第四十幕 闇に明滅する蛍火

 

 五月の二十六日は、先日からの雨が止んだ風のない蒸し暑い日であった。


 昼八つ(午後二時ごろ)になって、稲荷社いなりやしろの前で掃除をしていた俺の元へ、亀吉くんがやってきた。そして亀吉くんはおしのさんの言伝ことづてを俺に伝えた。


 その内容とは、この間におしのさんと約束した蛍狩ほたるがりの件についてだった。


 今日の日暮れに一緒に墨田堤すみだつつみにて蛍を見たいので、新大橋の東のたもとにて待ち合わせをしたいとの事だ。


 俺が、了承の返事を亀吉くんに伝えると、亀吉くんは嬉しそうに手を振って帰っていった。


――俺もとうとう、腹を据えなきゃいけないんだな。


 そう思ったところ、いつの間にか俺のすぐ隣におあきちゃんがたたずんでいた。


 そして俺の袖口そでぐちを引っ張り膨れっ面を見せて口を開く。

「りょうぃ、おしのさんと一緒に蛍狩ほたるがりに行くんでしょ? すずぇに聞いたよ。あたしも連れてってくれるんだよね?」


「ああ、そりゃもちろん。どうしたの? 怒ってるの?」

 俺が決まり悪く返すと、おあきちゃんはそっぽを向いた。

「別にぃ、怒ってなんかないもん」


――いや、どう考えても怒ってるようにしか見えないけど。


 俺がそう思うと、おあきちゃんはそっぽを向いたまま、俺の方に顔を向けず瞳だけをこちらに向けた。


「まぁ、ずっとあたしと手を繋いでいてくれるんだったら別にいいけど」


 ああ、これは完全に嫉妬の炎が幼心に燃え盛ってるんだな、と俺は直感した。


 俺は申し訳ない気持ちで乾いた笑い声を出す。


「あはは、そりゃあ手を繋ぐくらい別にいいけど?」

 俺がそこまで言うと、おあきちゃんは恥ずかしそうにそのまま住処すみかのある方へ駆けて行ってしまった。


 おあきちゃんが、何でそんなに感情が燃え盛っているのか理解できなかった。俺がおしのさんと約束したのは、単なる蛍狩ほたるがりなのである。梅雨の時期に文化人が楽しむ風流な物見ものみであり、やましい遊びなどではない。


「……はぁ」


 二人の女の子に好かれているこの現況に、俺はため息をついた。


――葉月、俺耐えられるかな、この状況に。


 正直に言って、女子にモテモテなのが嬉しくない訳じゃない。俺だって思春期の健全な男の子だ、嬉しくない訳がない。


 おしのさんは可憐で気立てが良くて、もし二十一世紀にいたとしたら余裕でグループアイドルのセンターとかになれる器量良しだ。しかも料理が上手くて話も上手いときている。


 そんなアイドルのような美少女にあこがれられているなぞ、もしここが現代の東京ならクラス中、いや学校中の男子の垂涎すいえんの的であろう。


 そして、おあきちゃんはまだ子供だが、大人になれば相当な美人になるだろう。この江戸時代では十歳以上年齢が離れた夫婦めおとなんて、当たり前のように存在している。


 もしこのまま俺が江戸の町に定住すれば、小三郎にこの前言われたとおり、俺とおあきちゃんが十年後にそういうことになる可能性は充分にあり得る。


 だけど、俺はその可能性を考えたくはなかった。


 俺はか細い声でつぶやく。

葉月はづき……俺は絶対に、絶対に裏切らないからな……」


「ったく、りょうぞうも難儀なんぎだねぇ。遠くにいる女にみさおなんか立てちゃってさ。男のくせにさ」


 その声に振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにすずさんが立っていた。

「す、すずさん!? いつからいたんですか?」


 するとすずさんが、憮然とした表情で俺に告げる。

「ん? さっきからだよ? もう手習いも終わったしさ」


 俺は悲痛な面持ちで、すずさんに返す。

「俺も結構悩んでいるんですよ、からかわないでください」


「ああ、悪い悪い。でもさぁりょうぞう、女が男を蛍狩ほたるがりに誘うってのは相当の覚悟がいるんだよ? そこを汲んでやりなよ?」


 その言葉に、俺は返す。

「どういう事ですか? 蛍狩ほたるがりってほたるを見るだけでしょう?」


 俺がそう言うと、すずさんは俺の言葉に疑問に感じたように口を開く。

「おまいさん、蛍狩ほたるがり行ったことないのかい? もしかして未来の江戸にはほたるがいないとかかい?」


 俺は応える。

「ええ、東京とうきょう……未来の江戸では川がかなり汚れているので、澄んだ水にしか住めないほたるはいないんですよ。相当な山奥か、相当な田舎に行かないとほたるなんか見ることはできないんです」


 するとすずさんは目を閉じて、息を漏らした。

「そうかい、そりゃぁ寂しいねぇ。あたいが昔に渋谷しぶやさわで見たほたるむれなんか、それはそれはまぼろしのように綺麗なもんだったけど、それも見られなくなるんだねぇ」


「えっ!? 渋谷しぶやほたるがいたんですか!?」

 俺が驚いて返すと、すずさんはその切れ長の目を開いて応える。

「そうだよ? 未来にも渋谷しぶやむらは残ってるんだねぇ。で、あの辺りは江戸の外れじゃないのさ」


 俺のいた平成時代では外れどころか、若者文化の中心地なのですが。


 すずさんは言葉を続ける。

「江戸で蛍が見られる場所ってのはだいたい江戸の外れだからねぇ。そんで、蛍は日が落ちて暗くなってからでないと見られないじゃないのさ。つまり、男と女の二人で蛍を見に行ったら、おのずとお宿やどに泊まりがけになるってことなのさ」


 その言葉に、俺はすずさんが何を言いたいのか理解した。


 俺は口を開く。

「えっと……つまり、男と女で一緒に蛍狩りに行きたいって言ってるって事は、一緒に泊まりたいって言ってるのと同じってことですか?」


 すると、すずさんが飄々ひょうひょうかたる。

「ま、抱かれても良いってことさ」


――そりゃ周りの男全員が俺を見るよな。


 あと、何でおあきちゃんが嫉妬の炎を燃やしていたかもわかった。具体的に何をするかは知らないものの、江戸の人たちにとって男女での蛍狩りってのは、そういう意味のあるニュアンスを含んでいるという訳だ。


 俺は、男と女が江戸の外れの村で二人っきりで蛍を見る様子を想像した。想像するだけで、かなりロマンチックで幻想的な風景だとわかる。


 江戸に住む恋仲の男女が足を伸ばして、喧騒けんそうを離れた静かな郊外で蛍による幻想的な光の乱舞を見て、そのまま近くのお宿やどに泊まる。


 そしてその行為は、二十一世紀でリッチな大人がしているデートとよく似ていることに気付いた。


 それは、カップルがデートで東京の夜景を見ながら食事をして、そのままホテルに泊まる行為と何ら変わりない。


 そこで俺は、あることに気付いてすずさんに尋ねる。

「じゃあ、俺がおしのさんに誘われたときに、すずさんがおあきちゃんを連れて行くよう言ったのは……おしのさんのためだったんですか?」


 すると、すずさんが少しだけ微笑んだ。

「そうだよ? りょうぞうはいずれ未来に帰る身だからねぇ。水茶屋で働くおしのさんが男に手篭てごめにされたって噂を立たせるわけにはいかないじゃないかい」

 そう言ってすずさんはニッと笑う。


 俺も少しだけ口元が緩んだ。この人はやっぱり大人だ。


――やはり俺が想っているひとは、おあきちゃんでもおしのさんでもなく――


「って、違いますから!」

 俺は咄嗟とっさに叫んでしまった。


 すずさんはその叫び声に、切れ長の目をぱちくりさせている。

「どうしたんだい、りょうぞう? いきなり叫んだりしてさ?」


 すずさんの問いかけに、俺は平静をよそおって応える。

「いや、何でもないです。それより蛍狩りがそういうものだとわかってるってことは、すずさんが渋谷しぶやに行ったのって、すずさんが好きな男の人と一緒にお宿やどに泊まったってことですか?」


 すると、すずさんは若干頬を染めて照れ笑いをする。

「あはは、まぁね。あたいだっておとこらない初心うぶ生娘きむすめとかじゃないんだけどさ。そういう風に改めて言われると何だか恥ずかしいねぇ」


 その言葉に俺は、呼吸を整える。


――そうだ、落ち着け、落ち着け。すずさんはどこかにいる男の人と肉体関係まであるひとなんだ。俺が想って良いひとなんかじゃない。


 俺はそう思いつつ、なにくわぬ顔をよそおって掃除を再開した。





 夕方の日が沈む頃合になって、紺色の着物に着替えた俺は、南本所の大通りをおあきちゃんと一緒に歩いていた。


 おあきちゃんは俺の左手をぎゅっと握り締め続けてくれている。


 目的地は新大橋の東側のたもとだ。反対側の右手には、帰り道を照らすための提灯ちょうちんをぶら下げた棒を持っている。


 今は初夏の季節であり、日がかなり長い。おそらく体感では午後七時を過ぎた頃合だと思う。


 夕暮れの赤い光に照らされた大川に架かる新大橋のたもとにて、おしのさんが待っていた。


 俺は声をかける。

「おしのさん、ごめん。待った?」

「いいえ、今しがた着いた所でございます」

 おしのさんは、とてもにこやかに笑っていた。


 それと同時に、俺の左手を握るおあきちゃんの力が強まった気がした。


 俺は、なるべく空気をなごませようと穏やかな口調で伝える。

「えっと、蛍狩りって墨田堤すみだつつみで良かったの? 俺って実は、江戸でほたるが見れる場所ってあまり詳しくないんだ」


 すると、おしのさんが応えてくれる。

「大川沿いに北に歩いていけばすぐでございますゆえ。どうか道中連れ添いをお願い致します」


「ええ、渋谷しぶやとか新宿しんじゅくとかの遠出じゃなくて良かったです」


 すずさんに聞いたところ、渋谷しぶやだけでなく新宿しんじゅくもこの時代では村であり、ほたるの名所なのだと言う。


 おしのさんは頬を染めて照れながら返す。

「いえいえ、亮哉りょうやさんはお忙しい身でございますもの。泊りがけの旅を願う訳にはいきませんよ」


 すると、俺の隣にいるおあきちゃんが若干ぶすっとした口調でおしのさんに伝える。

「あたしもいるんだから、忘れないでよね」


「はい! 稲荷社いなりやしろの可愛らしいお譲ちゃんもよろしくね」

 おしのさんが余裕の面持ちで返す。


――あれ、なんだこの感じ。


――悪くはない空気なんだけど、良くもない。


――まさか俺、三角関係の中で選択をミスるとバッドエンドになる状態じゃないだろな。たかしがよくやっていた恋愛シミュレーションゲームのように。


 三人で歩きながらそんな事を思う俺の心配をよそに、おしのさんはちゃっかりと俺の右側を確保していた。





 夕日が沈むと、黄昏たそがれの薄赤い空が俺たちの頭上に広がっていた。大川沿いに北上していた俺たちは、道すがら色々な事を話した。


 そんな中、おあきちゃんが持つ意外な事実が判明した。


 おあきちゃんは、お茶屋の看板娘という職業に憧れがあるらしいのだ。


 おあきちゃんが昔すずさんと徳三郎さんと一緒に浅草寺せんそうじに行った時に、出会ったお茶汲み娘さんがとても親切だったらしい。


 なんでも、おあきちゃんは浅草寺せんそうじ近くのお茶屋さんでお茶を飲もうとしたところ、お茶をこぼして泣いてしまったのだが、そこの看板娘さんが親切にあやしてくれて泣き止んだことがあったらしい。


 だから、おあきちゃん曰く、おしのさんにはとても憧れる面があるのだとか。


 おそらくは、俺に好意を寄せるおしのさんへの嫉妬心と、看板娘に対する憧れとの板ばさみで、幼心に相当に複雑な心境だったのだろう。俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。


 そんなことを考えつつ、おしのさんとおあきちゃんと色々と話をしていると、やがて夕闇が空を覆い始めてきた。


 俺は、手に持つ提灯ちょうちん棒の提灯ちょうちんに火をつけるためにどうすればいいのか少し悩んだ。


 ユーティリティーライターは一応、着物きものたもとの中に入れているが、未来みらい道具どうぐをおしのさんの目の前で使っていいものか。


 俺が考えあぐねていると、おしのさんが俺と同じく北に道行く家族連れの男に声をかけた。その男は火のともった提灯ちょうちんを棒にぶら下げていた。


「すいません。火をくださらないでしょうか?」


 すると、その家族連れの男は何も言わずに俺の提灯ちょうちんに火をくれた。


 俺は周りを見渡す。


 火のともってない提灯ちょうちんを持つ人は、火のともっている提灯ちょうちんを持つ人から、火を次々と分けてもらっている。


 それはまるで、人が人に親切にする思いやりの種火が、枝分かれして広まっていくかのようであった。


 俺はその光景に感嘆かんたんしてつぶやく。

「そうか……いなくなったのはほたるだけじゃなかったんだ……」


 俺は江戸で一年近く暮らしていて、こんな基本的なことも知らなかった。人が人に優しくする気持ち、それがこの江戸の町には溢れているのだ。


 ふと、俺は初恋のお姉さんのことを思い出した。


 泣いていた俺をあやしてくれて、家に帰るまで手を繋いでいてくれたあの親切なお姉さん。


 今でも、あの優しい柔らかい右手の感触はしっかりと覚えている。おそらくはおあきちゃんにとってのお茶汲み娘さんが、俺にとっての初恋のお姉さんなのだろう。その幼い頃に誰かから貰った優しさは、人間一人の人格形成の紛れもない一部である。


 俺がそう思って左手に力を込めると、その左手を握り締め続けてくれていたおあきちゃんが不思議そうに俺に問いかける。

「りょう兄ぃ、どうしたの?」


「あ、いや。なんでもない……うん、なんでもない」


 ひょっとして俺は、一瞬だけ日本人が失った日本人の魂に触れたんじゃないだろうか。


 あるべきだった、あるべきはずのものに。無くしてはいけなかったその存在に。


 そして、俺はおあきちゃんとおしのさんと一緒にまた歩き出す。親切な人からもらったあかりのついた提灯ちょうちんで、暗くなった足元を照らしながら。





 墨田堤すみだつつみの桜並木は既に葉桜になっており、夜の闇の中に葉を茂らせていた。川沿いには堤の両側に丈の高い草が生い茂り、視界を妨げている。


 ここ、墨堤ぼくていはこの季節になると大川の河川敷にある草の中に蛍が沢山現れるのだという。そんなに江戸の町から離れていないので、よいうちに行って帰ってくることができる庶民の蛍狩りスポットであるらしい。


 辺りを見渡すと、確かに親子連れが多い。男と女が逢引きをするだけの場所ではないということだ。


 今、おあきちゃんが水辺に生えている草を指差した。

「りょう兄ぃ、いる! ほたるがいるよ!」


 俺がその方向を見ると、確かに青白い光が明滅しているのが目に入った。


 俺の右隣にいるおしのさんが「うつくしゅう……」とつぶやく。


 三人で蛍の様子を見ていたら、一つだった明滅が二つに。更に、二つだった明滅が四つになった。四つは八つに、そしてその倍に、と幻想的な蛍の光が加速度的に増えていく。


 そして、しばらくの時を挟んで、大川の草生い茂る水辺には、光の群れなす蛍でいっぱいに充ち充ちていった。


 街灯も、自動車のヘッドランプも、コンビニの灯りもなにもない江戸の暗闇の中に、波を打つように明滅する蛍火は、まさに天の与えたもうたイルミネーションであった。


 俺は無意識に呟く。

「凄い……隅田川って、こんなにホタルがいたんだ……」


 すると、おしのさんが提灯棒ちょうちんぼうを持つ俺の手を握ってきた。


 俺の心臓が、どきりと波打つ。


 おそるおそる右の方を向くと、おしのさんが蛍の光の乱舞する方角を見つめながら目を潤ませていた。


――可愛い。


 俺はそう思ってしまった。


 すると、反対側の左手を握る女の子の手の力が強くなった。


 左を向くと、おあきちゃんが青白い光の中で少し頬を膨らませていた。


 嬉しいような、嬉しくないような両手に花。


 俺がそう思ったところ、一匹の明滅する光点がこちらに飛んできた。


 そして、その群れからはぐれた一匹の蛍は、おあきちゃんの結い髪に刺されたビー玉のかんざしの、丁度ビー玉の箇所にぴたりとまった。そして、幻想的な光の明滅を繰り返す。


 驚いたことに、人を全然怖がっていないようであった。俺は、髪の上に光を乗せたおあきちゃんに伝える。

「おあきちゃん、ちょっと動かないで」


 おしのさんと一緒に、おあきちゃんの頭を見る。


 ほたるは透きとおった色のないビー玉の球面で、しきりに求愛行動たる光の明滅を繰り返していた。ガラスの球面にて蛍の青白い光が反射と屈折を反復しており、この世にあるどんな宝石よりも美しい気がした。


 並んでその光の明滅を見ているおしのさんが口を開く。

「これは……まるでいしの中にてほたるひかっているみたいでございますね……」


 俺もおしのさんの言葉に応える。

「そうだね。これは……言わば江戸の蛍石ほたるいしって……とこかな?」


 俺がそこまで言ったところで、おあきちゃんが不満顔を見せた。


「あたしも、ほたる見たいー」

 おあきちゃんがそう言うと、おしのさんはおあきちゃんのかんざしに指を沿え、蛍を己の指先にまらせた。


 おしのさんは、その光る指先をおあきちゃんの眼前に持っていき、おあきちゃんの差し出した手に移らせる。


 そして、おあきちゃんは小声でささやく。

綺麗きれい……」


 おあきちゃんの顔が明滅に照らされて、表情も明るくなる。

 おしのさんも、おあきちゃんも微笑んでいる。その様子を見て、俺は心なしか安心した。


――この二人も、きっと仲良くなれるんだ。


 俺がそう思ったところ、川の反対側にある丈の高い草むらがガサガサと動いた。


――猫か犬かな?


 そう思ってそっちを見たところ、もう一つの可能性に気付いた。


――男女が野外でむついをしているのかもしれない。


 それなら、関わらないほうがいいと思った。


 しばしの間を空けて、おあきちゃんの指先にまっていた蛍は飛び立ち、仲間たちのいる水辺へと戻っていってしまった。


 そしておあきちゃんは、口をへの字に結んで、さっきガサガサしていた草むらの方にとことこと近づく。


「おあきちゃん?」

 俺がおあきちゃんの背中にそう問いかけたところ、おあきちゃんが丈の高い草々をがさっと左右に分けると、向こう側にいた人影が声を発した。


「おっ!?」

 その声の主はすずさんだった。草の隙間の向こうにはすずさんがしゃがんでいて、こちらの様子を覗き見ていた。すずさん、あなた何してるんですか。


 おあきちゃんがすずさんにむくれた口調で伝える。

「もう! すず姉ぇ、覗きとかやめてよね!」


 するとすずさんは頭をぽりぽりと掻いて立ち上がる。

「いやはや、りょうぞうが色々やらかさないか心配でねぇ。おあきがいるのにおしのさんと二人で何か始めちまうとかさ」


――そんな心配、いりません。


 俺は心の中でそう思いつつも、すずさんにこう話しかける。

「ご心配は一応、有難く受け取っておきます。で、すずさんは一人で来たんですか?」


 すると、すずさんが応える。

「いやいや、一人じゃないよ。江戸ではそのうちほたるって見られなくなるんだろ? 良いおりだしさ、せっかくだから父さまと一緒に来たのさ」


 すずさんが親指で近くの桜の木を指差すと、木の幹の向こうから、火のともった提灯を棒にぶら下げた徳三郎さんが出てきた。おあきちゃんは再び俺に寄り、左手を握る。


 徳三郎さんが俺たちに近づき、口を開く。

亮哉りょうやくん、娘さんがたと仲良くするのは良いが、男ならば常に真心で接しなければいかんぞ」


 そこまで言ったところで、近寄ってきたすずさんが若干目を細めながら徳三郎さんの腕に手を回し、密着する格好となった。

「ほらほら父さま、後は若いのに任せてさ。あたいらはどこかに酒でも呑みに行こうじゃないかい」


 すずさんの言葉に、徳三郎さんが了承する。


 そして、二人並んで背中を見せて俺たちから離れていくきわに、すずさんが振り返る。


「じゃあさ、りょうぞう。あたいは父さまと一晩中呑み明かしてくるから、おあきのことをよろしく頼んだよ? おしのさんも、しっかりと京橋の家まで送り届けてやりなよ?」

 すずさんはそんなことを言って、徳三郎さんと共に夜の闇の中に消えてしまった。


 おしのさんが、くすくす笑いながら俺たちに伝える。

「おすずさんと神主さま、ぎわに腕を組んでおりましたね。ほんとうに仲の良い父娘おやこなのでございますね」


 その言葉に、俺は以前に徳三郎さんが言ってくれた内容を思い出す。


――この二方共ふたかたともの父親という事になっている。まことには違うのだがな――


 本当は、徳三郎さんとすずさんって父娘おやこではないはずなのだが、確かにあの二人は仲が良い。


 なんというか、肝胆かんたん相照あいてらす仲というか、お互いに心の底から信頼しているように見える。


 昔、どんなことがあったんだろうか。すずさんの妹であるおあきちゃんと三人で、何故暮らすことになったのだろうか。そんな疑問を考えていた。


 そういえば、男谷おだにさんがいる道場の師範が以前、徳三郎さんは仲間たちとあちこち駆け回って探偵のようなことをしていたと言っていた。


 もしかしたら、その時に妖孤関係の謎を解いて、その関わりで知り合ったのかもしれない。


 俺があれこれ思案していると、俺の右腕にいきなり体重がかかった。


 おしのさんが、その左腕を俺の右腕に絡めてきたのであった。

亮哉りょうやさん、わたくしたちもあの仲の良い父娘おやこさまに習いましょうか」


 俺はいきなり耳元でささやかれた同世代の少女の甘い声に動揺した。おしのさんから溢れ出る少女の蠱惑的こわくてきな香りが鼻腔に満たされる。


 おそらくおしのさんは、すずさんが昼間言ってた通り、そういう男女関係の覚悟をして俺を蛍狩りに誘ったのだろう。


――いや、そう言う訳にはいかない。俺はおしのさんとそういう関係になりたいとは思っていないからだ。


 俺のまぶたの裏にある闇の中に、葉月の顔が浮かんだ。葉月、助けてくれ。俺に誘惑をる力をくれ。


 すると、俺の左手をさっきから握っている幼い女の子の手が、ぎゅっと力を込めた。


「りょう兄ぃ!?」

 そのおあきちゃんの言葉に、俺ははっとした。


 そして、ゆっくりと、優しく、傷つけないように、おしのさんの体を支えて俺の体から離した。


「ごめん、おしのさん。気持ちは嬉しいけど、今はおあきちゃんがいるからさ。ごめんね」


 女性経験のない純朴な男子である俺にできるのは、これくらいのフォローが精一杯である。心臓はさっきからバクンバクンと拍動を続けている。


 おしのさんは俺から離れると、仕方がないという感じで笑顔を返してくれた。






 その後、おしのさんを京橋にある魚屋の自宅まで送りとどけ、俺はおあきちゃんと手を繋ぎながら深川への帰路についていた。


 もう時刻は夜五つ半(午後九時ごろ)を過ぎている。おそらくはそろそろ夜四つ(午後十時ごろ)になって町木戸が閉まってしまう時刻であろう。


 右手に灯りのついた提灯棒ちょうちんぼうを持ちつつ、左手でおあきちゃんと手を繋いで江戸の町を歩く。


 俺は、おあきちゃんに話しかける。

「おあきちゃん? さっきは有難う」


 すると、おあきちゃんが応える。

「別にいいよ」


 俺は返す。

「もうちょっとで葉月はづきのことを裏切るところだったよ。本当に有難う」


 俺がそう言ったとこと、おあきちゃんは口を尖らせた。

「……いいよ。でもこれで、あたし葉月はづきさんに貸しがひとつだから」


 そのおあきちゃんの言葉に、俺は戸惑いの声を返す。

「貸し? ってことは、いつか返してもらうってこと?」


「……うん。必ず、必ず、返してもらう。いつになるかわかんないけど」

「……そっか」


 俺は、おあきちゃんの気遣いに感謝して息を吐く。


 おあきちゃんは、そんな俺の気持ちを察知したのか、こんなことを言った。

「りょう兄ぃ、あたしだってわかってるもん。りょう兄ぃはいつか未来に帰っちゃうんだって。いつかは離れ離れになるんだって、ちゃんとわかってるもん」


 おあきちゃんの意外な言葉に、俺はハッとする。


 おあきちゃんは、少し涙声になっているようであった。おあきちゃんは言葉を続ける。


「だから……せめて一緒にいる時くらい手を繋いで歩くのを許して欲しいもん」


 俺は、そのおあきちゃんの真心まごころに心が動いた。幼い女の子の純真な気持ちがありありとわかった。


 俺は、おあきちゃんに返す。

「……大丈夫。俺はおあきちゃんの手を離したりなんかしないよ」


 俺とおあきちゃんは暗くなった江戸の町を手を繋いで歩いた。それは、紛れもない俺の真心まごころの現れであった。


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