第五幕 江戸時代での日常
ジジジジジジジジ
アブラゼミの鳴き声が江戸の町に響く。
俺が江戸時代の文政年間に来てから、七日が過ぎていた。暦の上では六月二十二日になっている。
俺は頭上に二十一世紀と全く変わらない真夏の太陽を仰ぎ、神職の白衣袴姿で神社の前にて
アスファルトもエアコンの室外機もない江戸の町にはヒートアイランド現象もまだないので、それほど暑くはない。だいたい摂氏三十度弱だろうか。
徳三郎さんに聞いたところ、南蛮から輸入した寒暖計を持っている者もこの江戸にはわりと大勢いるらしいが、この
町行く人たちの雑踏もまばらだ。江戸の人たちはこのような
建物の脇からおあきちゃんが出てきて、ひょこひょこと俺に近づいて手拭いを渡してくれた。
「りょう
この時代では『お疲れ様』は使わず、目上の人にも『ご苦労様』と言ってねぎらうものらしい。
俺は頬を伝う汗を、手拭いでぬぐいながら返す。
「ああ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えるよ」
「暑い時には熱いものを飲むと、体に良いんだよ」
「そうなんだ。俺のいた
「うふふ、何言ってるの? 麦茶も熱いお茶じゃないの?」
おあきちゃんが純真な笑顔を見せる。
「ああ、麦茶も江戸では熱い飲み物なんだね」
俺が微笑みながら返答すると、天秤棒を担ぎ甘酒を売り歩く
「あまーい、あまーい」
夏の暑い
俺は
「すいません、甘酒二杯お願いします」
「へい! 八文でござい!」
江戸に来たとき、元々財布の中には平成の硬貨があったが、それら平成のお金は江戸の貨幣と混同しないよう部屋にあるナップサックの中に入れている。そして今、この財布の中にはこの時代の銭が入っている。すずさんに小遣いとして与えられたものであった。
棒手振りの男は地面に下ろした木箱の中に入っていた釜みたいな容器から、甘酒を小さな椀に
「へい! おじょうちゃん、熱いのでお気をつけて」
「ありがとう!」
おあきちゃんが甘酒を受け取ると、俺は四文銭を二枚財布から出し男に手渡す。男は銭を受け取ると、江戸の町には似つかわしくない俺の財布に視線を移してこんなことを言う。
「兄さん! なんでぃその財布!?
「あ……そうです、これは西洋の財布でして」
俺が取り繕うと、男が返す。
「兄さん、この辺りで噂になってんよ。知ってんのかい?」
「え? 噂? どういう風にですか?」
「なんでも、
――徳三郎さん! どんな説明をしたんですか!
男は俺を見上げながら話を続ける。
「そんなでっけぇのに、まだ十五なんだって? やっぱ噂どおり、
「え……えーと、はい。父はオランダ人らしくて……」
俺は話を合わせるも、口が少し引きつっている感じがする。
「そっか、
「あ……ありがとうございます」
俺はお礼を言い、男からお椀に注がれた甘酒を受け取る。
「あ、そういやヤジさんが一度詫びてぇって言ってたなぁ」
「ヤジさんって誰ですか?」
「
――ああ、最初に目覚めた朝に俺に詰め寄ったあの男か。
「そうですか。じゃあ
「おおそうか!? じゃあ伝えとくよ。きっとヤジさん喜ぶぜ」
「ありがとうございます……えっと……」
「
俺は手渡された甘酒の
甘酒を飲んだ後、俺はおあきちゃんと一緒に子供の声騒がしい講堂の土間段に腰を掛けて休んでいた。
俺は隣に座るおあきちゃんに尋ねる。
「おあきちゃんは学ばなくてもいいの?」
「あたしは、もう漢文だって読めるよ」
「そうなんだ、優秀なんだね。俺、漢文とかは苦手だよ。未来で習ってはいたんだけどね」
「りょう兄ぃも未来で、手習い所みたいな
「ああ、『
「夏が休みなんだ? どんなところ?」
その言葉に、俺は表情が曇る。
「十五歳になって初めての四月から三年間、『
俺は深いため息をつく。
二十一世紀での時間の経過がこちらと同じなのだとしたら、もう向こうでは既に行方不明になってから七日が経過しているはずだ。父親と母親、それに四歳離れた弟の顔が頭に浮かぶ。
「父さん、母さん、
そういえば、十年前に家に帰れなかったときはこんな事を考えなかった。五歳の幼かった俺は、両親が一歳の弟にかまいっきりだったので
そう、俺はあの時、あの初恋の
しかし、俺が再びそのお姉さんに会うことは、
俺が弟の前で家族の中で、いつでも兄としての尊厳を保つよう
お姉さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
――家に帰りたいならお姉ちゃんと一つだけ約束してくれる?――
――じゃあ約束、もしも帰りたいなら、どんな事があっても決して諦めないで――
「りょう兄ぃ、なに考えてるの?」
いつの間にかおあきちゃんが俺の前にきて、俺の視界を大きく占めるくらいに顔を近づけていた。
「あ、いや、残してきた友達の事とかだよ」
「さっき言っていた、
「あー、うん。同じ高校……手習い所みたいなところで一緒に学んでいるんだよ。あともう一人、別の高校で学んでいる
「ふーん、未来ではそんなに大きくなっても手習い所みたいなところに行くんだ。十八で終わりなんだね、あたしもそういう
「おあきちゃんは手習い所で学ぶつもりはあるの?」
俺が尋ねると、おあきちゃんは頬をぷくっと膨らませる。
「だって、もう読み書きも
「そうなんだ。なんでだろうね?」
「
――え? 化けるって?
「化けるって……
「『
――それって結構凄くないか?
おあきちゃんが俺の手を引っ張る。
「りょう兄ぃに見せてあげるね、あたしの化ける力」
俺は引っ張られて立ち上がり、おあきちゃんに東の方の庭に連れられる。人の目は一切ない。
「ここならいいか」
おあきちゃんが俺に伝える。
建物の裏手、ちょうど表通りの死角になっているところに到着する。おあきちゃんは俺に向き直り、にこやかに告げる。
「じゃあ、りょう兄ぃ、友達の……そうだね、
言われた通りに、俺はおあきちゃんの手を握ったまま、親友である
すると、ほんの一瞬で身の丈110センチほどの小さな女の子であるおあきちゃんが、身長180センチある
目の前に現れた制服姿の
「わーっ! 凄いね! りょう兄ぃのお友達って、こんなに
――その太い声でその幼げな女の子の口調はやめてくれ、怖いから。
「うふふ、いつも見上げているりょう兄ぃがこんなちびすけさんに見えるのね。なんか変なの」
女の子のように両こぶしを頬にあてて笑う忠弘を見て、俺はすずさんがおあきちゃんを、
姿は変わっても、精神がついていかないから非常に不自然なのだ。
「なんだか体が軽いね。この人って力持ちなの?」
目の前の忠弘が小さくジャンプを繰り返しながら俺に尋ねるので、俺は若干引いた感じで答える。
「忠弘は陸上やってて、走るのが速いんだけど……ひょっとして忠弘の
「『
「つまり、本物の忠弘のように速く走れたりするの?」
俺が尋ねると、忠弘に扮するおあきちゃんが笑顔をみせる。
「うん!
忠弘姿のおあきちゃんが踵を返し、建物の陰から出ようとする。俺は慌ててその手を掴んだ。
「待って待って! その格好じゃまずいよ!」
忠弘の強い力に抗うよう、引っ張る。
そのとき、表通りの方から声がした。
「ごめーん! ごめーん!
どうやら誰かが尋ねてきたようだ。
俺はおあきちゃんに告げる。
「ほら、誰か来たよ。おあきちゃんも元の姿に戻って」
俺がそう言うと、忠弘の姿をしたおあきちゃんが小さく
遠くから「はいよー」というすずさんの声が聞こえる。どうやらすずさんが対応してくれているらしい。
俺はいつもの姿に戻ったおあきちゃんと共に表通りに出る。すずさんが何らかの紙包みを使いの男から受け取っているところだった。
すずさんは手に包みを持って俺達二人に向き直る。
「ああ、おあき。ビイドロの
「
おあきちゃんが駆け寄り、うきうきした様子で包みを受け取る。
俺も後ろから近寄ると、包み紙を開いたおあきちゃんの手には、先日俺が渡したビー玉があつらわれた、
「ああ、こないだのビー玉、
俺が尋ねると、おあきちゃんは目を輝かせて向き直る。
「うん! すずねぇにお願いして、
手元の
「へえ、器用に
「あたしはこんなに
おあきちゃんが笑顔を見せ、すずさんがおあきちゃんからビー玉の
「おあき、あたいがつけてやるからじっとしてな」
すずさんは、おあきちゃんの結われた髪に
おあきちゃんはにこにこした様子で、結い髪に取り付けられた
「どう? りょう兄ぃ? 似合ってる?」
「あー、うん。似合ってるよ」
「うふふ、嬉しい!」
おあきちゃんは向き直り、両こぶしを両頬につける。
やっぱりおあきちゃんにはそっちの格好の方が似合っているなと考えながら、俺は微笑んだ。
昼七つ(午後四時ごろ)になって、四人で湯屋に行き、帰ってきたところで社に見た事のある男の影を見つけた。
「おっ! 異人の子の
あの大工の屋次郎さんとか言う人だ。屋次郎さんは紐で吊るされた魚の開きを持って、俺達に近づく。
「確か、りょーや、とかいう名でまだ十五なんだって? 聞いたぜ、かなり苦労してたってのにお稲荷様に忍び込んでるなんて疑って悪かったな。こいつはいつかの侘びだ。受け取ってくれ」
「あ……いいんですか? こんなもの頂いて」
「いやいや、
俺は一瞬戸惑ったが、そういうのなら受け取るのが道理だろう。
「そうですか。じゃあせっかくですので、皆で有難くいただきます」
そんなことを言いながら俺が魚の干物を受け取ると、男がこんなことを言ってきた。
「そんな風に
――え? 『ほうかん』ってなんだ?
屋次郎さんという大工の男は言葉を続ける。
「いくら
俺は隣にいるすずさんに小声で尋ねる。
「……すずさん、『ほうかん』ってなんですか?」
「……知らないのかい? 座敷遊びをするときの、太鼓持ちのことさ。旦那を持ち上げる為に『です』とか『でげす』って
――語尾に『です』をつける口調って、この時代じゃ丁寧な口調じゃなくて、卑しい口調なのか。
屋次郎さんという男が、小さなことを気にしない
「ま、そういうわけなんでよ。これからもちょくちょくお参りに来るんで、よろしくな。そんな言葉遣いなんかじゃなくていいぜ」
「あ……わ、わかりま……わかった。よろしく」
――いつも忠弘や葉月に対して話しているような口調でいいのだろうか。
屋次郎さんが
「すずさん、この口調が変ならどうして教えてくれなかったんですか?」
「いや? 未来じゃそれがふだん通りの言葉なのかと思ったからさ。あたいらは別に気にしちゃいないよ」
すずさんは手を頭の後ろに回し、
夜になって、
徳三郎さんが床の間を背にした
各々が綿の入った四角い座布団の上で正座をしながら食事をしている。俺も、もう七日目ともなると慣れたものである。
飯は全てすずさんが作ってくれたものだ。高く盛られた
なお、すずさんの近くには大きめの
徳三郎さんが俺に話しかける。
「
「ああ、はい。なんとか」
「ところで、君をこの江戸に連れてきた
俺は目を見開いて尋ねる。
「え? あの妖怪が現れるのは、満月の晩だけじゃなかったんですか?」
江戸の暦は二十一世紀のような太陽暦ではなく月の満ち欠けに沿った暦らしく、新月
すると、徳三郎さんが答える。
「今日、前に出た
そういえば、俺が江戸に引きずりこまれた時のシチュエーションをまだ聞いてなかったな。
「すずさん、俺が江戸に来る前にどんなことがあったんですか?」
俺が尋ねると、すずさんが答える。
「いやさ、兎みたいな
「影の中に隠す? どういう意味ですか?」
「ああ、あたいのもうひとつの
――へえ、そりゃ便利な能力だ。
すずさんは言葉を続ける。
「まあ、無理に
――そうか、倒さなくても、あの兎の妖怪の近くで影に入れば帰れるかもしれないのか。
すずさんの隣を見ると、何故だかおあきちゃんがしょんぼりとしている。
「おあきちゃん、どうしたの?」
俺がそう尋ねると、おあきちゃんが少しうつむいてから顔を上げ口を開く。
「りょう
「えっ? そりゃ……帰れるなら帰らなきゃ」
すると、おあきちゃんはまた、頬をぷくっと膨らませる。そして
「……せっかく、お
その言葉にすずさんが
「おあき、
「わかってるけど……ごちそうさま」
おあきちゃんは、食べ終わった御膳の前で手を合わせ食後の挨拶を言って、食器の乗った膳を片付けるため台所に持っていこうとする。
すずさんが、おあきちゃんに語りかける。
「おあき、
その言葉に、おあきちゃんは「はーい」とだけ言って、膳を持って座敷から出て行った。
明日、明日にあの兎の妖怪に会い、なんとしても江戸から東京に帰る。そして家族や友達、そして葉月にもう一度会おうと俺は決意した。
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