第一部「風船」/第十一話

   第十一に。


 その日のノルマはいつもとは違い玄関に無造作に置かれていた。両親が、僕の部屋まで運ぶ手間を嫌ったのだろうかとも思ったが、しかしそれは玄関という特定の場所に置く理由にはならない。前日の参考書に比べて半分くらいの薄さのものであったし、面倒だとかそういう理由でないのは少し考えれば容易に分かることである。であれば何故玄関に置いてあったのか。僕は少し気になったので、靴を脱ぎ、手を洗い、うがいをしている間、考えてみた。とは言っても、自発的にさあ考えよう、などと張り切ったわけではなくて、無意識的にそういう方向へ思考が向かっただけなのだが。

 そうして辿り着いた結論は、どうもノルマを決めかねているらしいということだった。ノルマは毎回本一冊で、一方世の中には学問の本に限ったとて相当の本が出版されているのだから、そうそう困るようには思えないが、おそらく両親が、特に母が困っているのはその難易度であろう。簡単すぎれば両親の目論むように僕が音を上げたりすることはないだろうし、難しすぎればノルマの表向きの理由から外れてしまう。丁度良い難易度というのは、僕が努力すれば何とかできるようなレベルで、学習の手助けとなるようなものであり、かつ継続的に取り組むのには苦痛を伴う難易度、ということになるだろうが、その条件の範囲は狭いと言わざるを得ない。そうした参考書だのワークだのを膨大な本の中から選択するというのは、なるほど、苦行かもしれない。そしてそうした難行のために、いつものように余裕を持ってノルマの参考書を用意できず、おそらくは会社の昼休みなど短い時間で何とか準備し、けれどもその短さのために玄関から僕の部屋への経路を惜しんだのだろう。ふふん。どうも気分が良くなってきた。こうして図らずとも逆捩じを喰わせる形になったのは、僕の普段の行いがどうのとかいう話ではないにしても、両親の邪な考えがもたらしたものだということに違いは無い。ざまあみろ。これはそのうちノルマは無くなるかもしれないな。

 そうして希望的なのかどうかは微妙な観測が(実はそれが蜃気楼のようなものだということには気付きながらも目を瞑り)僕の中で竣工したその時、ズボンのポケットに入れたままにしていたスマートフォンが震えた。丁度うがいを終えたところであったから、タオルで手を拭いて、すぐに着信の相手を確かめることが出来た。いつもは部屋の荷物やどこかにほっぽってしまっていて電話だろうとメールだろうと緊急地震速報だろうと気付かないような有様であるから、今回は幸運であったと言える。折り返しの電話のあの気まずさは何回しようと慣れられるような甘いものではないことを、僕は骨身に染みて理解しているつもりだ。

 画面に表示されている電話番号は僕の記憶にないものであった。そもそも既知の電話番号は大体登録してあるし、十一桁の数字が表示される時点で初遭遇であるのだが。

「もしもし、宍倉ですが」

 いたずら電話である可能性も頭をよぎったが、いたずら電話で無い可能性のほうが高いだろうと僕の脳は結論付けた。もしも急を要する話だったとしたら、故意に電話出なかった責任は簡単に取れるものではなくなってしまう。

「あー、もしもーし? えーと、宍倉君? 月摘だけどー?」

 急用という線と僅かながらに僕の中で残っていたいたずら電話だという線は、耳へ飛び込んできた底抜けに明るい大声で消えた。しかし大きすぎるために肝心の内容は良く聞き取れなかった。なにやらガヤガヤという喧騒もするし、マイクだの回線だのスピーカーだのは、そうした雑音を十分にカットしてはくれない。まったく、これだから携帯電話というのは中途半端な代物だと言わざるを得ないのだ。電話機能以外に力を入れすぎて主機能が退化しているじゃあないか。昔の、例えば公衆電話などは、もっと聞こえが良かったような気がするぞ。

「え、誰ですか?」

「月摘だって! 一緒に部活を巡った仲でしょー!」

「え?」

 駄目である。聞こえない。これではキリがないがこちらからではどうしようもない。

と思っていたら、なにやらドアを開閉する音がして、すると雑音が大分小さくなって、電話の向こうの声が良く聞こえるようになった。

「あー、聞こえる? 月摘だけど?」

 月摘だって? なぜ電話番号を知っているのだ。いや、番号はどうにかして入手できるとしても、どうして僕に電話をするような話があるのだ? 学校では全く喋らなかったではないか。

「聞こえる聞こえる。ようく聞こえる。で、何か用があるので?」

「何? なんか怒ってる?」

 何を言っているのだ。怒る理由が無い。

「怒ってないよ。その必要が無い」

「やっぱり怒ってるよ、宍倉君。深呼吸深呼吸。そういう時は深く息を吸って吐いて落ち着くんだよ」

「怒ってないと言うに」

「怒ってるってば」

 お節介なのだか心配性なのだか、月摘がしつこいものだから、実は僕は怒っているのではないかと自分を疑ったほうが良いような気がしてきた。そのために僕は数秒内観を試してみたのだけれど、沸々と何かが沸き立つようでもそうでないようでもあり、僕の心は、暗室の隅に潜む、糸屑の絡んだ埃玉のような杳たる様子であった。まあ要するに、怒ってはいないということである。

「いいや、月摘、どうも僕は怒っていないぞ。本人が言うのだから間違いない。これが嘘だという可能性もあることは承知しているけれど、そこは月摘、信じてくれたっていいじゃないか。というか、本題に入ってくれよ。僕だって時間が無限にあるわけではないんだよ。いや、もちろん時間が無限にある人なんていないのだけれどさ?」

 説明ついでに話の進展を促す。でないと、あの月摘の性格からして、このまま意味の無い話に振り回されてしまうような予感がしたのだ。喜ばしいことに、月摘は僕の誘導に乗ってくれた。

「うん、ああ、そうだね、用があって電話したのはもちろんのことで、そう、一つお願いがあるのだけど」

「内容によるけれど、ともかく具体的に教えて」

「えっと、あのね?」

「何だよ」

 どうも歯切れが悪い。まあ仕方の無いことだろう。人にお願いをするというのはなかなか気の引けることである。あの月摘と言えどそういう遠慮があるのだと思うと、少し安心できた。――しかしこの事実は、あの強引な部活見学(事実上の拉致)とは矛盾するように思える。

 すると、電話の向こう、少し距離を挟んでいるのか、無線機越しのような声で、誰かが月摘に何か話しているのが聞こえた。それが女子の声だということは容易に想像できるが、僕の知っている人物の声ではないようだった。よく聞こえないので断言は出来ない、ということは一応言っておく。

 そしてその声が止んで、数秒の後、

「ねえ、これから時間空いてる?」

 と妙に固い声がした。

 玄関で見た参考書を思い出す。あの薄さなら一時間もあれば終わるだろう。

「空いてるといえば空いてる、というくらいには空いてるけど」

「ならさ、」

 ザーザーとマイクに息を吹きかける音がした。息が荒いのか風が強いのかは、電話の向こうの状況であるから判りかねるが。

「これから一緒にどこか行かない?」

 子供がはしゃいでいるような声のトーンであった。

「え? 今から?」

 戸惑った、というのがまずの状態であった。そんなどうでも良いような事で電話してきたというのか。

「行く、って言うけど、どこに? 誰と? 何のために? どうして僕を誘うの? 大体突然過ぎない? もうちょっと前もって連絡するのが常識じゃない?」

「はあ? やっぱり怒ってんじゃん、宍倉君、嫌なら嫌って言っていいんだよ?」

 途端に月摘の声は半オクターブほど低くなった(ように感じられた)。月摘の指摘通り、怒りがゆっくりと込み上げてきているのが自分でも分かった。イラつきと言ったほうが近いかもしれない。そして月摘の返事のトーンから推察するに、僕のイライラが、月摘にも飛び火したらしい。早過ぎだろうとも思うが、月摘のような体育会系の人間は怒りっぽいというイメージが僕にはあるし、特におかしさのようなものは感じなかった。

 ただ、こうして感情が高ぶりながらも冷静に状況を分析できてしまうあたり、小学校での修行が活きてしまっているという事なのだ。そう思うと、もともとの原因が不明瞭なイラつきだったこともあるのだろう、僕の興奮は瞬く間に鎮火されて、全く平坦になった。このあたり、僕も案外熱しやすく冷めやすい、体育会系の気があるのかもしれない。まあ、あの姉と同じ親から生まれているのだから、納得できる話ではある。

「ちょっと? 宍倉君、黙ってないで何か言ってくれない?」

 僕が考え事をしている間もずっと何やら喋っていたらしい月摘が、抗議の声を荒げた。

「行くよ」

 こうするのが一番簡単な方法だろう。月摘の事だからこのままグチグチと言い続ける事は無いだろうが、明日からの学校が怖い。梅野に追われ、月摘に借りがある(ような)状況を平和に乗り越える自信は無かった。

「え? 何て?」

 言葉を紡ぐのに必死でどうやら聞こえなかったらしい。

「だから、行くってば。どこで落ち合うのか教えて」

 かくして僕は、近所の公園で月摘と会う事になったのである。

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