ち帰りたい。

 魔獣2頭と戦うのはうまくないが、獲物を持ち去って逃げるくらいなら、戦うよりはマシだろう。

 逃げる機会が欲しいし、逃げるにしてもただ逃げるのは惜しい。


 ならば。


 背を無防備に見せているこの人間を襲って逃げるのが一番良い。


 背後に圧力を感じた。

 既にそのアギトが開き、湿った吐息と腐敗したような獣臭が自分の首に掛かっているのではないかと思えた。

 早く。

 速く。

 はやく。

 そう思っても、足は己の限界を超えては動かない。

 人は人。

 魔獣のように突如として発牙して能力が向上したりはしない。

 人はそれまでに備えた力しか発揮できないのだ。

 鍛えた分だけの筋力を持ち、用意しただけの道具でもってしか戦えない。

 足に何かが掛かって倒れた。

 なんとか手はつけたが、衝撃に息が止まる。


 ツノ付きはアギトに掛けたサイロウを天府に向けて振り放ち、セイリンへと駆け出す。

 天府はその瞬間に動きが止まる。

 躱せばそれだけ1歩が遅れる。

 遅れてしまう。

 その最初の1歩が遅れれば、すべてが手遅れになる。

 天府にはそれが分かった。

 だが、躱さずにサイロウにぶつかり、押しのけ、それで進んだとしてもやはり手遅れ。

 己の主人の背中が見えた。

 小さな背だ。

 だが、その背を諦めることなどあり得ない。

 天府は夢を見ている。

 その小さな背に夢を見させられた。

 己は人ではない。

 だが、人を理解し、人に夢を見ている。

 その小さな背に夢を見ている。

 その夢を、天府は諦めるわけにはいかない。

 まだツノ付きのアギトはセイリンには掛かっていない。

 掛けさせるわけにはいかない。

 天府はそこで、決断した。

 力を貯めるのは一瞬。

 解き放つのも一瞬。

 合わせて須臾にも満たない時。

 その間にもツノ付きはセイリンに迫り、天府にサイロウが迫った。

 サイロウが天府にぶつかった。

 それは天府の角に。

 天府は角を振り上げる。サイロウに角が深く刺さり、振り上げた力によって弾かれるように、そのままサイロウを己の後ろへと払いのけた。

 天府は跳ぶ。

 まっすぐに主人の背を追う、その背に向けて。


 果たして、天府の覚悟は実を結んだ。

 セイリンが倒れなければ、そのアギトは確実にセイリンに掛かっていた。

 しかし、セイリンは倒れ、倒れた分だけアギトは遠ざかった。

 天府の牙がツノ付きの足を捉え、一息に噛みちぎっていた。

 そのまますぐに天府はツノ付きを組み敷く。

 天府には主人の身を脅かした魔獣を捕らえるなどとは考えていなかった。

 セイリンが這うようにして争う魔獣から距離を置く。

 そこにはガンギの仕掛けた罠があった。

 あとほんの数歩、前に進めたなら、セイリンが望んだ通りにガンギに頼み、罠に掛けることが出来たのに。

 そう思って振り返った時、自分が何に足を掛けたのかを見た。

 それは術士であれば、当たり前に備えているものだ。

 セイリンの腰にもあるし、スオウの腰にもある。

 それは術工であるガンギの腰にもあった。

 銀糸だ。

 セイリンは銀糸に足を掛けて倒れたのだ。

 銀糸の先には短刀がある。きっと血を得れば、血臭を匂わす刃金でできている。

 そして銀糸の元はスオウの腰から伸びていた。

 とっさにスオウが短刀に掛けて投じたのだろう。

 それがセイリンを転ばせ、そしてセイリンを助けた。


 分かった時には天府がツノ付きの首元にかじりつき、太い枝を、いや木の幹を折るような音が響いてそれきりツノ付きは動かなくなった。

 その音を最後にして、森に再び静寂が戻った。





 サイロウは倒れたままでいたが、息があった。

 しかし、首に負った傷も、天府によって負わされた傷も、決して浅くはない。

 このままではいずれ死に至るだろう。

 スオウが走り寄ると、サイロウは確かにスオウを見た。

 いつものように、怒りを感じさせるような目、いや、どこかスオウを責めるような目だった。


「そうか。お前ではなかったのだな」


 スオウがそう言うと、サイロウは一度だけ瞬きをしてスオウを見て、そして目を閉じた。

 一瞬、セイリンにまさかという思いがよぎったが、単に目をつぶっただけだったらしく、息は続いている。

 その様子は気だるげで、良い状態とは到底思えない。


「……そなたに頼みがある。どうか、この魔獣をサイロウを助けるのに使わせてはくれないだろうか」


 発牙には魔獣の体を癒やすという側面もある。

 己の不足を補い、新たな力を手にする。

 それが発牙。

 見事に発牙しているこのツノ付きの魔獣であれば、サイロウを癒やすには十分だろう。

 セイリンが確認するように天府を見ると、天府はサイロウへと近づき、その傷を舐め始めた。はやく治せと言うように。

 その様子を見てからセイリンはスオウに頷いた。

 天府がツノ付きを引きずり、サイロウの前へとやると、サイロウはなんとか前足を起こしてツノ付きへと牙を突き立てた。血をすすり、苦しそうにしながらもその肉を食み、飲み下す。

 スオウとサイロウを残して、セイリンが天府と共に離れると、ガンギが近づいてきて、セイリンの頭を叩く。


「無茶しすぎだ。それに短絡的過ぎる。都行きは延期しな。俺とスオウがもっとマシなやり取りの仕方を教えてやる」


 天府が同意するように、セイリンの頭にその大きな手を乗せた。

 爪があるので、そっとだったが人の身であるセイリンには重い。乗せられるだけでも苦しいものがある。

 カルラにも以前に言われたことだったが、また自分は無茶をしてしまったのか。

 そう思ってあの瞬間の決意と行動と、そしてその結果とを振り返れば、確かに安全とは言えなかった。

 自分ひとりの時にはそうでもないような気がするのだが、どうにも人と一緒にいるとつい体が動いてしまう時がある。

 もっと何か出来るはずだと考えてしまうのだ。

 一度、そう考えてしまうと、他には考えが及ばなくなる。

 それをガンギに言うと、ガンギは鼻で笑った。


「他人のせいにするな。まあ、さっきのはどう考えてもアイツが悪い。出たての術士だってあんなヘマしねえ。だが、お前も駄目だ。あの時、お前は動けるのが自分だけだと思ってやがったな。確かにあの一瞬で動けたのはお前だった。だがなあ、あの時、俺には俺の考えが、それにコイツにはコイツの考えがあったはずだ」


 そう言って、ガンギは自分と天府とを親指で示す。


「それを確認せずにお前は飛び出した。そうすりゃあ、他の誰もがお前の考えに引っ張られる。あの時、あのツノオオカミが動いたようにな。勝手に動いたヤツが出れば、他の奴の動きは一瞬止まるもんだ。あの時、あの馬鹿が動いた時もそうだ。そうするともうどうしようもねえ。他の誰の考えも無駄になる。使いみちが無くなっちまう。本当はそっちが良い時だってあるはずなのにな」


 ガンギの言葉にセイリンは疑問を抱いた。

 本当にそうだろうか?

 一瞬。

 その一瞬の動きが、距離が、早さが、何かを助けることに繋がることはあるはずだ。

 ガンギはセイリンの顔に不満を見て取り、そしてまた頭を叩く。未だに天府の手がセイリンの頭に乗ったままだったので、横から耳の上を、今度は先程よりも力がこもっていた。


「結果論だろってか?ああ、そうだ。時間をするする戻してやり直しなんてできやしねぇ。今がすべてだ。だがな、ひとつ言えるのは、あの時、お前はテメエの他に誰も信じていなかったし、自分しか動けねえって過信していやがった。それをきちんと考えろ。あの時、お前が動いた瞬間、コイツはどうしてた?どうしてコイツが動くのを待てなかった?あの時、あのツノオオカミはコイツを見ていたんだ。お前はコイツに任せ、俺と協力して罠に掛けるか考える時間はなかったのか?」


 そう言われてしまえば、ガンギの言う通りだった。

 あの時、危機にあったのは自分ではなかった。

 危機にあったのはサイロウだけで、だが、それで全体が危機にあったかといえば、まだそこまでではなかったかもしれない。

 結果として天府がサイロウを傷つける結果にもなったし、セイリン自身も危険にあった。

 助かったから良かったとは言えない状況だ。

 もしかしたら、あのツノ付きを捕らえることだって出来たかもしれない。

 サイロウも噛みつかれていたが、そこまでの重症にならずに済んだかもしれない。

 天府がどう動いたか、天府が何を考えているか、それをセイリンは確かに考えていなかった。

 自ら従えていながら、それはまるで頼りにならないと宣言するに等しい。


 セイリンは天府に改めて向き直り、頭を下げ、謝罪した。

 どうか許して欲しいと。

 もっと天府を、その目を見るようにすると。

 天府に言葉はない。

 天府の考えを知るにはまずもって見なくてはならない。

 その動きを。

 その目を。

 そのすべてを。

 普段から。

 いつでも。

 ずっと。


 セイリンの言葉が天府の胸の内にもきちんと届いたのか、天府はやっと乗せたままだった手をセイリンの頭からどけた。

 天府が頭を下げて、セイリンの顔に近づけてきたので、セイリンは天府の鼻を抱きしめるようにして飛びつく。

 天府はそれをじっと澄んだ目で見ていた。

 いつもと変わらない目だ。

 だが、セイリンが抱きつくと、確かにその目が笑っているように思えた。

 ガンギの目には確かにそう見えた。





 結局、サイロウの様子を見るのもあって、その日は森を出ずにそのまま野営した。

 他に魔獣は入り込んでいなかったようで、更には肉食の獣もいないようで、何事もなく夜を明かした。

 明くる日にはサイロウの姿はどこにも傷のないものになっていた。

 スオウと、セイリンと、ガンギと驚かせたのは、サイロウに角が生えたことだった。

 両の耳を覆うようにねじれた角。

 艶やかな黒で先は鋭い。

 それはかつてはハクヨウにあったものと同じく、そしてあのツノ付きオオカミにもあったもの。

それがサイロウの頭にもあった。

 サイロウの目はどこか怒ったようで、しかしセイリンの目には別の色が見えた。

 それはどこか恥ずかしがっているような。

 そう思っていると、サイロウが誰の目からも逃げるように、歩を進めて背を向ける。

 それは郷の方へと向かってだ。

 そうして少し進んでから振り返った。

 まるで人がくしゃみをするような短い吠え声。

 言葉でなくとも、誰の耳にもその意味が分かって、3人は笑った。

 天府までもが笑うように、息を吐いた。

 サイロウはそれを聞いて、また背を向けて歩を進めた。

 森の外へ。

 郷へ。

 人の住む場所へ。

 自らのいる場所へ。


 サイロウはどこか怒っているように、どこか恥ずかしがるように、歩を進めていった。

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