第3話 タイガー02

 セイリンが目を覚ますと、そこにカルラの姿はなかった。

 風邪を引いた時とは違う頭の痛さがある。

 吐くような気持ち悪さはなかったが、それでも不快感が込み上げる。

 顔を洗うにはどうしたら良いのか?

 宿の者を呼ぶべきか、それともどこかに井戸でもあるのか、迷って部屋を出ようとすると、ちょうどカルラが太刀を手に、戻ってきたところだった。


「起きたか。体調は?……ははっ、そうか。昨日のことはどれくらい覚えている?……弱い方ではないようだな。だが、昨日あなたが飲まれた量と味を覚えておくことだ。あれより刺激の強い酒は飲まれない方が良かろう。それに、量と飲む速度も考えると良い。もしも、私が物盗りだったなら、今頃はあなたの荷物は何ひとつ残っていないというわけだ」


 カルラはそう笑って、宿の者に水を用意するよう言付けてくれた。

 水を張った桶が用意されると、顔を洗いつつセイリンは思った。

 もう酒は飲まないようにしようと。

 いつでもカルラのような信頼できる人が側にいるとは限らない。

 酒というのがどういうものなのか、知っておくことができて良かった。カルラがそれを教えてくれて良かったと思い、すぐに礼を言う。

 カルラは笑って返す。


「これくらいは、なんてことはない。まあ、程々に飲む分には薬にもなる。いずれ体が慣れてくれば、あの程度で昨日のようにはならないだろう。距離を置かれるのも悪くはないが、飲まねばならない時もある。懐に余裕がある時には嗜まれると良いだろう」


 カルラが懐と言ったところで、セイリンの頭にそのことが浮かんだ。

 そうだ。旅に出るなら、当然、考えなくてはならないことだ。

 宿に泊まる。食事をする。酒を飲む。

 それらは当然、ただではない。

 里には自分の家はないのだから、寝るところも毎日考えなくてはならないし、いつでも食べるものがその辺で取れるとは限らない。

 今、セイリンは真実、ただの1枚の銅銭も持っていない。

 あの家にはあったが、それは老爺のものであって、セイリンのものではない。

 だから、持ちだしては来なかったのだ。

 そのことをカルラに告げると、笑んだままで答える。


「それについても、私が同行している間は気にしなくて良い。もちろん、これから先、ひとりで歩くためには考えなくてはならないことだが、それは道々、話し、考えていこう」


 そう言って、少しばかり思案顔を見せ、セイリンに提案した。


「そうだな、では、今日は少し里を見て回ろう。それで明日の朝にここを出立する。それでどうだろうか?」


 もとより先を急ぐ旅ではない。

 カルラが良いなら、と答え、今日は里を歩くことに決めた。






 カルラと共に、里を歩く。

 天府を連れて歩くのは目立って仕方がないので、宿に預けたままだ。

 昨日ほどの騒ぎにはならなかったが、それでもひと目で只者ではないと分かるカルラと一緒だったので、人目を引くらしく、声を掛けられることは多い。

 中にはセイリンの肩に振れ、その手に触ろうと求めてくる者もいたのだが、それはカルラがやんわりと断った。

 万が一の用心にと、セイリンは首にひとつの面を掛け、銀糸が幾重にも巻きつけ、まとめられた糸コマを腰に備え付け、懐に山刀をしまっていたが、すり取られないように注意するようにとカルラに言われて、やや気を張って歩く。

 里の中央を通る道は広く、その両側には木や土壁で作られたと思わしき家が立ち並ぶ。

 多くの家は、その正面の戸口が開け放たれ、人の出入りがあった。

 カルラに聞けば、それらは何かを商っている店なのだという。

 カルラがしていたように、直接、家を訪れ、商品を売る者もいるが、多くはこうして店を構えて客を待っているという。

 この里は魔獣に襲われることが少なかったために、比較的大きく発展している。

 それに、都へと直接繋がっていく道沿いにあるために商いも盛んなのだという。

 何軒かの店をカルラに促されるままに、覗き、人々の様子を眺めた。

 こうしたところで何かを買って、それを別の里で売るというのもひとつの商売になるという。

 ただし、それをやるにはここでは何が安くて、どこでは何が高く売れるのかを知っていなくてはならない。

 セイリンがそれをやるには知識がなさすぎるために、難しいと思えた。

 ほとんどの店はただの冷やかしで終わったが、1軒の店はカルラが利用した。

 それは両替商だった。そこでカルラは銀貨を銅銭に替えていた。

 両替商はどこの里にもあるとは限らない。

 いちいち、細かく持っていては旅の邪魔になるが、だからといって大きいままでは使えないこともある。状況に応じて、両替が必要なようだ。

 そうして、カルラは僅かな銅銭をセイリンに渡した。

 セイリンはそれを受け取るべきか迷って、でも礼をしっかりと言って受け取った。

 カルラは子供扱いして小遣いを渡した訳ではない。

 これも、これから旅をするのに必要なことなのだろう。

 それはお金の価値というのは、実際にやり取りしなければ身につかないというカルラの配慮だった。

 実際に今までにセイリンがお金のやりとりをした相手はカルラだけ。

 それもカルラや老爺に言われるままに用意して、払ってきただけだ。

 きっとそれだけでは、里で人とやりとりするには経験が足りないのだろう。

 歩いて周り、昼を過ぎた辺りで昼食を取り、その代金は貰った銅銭で払った。

 計算は老爺に習っていたし、銅銭の価値もおおよそ理解できないものではない。

 確認するようにセイリンがカルラを見ると、様子を見ていたカルラは大丈夫だなと言うように頷いてくれた。

 店を出るとすぐに喧嘩と思わしき騒ぎに出くわした。

 怒号が通りに響き、多くの人がその声のする方を見やり、中には実際に騒ぎの方へと向かう者もいた。

 どうするのかとセイリンがカルラを見れば、カルラはちらりと向こうを一瞥しただけで、その場をすぐに離れてしまった。

 その時のカルラは分かるか?と問うような目でセイリンを見るだけだった。

 陽が落ち始めた辺りで、今日はここで最後だな、とカルラが言って立ち寄ったのは里の中では一際壮麗な朱色の門のある社だった。







 門を潜れば、そこは今までの喧騒から隔絶されているようだった。

 まったくの無音という訳ではないのだが、雑多な音が遠くに感じられた。

 勿論、先ほどの騒ぎもとうに聞こえなくなっている。

 広い敷地には細かな砂利が敷き詰められ、その中で幾つもの棟に分かれた朱色の社が夕日の中に綺麗にそびえていた。

 カルラが社の由来を話した。

 それは荒ぶる蛇神を鎮めるために作られたという。

 かつて大地より出て、天を覆い隠した蛇神。

 マガツヒノカガチ。

 歴史と文化の一切は産み落とされた魔獣によって破壊され、長らく人間は魔獣に怯えて生きた。

 それまでの人間は数多くの獣を従え、大勢の人間と人間とで争い、血を流していた。

 戦乱の時代だ。

 地上のあらゆる場所が血に濡れ、大地は赤く染め抜かれたという。


 禍津日々マガツヒビの時期。


 蛇神はその禍津日々の時期に突如として現れ、太陽を飲み込み、天を覆い隠し、大地を割り、割れた大地から魔獣が溢れだした。

 人間は人間同士で争うことをやめ、襲い来る魔獣に立ち向かったが、まるで戦いにならなかったという。

 従える獣は無惨に食い殺され、そして人もその後を追うばかり。

 やがて力を失い、散り散りになって逃げ惑う生活を人間が始めると、忽然と蛇神は消え去ったという。

 それ以降、国という古い概念はなくなり、戦禍を起こすことは禁忌となった。

 人と人とが手を携え、魔獣から少しずつ領土を勝ち取っていき、里をつくり、そして今の人の世を得たのだ。


 社はそうした歴史の象徴なのだと。


 そして、未だこの世のどこかで眠る蛇神を決して起こすことのないように祈り、願うのだ。

 どうか、再びこの世に現れないようにと。

 人は死ぬと、この社にある墓所へと葬られる。

 それは大地に流れる血を少しでも減らし、清め、蛇神に捧げないように。

 死者の魂が次の生を受けるまでの間、この地を守護し、魔獣を遠ざけてくれるように。

 

 中央の一際大きな社へと向かい、その前でカルラが礼をしたので、セイリンもそれにならって礼をする。

 眠り給え。

 清め給え。

 守り給い、幸え給え。

 礼を終えると、セイリンは見上げた。

 今までセイリンが見てきた中でも、一番大きな建物だった。

 セイリンは首が痛くなるのではないかとカルラが微笑するほどに、上を見ていた。

 やがて、ひとつの彫像がその社の屋根にあることに気付く。

 カルラに問うと、カルラもなぜそれがそこにあるのかを知らないようだった。

 距離があるので、良くは見えないのだが、その姿は猫のようだ。

 ただ、猫にしては頭と身体の大きさの割合が合わなく見えた。

 もしかしたら虎だろうか?

 セイリンがもっとよく見ようと歩いて見る位置を変えている間に、カルラは社の人間、社司を呼んできていた。

 白と朱色の貫頭衣に身を包んだ社司はセイリンの首に掛かる面に一度目を留めた後、それには触れずに彫像について話しだす。


 かつて、この地が拓かれた当時、多くの魔獣に襲われ、この地の者達は大いにその被害に悩まされていた。

 衛士の数は足りず、赴任してきた側から死んでいった。

 そんな時に、転変した魔獣を連れたひとりの男が現れた。

 男の連れた魔獣は精強で、あらゆる魔獣からこの地を守った。

 やがて、里として発展していったのだが、男が病に掛かって亡くなると魔獣は人々の前から姿を消してしまう。

 再び魔獣に怯えることになると人々は危ぶみ、恐れた。

 しかし不思議なことに、それ以降、ただの一度としてこの里に魔獣が現れることはなかった。


「あの虎の像は、その魔獣を模っております。この里では信じられているのですよ。今もその魔獣がこの地を守ってくれていると」


 セイリンが感心して、その男を素直に褒めた。

 立派な方がおられたのですね、と。

 セイリンの言葉に社司と、カルラが微笑む。

 ふと思いついたように、セイリンが虎の魔獣の名前を尋ねると、社司は静かに首を振った。


「これも不思議なことなのですが、魔獣の名前は残ってはいないのです。それどころか男の名前すら残っていません」

「それは……本当に?」


 やや疑うような色を帯びていたカルラに、社司の表情に苦いものが混じった。


「ええ。私もなんとかそれを知ることができないかとずっと調べているのですが、分かってはいません。男については墓所に残る名をずっと辿れば分かっても良いはずなのですが、男の希望だったのか、特別な措置はなにもされなかったようです。なので、今では里の中にもただの伝説、作り話だと笑う者も僅かですがおりまして」


 術士の数は少ないという。

 しかも、その多くは都にいて、どこにでもいる訳ではない。

 つまり、この里では転変した魔獣を見たのは初めての者も多かったのだ。

 転変した魔獣が今も、この地を守っていると言われても、見たことがなければ魔獣が人に従うということすら疑わしい。

 そう言う者も確かにいたのだ。

 そこに本物の転変した魔獣と術士が現れたので、里の人々は驚いた。

 昨日の騒ぎの訳がやっと分かったとばかりにセイリンとカルラは顔を見合わせた。

 社司はその男のことを、そして魔獣のことを誰よりも信じているようだった。


「……あなたは昨日いらしたという術士様で間違いないでしょうか?」


 真剣な顔の社司に、セイリンは頷く。

 今更隠しても仕方がないだろう。

 頷いたセイリンに、社司はやや瞑目し、そして再び目を開いた時には決意の色を見せて、セイリンに告げた。


「それならば、見ていただきたいものがございます」





 社の中には祭壇があるだけで、他には何もない。思ったよりも質素な空間だった。

 そこで僅かに待たされると、社司はひとつの漆塗りの箱を持って現れた。

 人の頭ひとつ分ほどのそれを開くと、見たこともないくらいに真っ白な布。

 社司は慎重な手つきで布を開けていくと、包まれたそれが現れる。


 それは1本の編み込まれた赤い紐だった。

 赤い紐、それ自体はどこにでもあるものかもしれない。

 だが、セイリンはそうは思えなかった。

 その赤、その色味は、ひとつの物を連想させる。

 セイリンにも、カルラにも見覚えがあった。

 転変した魔獣は必ず身に着けているもの。

 それは面を結ぶ紐のように見えた。


「これは?」


 問うカルラに、社司は声を潜めて答えた。


「分かりません。ですが、この社の宝重として、長く大切に保管されてきたものでございます」


 代々の社司が秘蔵するようにと受け継いできたものなのだという。

 それでありながら、一切の来歴は残されていない。


「……明らかに、切られた跡がありますね」


 カルラは断面に触れずに、その端を指す。

 社司も分かっていると言う代わりに頷きだけを返した。


「私はこれを見ると、不安になるのです。私は以前、都におりましたので、転変した魔獣をみたことがあります。……これはこの地を守った転変した魔獣がいたという証なのでしょう。ですが、面は残らず、切られた紐だけが残っている。なぜでしょうか?これを見て、どういうことが考えられるでしょうか?」


 問いかけに、セイリンは黙った。

 転変した魔獣は、転変させた術士に基本的には従うものだ。

 ただし、それでは術士が死んだ時に魔獣は誰にも従うことのないものとなってしまう。

 野にいる魔獣と違って、人と同じく意思を持ちながら、誰にも従うことのない力あるものが残ってしまう。

 だから、その魔獣を他の者に従うようにさせる方法があるのだ。

 結ばれた面の紐を解き、新たな者の血でもって印をなし、そして再び紐を結ぶ。

 それは儀式なのだ。新たな契となし、それで、その魔獣は新たな者に従うようになる。

 誰かがそれを実行しようとしたのだろうか?男が亡くなった時に。その魔獣を己のものとするために。

 それにしても、紐を切る必要はない。

 紐を切ったところで、血によって肉体と結び付けられた面は外すことはできない。

 それは術士ならば知っているはずだから、これを切ったのは術士ではないのだろうか?面を外し、再び魔獣としての性を戻そうとでもしたのだろうか?

 そんなことができるのか、それはセイリンは知らない。

 教わったことはなく、そんなことを考えたこともなかった。

 こうして切られてしまっては、再び結ぶことはできない。

 切ったのが誰なのか、なぜ切ったのか。

 そして、なぜその切られた紐がここに残っているのか。

 結局、この紐の断片だけでは何も分からないに等しい。

 分からないのに色々と想像して話すことはセイリンには憚られた。

 だから、分かりませんと、ただ一言だけ答えた。

 転変した魔獣の契の結び方は誰にでも話して良いものではないということもある。


 セイリンの答えに、社司はがっかりしたようだった。

 しばらく言葉を失い、そうして箱を閉ざす。

 箱を閉じ、顔を上げた時には微笑が浮かんでいた。


「お願いがございます。その面を見せていただけますか?」


 セイリンは言われると、迷うこと無く首にかけていた面を外して、社司へと手渡した。

 社司はじっと、その面を眺めた。

 無表情と言えば、無表情と呼べるかもしれない。

 しかし、そこに表情があると言われれば、確かにあるように見えた。

 笑い、泣き、怒り。

 すべてがあるようで、そのどれでもない。

 社司はそこから確かに何かひとつの表情を見た気がした。

 それで納得したように頷くと、セイリンへと面を返す。


「ありがとうございました。またこの里に来られた際は、是非ともお立ち寄りください」


 セイリンもカルラも立ち上がり、その時には必ず、と答えて社を後にした。






 宿へと戻り、天府の様子を見に行くと、天府は寝ていた。

 いや、寝ているふりをしていたようだ。

 セイリンが近づくと、すぐに身を起こした。

 小屋の周りにはいくつもの足跡が残っていた。

 どうやら転変した魔獣をひと目見ようと訪れた人たちがいたようだ。

 天府はそれが煩わしくて、狸寝入りをしていたに違いない。

 明日には出るから、そう言って軽く鼻先に触れると、天府はそっと文句を言うように、僅かに鼻息を吹いた。

 一応、面の周りを見たが、そこには何の異変もない。もとより、小屋に近づいたものの、誰も天府自身には近づかなかったようだ。

 自分が死んだら天府はどうするべきだろうか?

 カルラか老爺のもとに行き、後のことはふたりに任せるというのが一番安心だと思えた。

 それを言葉にしておくか、迷い、結局は言葉にしなかった。

 天府はまた寝入るように身体を横たえ、目を閉じたのでセイリンは部屋へと戻る。

 今、近くにはカルラがいる。すぐに結論を出さなくても大丈夫。

 そう自分に言い聞かせた。

 宿の者に挨拶すると、一応、気を使ってくれていたようだったし、途中、衛士や検非違使も様子を見に来ていたようだ。

 それもあって騒ぎにはならず、特に問題なかったという話だった。

 夕食の前に、カルラが酒を持ってきたので、付き合い程度に舐めつつ話をした。

 話は自然と、あの切られた紐のことへと向いた。

 セイリンは分からないとだけ答えた理由を話した。


「そうだな。確かなことが分からない以上は、迂闊なことは言わないほうが良い。あの社司にしても、本当のことを話しているとは限らない……というのは穿った見方のし過ぎか。きっと何かがあったのだろう。そして紐は切られた。決して自然に切れたわけではない」


 今もこの地を守っているという魔獣がいるのかどうかは分からない。

 元々、この地の周囲に魔獣が少なかったというだけかもしれない。

 あれこれと考えたところで、結局は何にもならないだろうという話になった。


「調べたいというのなら、この周囲の野山に分け入って、本当にその魔獣がいるのかを探すことになる。だが、転変しているというのなら、相手にも意志がある。会う気がないのならその魔獣は決して近づいてはこないだろう。そういう魔獣に会うのは困難だ。この地の人々にとって有害ならば、なんとしても探しださなくてはならないが、ずっと何も起こってはいない。自分の好奇心を満足させたいがために、守りし者の安寧を乱す必要はないさ」


 そう言ってカルラは酒をあおり、笑った。

 自分の好奇心。

 その言葉に、セイリンの脳裏に思い出されることがあった。

 ああ、それはつまり、そういうことなのかと。

 昼にあった騒ぎ、それについて思ったことを話してみる。

 故もなく、単に知りたいというだけで、周囲の事情に踏み込むべきではないということなのかと。

 セイリンの言葉に、カルラはしばらくじっとセイリンを見た。

 そこにはわずかな笑みが浮かんでいる。

 それだけなのか?と問うように。

 セイリンには考えてみても、それ以上のものは思い浮かばなかった。

 分からない、と素直にカルラに告げると、カルラはそうか、と表情を引き締めた。


「例えば、私とあなたとが喧嘩をしたとする。そこに居合わせた人がいたとして、単に止めようとするだけならば、それは良いことのように思える。でも、もしも本当に両者が感情でぶつからなければならないような事情があれば、その場を収めたところで、きっとまたぶつかるだけだ。例えば、私がミロク様を殺したとしたら、あなたは絶対に私を許さないだろう?……まあ、聞け」


 カルラが老爺を害することなんて、例え理由があったとしてもあり得ない。

 思わず、そんなことは絶対にあり得ない、と言いかけたところでカルラに止められる。


「そこまでの事情がなくとも、だ。一緒に仕事をしていて、仕事のやり方が気に食わない。それを理由に仕事をやめる訳にもいかないし、相手もやめなければ、やはりまた喧嘩になる。それも、今度は些細なことをきっかけにして始めるだろう。不満が残っていれば、人はその不満をどうにかして解消したいと思うものだ。それを本当に解決したいと思うのなら、双方に親身になって話を聞き、それぞれが納得できる方法を考えなくてはならない。ここまでは分かるか?」


 カルラの言葉に頷いた。

 例えば、昔、カルラに釣りを教わった時、私はどうしただろうか?

 いちいち、注意される度に不満を抱かなかったか?今ではあまり覚えていないが、一度、カルラが途中で引き返したことがあったことを思い出した。あれは、私がわがままを言ったのではないだろうか?

 そのことを私が話すと、カルラは吹き出すように笑った。


「そんなことは忘れても良い。いや、そうとも言えないか。あなたはあまり怒ることをしないだろう。誰かと喧嘩をしたことというのもほとんどない。あなたはまっすぐに育たれた。その素直さは美徳とも言えるが、誰しもがそうであるとは限らない。良い、悪い、ではない。人は自分ではない。これは常に意識しなくてはならない。怒っても良いのだ。喧嘩をすることもある。自分がしないからといって、他人がするのは許せないというのは驕りだと私は思う」


 一度、カルラは言葉を切り、自分で酒をついで、それを飲まずに眺めた。

 なんと話すべきなのか、整理するように。


「ただ、そうして怒り、感情をぶつけることで結果的に周囲に迷惑を掛けることは多いだろう。感情をただぶつけるだけでは解決しないし、同じように我慢しろと、ちからずくで押さえつけても同じことだ」


 そこで、目線をセイリンに戻し、真面目な顔でカルラは言った。


「これは難しい問題だ。それでずっと人は争ってきたし、それが大いなる禍を過去にはもたらした。だから、この場でどうしたら良いなどと、私などでは教えることはできない。私も迷うし、悩む。経験則でこうしたら良いのではと思うことはあっても、それが絶対ではないのだから」


 カルラの目が何かに気づいたように僅かに開いた。

 そうか、これを自分は言いたかったのか、と。


「あなたは誰もをちからずくにできる。これを忘れられるな」


 何を言われたのか、セイリンには分からなかった。

 自分が他人を力ずくにできる?

 脅し、奪うように言うことをきかせられる?

 そんなことはない、と反射的に言いかけて、自分の側には天府がいることを思い出した。

 いくら穏やかに従っていても、天府は魔獣だ。

 その恐ろしさはセイリン自身が身をもって知っている。

 もしも、山でのあの時、身近に罠がなければ、絶対にセイリンは命を奪われている。

 角がなくとも、発牙していなくとも、その膂力でもってぶつかるだけで、命を奪える。

 それが魔獣。


「分かるか?魔獣が側にいる人を、容易に嫌ったり、殴りかかってくる者はいない。誰だって魔獣は恐ろしい。そんな恐ろしい魔獣を側に従え、屈服させているように静かにさせている者をどうこうしたいとは思わない。だが、逆はできるのだ。あなたは容易に人を嫌えるし、殴ることもできる。もっと言えば殺すことだってできる」


 勿論、そんなことをすれば罪に問われるし、検非違使に追われることになるがな。

 そう続ける真剣なカルラの表情に、言葉に、知れず喉がなった。

 自分が人を殺せる。

 考えたこともなかった。

 それは周りには、たったひとりの人間しかいなかったからだ。

 そして、その相手はセイリンが最も愛する人だったからだ。


「あなたは自由だ。しかし、本当に自由で良いと、あなたは思われるか?」


 なんでも出来る。天府の力を使えば、簡単に。

 あの喧嘩の場に行って、やめなさい、と言えば確かに喧嘩は収まったかもしれない。傍らに魔獣の存在がある転変術士の自分が言えば。しかし、それで良いのか?

 そこに、恐れはないか?

 セイリンは首を振った。

 それを見て、カルラはやや肩の力が抜けたようだ。

 それは言いたいことを言ったからか、それともセイリンの態度を見てなのかはカルラ自身にも分からない。


「そうか。あなたには何の気もない行動でも、それを確かに恐ろしいと思う人間がいるということはどこかで意識されると良いだろう。私もあなたがそうされるのが良いと思う。でも、どうかそれに囚われないでほしい。これからあなたはきっと色々な事を成すだろう。様々な人にも会う。そうすると、あなたは期待される。こうして欲しい、こうあって欲しいと。あなたには力がある。だからこそ……これは私やミロク様の勝手な願いなのかもしれないが、どうかあなたは自由であってほしい。誰かの考えに囚われること無く、自分自身で答えを見つけ、あなたはあなたであって欲しい。力を恐れず、自然に人と接し、あるがままに。どうか。どうか」


 そう言うと、カルラは頭を下げた。

 カルラはなかなか頭を上げなかった。

 自由であるとは何か?

 すぐさま問いかけたい衝動をセイリンはこらえた。

 カルラはまるで言葉を探すようだった。

 きっとカルラ自身にも、明確には分からないことなのかもしれない。

 自分がどうするべきか。

 どう人と接し、どう歩んでいくのか。

 セイリンには人と接した経験が少ない。そのことを心配してくれているのだということは、ただただ痛いほどに分かった。

 自分で考えなくてはならないのだと。


 やがて夜も更けて、灯りを落としても、セイリンはその夜はなかなか寝付けなかった。

 自分のことをただの子どもなのだと思っていた。

 しかし、天府を転変させ、山を下りたことで、そうではなくなっていたのだ。

 自分はもう成人として考えなくてはならない。

 何が出来るのかを。どうやって人ともに生きていくのかを。

 傍らで寝ているカルラを起こさないようにそっと布団から抜け出し、戸を開けて外を見た。

 月の光が射している。

 その中で、そっと面のひとつを手にした。それを山刀で削ろうとして、手が止まる。

 今の心持ちでそれをしてはいけないと思って。

 不意に老爺の面を思い出す。

 それがもう近くにないことを。

 これからはひとりで考え、ひとりで面を作っていかなくてはならない。

 自分の目で、手で、良いところを見つけ、そうして進んでいくしかない。

 もう老爺のそれとは比べられないのだ。

 たったそれだけのことで、セイリンは自分が果てしなく遠いどこかにいるような、そんな気がしていた。






 翌朝は何事もなく起きられた。

 特に頭痛も吐き気もない。

 酒も量を飲まなければ、こんなものなのかとセイリンは息を吐いた。

 天府を小屋から連れ出し、カルラと共に里を後にする。

 朝早いにも関わらず、通りに人の姿は多い。

 同じように次の里へと向かう人々だろう。

 この道はずっと行けば、やがて都へと向かうことが出来る。

 中には、同じく都へと向かう者もいるかもしれない。

 カルラは別段、変わったところはなく、普段通り。

 それに反して、セイリンは昨日のカルラの言葉を反芻し、そして考える。

 それを察したのか、カルラも口数は少なく、静かに歩いた。

 すると、不意に天府が立ち止まった。そして通りの真横、遠く見える山の方に頭を向ける。

 天府?

 セイリンが呼びかけても、耳をぴくりぴくりと動かすばかりで、動こうともしない。

 天府のその長い耳にしか聞こえない何かがあるようだ。

 やがて、天府は向いていた方へと一歩、二歩と進みだす。

 カルラからどうしたのか?と問われても、セイリンにも分からない。

 ひとつの可能性に思い至って、カルラに告げた。

 もしかしたら、魔獣かもしれない。

 昨日の話に反するようだが、だからといって出るはずがないと断ずる方が無理があるように思える。

 何しろ、魔獣には人とは違って理などないのだから。

 もし本当に魔獣ならば、里にも危険があるかもしれない。

 確認できるならば、しておくに越したことはないだろう。

 いざとなれば、天府の背に乗って逃げることもできる。

 その言葉に、カルラも頷いて、天府の歩みに合わせて通りから外れた。

 里が遠く、小さく見える頃、やっと天府は足を止める。

 そこは草原だ。

 そこかしこに背の高い草木がうっそうと茂っていて、そのどれもから魔獣が飛び出してきてもおかしくない、そんな場所の中。

 天府は落ち着いた様子で腰を下ろした。

 その様子は暢気と呼べるほどに穏やかで、どうやら魔獣が出てきそうな雰囲気ではない。

 カルラと顔を見合わせると、離れた茂みが不自然に揺れた。

 揺れは段々と近づいてくる。

 草と草とが擦れ合って、ガサガサと大きな音を立てる。

 それはどう考えても、大型の獣。

 そんな大型の獣は魔獣としか思えない。

 それでも、天府はじっと待っていた。

 カルラが太刀に手を掛ける。

 セイリンも山刀へと手を掛ける。

 やがて姿を現したのは、大型の肉食獣。

 それもひと目で発牙していると分かる魔獣。

 それを見て、カルラもセイリンも目を丸くした。

 見覚えがある姿だった。

 それはあの社の彫像そのままで。

 そして、その額にはひとつの面が乗っていた。

 それは、話に聞いていた転変した虎の魔獣、そのものに見えた。





 青い目と白い毛並みはまるで美術品のよう。

 だが、その一本一本の毛は容易に異様な艶めきを見せ、触れれば手を切り裂きそうだ。

 黒い縦縞が虎の姿を一層力強く見せている。

 その口元から伸びる牙と、4足の先に生える爪は巨大でまるで刃のよう。

 そして巨門と遜色ないと思えるほどに巨大だった。

 こんな虎がいるはずがない。

 明らかに魔獣だ。

 しかし、天府と同じく穏やかで、こちらの姿を確認すると、足を止めてじっと見つめてくる。

 深く、吸い込まれそうな目をしていた。

 どれほどに見つめ合ったのか。

 気が付くとセイリンは山刀から手を離していた。

 大丈夫だ。

 そう思えた。

 それは、虎の額にある面、それが老爺の面に似ているものだったからでもあった。

 カルラもそれを確認して、それでもしばらくは太刀から手を離さなかった。

 その間、ずっと虎は動かない。

 天府も窺うようにただ見つめている。

 危険な魔獣だったなら、既に襲われている。

 カルラが細く、長く息を吐いた。

 そうして太刀から手を離す。

 それを確認すると、虎はそっと身を伏せた。

 まるで礼をするようだった。

 敵意はない。それを示すように。


「さて、そなたは何故、我らの前に姿を現した?」


 カルラの問いかけに、そっと首を振って天府を見た。

 ただ、近くに同じく転変した魔獣が現れたから、様子を見たかったということだろうか。

 魔獣には言葉はない。

 結局、想像するしかない。

 セイリンはそっと足を踏み出す。カルラはそれを止めるか迷い、セイリンの意志を尊重することにして止めなかった。

 天府が安心しろと言わんばかりに気の抜けた様子であくびをしていた。

 虎の額、その面。

 それは確かに左側の紐が切れていた。

 面の左側に僅かな長さの紐が残り、右側には長い紐が垂れて、口の端にかかっている。

 それでも面は落ちずに、その額にしっかりと乗っている。

 面はどこか悲しそうな、そんな表情が浮かんでいるように見えた。

 悲痛と呼ぶようなものではない。

 あるがままの自然さで、悲しさを自分のものとしているような、なんとも言えない表情が。

 それを見て、セイリンは悟った。

 これを切ったのはきっと、病で亡くなったという男なのではないだろうかと。

 セイリンにはそうとしか思えなかった。

 虎が姿を現した時、セイリンは迷った。

 この虎を従える方が良いのかと。

 野にあるよりは、誰かの手に委ねたほうが良いのではないかと。

 セイリンは手を虎の鼻先に差し出すと、虎はその匂いを確かめるように鼻を動かし、やがてセイリンの手をぺろりと舐めた。

 幾度かその顔を撫で、面には触れること無く手を離し、セイリンはそっと離れた。

 ありがとう。顔を見せに来てくれて。

 セイリンが礼を言って頭を下げると、虎は用は済んだとばかりに背を向け、茂みの向こうへと去っていく。

 きっとあの虎は誰の前にも現れず、里の周りで里を守るのだろう。

 そう男は望み、誰の手に委ねること無く紐を切り、そして別れたのだ。

 虎を信じて。

 虎の意志のままに動くこと、それが一番里のためになると信じて。

 素晴らしい面だった。

 老爺に勝るとも劣らない。

 ならば信じるに足るに違いない。

 男も、あの虎も。

 セイリンは笑い出した。

 声を出して笑う。


「どうされた?」


 いまだにあの虎が現れた衝撃を引きずっているような表情のカルラに笑いかけ、そして話す。

 自分の感じたことを。

 自分の感じたままに。

 今起こったすべてが自由なのだと言うように。

 

「あのね。

 いつかあの里になにかあった時に、あの虎は来てくれるんだよ。

 その時に、もしも信用に足る人と出逢えば、虎はどこにもいかずに待つし、いなければまた野に帰るんだ。

 切った紐があの社にあるのはそういうことなんだよ。

 きっと。

 きっとね」


 すごいものを見た。

 男は自分がいなくなった遠い後のことがきっと見えたんだ。

 病で亡くなったというのもどうか分からない。

 誰かに襲われ、仕方なくそうしたのかもしれない。

 それでも、今のあの虎のあり方をとてもすごいものと思えた。


 この旅がまるで祝福されたようにセイリンは嬉しくなっていた。

 セイリンは歩き出した。

 天府がその後に続く。

 その先に道はまだまだ続いていた。


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