第一部「風船」/第十話
第十に。
「「ごめんなさい」」
すっかり呆気に取られていた僕だったが、彼女のマシンガン説教を聞いているうちにとりあえず謝ることが先決だと判断して、彼女の言葉の間断を狙ってすかさず頭を下げた。驚いたのは、それが偶然にも先輩の謝罪と完全に重なったことだ。先輩も僕と同様に考えて、謝るタイミングを窺っていたのだろうか。そう考えたが、しかしロボットの彼女がそんな人間的な考えをするように思えないのもまた事実であった。
「まあ良いです、良いですとも! 赦すのも正義です」
まだ名も知らぬ少女は、仁王立ちの状態からそのまま上体を反らして、如何にも得意気に歯を覗かせた。僕らの短い一言で機嫌は直ったらしい。ポニーテールが誇らしげに揺れている。いやはや。そのくらいで赦せるものなら最初からキレないで欲しい。とは言いつつ、しかしじゃあ謝っても簡単に赦すな、って話ではないが。
「先輩方。わたしの名前は津森
僕らが黙っていると、彼女は勝手に自己紹介を始めた。正義の入部希望者って何だよ、と思わなくもないけれど、僕にはそれよりもまず言っておくべきことがあった。
「ええと、津森さん。俺は先輩じゃなくて、君と同じ一年生、つまりは入部希望者だから」
「そうなのですか。ごめんなさい、先輩だと思い込んでしまって。気を悪くされましたか?」
彼女はぺこりと頭を下げた。ちょっと訂正するくらいの気持ちで、謝られるほどのことだとは思っていなかったから、彼女の素直な行動に少し戸惑ってしまう。勿論、素直であることは悪いわけではないし、寧ろ好ましいことなのだが、ついさっきまで、激怒、というか喧しかったことを思うと、この素直さは気味悪くも感じられた。
「いいや、別になんとも思わなかったけれど、同級生なんだから、タメ口でいいよ」
僕はそういったが、それでは彼女は承服しかねたらしい。
「そう言われましても――、わたしは正義ですから、あらゆる人に敬意を払うのです。別に敬語が嫌だと仰るなら、タメ口でもいいですが――」
彼女はそこで遠慮がちに微笑んで、
「正義に反しかねませんから」
と首を振った。
彼女が繰り返して言う正義という単語が、僕の知っている正義とはズレているような感覚があったけれど、いちいちそんなことは言わない。厄介なことになるだろうことが殆ど自明であるからだ。それに、人の信条にあれこれ言うべきでもないだろう。
「入部希望なのですね。歓迎します、津森さん。そこに置いてある入部届に必要事項を書いて下さい。受理しますから」
先輩は無感動に、瞬きもせず言うと、壁の棚の一角を左手で示した。見ればそこには乳白色のクリアファイルが置いてある。
「何故だかいまいち歓迎されてる感がありませんが、良いでしょう。入部届、早速書きます。善は急げ、です」
津森は先輩の声の異質さに気付いていないらしい。鈍いのだろうか、それが普通なのだろうか。ともかく彼女は、クリアファイルから一枚紙を取り出して、それから僕の隣へ乱暴に座った。おもちゃを前にした幼児のように、勢いのある、というか落ち着きの無い、そんな感じであった。
津森というその女子は、見ればなかなか、隻腕の先輩にも負けず劣らず、特徴的な風体だった。一見しただけでは分からないが、彼女の服装は、学生手帳に書いてある文言を一字一句体現したものなのだった。スカートは膝下十五センチ、ワンポイントの無い白のソックスをしっかり膝と足首の中天まで上げ、ブラウスのボタンは全部留められ、ベストの胸には名札を付けている。髪は後ろをひとつに束ねて、髪先が肩より下に垂れていない。完璧である。生徒指導の先生が見ても、逆に引いてしまうのではなかろうか。『校則よりも大事な物だってあると思うぞ』とか言いそうである。入学式での様子を見る限り、あの先生なら言うだろうと思う。というか、僕なら確実に彼女に言う。今この場で言いはしないけれど。やっぱり厄介なことになりそうだから。
彼女が入部届を書いているのをぼうっと眺めていた僕は、重要なことに気付いた。
「というか、先輩、俺には何故入部届を書かせてくれないんですか? 何で彼女だけ? 怒られたから?」
こんな怪しい、というかおかしな人間に負けたのか、という気分になって、僕の口調は図らずして荒れた。
「宍倉君は入部するなんて一言も言っていないではありませんか」
作業を再開していた先輩は、留守番電話サービスのアナウンスのように言う。
確かに言われてみればそうだった。となれば僕の次の台詞は決まっている。
「先輩、僕も入部します。入部届書きますね」
「ええ」
先輩が肯いたのを確認して、僕は長机の上に放置されていたクリアファイルから用紙を一枚とって、それから鞄から筆箱を取り出した。
入部届は至って普通の入部届であった。入部届と言えば、百人中百人が大体こんな風なものを想像するだろう。一風変わった入部届と言うのは実用性の面からそもそもの存在価値が無いのだろうけれど、いじめ撲滅委員会の入部届がこのようなものというのは、どこか違和感があるというか、陳腐な感さえ覚える。
「書けました!」
そう言って先に筆(というかシャーペンだけれど)を置いたのは、津森だった。先に書き始めていたのだから当然である。記入要項は大したものではなかったから、僕もそれからすぐに書き終えた。
「二人とも――」先輩は僕らから記入済みの入部届を受け取ると、スキャナーみたいにさっと目を通した。速読術でも習ったのだろうか。「記入漏れは無いわね」
先輩はノートパソコンをぱたりと閉じた。入部届を積まれた書類の上に置く。
「改めて、歓迎します。宍倉君、津森さん」
「よろしくです、正義的に!」
「よろしくお願いします」
彼女の歓迎の言葉に僕らは頭を下げた。というのも、やっぱり先輩の声からは歓迎の気持ちは少しも汲み取れなかったのだ。
「活動時間は主に放課後、必要があれば早朝や昼休みなど空き時間にも活動します。休日の活動は基本的にありませんが、必要に応じて活動します。活動内容はいじめを撲滅するためのあらゆる活動ですから、多岐に亘ります。このあたりは適宜説明していきましょう。その方が理解できると思いますし。部費は基本ありませんが、予算で賄いきれなくなった必要経費については部員全員で均等に負担します。他に何か質問はありますか」
先輩は淀みなく淡々と述べた。ここまでくると本当に案内アンドロイドである。
「はい!」
隣の津森が元気よく手を上げた。思えば部室に入ってきてからずっと彼女はこのテンションである。疲れないのだろうか。
「恐縮ですが先輩の御名をお伺いしても宜しいですか?」
彼女の丁寧すぎる言葉遣いが、その明る過ぎる口調との相乗によって馬鹿っぽく聞こえたことはここでは置いておいて、そう言えば先輩の名前をまだ聞いていなかった。自己紹介の流れの時には話が傍流に雪崩れ込んだために、すっかり名前を聞きそびれてしまっていたのだっけ。そのこと自体を忘れてしまっていたあたり、先輩の右腕欠損のインパクトが大きかったのか、それとも僕の彼女の名前に対する興味が無いのか、まあ、おそらくその両方であろう。
「Leftildeety Ellen Affentelek」
「「え?」」
訊き返しのタイミングが僕と津森とでぴったり合った。無意識での反応だったから、これほど揃ったのだろう。先輩の発した音声は、明らかに日本語ではなかったし、まったく不意のものであったから、聞き取れなかったのである。四百もの言語を習得している僕がそうなのだから、いわんや津森をや、である。
「レフティルディーティ、エレン、アッフェンテレク」
僕らの当惑した顔を見て、先輩は日本語的発音でゆっくり繰り返してくれた。どこの国の名前かは判らないが、なるほど外国人だったのか。それなら彼女の肌の白さにも納得である。どこか日本人離れしているように感じていたのだ。
「ええと、レフティルディーティ部長――いや違くて、アッフェンテレク――委員長」
津森が恐る恐る、といった風に声を上げた。
「レフティ先輩で良いわ」
「じゃあ、レフティ先輩、ええと、お国はどちらで?」
実は津森は馬鹿っぽいのではなくて、先輩を馬鹿にしているのではなかろうか。僕はそんなことを思ったけれど、先輩は表情をピクリとも変えない。
「生まれは日本。ただ、母親が、北欧系とアラブ系のハーフと、日本人と中国人のハーフの間に生まれて、父親は、北欧系のクォーターなのよ」
津森が面白い顔をした。訳が分からなくなってしまっているらしい。僕も、複雑すぎる、というのが率直な感想だった。家庭が複雑、というのを良く聞くが、血筋が複雑、というのはある意味、それよりも大変かもしれない。
「つまり、先輩は、二分の一が日本人で、四分の一が北欧系で、八分の一がアラブ系、もう八分の一が中国人、ということですか」
いつまでも津森を可笑しな顔のままにしておくわけには行かないので、僕が纏める。
すると先輩は、
「あくまで血は、だけれど」
と肯いた。
それから、
「さて、ちょうど作業も自己紹介も終わったし、今日はこれでお終いにしましょうか」
と、席を立つ。
僕は、血筋の話は先輩にとって触れられたくない話題であったのか、と申し訳ない気持ちになったが、すぐに思い直した。右腕の話でさえ嫌な顔一つしなかった彼女が、血筋くらいで気分を損ねたりしないだろう。ノートパソコンを閉じているし、本当に作業が終わって、キリが良いだけ、というほうが自然だ。
「ええー、そりゃあないですよう、正義しましょうよう」
津森が異を唱えた。入部して間もないのに意見するとは大した度胸、と思わなくも無いが、入部する以前にあれだけの啖呵を切っているのだから、これが彼女らしさなのかもしれなかった。けれども、先輩はそのまま進路指導室を出て行ってしまったし、僕は僕でこの充実した時間にすっかり体力を奪われてしまっていたので、津森の言葉に耳を貸す人はいなかった。彼女の個性は認められなかった、とも言える。
津森を置いて、僕も部室を出る。何やら猫の威嚇のような声が後ろから聞こえたが、それを相手にするなんて馬鹿げているように思えた。先程までのように密度の濃い時間は、今までの学校生活において経験したことのないものであったからである。僕は胸の中に仄かに灯った満足感と充足感を消えないよう抱えて、また心身ともにずっしりとした疲労を感じつつ、重くも軽い足取りで、その日帰宅した。
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