第5話 モンキー02
訪れたこの里の衛士を束ねる者、少志は、最初に関所で聞いたものよりも、詳しい話をセイリンたちに聞かせた。
既に、最初に猿の魔獣が現れてから、ひと月もの時が経っているという。
その間に、里に詰めていた衛士の半分が倒れた。
猿の魔獣は昼もなく、夜もなく現れ、通りにある人を襲い、倒れた者を攫って逃げる。周囲に人が多い時には、離れ、別の場所でまた人を襲うか、あるいは再び戻ってきて風のように人を攫っていくという。
屋根伝いに里を自由に動きまわり、拾った岩ばかりでなく、時に屋根そのものを剥がして投げることすら行い、その魔獣の側まで近づけた衛士はひとりとしていなかった。
最初に現れた時には、発達した腕を持つだけで、他に発牙しているようには見えなかったが、今は頭部にねじれた羊のそれにも似た角を生やし、長い尾は太く、まるでリスのそれのようになっている。その毛皮は意外にも豊かで柔らかいものだというのだが、足止めに放つ矢はすべて躱し、未だ手傷を負ったことはない。
セイリンはそれを聞いて、思い至ることがあった。
きっと、身体を守ることよりも、感覚の方を発達させているのだ。
全身に生える1本1本の毛が昆虫の触覚のように機能しているということも、十分にあり得る。
里では既に都に衛士の増援を頼んでいるが、到着にはまだ時が掛かるらしい。
その間にも被害者は増えていくし、被害者が増えれば、あの魔獣は更に厄介に発牙していくことだろう。
部屋に上がった少志は昨日、魔獣を狩ってきたという術士と太刀を持った偉丈夫の話を聞いて、訪れたと言った。
「今、あの里には、そもそも衛士の数が少なくなっている。それでは守れるものも守れまい。どうか、助力を願えないだろうか?」
「助力、とは?具体的には何をせよと仰せか?」
「通りかかっただけの旅人に命をかけよとは申さない。なんなら、あの里に行き、滞在してくれるだけでも良い。あの里の衛士は減る一方で、あの里に暮らす民にしてみれば、まるで救いがない。例えそれがたったひとりの術士でも、助けが来たという事実が大事なのだ。もしも、そなたらがたったひとりでも、目の前の民を哀れんで、助けてくれれば、私はそれだけでも嬉しく思う。救われる生命がひとつでも増えたら、その思いだけで申し上げている。今必要なのは、あの猿の魔獣が流す血ではなく、ひとつでも多く救われる民の命だ」
その言葉に、セイリンは本当にそうだろうか?と口にはせずに考えた。
どうせ来るなら、本当に助けとなる人が、すぐにでも猿をどうにかできる人間が来た方が嬉しいとは思わないだろうか。
たったひとりの術士に何ができる?
それは、セイリン自身が話を聞いてから、ずっと考えていることでもあった。
魔獣を連れ、銀糸を操り、罠を作れる。
自分にできることは、これだけだとセイリン自身は考えていた。
「なるほど。話は分かった。少し時間を貰いたい。……そうは待たせない。こちらにもこちらの都合がある。行くとなれば、それなりに準備もいるだろう。ひとまずは、お引取りを願おう」
カルラの言葉に、何かを言いかけたが、結局少志は、深々と頭を下げて、静かに部屋を去っていった。
ふたりだけになった部屋で、カルラとセイリンは改めて向かい合った。
「さて、どうされる?私の役目はあなたの助けとなることだ。あなたに何かを強制するためではない。そのためには、あなたの望みを知らなくてはならない。このままこの辺りで時を待つということは、誰からも揶揄されることではない。また、遠回りにはなるが、別の道を行くという方法もある。あなたはどうしたい?」
カルラの言葉に、セイリンは改めて考えこんだ。
困っている人がいるのなら、助けになるべきだろう。
それはセイリン自身が老爺との生活で培った自然な感情だった。
自分ひとりでできることには限りがある。同じように周りの人間にも限りがある。
かつて老爺は自分を助けてくれたし、自分も老爺を助けた。
例え、見ず知らずの相手であっても、余程の事情がない限りはそうしたいと思っていた。
カルラはそれを心配し、騙し、盗む人間もいると言う。
まだそうされたことはないのだが、そういうこともあるのだろうと思う程度には喧嘩などの諍いも、ここに来るまでに目にしている。
あの少志にしても、セイリンを騙して、自身に何か利を得たいと考えて訪れたとは到底思えない。
何も命がけで魔獣をどうにかしてほしいと頼まれた訳ではないのだし、その猿の魔獣にしても、実際に見てみなければ、どれほどの魔獣なのかは分からないのだ。
自身の身を案じて、何事も無く時が過ぎるのを待つ。
それで果たして、自分はどう変われるというのだろうか?
そんな思いもあった。
何かをしたい。
それは老爺に誇れるような、そして何よりも自身に誇れるような。
それが何なのかも今は分からない。
それでも山を下りたことの意味というのを感じたかった。
あの山で老爺と共に過ごす。
それは実は今でもセイリンの中では望むべきものだった。
だがもう自分は山を下りたのだ。
だから。
何かをしなくては、何もできないままなのだから。
ただ、行くとなれば覚悟をしなくてはならない。
魔獣を目の前にして後悔しても遅いのだ。
すべての準備と、覚悟を済ませてからでなくてはならない。
おそらく、その里の者たちにはその覚悟はなかっただろう。
だからといって、突然、訪れた災いに備えられなかった者たちに、自身の責任なのだから、そのまま災いが通りすぎるのを待てなんて言えるはずがない。
そんな時には誰かが助けなくてはならないのだ。
かつて、両親が死んだ時に、自分にも助けてくれる人たちがいたのだから。
その人たちがいなければ、自分は今、こうして生きてすらいないのかもしれないのだから。
セイリンは行っても良いのではないかと考えていた。
何が出来なかったとしても、もしかしたら老爺から聞き知っていることで何か助言ができるかもしれない。
そんな考えがセイリンの顔に現れていたのか、カルラはやや渋い顔を見せ、一度息を吐いてから微笑んだ。
「あなたならそう言われると思っていたが……どうか、これだけは忘れないでほしい。私はあなたを決して死なせたくない。これはミロク様に頼まれているということもあるが、それ以上に私はあなたが好きだ。あなたにはもっと多くの物を見て、より大きくなった姿を私に見せて欲しい」
その言葉に、セイリンは笑顔で答えた。
セイリンはそれを、約束だと思い、胸に刻んだ。
里を出る時には、少志が紹介状と一緒に、いくらかの少なくない銀貨を渡してきた。
決して言葉にはしなかったが、少志の本心は、自らがその里へと行きたいというもののようだった。
少志が離れれば、この里の守りが減ることになる。それは里と民の安全を預かる身としては、絶対に許せることではない。すべてを同時には守れないということを、あの少志は知っているのだろう。
とは、カルラの言だ。
襲ってくる魔獣の姿が無ければ、衛士は動けない。
だが、その動かないことすら役目なのだ。
魔獣というのは天災に等しい。いつ現れ、いつ暴威を振るうか、予測する術はない。
それ故に常に最良の戦力を整え、備えることだって立派な役目。
勝手に動くことは決して許されない。不足が生じれば、猿の魔獣が現れた里のようになってしまうのだから。
近くの里から兵力を割けば、今度はその割いた方の里が同じ目に合うとも限らない。
それ故に、都まで知らせが走り、そこで吟味され、余剰を各地から調整し、そうしてやっと兵力が派遣される。都には多数の衛士が、それに衛士ほどは多くはないが、術士もいるという。そうセイリンは聞いていた。それは必要だからいるのだ。何も誰も彼もが都で遊んでいる訳ではないはずだ。
だからどうしても時間が掛かってしまう。
その間に、どれだけの民の血が流れても、安易に助けには向かえないのだ。
「たったひとりで、どんな魔獣も倒せるような人間がいれば話は別なのだが、現状、どんな名刀魔剣を持っていたとしても、発牙した魔獣を独力で倒せる人間など、いやしない」
カルラは?
カルラだったら、それができると、ひとつも疑わない目でセイリンが尋ねた。
その言葉に、カルラは目を丸くして、それから今まで見たことないくらいに大笑いする。
その様にセイリンはやや憮然とした表情でカルラを見た。
「いや、すまない。そうか。あなたはそんな風に私を見ていたのか。私だってただの人間さ。例えばこの天府が相手でも、私など及びもしないだろう」
セイリンとカルラの視線を受けて、ふたりの後ろをのそのそと進んでいた天府は軽く頭を上げた。
当たり前だ、と自身を誇っているようだったが、どこか子どもじみた仕草にも見えたのが、セイリンにはおかしかった。
「まあ、運が良ければ相打ち、それぐらいが良いところだろう。人には限界がある。その限界は魔獣の発牙する力と比べれば、あまりにも弱く、幼い子どもと変わらない。そうだな……勘違いがあるみたいだから言っておこう。魔獣の巨体と、剣の間合い、これは実は魔獣の方が長く遠い。こちらはその刃でもってしか、魔獣を傷つけることはできない。つまり、魔獣の身体を断ち切るには、それだけ深く刃を相手に届かせる必要がある。いくら刃先でもって傷つけても、魔獣はそれでは死なないし、動きは止まらない」
そう言うと、カルラは太刀を抜き放つ。
カルラが持っていても、長いと感じるそれなのだが、それでも長さは足りないと言った。
天府に止まってくれないかと頼むと、天府は一度、セイリンの顔を見て、セイリンが頷くのに合わせて止まる。カルラが天府に刃を合わせた。
もしも、天府を一撃のもとに断ち切りたいなら、ここまで近づく必要があると示した距離、それはあまりにも近いと感じた。
例えば疾駆してきている魔獣に対して、そんな間近で太刀を振れば、例え殺し得たとしても、殺しきれなかった勢いで圧殺されかねない。
鞘へと太刀をおさめながら、カルラは続ける。
「もしも刃が魔獣の筋肉や骨に食い込んでしまって、動きが止まればそれで仕舞いだ。魔獣というのは全身が武器だ。人間はその体重と膂力でもってぶつかられるだけでも骨が折れ、内臓が破れてしまう。魔獣は多少の傷など気にしない。断ち切られさえしなければ、再び繋げることだってできるのだから」
人間を食べれば、魔獣は発牙する。その時に、己の不足を補おうとするのだ。
傷があれば、当然、その傷は塞いでしまう。
動きまわり、突撃してくる魔獣を躱しながら斬りつけようとすれば、どうしても攻撃は浅くなる。
長期戦になれば、体力に勝る魔獣が有利だ。
だからと言って、一撃に賭ければ、どうしたって無事では済まなくなる公算が高くなる。
1対1では勝ち切ることは難しい。
だから衛士はひとりでは決して魔獣に戦いを挑まない。多勢でもって動きを封じ、それで魔獣を殺すのだ。
理解が及んだことを確認して、カルラは軽く笑った。
「衛士というのは確かに魔獣退治の専門家だが、それが示すのは個で魔獣より強いという意味ではない。魔獣を知り、地を知り、そして被害を抑えながら魔獣を倒す術を模索する。術士と同じく罠を使うこともするし、基本は多勢でもって魔獣を倒すのが本分だ。実際、それで多くの魔獣を倒してきた。だが魔獣というのは千差万別だ。同じような魔獣でも、発牙の仕方ひとつでまったく対処できなくなることもある。だからあなたのような術士がいる」
数でも策でも対処できない魔獣にはどうするのか?
それならば、同じ力を持った存在が対処すれば良い。
魔獣と同じく巨体と膂力を持った存在が。
つまりは魔獣自身が。
「本当はすべての里に術士が居れば良いのだが、術士の存在は希少だ。衛士のように1年2年の修行で実戦に出られるわけではない。強力な魔獣を捕らえられる腕の良い術士となればもっと希少だ。面を作る。罠を作る。そして罠を操り、捕らえる。それらすべてを備えた術士というのは実はほとんどいない。本来はすべてを備えてこそ、術士だったのだが、それは数えるほどしかいないのだ。術士にも区分があり、都では面だけ作る者、罠だけ用意する者、実際に捕らえる者とで分かれているのが実情なのだ」
術士の区分。それは仕組みと言い換えても良いのかもしれない。
下のものが罠や面を作り、上の者が魔獣を転変させ、捕らえる。
その上の者だけを指して術士と呼んだりもする。
セイリンは驚いた。
セイリンにとってはすべてを独力で行うのが当たり前のことだったからだ。
何もかもを自分自身で用意するというのは、老爺が当たり前にやっていたことでもある。
「都でも、シキという姓に相当する姓を名乗ることを許された者は稀だ。自覚はないだろうが、あなたは大した人物なのだというのは忘れないで欲しい」
その言葉に思わず自分の手を見た。
カルラの手に比べればあまりにも小さい手だった。
セイリンはどこかで自分をまだただの子どもなのだと考えている。
カルラがどこかセイリンを尊び、敬うようにしていることの理由がようやく分かった気がした。
「最も恐るべき相手に、ただのひとりで挑み、実際にあなたは天府を転変せしめた。その一事をもってしても、あなたは私よりも強い。一度魔獣を転変させれば、次の魔獣を転変させるのは容易になる。そうして魔獣を得た術士はどんどん強くなっていく。これが普通だ。だからあまりないことだが、個人で魔獣を得た術士は一度転変させた魔獣を容易に他人には与えない」
セイリンはその言葉に疑問を持った。
自分がカルラよりも強いという言葉もそうだったが、どんどん魔獣を転変させて、そうして魔獣を多くの里に派遣するだけで、被害というのは減らせるのではないだろうか?
思うままにカルラに訪ねると、カルラは難しげな表情をした。
「一部の衛士は実際に許されて魔獣を従えていることもある。だが、ごくごく一部の話だな。実際に転変した魔獣を個人で所有している者もそう多くはない。これは術士であっても同じだ。都で共有されるべき財産とみなされることが多い。まあ方法はどうであれ、魔獣を転変させられる術士というのは言わば人間にとっての切り札だ。それ故に、その多くは守られる存在となっている。こう言ってしまってはなんだが、特権を持つひとつの階級のようになっていて、多くの術士は都から出ないことが多い。その猿の魔獣にしたって、都から腕利きの術士ひとりを呼べれば片がつくかもしれない。だが、未だに現れていないというのも、そういうことなのだろう……話が逸れたか。術士の多くは自分自身のために、より強い力を求める傾向が強い。そうすればもっと都で権力を持つに等しいからだ。都の術士は転変させた魔獣を自分で保持したがるし、誰かに与えるにしてもそれはごく親しい者にか、あるいは都で権力を持った商人や衛士が相手ぐらいのものだろう」
カルラの表情が話すにつれて、だんだんと苦いものを噛み潰しているようになった。
今まで見たことのない表情に、セイリンは思わず声をかけた。
「……すまない。失礼した。そうだな、実際に魔獣を誰かに預けるというのは難しいものだ。なにしろ魔獣というのは強大な力を持つ。例え、あの発牙していないクマですら、ただの人には立派な脅威だ。そうだな、もしも魔獣を与えられた者が、恨みや妬みでもって心根が変わり、他人を襲わせればどうなる?」
発牙していない魔獣でも、例え転変した魔獣でも、人間を食べれば発牙する。
魔獣という力を持ち、さらなる力を持ちたいと考えた時に、一番簡単なのは、それでもって誰かを襲えば良い。
それを続ければ、容易に力を手に入れられる。
確かにそれはその通りで、そんな考え方に寒気にも似た震えが生じた。
カルラはセイリンの肩を軽く叩いて、前を向いて言った。
「だから、術士は容易に魔獣を他人に与えてはならないとされている。個人で持つにも相応の身分が必要だ……魔獣が現れるまで、人間の天敵はずっと人間だったが、魔獣が現れて随分経つ今でも、もしかしたらそれは変わってないのかもしれない」
魔獣の敵意や殺意は強烈だ。
だが、それらは魔獣にだけ固有のものではない。
ヒトも敵意を持つし、殺意も持つ。
現にセイリンには、今、語りながらもそれがカルラにほのかに立ち現われている気がした。
それを感じてセイリンは、カルラにならば渡しても良いと思わず言葉にしかけた。
だが、それは言葉にはならなかった。
前を向いたカルラの横顔、その目はとても厳しくて。
その目がまるで、そんなことは決して口にしてはならないと言っているようでもあった。
カルラもまた、セイリンに語りながらも考えていた。
魔獣の敵意や殺意は恐ろしい。
だが、それを上手に隠して近づける人間の方が、よほど恐ろしいのではないかと。
まるで人通りのない街道をふたりと1体が進んでいった。
既に魔獣が出没していると分かっているので、一行の他に、その里には向かうものはいない。
途中、関所もあったのだが、そこを襲われるのを危惧したのか、誰一人の姿もなく、関所自体が閉じられていた。少志から鍵を渡されていなければ、通ることはできなかった。関所を抜ければ里までは大した距離はなかった。
疲れるほどでもない距離を歩き、辿り着いたそこはセイリンが今までに見たこともない有様で、とても人里とは思えなかった。
通りに人の姿はない。
どの里にもあった、行き交う人々の声も、子どもの甲高い笑い声もない。
稀に見る人影も、家屋の影に隠れるように、こそこそと急いで動き、すぐに消えてしまう。
まともに出くわしたのは、巡回中の衛士や検非違使くらいのものだった。
打ち捨てられた廃墟が並ぶ、そんなような印象の里だった。
実際に、いくつかの家屋の壁や屋根には打ち壊されたような様相がそのままになっている。それを直そうという気力もないようだ。
誰何のあった衛士に聞いた場所へとふたりは天府を連れたまま急いだ。
幸いにして、収穫を既にこの里では終えていたので、食料自体はあるらしいのだが、こうも人の通りがなくなっては、商売が成り立たないという。
このままでは備えのない貧しい者から飢えて死ぬものも出てくるだろう。
スイカされた時に紹介状を見せ、他の衛士が確認に走るのを待つ間に、衛士が話していたのだが、それを証明するように、ぽつりぽつりと通りの隅で生気のない目で寝転がる老人を見た。
このまま魔獣に食われた方がマシだ。
そう言っているような、そんな生きながらにして死んでいるような目だった。
里の中でも、衛士の役宅が集まっている区域、その中でも一番大きな屋敷をセイリンたちは尋ねた。
ちょうど在宅中だったようで、姿を現したこの里の少志は紹介状を受け取ると、どこか疲れたような笑顔でふたりと天府を迎えた。
少志はカルラには及ばないものの、体格の良い、いかにも武人といった風情だったのだが、その顔には幾日も寝ていないような、そんな消せない疲れが見えた。
天府は庭に、ふたりは客間に通され、少志の妻が茶を持って現れたが、彼女の表情も少志と似たようなものだった。
彼女が退室したのを確認してから、カルラが口を切った。
「……相当に状況は良くないと見える」
「ああ。はっきり言って酷いものだ。今、里の民には心休まる時というのがない。ただの魔獣ならば、おおよそ現れる刻限というものがあるのだが、あの猿にはそれがない。朝や昼には民を襲い、夜には警戒している衛士を襲う。こうなると衛士には心休まる時がないし、民にしても衛士が減れば守られる範囲は狭まる。外には出かけたくなくとも、蔵があって幾日も食料を置いておける者はまれだ。それに里には日銭を稼いで暮らすものも多い。この状況では日銭を稼ごうにも人が動かないからそもそも金のやり取り自体が減っている。他の里からの旅人も商人も来ないとあっては、なおさらだ」
日銭もなければ食うものにも困る。それで仕方なしにと、盗みに走る者も増えているという。
それで例え捕まろうとも構わないという自棄を起こした者で、今では牢はいっぱいだとか。
途中に見た検非違使の目には余裕がなかった。
こんな状況では取り締まる方にしても、何も考えずに罪だ悪だと捕まえ続けるのは難しい。
「なんとか他の里には出してやれないのか?」
「それは都から禁じられている。あの猿を他の里へと連れて行きかねない。そうは言っても逃げ出す者も少なくなかったが、実際に他の里に辿りつけた者はほとんどいなかった」
まるでずっと監視されているように。
そんな妄想とも真実ともつかない考えに囚われ、衛士が神経質になるほどに、猿の魔獣というのは里の動向に合わせるように狡猾に襲ってきている。
「こちらからねぐらに狩りだしには?」
「二度行った。犬を連れて匂いを追ったが、要石の外に、それも二度とも別の方へと消えていった」
要石を通れば匂いが混じって追跡は困難になる。
猿の魔獣は要石など歯牙にも掛けず、簡単に出入りしてきているようだ。
そして要石の外で、まとまった人数で長い時間、遠くまで追跡するのは難しい。
それを行えば今度は他の魔獣が寄ってこないとも限らない。
ただ話を聞いている限りでは、それほどまでに発牙した魔獣がいれば、他の魔獣も避けて寄ってこないかもしれない。
それでも、どこまで追えば良いのか分からない状況で追い続けるのは愚策だろう。
そうして衛士が出張っている間に、別の方向から猿の魔獣が里に舞い戻らないとも限らないのだから。
「……打つ手なし、か」
カルラの言葉に少志はうなだれるように息を吐いた。
「今は、とにかく都からの増援を待ちながら、極力被害を出さないように努めているだけ……それも実際には家から出るなと言っているだけに等しい。これでは私は何のためにここにいるのか」
強い言葉を吐き出した少志の両手は硬く握りしめられていた。
それをカルラもセイリンもじっと見つめた。
カルラが居住まいを正し、一度、セイリンを見た。
セイリンは頷きでもって返す。
カルラはそれに微笑で応え、少志に言った。
「出来るだけのことはしたいと私もセイリン殿も思っている。私たちもまだ何が出来るかは分からない。だが、少しでも被害を減らせたらと真実思っている。協力できることがあれば、率直に言われよ。共にこの里を守ろう」
少志はカルラの言葉にやっと顔を上げた。
少志の目から涙がこぼれた。
それは不甲斐ないと自分を攻める気持ちからか、それとも、やっと里に現れた救いの手があったことか。
セイリンはその涙を見て思った。
自分がここに来るべくして来たのだと。
セイリンの両手にも、知らず力が入っていた。
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