第四十六幕 葉月の密かな願い



 七月の下旬になって、江戸の町を嵐が襲った。


 遠くの雲が一定の方角に流れていたので、俺は台風だとすぐわかったのだが、この文政の時代には『台風』という言葉はまだ存在しない。あらし野分のわき、あるいは颶風ぐふうという表現をするらしい。


 そして七月の二十五日、台風一過の江戸は、秋口だというのに蒸し蒸しした炎熱えんねつの空気に包まれていた。


 俺は、間借りさせてもらっている客間にある机にて、徳三郎さんから借りたほんである井原いはら西鶴さいかくの『日本永代蔵にっぽんえいだいぐら』という浮世草紙うきよぞうし(通俗小説)を読んでいた。


 当然の事ながら崩し文字しか書かれていないが、おあきちゃんに一年以上読み書きを教えてもらっていたので、すっかり江戸時代の文章も読めるようになっていた。


 この客間のふすま障子しょうじは全て開け放しており、蒸し暑い風が畳の部屋を通り抜けている。


 そして、暑さにやられた薄着姿のすずさんと、同じく薄着姿のおあきちゃんが座布団を枕に寝転んでいる。


 すずさんが寝転んだまま、やるかたなさそうに叫ぶ。

「あーっ! もう! 秋口だってのに、何でこんなに暑いのさ!?」


 机に向かって座りつつ、本を読んでいる俺は背中で応える。

「しょうがないですよ。過ぎ去った台風が南の温暖な風を運んできているんです。あと、二、三日もすれば涼しくなりますよ」


 俺がほんを読みながら返すと、寝転んだおあきちゃんがこんなことを言った。

「あたしも、暑いの苦手……氷でもあればいいのに」


 すると、寝転んでいたすずさんががばっと上体を起こす。

「そうだよ! 氷なら用意できるじゃないかい! りょうぞう! たらいを持ってきて水を張っておくれよ!」


「え? ああはい、わかりました」

 俺はすずさんの要望に応え、読みかけの本にでできたしおりを挟む。


 そして、いつも洗濯をしているたらいを東の庭から持ってきて、西の縁側のすぐ近くに置いた。


 そして、井戸にて汲んだ水を手桶に溜めて何往復かして、たらいに並々と水を張る。


 俺は、すずさんに尋ねる。

「氷が用意できるって、何をするつもりですか?」


 すると、すずさんが得意満面に言い放つ。

「りょうぞう、もう忘れたのかい? 七歩蛇しちぶじゃすべだよ。あいつのすべは氷を作ることだったろさ? あいつの御魂みたまもこの神社に合祀しているからさ、氷を生むすべが使えるはずだよ?」


 そう言って薄着姿のすずさんは、縁側の下に置いてある水を張ったたらいに手をかざす。


 すると、すずさんのかざしたてのひらから、小さな氷の粒がいくつも生まれて、たらいの水面に落とされていった。


 おあきちゃんが感激の声を上げる。

「すごーい! 暑いのに氷がこんなに!」


 しかし、そこで俺は異常事態に気がついた。


 すずさんが、顔を真っ赤にしていて、なんか頭から湯気まで出ている。


「あっつー! あっつー!」

 すずさんはそう叫んで、襟元をばたばたさせた。


 すずさんは言葉を続ける。

「なんだよこのすべ!? 使ったらこっちの体が熱くなるじゃないのさ!? 使えないすべだねぇ!」


 その言葉に俺は納得した。未来で冷気を生む冷蔵庫もクーラーも、全部が全部冷えっぱなしということはありえない。必ず外部に熱を逃がすシステムが必要なのである。この氷を生む妖術を使っている間は、氷を生むために逃がした熱が術者に回ってしまうのだろう。


 あの七歩蛇しちぶじゃの体自体が冷たかったのも周りから熱を奪っていた結果であり、七歩蛇しちぶじゃの体自体は燃えるような熱さを感じていたのかもしれない。


 俺がそんなことを思い、うんうんとうなずきつつ納得していると、すずさんが叫んだ。


「もうたまらないよ! 水浴びするよ!」


 いきなりすずさんが、俺の目の前で薄着を脱いで即座に全裸ぜんらになった。江戸時代なので当然のことながら、下にはブラジャーやパンティーのような下着は何もつけていなかった。


 今まで特に意識していなかったが、薄衣うすぎぬ一枚隔てたその下は、正真正銘のすっぽんぽんであったことに気づく。


「す、すずさん! いきなり脱がないでくださいよ!」


 俺は顔を赤くする。そして視界の中で全裸ぜんらのすずさんが、氷の浮いているたらいの水に入って恍惚の表情を浮かべる。


「ああー! 冷たくて気持ちいいねぇー! おあきも入りなよ!」

 すずさんがそんなことを言って、おあきちゃんを手招く。


 おあきちゃんは、恥ずかしそうに躊躇ためらう。


「ええぇー……りょう兄ぃがいるから、あたし恥ずかしい……」

 そのおあきちゃんの言葉に、俺は乾いた笑い声を出す。

「あはは、じゃあ俺は他の部屋にでも行っておくよ。水浴びして涼んでおいて」


 そう言い、俺は縁側から本が置いてある客間に移動する。木のしおりを挟んだ本を手にとり、ナップサックを手に取る。


 すずさんが「りょうぞう!」と呼びかけたので振り返ったところ、全裸姿のすずさんが縁側に足をかけて身を乗り出しているのを見てしまった。


「りょうぞう、水浴びしたあとに体拭くからさ、手ぬぐい持ってきておくれよ」


 瑞々みずみずしい肌色をした流線型の女体美にょたいびに、俺は頬を染めて驚く。


「ちょ、ちょっとくらいは隠そうとしてくださいよ!」


 すずさんの胸にある、ふたつのそれなりの大きさの乳房ちぶさとそれぞれの膨らみにある桃色ももいろ突起物とっきぶつはおろか、水で濡れているくびれた腰から足首までの滑らかでなまめかしい曲線きょくせん、開いた脚の根元で鼠蹊部そけいぶが交わる所にそろった黒い体毛たいもうまで、正面から全て見てしまった。


 すずさんはいかにも江戸時代の女性らしく、その裸体を一切合切隠そうともしていなかった。


 俺は照れつつ、スポーツバッグからタオルを取り出し、縁側に置く。


 ナップサックを肩にかけ立ち去る俺の背後からは、おあきちゃんが薄着を脱いだのであろう衣擦れの音が聞こえてきた。






 いつも食事を取っている座敷にて、俺は本を読んでいた。


 すると、徳三郎さんが入ってきた。


「うむ? 亮哉りょうやくん? 一人でどうしたのかね?」

 徳三郎さんの問いに、俺は応える。


「すずさんとおあきちゃんが、裸で水浴びをしているんですよ。俺は見るわけにはいかないから、こっちの部屋に来ているんです」


 俺がそう言うと、徳三郎さんが返す。


「裸を見るくらい、気にすることはないよ。確かにおすずは暑いときには少し枝垂しだらないところがあるが、裸を恥ずかしがるようなおんなではないからな」


「……俺が恥ずかしいんですよ」

 そう返すと、徳三郎さんがこんなことを言った。

「では、私の部屋で将棋でも打たんか? 今日はすることがなくて暇でな。少し相手をして欲しいのだよ」


 その言葉に、俺は了承した。





 俺は徳三郎さんの部屋で、将棋の対局を三戦行った。


 徳三郎さんは、金、銀、飛車、角、桂馬、香車を一枚ずつ落としてくれたが、結果は俺の全敗であった。


「……徳三郎さん、強すぎません?」 

 すると、徳三郎さんが柔和に応える。

「君も中々筋が良い、すぐに強くなれるよ」


 その言葉に、俺は返事をする。

「徳三郎さんでしたら、コンピューターにも勝てるかもしれませんね」

「『こんぴゅうたぁ』? それは何だね?」


 将棋板を挟んで座っている俺は応える。

「未来には、人の代わりに色々な事を考えてくれる機巧からくりがあるんですよ。人よりずっと速く算盤そろばんをしたり、人が覚えられないくらいの多くのものを覚えたり、名人を超えた強さで将棋や碁の相手をしてくれたりするんです」


 俺の言葉に、徳三郎さんは興味津々といった感じで顎に手を当てる。


「ふむ、それは凄いな。一度見てみたいものだな」


 その言葉に、俺は似たようなものを持ってきていたのを思い出す。そして、近くにあったナップサックからスマートフォンを取り出し、電源を入れる。


「これもそうです。未来では多くの人が、こんな小さなコンピューターを持ち歩いているんですよ。元々は、離れた所にいる人と人とが話をするための道具なんですけどね」


 俺は画面をスワイプして、保存している写真を見せる。江戸時代に来てから時折ときおり撮って保存していた写真をスマートフォンの画面上に流していく。


 徳三郎さんが感嘆の声を上げる。

「ほうほう……これは、実に不可思議だな。まるで妖術のようだ」


 保存している写真を古いものへと流していき、写真を保存した時期が江戸時代から平成時代に移り変わると、あるところで徳三郎さんの顔色が変わった。


「待ちたまえ!」

 徳三郎さんが叫んだので、俺は驚く。


「どうしたんですか?」

「これは……浅草寺せんそうじ大提灯おおちょうちんか? そして、ここに見える二人は……誰かね?」


 その写真とは、以前に葉月がゴールデンウィーク最終日に俺に送ってくれた写真であり、浅草寺せんそうじ雷門かみなりもん提灯ちょうちんの前にて葉月が母親と一緒に写っている写真であった。


「ああ、これは……葉月はづきです。この前話した、俺の想い人の」

 その言葉に、徳三郎さんが語気を若干強める。

葉月はづき? 八月の葉月はづきかね?」


「ああ、そうです。葉っぱに月って書いて葉月はづきです。で、こっちにいるのは葉月はづきのお母さんだってメールで……えっと、一緒に送られてきたふみでそう書いてました」

ふみがあるのか? 見せてくれないかね?」


 徳三郎さんがなんだか身を乗り出してきている。俺はすこし汗をかきながら、葉月から送られたメールを開くために、メールボックスをタップした。


 メールボックスにあったメールがオープンされ、内容が開示される。その内容はこうであった。

 

 送信者:永谷葉月

 題:今年も来ました

 本文:お母さんと一緒に浅草に来ています。いつも元気な仲良し母娘です。

 

 メール本文を下にスライドすると、あの日葉月から送信された写真が添付表示されているのがわかる。


 すると、徳三郎さんがつぶやく。

成程なるほど……未来では、文字を横に並べて、左から右へと読むのだったな……亮哉りょうやくん、このを外に出すことはできないのかね?」


 徳三郎さんが尋ねるので、俺は返す。


「えっと……プリンターが必要なので、ちょっと無理ですね。あ、でもプリントアウトした写真しゃしんならありますよ」


 俺はそう言って、ナップサックから生徒手帳を取り出した。生徒手帳の最後のページ、裏表紙の裏には同じ写真が貼り付けてあるので、それを徳三郎さんに見せた。


 徳三郎さんが口を開く。

「これが、おすずの言っていた『写真しゃしん』というものか……亮哉りょうやくん? この、写真しゃしんというものをしばらく貸してくれないかね?」


「え? 別にいいですけど、返してくださいよ?」

 俺が返事をすると、徳三郎さんは嬉々として俺の生徒手帳を受け取った。


「ああ、必ず返すとも。ところで亮哉りょうやくん? もしかして葉月はづきという娘さんから、ここに来る寸前に何か受け取ったりはしなかったかね?」


 その言葉に、俺は返答する。

「え? えっと……未来から持ってきた色々な荷物は、葉月が用意してくれたものです。それを葉月の家に届けて欲しいって離れた所から伝えられたんですよ。それで……その葉月の家の近くからおあきちゃんが出てきて……そのあたりの影から、俺は江戸に迷い込んだんです」


 徳三郎さんは、ふむふむとしきりに頷いていた。そして俺に問いかける。

「迷い込んだ日付を教えてくれないかね?」


――え?


 俺は戸惑いつつも、思い出しつつ応える。

「えっと……夏休みの初日だから……七月の下旬でしたね。確かその日は葉月のお父さんの命日だったんです。だから、お墓参りで忙しかった葉月のために、荷物を家まで届けようとしてたんです」


 俺の言葉に、徳三郎さんは神妙な顔つきになった。

成程なるほどな……では……の他に何かを貰わなかったかね? その前の日とかにな」


 徳三郎さんの言葉に、俺は一学期最後の日に葉月が俺にしてくれたことを思い出した。


――このお守り、私からの贈り物。りょーくんにあげる――


「あります!」


 そうだ、あの日、俺が江戸に迷い込む前日のあの日、俺は葉月からの贈り物を受け取っていた。


 俺は、近くに置いてあったナップサックに取り付けてあった、葉月から貰った御守りを取り外す。


「これです。この御守りを……この時代にくる前日に、葉月に貰いました」


 すると、徳三郎さんが手を伸ばす。


「貸してみたまえ」


 俺から厄除けの御守りを受け取った徳三郎さんは、手近にあった小刀であっという間に御守りの口を結っていた紐を切りほどいてしまった。


 そして中から、小さく折りたたまれた紙と、幅1センチ長さ4センチ程度の小さな赤い布片ふへんを取り出した。赤い布片ふへんには金色の糸で刺繍ししゅうが施されており、文字が書かれている。


 徳三郎さんが、赤い布片ふへんに金色の刺繍ししゅうにて施された文字を読み上げる。


「『牛嶋うしじま神社じんじゃ御守おまもり』、と書いてあるな。この『牛嶋うしじま神社じんじゃ』とはもしかして、牛御前社うしみまえやしろのことかね?」


「本所の北にある、『うし』のある神社ですよね? 合ってると思います」

 俺がそう言うと、徳三郎さんは折りたたまれていた紙を広げた。そして俺に向かってその紙を手渡そうとする。


「これは、君の想い人が亮哉りょうやくんに宛てたふみのようだな。君が読みたまえ」


 徳三郎さんから紙を受け取った俺は、その紙上に視線を滑らせる。


 すぐさま、その紙は葉月からの手紙であることがわかった。


 その手書きで書かれた手紙の内容はこうだった。


『拝啓 

 ようやく待ちに待った夏休みがはじまりますが、亮くんはいかがお過ごしでしょうか? わたしは、亮くんとこれから過ごす日々を想像して胸を高鳴らせつつ、このお手紙を書いています。できれば、この夏休みの間に、もっともっと亮くんと仲良くなりたいとわたしは思っています。

 ですが、亮くんがこのお手紙を読んでいるということは、あまり考えたくはないですが、何かをきっかけとして喧嘩をしてしまったあとなのかもしれません。もしかしたら、お互いに会ってすらいない状況なのかもしれません。

 わたしは、そんなのは嫌です。だから、もしも仮に、わたしと亮くんが離れ離れになるようなことがあったときのために、このお手紙をしたためます。

 そして亮くんが、このお手紙に気づいてくれたのは、わたしと仲直りがしたいからだとわたしは信じています。わたしは、このお守りを渡すときに、亮くんに誕生日を伝えようと思っています。

 もし、喧嘩をして、離れ離れになっても、わたしにまた会いたいと少しでも思ってくれているのならば、わたしの誕生日にこのお守りに名前が刺繍された神社のところに来てください。

 そして、もし離れ離れになっていても、そこで仲直りできたらいいなと思っています。

 わたしは、日付が変わるまで待っています。わたしにとって一生で一番思い出に残るような誕生日になってくれたら嬉しいです。

 かしこ

 親愛なる君島亮哉くんへ 永谷葉月より』


 それは、葉月が俺に宛てた密かな願いであった。





 

 それから二十日が経過し、暦は八月十五日の深夜となっていた。つまり葉月の誕生日であるが、そろそろ夜九つ(午前零時)の日付が変わる頃合である。


 白衣袴姿の俺は、すずさんとおあきちゃんと一緒に、北本所にある牛御前社うしみまえやしろに来ていた。すずさんには、妖怪退治をするための衣装である巫女装束を着てもらっている。


 もちろん江戸時代のこの場所に来ても、葉月が待ってくれていることなんてありえないことはわかっている。


 しかし、俺はこの日にこの場所に、葉月が御守りに託した密かな願いの通りに来ざるを得なかったのである。ある種の願掛けのような俺の我侭わがままであった。


 付き合ってもらったすずさんとおあきちゃんには、少し申し訳ない気がする。


 真南の夜空には、仲秋ちゅうしゅうの名月が明々あかあかと輝いている。


 冬のように高過ぎず夏のように低過ぎない、眺めるのに丁度良い高さに煌々こうこうと輝く満月は、雲がほとんど無い晴れた夜空にて顔を見せている。


 俺たち三人はこの神社の、『撫で牛』という神聖な岩の近くにてたたずんでいた。この『撫で牛』というのは牛の形に似ている岩であり、この岩を撫でると体の悪いところが良くなると信じられているらしい。


 この牛御前社うしみまえやしろはそもそも、しずめることで病魔を祓ってくれると信じられている素戔男尊すさのおのみこと御祀おまつりしている神社であり、その関係でこの岩を撫でると体が治ると伝えられているらしい。


 俺の時代にも『撫で牛』というものは牛嶋神社にはあったのだが、それは牛の形に彫刻された石像であったはずである。今俺の目の前にある『撫で牛』は牛の彫刻ではなく、牛のような形をした自然石なので、どこかの時代で代替わりしたのかもしれない。


 境内には大きな木が生えており、月の光が木の下に影を映し出している。


 どこからともなく時の鐘の音が鳴り響いてきた。


 おあきちゃんと手を繋いでいるすずさんが、俺に伝える。

「夜九つの鐘だね。八月十五日も終わりだよ」


 俺はすずさんに、申し訳ない気持ちで伝える。

「すいませんすずさん。我侭わがままに付き合ってもらっちゃいまして」

「いやいや、それは別にいいけどさぁ。どうしてもこの日でなきゃいけなかったのは何故なぜなのさ? 未来にいるおんなかかわってるとか言ってたけどさ?」


 すずさんの問いかけに、俺は返す。

「八月十五日は、俺の想い人の誕生日だったんですよ。もし俺が未来でその人と喧嘩とかをして別れたら、その日にここで会うはずだったんです。だからまあ、願掛けみたいなもんです」


 すると、すずさんは微笑む。

「願掛けくらいなら、いつでも付き合ってやるよ。でもさぁ、誕生日って生誕日のことだよね? さっき終わった八月の十五日がりょうぞうの懸想している女の生誕日なんて、まるで……」


 すずさんが何かを言いかけると、おあきちゃんがいきなり声を張り上げた。

「すず姉ぇ! いる! あやかしの臭いがするよ!」


 その言葉に、すずさんは鼻をくんくんと鳴らし、何かを嗅いでいるアクションを見せた。そしておあきちゃんから手を離して両手で印を結び、何やら呪文を唱え始めた。


 そして、闇の向こう、黒いざわめきの向こうから、そいつは現れた。


 その妖怪に目はなく、頭には刃のように鋭く尖った二本の耳があった。


 頭には真珠のような白い宝石が埋め込まれており、満月の輝きを反射していた。


 それはまさに、異形いぎょうと呼ぶに相応ふさわしい姿形をしていた。


 その妖怪は、俺が去年にこの江戸時代に迷い込んだときに出会った、あの妖怪であった。


 すずさんが、不敵な笑みを浮かべながら口走る。

「……ふふふ、こんなところに玉兎ぎょくとがいたとはねぇ! りょうぞうをこの江戸に連れてきた、全ての元凶であるあやかしがさぁ!」


 玉兎ぎょくとと呼ばれたそのあやかしは、その牙の生えた口を大きく開けた。


 それはまるで、異邦いほうならぬ異時いときの人間である俺との再会を、あざけわらっているかのようであった。

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