第6話 モンキー03

 セイリンは里の一角、その袋小路に罠を張ることにした。

 少志からこれまでの猿の襲撃経路を聞き、実際に自分の目でも調べたのだが、猿の動きには、そう動いたのに何か合理的な理由というのは見当たらなかった。

 強いて言えば、風下から現れる傾向が強いということだったが、稀に風上から現れることもあるという。結局は猿の気分次第なのかもしれない。

 罠を張った場所は、少志から警護を頼まれた区画の中で、単純に最も罠が仕掛けやすかったからだ。

 塀にしても家にしても、土壁のものが多い中、石垣と、太い幹のしっかりと根を張った木があり、銀糸を張り巡らせるのにはちょうど良かった。

 屋根伝いに里を走り回る相手なのだから、穴を掘っても仕方ないだろう。

 なので隠さず、蜘蛛の巣のような罠を張った。

 ここに魔獣を落とせれば、銀糸は絡まり合って相手を拘束する。

 こうもあからさまな罠に自ずと掛かる魔獣なんて、いやしないだろう。

 獣ですらいやしない。ここに追い込むのか、近くの屋根や塀から飛び渡る際に叩き落とすのか、天府と力を合わせてなんとかするしかない。

 そもそもここを猿の魔獣が通らない公算の方が高い。

 だが、何も用意しないで好機は訪れない。

 現状、セイリンが知り得たことは何もかもが伝聞だ。だからこそ、なによりも一度は自分の目で魔獣を見ないと対策を立てることも難しいと思えた。

 だからこれはセイリンにとっては、ただの鍛錬と言っても良かった。

 面と違って、罠というのはどこでも作れるものではない。

 老爺の山でもずいぶんと練習していたが、こうやって実際に即して、今までにない場所で罠を仕掛ける方法を考えるというのもセイリンにとっては良い経験になる。

 カルラはそれを見ていても仕方ないと言って、里を見て回ることにしたようで、その姿は間近にない。

 天府のみがその様子を見守り、セイリンは黙々と壁や木に幾重もの銀糸を張り巡らせた。

 猿の魔獣が現れれば、笛の音が幾重にも響き渡る手筈になっているので、それが聞こえないかぎりは何も起きていないということ。

 なんの邪魔も入らず、罠を作り終える頃にはもう日暮れが間近に迫っていた。

 このすぐ後にでも魔獣が現れる可能性というのは勿論あるが、日の出ている内には、今日は現れないのかもしれない。

 カルラも戻ってくる気配がなかったので、セイリンは一度、間借りしている少志の役宅に向かって罠を背にし、歩き出そうとした。

 と、すぐに奇妙な人間が見ていることに気づいた。


 天府はその人間がそこにいることにずっと前から気づいていたようだった。

 声をかけた天府がまるで動かずに、そちらを見ていた。

 それで、セイリンもそちらを見て、その人間がいることに気がついたのだ。

 天府は耳も、鼻先も、目も、感覚器官のすべてをその人間に向けているように、じっと注視している。ただの人間相手にしては、過剰な反応のように思われた。

 相手がただの人間だったなら、その相手が怯えてもおかしくないほどにじっと見ている。

 だが、相手は腕を組み、天府と同じく動じずに、しかもまったく天府を見ることもなく、セイリンが仕掛けた罠の方を見ていた。

 背の高い、しかしカルラと違って細面の男だった。

 着ているのは嫌に白さが目立つ重ねの衣装。

 今までにセイリンが見たことのない着物だった。

 どこか以前の里で見た、社司にも似ているが、よくよく見る前に、男は立ち去ってしまった。

 なんとも形容しがたい、セイリンがこれまでに見たことのない目つきだった。

 馬鹿にするとも違う、見下しているとも違う、不気味なそれの印象だけが、セイリンの中に残った。

 追ったほうが良いのか、少しの間だけ迷ったが、何を言われた訳でも、された訳でもない。

 例え追いついたとして、何と声を掛けたら良いのか。

 セイリンにはその見当がつかない。

 相手はただ見ていただけに過ぎないのだから。

 短く嘆息し、天府に声を掛けて歩き出す。

 視界から男が消えたことで安心したのか、天府はセイリンの歩調に合わせて、進みだす。

 

 セイリンは少志の役宅に戻り、少志の妻から出された食事を摂る。

 カルラも少志も、その姿はなく、どうしているのかと聞けばカルラからの伝言があった。

 どうやら里を見ている内に、警戒する衛士隊に会い、少し一緒に回ることにしたようだ。

 少志も食事も摂らずに警戒しているという。

 それを聞いて、自分だけが暢気にしているようで、気恥ずかしくなった。

 あまりゆっくりせずに、外へと出て、天府を連れて歩き出す。

 夕暮れと共に垂れ込め始めていた空は、今も曇ったままだ。

 雨が降るようなそれではなさそうだったが、月もなく、人を襲うには絶好の夜にセイリンには思えた。

 通りには人の姿はない。

 本来であれば、夕食を外で摂ろうという者や、仕事を終えた者の行き来くらいはあって良いはずなのに。

 通りを天府と共に歩いて行く。

 セイリンは、小さい頃から魔獣の姿が身近にあった。

 だからセイリンは普通の人とはやはり感覚がずれているのかもしれない。

 勿論、魔獣が恐ろしいものだというのは理解している。

 それこそ、普通の人以上にだ。

 それであっても、立ち向かうことのできない天災のように思うことはない。

 通りはまるで嵐が来る前だ。

 風も雨も、雷も、それらすべては来ることが例え分かったとしても、事前にどうすることもできやしない。

 ただ、通りすぎるのを待つだけだ。

 どれだけ願い、乞おうとも、それらは急に止むことはなく、また二度と来ないようにすることもできない。

 雨は降る。

 風は吹く。

 だが、魔獣は違う。

 人間と同じく、生きている。

 生きていれば必ず殺せるし、捕らえることも出来る。

 天府がカルラの匂いを追えるようだったので、ひとまずは合流しようと天府の進むのに合わせてセイリンは歩いた。

 猿の魔獣は、このまま里を襲い続けるようならば、必ず倒せる。山にでも入られて、そのまま遠くに行かれなければ、必ず捕らえられる。

 動きを読み、癖を理解し、そしてこちらの都合に沿うように誘導する。

 罠とは物理的なそれだけを示している訳じゃない。

 魔獣を解し、魔獣をただの獣のように捕らえる。

 誘導し、策動し、そして転変させる。

 驕らずに、出来ることを考えよう。

 とりとめのないことを考えていると、不意に天府が足を止めた。

 セイリンは最初、それをカルラを見つけたからかと思った。

 同時に、甲高い音が耳に届く。

 それで己の考え違いを知った。

 天府の口の端にむかれた牙が覗く。

 それを見るまでもなく、セイリンにもその意味は分かっている。

 甲高い音は笛の音。

 警戒を知らせる合図。

 それは、魔獣が現れた知らせに違いなかった。

 





 猿の魔獣は黄金の体毛を揺らして走る。

 里に入る時には、あえて獲物の匂いがしない場所を探して入った。

 最初は匂いを求めて、真っ先に見つけた場所から里へと入り、すぐさま人を襲っていたのだが、少しするとあまりそれが良くないことなのだと経験的に学んでいた。

 最初から匂いを求めて里へと入れば、確かにすぐに獲物にありつける。

 だが、それは戦う牙を持った獣のような人間だ。

 武器を持ち、互いに連携し、容易には魔獣を近づけない。

 そうしている内に次から次に仲間が現れ、結局、里に入り直す羽目になる。

 魔獣に襲われた人間はすぐに警戒するようになり、里の外側は常に衛士たちが見回り、対処できるようにしていたためだった。

 だから猿は逆に人の気配のしないところを探してから入り込むようになっていた。

 その方が、ゆっくりと獲物を探せる。獲物の動きもかき乱せる。

 実際にそうして獲物を得てきた。

 牙持つ人間、衛士すらも己の獲物としてきた。

 未だ魔獣が里に入り込んだことに気づいている者はいない。

 里そのものが眠っているような静けさが辺りを支配している。

 その中を物音ひとつ立てずに疾駆し、跳躍し、獲物を探し続ける。

 途中、物陰に潜むように寝ている者も見つけていた。

 だが、それはあまり良い獲物ではないと猿は知っている。

 やせ細り、骨と皮だけのような人間を食べても、満ち足りるのはその瞬間だけだ。

 絶望し、横たえるだけの者を狩っても、己を発達させられないことを猿は知っている。

 夢を持って生きてきた者が、絶望するその瞬間に食べる。

 それこそが最も己を充足させることを、猿は知っていた。

 人間のような思考は無いにも関わらず、発牙し、経験を得、自分に何が必要なのかを、これからもっと発牙するのに何が必要なのかを、猿は知っているのだった。

 リスのような尾が膨らみ、姿勢をうまく制御して、里の中を走り回る。

 まだ里は静かなまま。

 時折、松明の群れが通りすぎるのを、隠れ、ただ黙って見送り、また動きまわる。

 松明の群れは襲っても、面倒が増えるばかりだ。

 それよりはもっと良い獲物がいるはず。

 そう望んで動いても、猿はなかなか望む獲物を見つけられなかった。

 何やら里に、妙な気配を感じていたからということもある。

 猿はそれを忌避するべきだと感じ、そこから遠ざかるように、避けるように里を動き回っていた。己の匂いがそこに流れるのもまずいと感じていた。

 里の中にあまり長い間いるべきではないというのはもうずいぶんと過去に学んでいる。

 どうするべきか?

 考えるように空へと鼻を向けた時に、ひとつの匂いを感じ取った。

 人の匂い。

 それが間近に感じられる。

 通りには人の姿はない。

 それでも、確かに近くに獲物がいるのだと、目で確認したように猿にはそれが分かる。

 跳躍し、ひとつの家の屋根へとたどり着いた時、猿はとても獣とは思えない表情を見せた。

 屋根の一角が崩れている。

 それは以前に猿自身が剥がして壊し、衛士へと投げつけてそのままになっていた。

 穴が開いたように。

 猿が入り込むには小さいが、覗きこむだけならば十分な隙間だ。

 猿はそこを覗きこむ。

 いる。

 猿の目に、暗がりの中にひとつの生き物が身を横たえていると分かった。

 いた。

 知れず、猿の口角が釣り上がる。

 猿は腕を振り上げ、半ば口を開いているような崩れかけの屋根へと、鉄槌を下すように、その拳を振り下ろした。

 まるで、雷が落ちたような、そんな轟音が暗い夜空に響き渡る。

 その時、猿の顔には、まるで愉悦を知るような、そんな笑みが浮かんでいた。

 狩りの時間が始まっていた。





 セイリンは天府と共に、里の中を走り回っていた。

 天府が何か異常を感じたように、空へと鼻を向け、その長い耳を四方へと向け、動き出してから長い時間走り回っていたように思えたが、未だ猿の姿は自身の目で捕らえられていない。

 天府には家屋の屋根を器用に動きまわることは難しい。

 家屋を壊すつもりで動き回れば、可能かもしれないのだが、そんなことをするにはまだこの里には多くの人が暮らしていた。

 従って、どうしても道なりに追わなくてはならないため、追跡は後手に回ってしまう。

 セイリンが動いている間にも、幾重にも笛の音は鳴り響いている。

 にも関わらず、セイリンは未だ他の衛士には出くわしていない。

 衛士の数が足りていないのだ。

 今更ながらにそれを思い知らされていた。 

 間の悪いことに、猿が現れた場所というのはセイリンがいた場所からは、だいぶ離れている。

 笛の音は響く度に、距離が遠くへと離れていくようにも感じていた。

 天府を、セイリンは声でもって制止し、考えてから動かなくてはと切り替える。

 この魔獣は追っていては、駄目だ。

 どういう発牙の仕方をしたらそうなるのか、この魔獣には知恵がある。

 それも転変した魔獣に等しいくらいの知恵が。

 衛士と戦いが始まっているのか、それとも里の者を襲っているのか、それすらも分からない状況で動きまわっても意味が無い。

 少志から預かっていた地図を広げ、松明で照らす。

 今いる場所、風の向き、そして猿がいるであろう方角を確認する。

 今日は風が強い。真っ暗な空に、それでも雲が蠢くように流れていくのが見えた。

 今は風下に向かって動いているようだったが、目的を果たして逃げる時に、思惑を外すように逆を突いて風上に向かうというのはあるだろうか?

 今、セイリンと天府がいるのはその風上だ。

 あの猿ならば、こちらには来ないだろう。

 自分が何かに追われていると分かって動いているフシがあった。

 しかし風下の方は、そちらはそちらで最初セイリンがまさに向かおうとしていたカルラたち衛士隊がいるであろう方向だったので、猿の動きはきっと阻まれる。

 風向き、地形、家屋の密集具合、そして衛士の配置を考える。

 そこに答えは無数にあるように思えた。

 そのどれもが実際に起こり得るのだが、本当に起こるのはただのひとつの道筋だけ。

 セイリンの経験では、そのたったひとつを絞り込めない。

 だから、自分が今、何をするべきなのかをセイリンは一番に考える。

 魔獣を捕らえる?

 それは無理だとすぐに判じた。

 追っているのにまったくその姿を見せないような相手をどうやってあの罠に追い込もうというのか。それこそ鳥がいる。あるいは同じくらいに発牙した猿が。

 あの罠の場所は向かおうと思えばそう遠くはないのだが、機能させるのはあまりにも難しい。

 あそこにおびき寄せることはできないと考えたほうが良い。

 ならば何ができる?

 猿の魔獣と、自分自身、それに天府と比べた時に、どんな違いがある?

 これからあの猿は人を攫い、そして逃げるはずだ。

 それだけはまず、間違いない行動だ。

 衛士隊が止める可能性もあるが、止められたならそれで良い。自分の出番がない良かった時のことを考えても仕方ない。駄目だった時にはどうなる?

 人が死ぬ。

 そうしてあの魔獣はまた強くなる。

 それが一番駄目だ。

 なら、一番の目的は決まった。

 魔獣に相対して、何もかもを望むのは、術士のすることではない。

 魔獣とはそれくらいの強大な敵なのだ。

 望むなら、ただのひとつ。

 一番の最悪だけは防ぐ、ただそれだけを目指して、セイリンは動き出した。





 空は曇っている。

 まるで墨をこぼしたような闇が世界を覆い尽くし、そんな闇の世界を衛士隊が照らすわずかな松明と笛の音だけが、必死に抵抗しているようだった。

 その闇にまぎれるように、一片の黒が羽ばたき、浮かんでいる。

 そのことに気づいたものは人にも、魔獣にもいなかった。

 一片の黒の背には一片の白。

 背にある白、それは人間で、その者は笑っていた。

 右側だけの口角が釣り上がる、その表情は皮肉げで、そして反対側のそのままの口角は冷笑しているようにも見えた。

 密やかな笑いは、誰の耳に届くこと無く、そのまま風にまぎれて、そして消えた。

 






 猿の魔獣が空を跳ねまわっていた。

 そんな風に見えるほどに、素早く、高く屋根の上を動いていく。

 その脇にはひとりの男が抱きかかえられていた。

 ぐったりとしていて、生きているのか死んでいるのかも分からない有様だった。

 衛士隊はなんとか追いすがり、矢を放ち、同じ地の上で戦えないかと機をうかがっていた。

 その中でカルラは魔獣の動きを冷静に見ていた。

 カルラの経験と照らしあわせても厄介な部類の魔獣ではあったが、最悪と呼ぶには及ばない。

 これならセイリンと協力して、うまく事を運べば倒せるかもしれない。

 その公算を高めるために、じっと観察し、追っていく。

 笛の合図を送り合いながら大勢の衛士たちが走り回り、里の各所から包囲を狭めるように衛士たちがひとつの区画に集いつつあった。

 その包囲が完成する間際のことだった。


 唐突に猿がその姿を消す。

 どこの屋根にも姿がなく、叫び声も、息づかいすら聞こえない。

 まるで闇の中にかき消えたように。

 雲散霧消。

 衛士たちだけの声が暗がりに響き渡る。

 どこかの庭先にでも下りたのだ。

 そして、そのまま姿を隠している。

 それは分かるのだが、衛士たちが包囲した区画は商人の家が多く、塀や蔵が視界を遮るだけでなく、衛士の立ち入りを阻む。

 包囲を狭めるのか、今のまま維持するのか。

 衛士たちに迷いが生じる。

 気の早い衛士は動き、慎重な衛士の動きは止まった。

 ひとつの群れとして、機能していた衛士隊が、ただのバラバラな個となる。

 その瞬間を待っていたように、猿の魔獣は動いた。

 包囲が緩んだ、まさにその瞬間のことだった。

 再び屋根の上に姿を現し、気配だけで人の少ない方向を感じ取る。

 衛士隊が気付き、声を上げた時には猿の魔獣は宙を舞っていた。

 一切の迷いもなく突き進んでいく。

 途中に出くわした衛士がいたが、放たれた矢はかすりもしなかった。

 屋根から屋根へ。

 まるで己の縄張りのように。

 ようやく猿の魔獣が地へと降りたのは、続いていた屋根が途切れたその場所に至ってからだった。

 その時にはただのひとりの衛士の姿もなく、そのすべてが振り切られている。

 それは里の中心近くを貫く大路。

 猿は衛士に気を取られすぎたのか、里から出るには逆に、中へと入り込んでいた。

 そこでひとつの匂いを感じ取る。

 風にまぎれて感じる匂いとは違う、確かにそこに獲物がいると分かる匂い。

 場所はそれほど離れていない。

 おそらくはひとり。

 魔獣は逡巡した。


 獲物は多ければ多いほうが良い。

 最近は警戒が強くなってきていて、最初ほど狩りは簡単にはいかなくなってきている。

 もしかしたらそろそろ一度、山の中でしばらく過ごし、己の身体がより発達するのを待ったほうが良いのかもしれない。

 ならば、その前に食いだめをしておいたほうが良いのではないか?

 手の中の獲物、男の姿は通りでただ身を横たえているばかりの獲物に比べれば随分とマシだったが、かつてと違って大きく成長した己を満足させるには不足かもしれない。

 獲物がそこにいるのなら、それも狩り、そして逃げれば良い。

 周囲に衛士の姿はない。

 ならば、何も恐れることはないはずだ。

 そのはずなのに、猿の魔獣を違和感が襲う。

 なにか危ない。

 そんな気配。

 これはさっきから感じていた気配ではないのか?

 すぐに手近な屋根へと登ったほうが良い。

 そう思いながらも、つい猿は見回してしまった。

 なにか己の目で確認できないかと。

 そこに、なにかあるのではないかと。

 逃げることは簡単にできる。

 今まで、一度として危機はなかった。

 それが己の油断なのだとは気づかない。

 発牙し、成長し、思うがままに人間を襲ってきた魔獣は、成長した故に魔獣の本能を鈍らせていた。

 人を食べ、その度に周りが、世界の様子が手に取るように分かるようになっていく。

 まるで人としての知恵を得るように。

 人の夢という果実をむさぼって。

 それは確かに成長だったのだが、獣としてはいささか鈍っているとも言えた。

 己が鈍っているとも気づかないまま、そうして暗がりにひとりの人の姿を見つけてしまっていた。


 それは小さく見えた。

 実際に、手の中にある獲物よりも小さい。

 今までにも食べたことがある。

 それは衛士と比べれば、あまりにも弱く、なんの危機も覚えさせない。

 猿の顔に笑みが浮かぶ。

 魔獣にあるまじき表情だった。

 一瞬で骨を砕き、そのまま持ち帰る。

 猿の脳裏には確かにその光景が浮かんでいる。

 その光景は現実なのだと、己にとってあまりにも小さな獲物へと飛びかかった。

 もしも月が出ていたら、もしも星の瞬きのひとつでもあれば、猿にもそれが見えたかもしれない。

 そこに、一筋の煌めきがあることに。





 かかった。

 セイリンは山刀を手に取ることもせずに、立ち尽くして待ちながらも内心で己の罠の成功を確信する。

 セイリンの確信そのままに、猿は何かに遮られるように、跳躍半ばで何かに引っ掛かったように地へと転がる。

 そこに張ってあったのは一筋の銀糸。

 セイリンの腰には既に一巻きの銀糸すらも残っていない。

 事前に張った罠に大半が使ってあったこともあり、残っていた銀糸は捕らえる罠を張るには足らず、そもそもそれだけの罠を組む時間もない。

 だから、用意したのは罠と呼ぶにはあまりにも最低限のものだった。

 それだけでこの魔獣を捕らえるにはあまりにも何もかもが足りていない。

 だが、セイリンは、天府を捕らえた時とは既に決定的に違っていて、出来ることがある。

 既にセイリンには転変した魔獣が付いている。

 だから、後は、天府にすべてを任せれば良い。


「天府!」


 セイリンの叫びが通りに響いた。

 セイリンが張った銀糸は、猿自身の重さによって、引っ掛けた右の手首近くに巻きついている。

 いくら発牙している魔獣であろうとも、さすがにそれを解いて外すだけの知恵はない。

 再びセイリンに飛びかかろうとして、手首の銀糸に引かれて止まる。

 本来であれば、幾重にも絡みつけて動きを封じる銀糸も、それがどんなに強固に編み込まれていても、ただの1本ではその拘束力は期待できない。

 銀糸が微かに悲鳴のような軋みを響かせる。

 あとどれだけの時間が残されているのか、あと何度の跳躍に耐えられるのか。

 猛り、猿の魔獣が吠えた。

 今までの、どこか人間じみた表情が消え、そこには明らかに獣の相が浮かんでいた。

 セイリンは明かりが漏れないように隠していた松明を出し、山刀を構え、そこに立ち続ける。

 今、セイリンが逃げ出せば、猿はどう動くのか予想がつかなくなる。

 再び屋根の上へと上がってしまうのだけは、なんとしても避けなくてはならない。

 そうセイリンは考えてしまっていた。

 いくら成人したと言っても、それはセイリンの幼さだった。

 最初が上手くいき、ならばこのまま上手くいくのではないのかという甘えのような妄想。

 自分の生命はひとつしかなく、それはただの一度でも投げ出せば、もう決して手の内には戻せない。

 セイリンには次の策があるわけではない。

 他の罠の準備があるわけではないのだ。

 ならば、逃げた方が安全に決まっているのに、天府がすぐにも現れると妄想してしまっていた。天府さえ現れれば、それですべてを終えられると。

 捕らえるのは無理でも、必ず倒せると。

 普段のセイリンらしくない思考だったが、実際に動きを止めた魔獣を前にして、うまくいくという思いにとらわれてしまった。

 あまり大きな失敗をしてこなかった。

 それが、セイリンにとっての失敗に近い弱点なのだと、今のセイリンには理解できない。

 セイリンが天府が現れるまで待つことを決めた時、魔獣は銀糸を引きちぎるよりも先に、己の手の中に武器があることを思い出していた。

 それは本来は武器ではない。

 己にとっての獲物であり、捕食するべき餌だ。

 だが、武器にするには十分な重さはある。

 人間の男。それも成人した男を、魔獣はセイリンに向かって投げつけた。

 セイリンは迷わずに、力の限りに跳んでそれを躱す。

 男が生きているのか、死んでいるのか、それは分からない。

 だが、猿の膂力によって投げられたそれは実際に人の身で受け止めることなどできるはずのない暴力だ。

 受ければセイリン自身の身体が破壊されるのは間違いなく、それによって投げられた男が助かる見込みというのもないに等しい。

 そこまで考えたわけではなかったが、ここでセイリンはひとつの目的を達成した。

 これで猿が今すぐ人間を食べて発牙することはない。

 近くの家の土壁が破砕する音に、水気をたっぷり含んだ果実が割れるような、そんな嫌な音をセイリンは確かに聞いた気がした。

 それを思いながらも、意識から切り離す。

 目の前には魔獣。

 余分な思考は今は必要ない。

 己の腕から武器がなくなり、忌々しげに動かない右手を猿は振り回す。

 その間も威嚇するようにセイリンに向かって吠え立て続ける。

 未だ天府は現れない。

 あまりにも近くに配置すれば、すぐにも猿に気づかれる。

 だから離れた場所に隠したのだ。

 銀糸が切れるのが先か、天府が現れるのが先か。

 じっと、耐えるように猿の目を睨み続ける。

 天府は来ない。

 長い間、焦れたようで、実際には僅かな間。

 そして先に来たのはただの現実だった。

 ひとつの音。

 それをセイリンは吠える魔獣の声の間に確かに聞いた。

 猿の右手から、ぷつりとまるで金属を弾くような音が響いた。

 そうして、魔獣の右手が勢い余ったように、振り下ろされ空を切る。

 セイリンは自身の心臓が確かに高鳴る音を聞いた。

 その音に一層、どきりとした。

 戒めが切れた。

 目をやるまでもなく猿は理解しているのがセイリンには分かった。

 見つめたままの魔獣の目が、殺意が溢れだしたその目が、それを表していた。


 何が出来る?


 どうする?


 何かをしなくては。


 だが、何を?


 大丈夫だろう、そんなことを考えていた自分が僅かに思い出された。

 確かにそんな自分がいた。

 まるで他人を思い出すように、セイリンの思考に一瞬の空白が生じる。

 セイリンが悔いるよりも前に、魔獣が駆け出す。

 低く、転がるように。

 いつかのように、下をくぐることは難しい。

 ならば脇へと跳んで避けるしかない。

 あまりにも巨大な壁のようにも思える巨体に対して。


 ああ。


 セイリンの心に浮かんだのは、諦めにも似た覚悟だった。

 仕方ないとついたため息が凝縮されたような、そんな言葉ですらない感嘆。


 それをセイリンの目から感じたのか。


 猿は笑っていた。


 とても魔獣とは思えない、そんな顔をして。


 その顔に反応するように、セイリンの降りかけた手に再び力が入る。


 山刀の切っ先が猿へと向く。


 セイリンの心に一切の感情が消えた。


 迷いなく、山刀を構えていた。


 死ぬかもしれない。


 生きるかもしれない。


 それすらも考えになく。


 あえぐように口が開いて僅かに空気を吸う。


 意識はない。


 それでもセイリンの身体のすべてが理解している。


 呼吸を止めた時が、その時。


 呼吸が止まる。


 感情が消える。


 何も思うことはない。


 何も考えることはない。


 その時は。


「笑うな。お前は魔獣だ」


 煌めきが走った。

 それは直上から。

 声に遮られるようにして、セイリンの心に感情が戻った。

 その時は来なかったのだと、遅れていた意識がやっと何が起こったのかを理解し始める。。

 セイリンの言葉ではない。

 天府は言葉を使えない。

 だから、放たれた言葉は人のものだ。

 それは、近くの屋根の上から、気配を殺して走り寄り、そのまま飛び降りながら太刀を振るっていた。


「お前は人じゃない。だから笑うな」


 血がしぶく。


「カルラさん!」

「命を投げ出す気か!?無理しすぎだ!」


 カルラの斬撃、それは本来であれば、首を切り落とす一撃。

 それほどに深い間合いから放たれたものだったのだが、その間合いからでもとっさにかばったのか。

 血しぶきが飛んだのは猿の右手から。

 魔獣にとっての不意の一撃は、それでも致死には至らせない。腕を切り飛ばしてすらいない。

 カルラが言った間合い、魔獣と人では、あまりにも間合いが遠いということ。

 それを実際にセイリンは見て取った。

 警戒してか、猿は即座に後ろへ跳び、さらに後ろへ跳ぼうとして、弾かれたように振り向く。

 そこには既に天府の姿があった。

 角を前にして猿へと肉薄する。

 カルラも既に間合いを詰めていた。

 挟撃する気なのだ。


 角が刺さる。

 終わりだ。

 退がろうにもカルラもいる。

 だから、それは間違いのない未来。


 だが、それすらも猿の魔獣にとっては回避可能な危機だと言うように、猿の巨体が宙を舞った。

 再び舞い降りるのは近くの屋根の上。

 天府がそこへと飛びかかるのを警戒してか、さらにそこよりも高い隣の屋根の上へと瞬時に跳び、そうしてやっと動きを止めて、天府を、セイリンを、カルラを見た。

 空の闇に飲まれるように、もう猿の顔は見えない。

 勝ち誇るように笑っているのか、それとも逃した獲物を憎むように睨んでいるのか。

 闇に溶けるように。

 逃げる。

 そうセイリンが確信した瞬間に、セイリンは鋭い音を聞いていた。

 最初は矢の放たれる音かと思った。

 違うと断じるよりも前に、猿の姿が浮かび上がる。

 その時には羽ばたく音が通りに響く。

 風を感じた気がした。


 闇に溶けるように、鳥が舞い降りてきていた。

 明らかに魔獣と分かる巨体。

 巨大な猿すらも、その3本の足でつかみ捕り、空へと持ち上げていく。

 真っ黒なカラス。

 その額にひとつの面があることに気づいた時には、既に猿も、カラスも、空の闇へと姿を消していた。

 

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