第四十七幕 時止玉兎との戦い



 煌々こうこうと白銀のように光輝く満月の明かりの下で、玉兎ぎょくとと呼ばれていたその妖怪が現れた。


 すずさんが俺に対して声を張り上げる。

「りょうぞう! 今あたいの影の中に入れば未来に帰れるかもよ! 入ってみるかい!?」


 すずさんの言葉に、俺は反発して叫ぶ。

「いえ! すずさんと一緒にたおします! 一人だけ戻るわけにはいきません!」


 すると、すずさんが語気を若干強める。

「よく言ったよ!」


 すずさんがそう言い、白衣びゃくえたもとの影から新品の薙刀なぎなたを出し、その柄を握る。


 おあきちゃんは俺にすぐさま駆け寄って手をとる。そして拳銃ベレッタに化けて俺の手に握られる。


 先ほどから俺たちの目の前にいる玉兎ぎょくとという妖怪は、牙を見せたまま微動だにしない。


 月の白い光が地面に射している。玉兎ぎょくとの額にある白い宝石に満月の光が当たり、反射して白銀色の輝きを示す。


 音もなく、その場から玉兎ぎょくとが消えた。


「えっ!?」

 俺が声を出した次の瞬間には、俺の拳銃を持っている右手が、手首で切断されていた。

 足元の地面には玉兎ぎょくとがいつのまにか伏せていて、そのやいばのように鋭い両耳を、はさみのようにジャキジャキと動かしていた。


「ぐぅっ!」

 手首をいきなり切断された俺は、足元にいた玉兎ぎょくとを、すずさんの方角に思いっきり蹴飛ばす。


 ボカリ!


 玉兎ぎょくとは胴体を蹴られて、サッカーボールのように宙を舞いすずさんに向かう。


「りょうぞう! いい覚悟だよ!」

 すずさんは薙刀なぎなたを片手で構えながら、こちらに向けたもう片方のてのひらの先に炎の塊を浮かべていた。宙を舞う玉兎ぎょくとを炎で焼き尽くすつもりなのだろう。


 しかし、宙を舞う玉兎ぎょくとの額の宝石がキラリと光ったと思ったら、またもやその体は瞬時に消えた。


「ちぃっ! また消えたよ! 去年と一緒だよ!」

 すずさんが叫んで遠く離れた場所に視線を移す。


 すると、十メートルくらい離れた場所にて、玉兎ぎょくとが大口を開けていた。


 地面に落ちた拳銃ベレッタがおあきちゃんの姿に戻り、すぐさま俺の失った右手を戻してくれた。


 俺はおあきちゃんの手を取り、叫ぶ。

「おあきちゃん! 小銃しょうじゅう変化へんげして!」

「うん!」


 すると瞬く間に、おあきちゃんの姿が自動小銃に変化した。俺はグリップを握り、銃底ストックをしっかりと肩に当て、銃口を離れた所にいる玉兎ぎょくとに向けた。


 ガシャリ


 コッキングレバーを引き、手前にある凹型の切れ目である照門リアサイトと銃口付近にある飛び出した照星フロントサイトの延長線上に、玉兎が来るように照準を定める。


 俺は引金トリガーを引き絞り、なまりの連弾を玉兎ぎょくとに浴びせる。


 ダダダダダン! ダダダダダン! ダダダダダダン!


 連続した鈍い反動が、銃身を通じて俺の全身を揺さぶる。十秒ほどで三十発くらいは浴びせた。普通の動物だったら、たとえトラやヒグマでも絶命するくらいの連弾だったはずだ。


 しかし、満月の光の下でその玉兎ぎょくとは、平然としていた。


 弾丸は全て、あの鋭い耳ではじとされてしまったようであった。


――マシンガンの連弾れんだんはじとした!?


 俺が驚いた所、玉兎ぎょくと対峙たいじして顔を向けているすずさんがてのひらを構え、炎を火炎放射器のように玉兎ぎょくとに向かって噴き出す。


 ボワァァァァァァ!


 すると、玉兎ぎょくとはその額にある白い宝石をまたキラリと光らせ、その場から消えてしまった。


「ちぃっ! また消えたよ! どこだい!」

 すずさんが叫ぶと即座に、傍から見ていた俺が叫ぶ。

「すずさん! 下です!」


 玉兎ぎょくとはすずさんの直下ちょっかにて、大口を開けすずさんのすねかぶりつこうとしていた。


「させっかぁぁぁぁぁぁ!」

 すずさんが叫んで、薙刀なぎなたを思いっきり下向きにいだ。


「グギャァァァァ!!」

 薙刀なぎなたの刃が、玉兎ぎょくとを捕らえた。玉兎はすずさんのいだやいば斬撃ざんげきにより、宙を舞う。


――もう一度、撃ち抜く!


 そう覚悟した俺は、宙を舞う玉兎ぎょくとに照準を合わせ、持っている小銃の銃口を向けて、引金トリガーを引き絞った。


 ダダダダダダン!


 しかし、またもや玉兎ぎょくとは瞬時に消え、五メートルくらい離れた場所に平然とした様子で現れていた。


 すずさんが叫ぶ。

「前戦った、陰摩羅鬼おんもらきと同じすべかい!? りょうぞうが、瞬間移動しゅんかんいどうとか言ってたけどさぁ!」


 その言葉に、俺は返す。

「いえ! 最初に消えた玉兎ぎょくとは、現れた時に俺の手首を切っていました! 多分、違う妖術です!」


 この時点で俺はあの玉兎ぎょくとが使う能力の正体に関して、だいたい察しがついていた。


 いきなり消えて、攻撃を加えつつ離れた所に現れる。それは、二十一世紀の漫画やアニメによく登場する、ある能力の描写とそっくりであった。


 すずさんが、俺に向かって叫ぶ。

「りょうぞう! おまいさんには、あのあやかしすべがわかるのかい!?」


 平成にあった物語ではよくある能力なのだが、この江戸時代ではあまり馴染みがない能力である。すずさんが予想できないのも当然だ。


 おそらくは小銃しょうじゅう連弾れんだんはじとすことができたのも、その能力を使ったからだろう。未来にある能力バトルものの物語を知っているからこそ、俺はその推論に辿り着いた。


 俺は離れた所にいるすずさんに、叫びかける。

「おそらく、『ときめる妖術ようじゅつ』です! ときあやつることができるから、すずさんの影を操る妖術と組み合わさって、未来と過去が繋がってしまったんです!」


 その俺の言葉に、すずさんが険しい顔になる。

ときめるすべねぇ! そんなもん、どうやってたおそうかねぇ!」


 すずさんがそう叫んだところ、月の光が雲の中に隠れた。


「シャァァァァ!!」


 玉兎ぎょくとはそう叫び、大口を開けて牙を見せて、すずさんに向かって大きく跳躍した。


「すずさん!」

 俺が叫ぶ間に、すずさんはてのひら玉兎ぎょくとに向け、炎を噴出する。


 すると、ジャンプした玉兎ぎょくとは空中で軌道を変え、一直線に伸びる炎をするりと避ける。


――時を止めない!?


 そう思った次の瞬間、玉兎ぎょくとはすずさんの肩に牙を立ててかじいていた。


「ぐぅっ!」

 すずさんが叫び、俺が声を上げる。

「おあきちゃん! 化けなおして!」


 するとその声に、俺の手に持っていた自動小銃が、長槍ながやりへと姿を変えた。


 ザクリ


 俺は長く伸びた長槍ながやりの刃にて、玉兎ぎょくとを突き刺した。


――やったか!?


 そう思うと、俺の体がフワリと宙に浮いていた。ジェットコースターで急降下しているような感覚が内臓から上ってくる。


 それはまるで、重力を無くされたような感覚であった。


「ぐわっ!」

 俺は叫び声を上げ、二メートルくらい浮かび上がったところで再び落ちて地面に叩きつけられた。


――こいつ、重力も操るのか!


 俺が腰を地面についたところで、玉兎ぎょくとが大きく跳躍し、こちらに向かって飛び跳ねる。長槍ながやりの柄を掴んだままの俺は叫ぶ。

「おあきちゃん! 化けなおして!」


 すると、持っていた長槍ながやりが、機動隊が持っているような透明の防護シールド、ライオットシールドに変化した。


 バン!


 飛び掛ってきた玉兎ぎょくとの顔が、耐火性の透明なポリカーボネイトの素材に当たって歪むのが見える。


 俺は叫ぶ。

「すずさん! 炎を浴びせてください!」


 俺が叫ぶと、すずさんが後ろから炎を吹き出させ、玉兎ぎょくとの体に当てる。玉兎ぎょくとは炎に毛皮を焼かれてうめき声を出す。


 すると今、雲から月が現れ、白い光が地面に射しこんだ。


 即座に玉兎ぎょくとは額にある白い宝石をキラリと光らせ、その場から消え去った。


「おあきちゃん! 刀に変化しなおして!」

 俺がそう叫ぶと、すぐさま透明な防護シールドは日本刀に姿を変えた。


 向こう側にいたすずさんの視線の先を見ると、少し離れたところには体から焼け焦げた煙を出している玉兎ぎょくとがいた。


 そこで俺は気づく。


――玉兎ぎょくとは、には時を止められなかった。

――そうか! あの宝石に月光が当たってないと時は止められないのか!


 能力の正体に気づいた俺は、すずさんに伝える。

「すずさん! 木陰こかげです! 月の光がつくる木陰の下に逃げてください!」


 その言葉に、すずさんは近くにあった木の下に急いで駆ける。俺もすずさんに追いつこうと木陰に向かってダッシュする。


 すずさんが、こちらを見て叫ぶ。

「りょうぞう! 腕に噛み付いてるよ!」


 俺がすぐ近くを見ると、時を止めて追いついたのであろう玉兎ぎょくとが俺の左腕にかじり付いていた。そして刃のような両耳を動かし、今まさに俺の首を切断する寸前であった。


「うぉぉぉぉぉ!」

 俺は左腕に噛み付いていた玉兎ぎょくとの体を、右手に握っていた日本刀で思いっきり突き刺した。


 ガスッ!


 切っ先で胴体を突かれた玉兎ぎょくとが派手な音を出して吹っ飛ぶ。

「ギェェェェェ!」


 血を流した玉兎ぎょくとが叫び、地面に転がる。


 俺は、やっとのことで月の光の影になる木陰に到達した。


「りょうぞう! よくやったよ!」


 すずさんが激励げきれいするので、俺は言葉を返す。

「すずさん! あの玉兎ぎょくとが時を止められるのは、月の光の下だけです! 木陰にいれば、いきなり攻撃はされません!」


 その言葉に、すずさんが返す。

「月明かりの下でしか時を止められないのはわかったよ! でも、月明かりの下でどうやってたおせばいいんだい!?」


 すずさんが上を見上げるので、俺も上を見上げる。


 もう空に雲はほとんど無く、雲が月光をさえぎるというのを期待することはできない。


――どうする? どうすればいい!?


――何も思いつかない。


 俺は叫ぶ。

「すずさん! 俺が突っ込んでおとりになります!」


 即座にすずさんが叫び返す。

「馬鹿言うなよ! そしたら首をねられて終わりじゃないのさ!」


 すずさんの言っていることは正しい。しかし、時を止められる化け物なんてどうやってたおせばいいのか。


 俺が戸惑っていると、俺の手に握られていた日本刀がしゅるりとおあきちゃんの姿に戻った。そして地面に降り立つと、木陰から出て玉兎ぎょくとに一直線に向かい駆ける。


「おあきちゃん!」

「おあき! 戻りな!」

 俺とすずさんが、ほぼ同時に叫ぶ。


 おあきちゃんは駆けつつ、幼い背中を俺たちに見せて叫ぶ。

「あたしは、りょうぃに故郷こきょうに帰って欲しいの!」


 今、玉兎ぎょくとが頭の宝石をキラリと光らせ、その場から消えた。


 次の瞬間には、玉兎ぎょくとはおあきちゃんの肩にかぶりついていた。


 時を移さず、周囲に煙が満ち溢れた。


 消火器の噴霧のような、催涙弾のスモークのような、月の光を通さないくらいの濃密なエアロゾルであった。おあきちゃんは、月の光を通さないような大量の煙に変化へんげしたのであった。


「りょうぞう! 刀を持ちな!」

 すずさんがそう叫び、たもとの影から日本刀を出して俺に柄を握らせる。

「はい!」


 俺はすずさんに手渡された日本刀を握り、鞘から刀を抜いて玉兎ぎょくとがいるはずの煙に突っ込む。


 すずさんも、薙刀なぎなたの刃を構えて煙の中に飛び込む。


 空から月の光くらいしか射さない江戸時代の深夜の煙の中。そこは正に視界のかない闇の中にある白濁はくだくの世界であった。


 通常の人間ならば玉兎ぎょくとがどこにいるかなど、わからないであろう。しかし俺は、この一年以上に渡る妖怪との闘いの日々の中で、五感、いや六感もが人並み外れて研ぎ澄まされていた。


 闇の中に、玉兎ぎょくとの呼吸音が聞こえる。先ほどすずさんの炎が玉兎ぎょくとの毛皮を焼いたときの臭いが伝わってくる。


 玉兎ぎょくとが刃のような耳を動かしている風を肌で感じる。そして何より、すずさんやおあきちゃんのものとは全く異なる、禍々まがまがしい妖怪ようかいにしか出せない玉兎ぎょくとの妖気を感じる。


 闇の中の煙の中にて、俺は日本刀を地面に向けて振り下ろす。


 ガッキーン!


 そこにいた玉兎ぎょくとが、刃のような耳の片方で俺の斬撃ざんげきをガードした。


 シュォォォォ


 反対側から、すずさんが薙刀なぎなたの刃を構えて突進してきた。


 ガッキーン!


 玉兎は、もう一本の耳ですずさんの刃を受け止めた。俺は叫ぶ。

「すずさん!」

「わかってるよ!」


 すずさんが俺の叫び声に応えると、柄から離したてのひら玉兎ぎょくとに向けて、炎の塊を叩き込んだ。


 ボワァァァァァァァ!


 炎の塊が玉兎ぎょくとを包む。玉兎ぎょくとの毛皮を焼く臭いが煙と共に周囲に立ち込める。


 しかし玉兎ぎょくとを包んだ炎の固まりはその毛皮を燃やしただけであり、その下にあった肉までもは焦がさなかった。


「ちぃっ! やっぱり玉兎ぎょくとだから肉には炎は効かないのかい!」

 すずさんがそう叫ぶや否や、すずさんの両足が地面から離れる。


 薙刀なぎなたを介して玉兎ぎょくとに接触しているすずさんの体が、空中にふわりと浮いた。玉兎ぎょくとのもうひとつの妖術、重力を操る妖術だ。


 その位置に思うところがあった俺は、即座に叫ぶ。

「すずさん! 下に炎を噴き出してください!」


 俺が叫ぶと、すずさんは即座に下に炎の塊を打ち出す。すずさんは薙刀なぎなたの刃を玉兎ぎょくとの耳に当てたまま、宇宙空間でガス噴射を行った宇宙飛行士のように、上空にふわりと浮かぶ。


「その位置です! うぉぉぉぉぉぉ!」


 俺は叫びつつ、手に持った日本刀の刃を再び振り薙いだ。


 ガッキーン!


 日本刀は、再び玉兎ぎょくとの鋭い耳によって防がれる。しかしそれは、計算済みであった。


 俺は両手で持っていた日本刀から、左手だけを離した。そして片手に持つ刀で、玉兎ぎょくとの鋭い耳をギリギリと抑える。すずさんの薙刀なぎなたと俺の刀で、玉兎ぎょくとは両方の耳を使っているので胴体ががら空きになっていた。


 俺は刀から離した左手を玉兎に対して向けつつ、煙舞う宙に構え叫ぶ。

! !」


 その言葉に、いままで煙幕のように夜の闇を覆っていた煙が、すっと晴れた。そして月の光に照らされた俺の左手には、自動小銃が握られていた。


 玉兎ぎょくとは煙が晴れたので、すぐにでも時を止めて逃れるつもりだったのであろう。


 しかし、玉兎ぎょくとは時を止めることができなかった。


 宙に浮いていたすずさんが、。月の光が玉兎ぎょくとひたいの宝石に当たっていないので、玉兎ぎょくとは時を止めることができないのであった。


 俺は、自動小銃のグリップを握り引金トリガーに指を当て、銃口を玉兎ぎょくとの胴体にゼロ距離で接着させた。


 そして叫ぶ。

けてみろ!」


――けられるもんならな!


 ダダダダダン!!


 ゼロ距離で小銃の連弾を浴びた玉兎ぎょくとは、胴体に大きな穴がいくつも開いた。そして、その場に四本の脚を折り曲げて横向きにたおれ崩れた。


――やった!

――とうとう、俺をこの時代に連れてきた妖怪をたおした!


 ドサリ


 間もなく無重力状態から開放されたすずさんが、空から体全体で落ちてきて背から落ちつつ受身をとった。


 そして笑顔で口を開く。

ついにやっつけたようだねぇ。これで、りょうぞうも晴れて未来に帰れるねぇ」


 玉兎ぎょくとむくろからは、命の灯火が盛んに蒸発している。


 今、自動小銃に化けていたおあきちゃんが、しゅるりと元の女の子の姿に戻った。おあきちゃんの着物の肩の部分には玉兎ぎょくとかじった牙の穴が二つ開いていて、血が出ているのが見えた。


 俺は焦って声をかける。

「おあきちゃん! 怪我してるよ!?」


 すると、おあきちゃんは平気な顔をしながら片手をその怪我にかざす。

「こんなの、すぐ治せるよ」

 瞬く間に、おあきちゃんの怪我は治った。俺は安心の息を漏らす。


 すずさんが立ち上がり玉兎ぎょくとに向かって炎を手繰る仕草をした。


 大きな光点がしゅっと玉兎ぎょくと亡骸なきがらから飛び出したと思ったら、その玉兎ぎょくとの体は虚空に掻き消えてしまった。

「調伏、終わりだね」


 すずさんはそう言いつつ、胸元から取り出した和紙でうやうやしく御魂みたまを折り畳む。


 そして、俺に向かって言う。

「こいつを稲荷社いなりやしろの神として合祀ごうししてやれば、こいつの時をあやつすべをあたいも使えるようになるからさ。そしたら、事無ことなくりょうぞうも未来に帰れるって寸法さ」


 その言葉に、俺は笑顔になる。

「はい! 有難うございます!」


 おあきちゃんも笑顔になる。

「良かったね! りょう兄ぃ!」


 すずさんが上を見上げて口を開く。

「でも、こいつが時を止めることができたのは、満月の光の下だけでだったからさ。おそらくはあたいも満月の下でないといけないんだろうさね」


 夜空には、煌々こうこうと満月が輝いてる……はずであった。


 いきなり、どこから来たのか大量の雲が風の中を流れており、満月の顔ををしきりに隠していた。


 ポツ……ポツ……ポツ……


 最初はわずかな雨粒。そして崩れ落ちるように天候は急変する。


 ドザァァァァァァァ!


 雨が降ってきた。

「なんだよ! もうちょっと早く降ってくれてもいいじゃないかい!?」

 すずさんが天に文句を言う。


てんって、本当に意地悪ですね!」

 俺も手を頭に回して焦る。


「すず姉ぇ! りょう兄ぃ! 木陰に行こうよ! 木陰!」

 おあきちゃんの言葉に、俺たち三人は木陰に避難する。


 ザァァァァァァァァ!!


 絶え間なく落ち続ける水滴が地面にぶつかり、夜の境内を雨音が満たす。


 すずさんが、口を開く。

「こりゃ、嵐になるかもしれないねぇ」

「ああ、そういえば、風か強くなってきましたね」


 俺たちがそんな掛け合いをしていると、おあきちゃんがこんな事を言った。


「ねぇ、りょう兄ぃ。良かったね! これでりょう兄ぃは未来に帰れるね!」


 俺はおあきちゃんの声に応える。

「うん。噛まれてまで煙に化けてくれたおあきちゃんのおかげだよ。ありがとう」


「えへへ」

 おあきちゃんがはにかむ。


 おあきちゃんが去年の七夕たなばた短冊たんざくに書いた願い事は、俺となるべくこの江戸時代でながく過ごせるようにという自己中心的な願いだった。


 しかし先ほどはその自己中心的な考えを脱して、俺が未来に帰るために、俺のために身を挺して妖怪へと向かっていってくれた。


 おあきちゃんの考え方の変わり様が、その成長が、たまらなくとうとくてうれしかった。


 その様子に、すずさんもにかっと歯を見せて笑顔になる。

「ま、送別そうべつうたげくらいは開いてやるよ」


 俺も自然と口元が緩む。


――そうだ、帰れる。俺は江戸時代から二十一世紀に帰れるんだ。


――すずさんのおかげで、おあきちゃんのおかげで、徳三郎さんや江戸に住んでいる様々な町の人たちのおかげで。


――そして何より、葉月のおかげで。


――葉月があの日、俺に渡してくれた御守おまもりの中に潜ませてあった願いに沿って、俺は玉兎ぎょくとを見つけることができたんだ。


――俺が未来に戻ったら、行方不明だったことをみんなになんて説明しようか。


――いや、そんなことはもうどうでもいい、俺は戻れるんだ。


――そしてまたみんなに、何より誰より葉月に会えるんだ。


 そんな俺の晴れやかな内面とは裏腹に、雨足はますますもって強さを増していた。


 雨の強く降る深夜の本所は、更にその風を強めていた。






 それから三日が経って、とんでもないことが江戸の町に起こっていた。


 結局あの風雨はやはり台風から来る嵐だったらしく、三日三晩をかけて大風と大雨が江戸の町を襲い続けた。


 そして、大川向こうの品川辺りの海沿いで風に吹かれて大波おおなみが起こり、海岸近くに住んでいた百人以上の一般庶民が大波おおなみに飲み込まれて溺死してしまったらしい。


 その辺りにて妖怪の調伏を請け負っていた妖狐の夫婦が大怪我を負って、おあきちゃんに治療してもらうために命からがら名賀山稲荷社までやってきたのであった。


 その妖狐の夫婦の衝撃的な話の内容。それは、その百人以上の人間を一晩で殺した凶悪な妖怪は、近いうちに本所にやってきて、調伏を請け負っている妖狐をことごとく襲い殺してしまうつもりであるとのことであった。


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