第一部「風船」/第八話

   第八に。


 翌日の放課後、僕は前日の目的を果たすべく、再度、いじめ撲滅委員会の部室である、進路相談室に向かった。月摘るつみも誘おうかと思ったのだが、噂好きのクラスメイト達が目をぎらつかせている教室で彼女に話しかけるのは自殺行為だと思い、止めておいた。そのため、今日は月摘と一回も会話していない。彼女から話し掛けてくることも無かった。目が合うことは何度もあったのだが、その度に彼女は素早く顔ごと僕から逸らしてあらぬ方向を向いた。そんなことが何度も続くものだから、最後には目が合っても僕から逸らした。不貞腐れていたことを否定はしない。彼女が僕を避けた理由が何であれ――おそらくイジ撲入部の件ですっかり変人扱いされてしまっている僕に堂々と声を掛けるのは気が引けたのだろうし、同様の理由で目も逸らしたのだろうが――それは彼女の自由で、僕がどうのこうのと言う話ではない。それに、じゃあ僕は彼女と会話したいのか、というと、少し疑問であった。会話したいような気はするが、その理由が全く分からない。はっきりした原因や動機のない行動は危険である。だからむしろ会話せずに良かったのかもしれない。

 月摘とはそんな調子だったものの、しかし他の人間とは良く話した日だった。原因はもちろん、前日の僕の宣言である。どうやらクラスメイト達は僕に興味を持ったらしい。ただそれは向けられて気持ちのいい好奇心ではなかった。得体の知れないものや、理解できないもの、そう、オカルトに向けるべきような興味を、そのまま僕に向けるものだから、いや、彼らからしたらイジ撲に入部するという僕はUMAと同列なのかもしれないけれど、ともかく僕は彼らがおぞましくて仕方なかった。そしてその筆頭が梅野である。彼は僕と親しい仲だとか何だとか吹聴して(僕は梅野とは親しくない、とはっきり言ったのだが、クラスメイトの殆どとまだ話したことが無いというこの状況下では、相対的に、梅野は僕と親しい、と思われてしまった)、マスコミ気取りの集団のボス的な存在になってしまった。それで、好奇心の奴隷と成り果てた彼らを束ねて、制御して、僕が被る被害を少しでも減らそうとしてくれた、というならすぐにでも僕は彼を親友と認めるのだけれど、阿呆の彼は、そんなことはしてくれない。梅野は僕についてあることないことを出任せに言って、さらに一日中僕に張り付いてイジ撲入部について訊いてきた。トイレにまでついてくるのだから気色悪い。僕にはそういう趣味はないと説明しても無駄であった。まあそりゃあそうである。彼の僕に対する一連の執着は愛とかそういうものではないのだから。

 そんなことが今日はあったものだから、精神的にも肉体的にも疲れてしまって、イジ撲へ行くのは明日に延期しようかと思ったのだけれど、たった一日延期したところで彼らの追及が止むとは思えないし、運良く彼らを撒くことに成功したものだから(僕が必死になって逃げなければ、梅野率いる記者軍団は放課後までも僕を束縛する勢いだった)、こうして進路相談室の前に来たというわけである。

 部屋の中から、書類を繰る音や、パソコンのキーボードをカタカタと叩く音が規則的に聞こえた。良かった。ポスター作りだか何だか知らないが、今日は活動中のようである。

「失礼します」

 僕はガラガラと扉を横にひいて、隙間から部屋の中を覗いた。授業に用いる教室のちょうど半分くらいの大きさの空間の、その中央に、折りたたみのできる簡易な長机が二つ、その長辺を合わせた状態で置かれていて、長辺にパイプ椅子が二脚ずつ、合計四脚ある。そしてその中のひとつ、僕の位置から一番遠い椅子に、イジ撲の先輩と思わしき、色白の女生徒が座っていた。ベリーショートの黒髪が良く似合っている彼女は、一センチほどの厚さの書類の束を横目で見ながら、小型のノートパソコンに片手で(規則的にキーを叩いているけれど、ホームポジションを習得しているわけではないらしい)、文章を入力していた。ポスター作りとか、そういうクリエイティブな作業ではなかった。見たまま事務作業である。なんて地味な活動だろうか。委員会というくらいだから、その他の部活動と一線を画しているのは明白だったが、まさか本当に活動が委員会的だとは思っていなかったので、僕は落胆すると同時に、少し嫌気が差してしまった。単純作業は勉強と読書だけで十分である。僕はもっと刺激的な活動を想像していたから、昨日抱いていたワクワク感は全く見当違いであったわけで、すっかりまるごと霧消してしまっていた。勿論、彼女のしているこの作業が唯一の活動ということはあり得ないし、他の活動内容が僕の空腹を十分に満たすものという可能性はきっちり残されているのだが、それでも普通の部活動はこんな事務作業は活動内容に無いし(それは昨日月摘と部活を回ったときに判明している)、僕のやる気を削ぐには十二分な事実であった。

 けれども、これが姉からの依頼であることを自分に言い聞かせ、僕はなんとかやる気を奮い起こした。とはいっても洗濯機で脱水したタオルを必死に絞るようなもので、そこから得られた水滴はごく僅かなのだが。

「あの、仮入部というか、見学したいんですけど」

 その僅かなやる気で僕は言う。だから自然と声は小さくなってしまった。音量的にはキーボードのカチャカチャ音より小さかったかもしれない。それだから彼女は僕に気付く様子は無く、淡々と黙々と作業を続けている。見れば見るほどロボットなのではないかと思うくらいに規則的だ。それほどに彼女は集中しているようだった。単調な事務作業のどの部分が彼女をそんなに没頭させるのか、僕には全く理解できなかったけれども、このままでは二進も三進も行かないような予感がしたので、僕は声を張り上げて再度言った。

「いじめ撲滅委員会を見学させていただきたいのですが!」

 思ったよりも大きな声が出て自分でもびっくりしてしまったが、彼女はそれまでの動作の一部であるかのように、パソコンをいじる手は全くぶれず、自然に、滑らかに僕の方を一瞥して、それからまた目線をディスプレイに戻した。一連の動作が、全く無感動であった。彼女はそこに少しの感情の片鱗も見せなかったのである。僕は半ば確信した。やはり彼女はロボットである。

「どうぞ入ってください」

 機械的に合成されたかのような声であった。いや今時、合成音声のほうがもっと情緒的に喋るかもしれない。ともかく部屋の主たる彼女に入室を許されたので、僕は部屋に足を踏み入れて、扉を閉めて、それから彼女の対面に座った。近くで見ると、彼女が美人に分類される類の人間(機械)であることに気付いた。髪はベリーショートであるにも拘らず、その漆黒とつやに艶かしさを秘めているし、肌に至っては滑らか且つ透き通るような白さで、僕はそこから葛餅を連想した(このあたりに僕の芸術センスの無さが良く現れているのは自分でも分かっているし、悲しくなるが、実際に葛餅を連想してしまったのだからしょうがない)。いいや――やっぱり葛餅ではなくて、雪景色を連想したことにしよう。そうすれば、短髪の黒は松、薄い唇の赤は、山茶花だ。盛り上がった頬や、すらりとしてある鼻は、雪を被った山々である。ほうら、好い感じの冬景色になった――今は春だが。しかしこれで、僕の芸術センスは一般的な中学生の平均をキープしたことになるだろう。安心である。

「ええと――他に部員はいないのですか」

 僕は下らない事を考えていた自分に気付き、それをかき消して、とりあえず訊いた。ここで何か話さねば、ひたすらここに座って時間が過ぎるのを待つのみになりそうな、そんな予感がしたからである。時間を持て余してしまったらまたも同じように下らない事を考えてしまうかもしれない。昨日、僕は暇な時間を作らないように計算して動くことに挑戦してみようという気になったではないか。今こそそれを実践するときであった。それに、姉の言っていた後輩というのが一体誰であるのか、早く確認しておきたかったというのもある。

「部員は私だけよ」

 ロボットの彼女は平坦にそう言った。相変わらず作業の調子は不変である。けれども僕の方はそうはいかない。思わず奇声を発してしまいそうになったくらいである。初対面で緊張しているということもあって、声を漏らさずに済んだが、危ないところであった。彼女の言葉の通りなら、彼女こそが姉の言っていた、僕に支えてほしい後輩、なのである。そんな彼女におかしな印象を与えてはいけない。姉からの依頼を遂行する上で確実に支障をきたす。だから緊張していたというのは幸運だった。幸運だったけれども――しかしそれに比べて彼女の言葉が示した事実というのは不幸すぎた。そりゃあ梅野が止めるわけである。部員が一人というのは酷い。いや普通の部活なら、特に文化部なら(吹奏楽部など団体系の部活は除くが)、部員が一人とか、少数でも構わない。むしろそのくらいの方が活動しやすい。けれどもこのイジ撲については話が別である。何しろ活動がその名の通りいじめ撲滅なのである。いじめ撲滅がどのくらいの激務なのか――僕は正確に想像できない。披瀝してしまえば、大人がどれだけ知恵を絞っても無くならないのがいじめなのだから、そもそも子供がどうにかしようというのが違っているのではないか、などと思っていたのだけれど、そんな根本の部分をつついたところで何か変わるわけでもなし、姉からの依頼に集中しようと、その疑問は頭の隅に捨て置いていた。或いは、到底部員一人では出来ない活動であるのは自明であるし、委員会、と曲がりなりにも銘打っているのだから、部員が少なくとも二十人くらいはいるのだろう、なんて自分を誤魔化していた。それが馬鹿だったようである。うすうす感付いてはいたのだ。いじめ撲滅、なんて、正義感丸出し、というか面倒臭さ丸出しの部活動に、誰が好き好んで入るだろうか。中にはそういう慈善活動的なものが好きで、是非ともやってみたい、という人が(僕の姉のように)いないとは言わないが、それでもそんな変人(そう、姉に直接このことを言ったことは無いけれど、僕に言わせれば自分から進んで面倒を請け負う人間は変人以外の何者でもない)が多くいるはずはない。多くいたらそれはもはや変人ではなくなってしまう。ああ――しかし今回ばかりはこう思う。現実のなんと残酷なことか。理屈通りの現実に、僕はこれからのことを思って、すっかり気が滅入ってしまった。必然的に、姉からの依頼の達成条件は、『姉の後輩の面倒を見る』から『姉の後輩といじめ撲滅委員会の面倒を見る』になったわけである。難易度も手間も、大いにグレードアップしてしまった。いくら姉に大きな借りがあるからって、これはちょっと姉に相談せねばなるまい――話と実際は全く違うぞ、と。

 そんなことを考えて、如何に姉を説得し、依頼を簡略化するか、或いは追加の報酬を貰うか、そういう方向へと思考を移そうとしたその時、部屋に規則的に響いていたキーを叩く音が突然止んだ。僕は心の中を目の前の先輩に覗かれたような気がして、反射的に彼女の目を見つめてしまった。けれども彼女の目線はパソコンに向いたままで、僕の方向を見ていたりはしていなかった。

「そう」

 瞬きをしつつ、彼女は思いついたように言った。

「名前を聞いておきましょう」

「名前――ですか」

 拍子抜けして、思わず彼女の両目を(見つめるどころではなく)覗きこんでしまった。彼女の一連の動作には、何か重大なことを言うのではないか――という予感をひしひしと感じさせる重力のようなものがあったのに、発されたものが単なる誰何とは、肩透かしもいいところだった。どうも彼女のペースは掴めない。ロボットのように規則正しいのにペースが掴めないとはおかしな話のようだが、それだけ人間と人間の会話というのは不規則で、では何がそのペースというものを作り出しているのか、といえば、きっとそれは阿吽の呼吸、という奴で、すなわちそれは経験則なのだろうと思う。つまり、彼女は僕の今まで経験したことのない、独特の会話のペースを持っているのだ。即ち、ロボットのようなペースである。

 僕は彼女の目から目線を外した。

「俺の名前は、宍倉ししくら輪善りんぜんです」

 彼女に引き摺られて、僕の返答も形式ばったものになってしまった。外国人学習者用の日本語の教科書に載っていそうな一文である。マイネームイズ○○、と、小学校の頃の教科書には書いてあったのだから。

 すると先輩は、そこで初めてパソコンから目線を外して、僕の顔を見た。くすんだガラス玉のような双眸であった。

「宍倉――、その苗字、もしかして、お姉さんがいたりする?」

 先輩の口調が、少し揺れたような気がした。

 僕は少し得意になって答えた。

「いますよ。廻良かいら、という俺の姉が、去年までこのイジ撲に所属していたはずです」

「廻良先輩!」

 その刹那、先輩は勢い良く椅子から跳び上がった――のだとあまりに突然のことだったから、すぐには分からなかったけれども、しかし分からないながらに、そう予測した。先輩の脚に引っかかったのだろうパイプ椅子が、後方へ乱暴に転がって、大きく音が響く。ノートパソコンと書類の置かれた長机も、先輩の膝が当たったのか震動のせいか、見れば数センチ動いていた。一瞬の出来事だったけれどもびっくり箱の仕掛けを想起させるものだったから、僕も仰天して思わず仰け反ってしまったが、声は出なかった。声を出す暇も無い、瞬間だったのだ。

「ええと――?」

 先に声を発したのは僕だった。先輩はと言えば跳び上がったそのままの恰好で静止している。すらりと伸びた長い足は踝まで覆う制服のスカートに健康的な形を浮かべ、竹のように後方に撓った健康的な上体は、微かに膨らんだ胸を奥ゆかしく魅せていた。芸術的とも言える先輩のポーズは、しかし、強烈な違和感を僕に覚えさせた。僕が呟いたのはそのためである。僕は直前の出来事と、彼女に発見した異常に、すっかり呆気にとられてしまっていたから、何事も無ければ僕の脳味噌はほとんど動かない状態で、発声なんてなかなか出来ないはずだったのだけれど、先輩の歪な姿が僕を強迫的に動機付けた。それは勿論、ロボットのようであった先輩がなぜ僕の姉の名に過敏に反応したのか、という問題よりも優先すべきものであった。

「腕が――無いですね」

 我ながら間抜けな事実確認である。そこにそう見えているのだから、よほどのことが無い限り、それは事実である。確認するまでも無い。けれども、今にして思えば僕は混乱していたのだ。生まれて初めて見た、欠損であった。あるべきものが、無い。彼女の右肩から生えているべき腕が、無い。制服の右袖が、だらしなく遊んでいた。そこだけ空間が歪んでいるようにさえ見えた。気付いてしまえば、なぜ今まで気付かなかったのかが不思議であった。おそらくノートパソコンの陰に隠れて見えなかったのだろうと予想するが、しかしその仮説は直ちに否定される。彼女が片手でノートパソコンを操作していることは、しっかりと認知していた。ただ、それなのに、僕は彼女が右腕を有していないという事実に気が付かなかったのである。或いは気付こうとしなかったのか。いや、それは無いと思いたい。きっと予想だにしない事実であったから、それが見えなかったのである。認知的な問題だ――とりあえず僕はそう結論付けた。それから、もう一度彼女の健常と欠損の境界を観察した。とは言っても、肝心のその部分は制服の袖に覆われてしまっているから、観察といっても中途半端なものに終わらざるを得ないのだが、僕は非常に興味を惹かれていた。自分でも驚くほどであった。

「事故か何かですか?」

 僕は興味の赴くままに訊いた。

 彼女は答えない。

 僕は彼女の顔へと視線を移した。先輩は、じっと僕の方、いや僕の後方を見つめていた。何かを考えているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。身体はといえば、やはり彫刻のように少しも動いていない。システムをシャットダウンしたのだろうか。

「答えて下さい、気になるんです。このままでは今夜もその先もずっと眠れません。僕を不眠症で殺す気ですか。そうしたら殺人ですよ。いいや、きっと殺人だってきちんと証明しながらにして死んでやります。どうしますか、それで少年院行きというのはあまりにも馬鹿らしくありませんか。そんなことはあり得ないというのなら、なるほど現実的でないということについては一理あると思いますので、では、先輩、答えないと大変なことになりますよ」

 僕は矢継ぎ早に催促した。催促したというか、ただ乱暴なことを適当に言っていただけのような気もするが、それは僕が興味という欲求に身を任せてしまっていることに起因する現象で、つまり僕の思考は正常に機能していない。ブーストとは全く逆の状態だ。混乱しているとも言う。混乱しているから欲求に任せるしかなくなっているのだ。思えばここのところ驚かされてばかりいるし、脳と心が疲れてしまっているのかもしれなかった。混乱ついでに思考がぴょんと跳んで、自分の今のこの口調が、姉のそれに似ていることを何となく思った。もしかしたら姉はいつも欲求に任せて口を利いているのかもしれない。

「ごめんなさい、取り乱してしまって。あまりに驚いたものだから」

 僕の言葉の効果かどうかは不明だが、先輩は不動の状態から姿勢を直して、言った。平坦なあの口調である。

「まさか、廻良先輩の弟さんが入部してくれるなんて夢にも思わなかったから」

 先輩は転がっていたパイプ椅子を拾って、元の位置へと戻す。

「それは良いんですけど、腕について教えて下さい、気になるんです」

「ふはは」

 僕が急かすと、先輩は目を細めて、大きく開けた口から人間らしい笑い声を漏らした。合成音声のようなものでは全く無い、まさに肉声であった。

「似てる。やっぱり廻良先輩の弟さんね。先輩も初めて会ったとき、私の半端に生えた右腕をしつこく撫ぜてきた。先輩は物理的に、あなたは言葉で間接的に」

 そう言いながら、彼女は椅子に座って、ずれた長机を直した。片手であるにも拘らず、それは元の位置にぴったりと戻された。

 僕はなんだか彼女の術中に嵌ったような、そんな感覚に囚われた。僕の脳がまだ正常でないからかもしれない。

「右腕は、生まれつきこうなのです」

 先輩の口調は、平坦な状態に戻っていた。

「生まれつき? 先天性横軸形成障害ってことですか?」

 思い当たる病名が口を衝いて出てきた。もう身体も自分では制御できなかった。

「知らない」

 僕の身体から力が抜けた。そこで初めて自分の身体がそれまで強張っていたことに気付いた。

「――けれど、そもそも障害でないのだから、きっと宍倉君が言ったものではないでしょうね」

「障害でない?」

 僕は自然と身を乗り出した――もちろん自分の意思ではない。脱力したり何だりと忙しい身体である。

 先輩は僕の言葉に小首を傾げて(やはり機械仕掛けのように正確に、十五度ほど右に頭を傾けた)、

「だって、私としては別に生活に支障をきたしているわけではないし」

 と、尤もらしく言った。そう聞こえるのは彼女がロボットのように言うからに違いない。言葉の中身はそうでないのだから。

「そんなわけないじゃないですか。だってあるべきものが無いんですから。ダーウィンの進化論に従えば、現在地球上においてもっとも高等であろう我々人間に無駄な器官など無いんですから、それが無いのであれば、やっぱり支障をきたしているでしょう」

 だから僕は追及した。

「――じゃあ、あなたには、第三の目が無いわね?」

「え?」

 しかし彼女の答えはまたもよく分からない。しかも今度は尤もらしくにさえ、聞こえなかった。

「第三の目って、ゲームやアニメじゃないんですから。ふざけないで下さい」

「いいえ、第三の目を持っているのは何もフィクションのキャラクターだけではなくて、神様だって持っているでしょう。ヒンドゥー教のシヴァ神とか」

「神様だってフィクションですよね」

「そんな初歩的な部分を訊くの? じゃあ、神の存在を架空だって証明できる?」

「出来ますよそりゃ――」

 そう言いかけて、途切れる。僕はここで漸く欲求の衝動から解放された。図らずしてであろうけれど、先輩が僕に思考を強いたことが、僕の欲求にイニシアチブを僕の思考へと譲らせたのだ。僕は背筋を真っ直ぐ伸ばして、ひとつ、大きく息を吸った。

「――出来ないですね。フィクションのように、作者が明らかでかつ作者自身が架空であることを認めているような場合ではそれを架空だということを証明することは可能――というか証明するまでもないですけれど、神話については作者は不明だし、というかおそらく自然発生的なものであろうし、また世界のあらゆる現象を説明するのに、神の存在は矛盾するどころかむしろ都合がいい。『神は死んだ』とニーチェは言ったけれど、僕に言わせれば、『死んだ』と言えることこそがむしろ神の存在を仮定し得る十分な根拠になり得る――というのは言い過ぎですかね」

「いいえ」

 僕の熱弁に、先輩は一見冷めた風に首を横に振った。勿論、彼女はきっと冷めてなどなくて、また、首振りが示すのは否定でなく同意だろう。

「ニーチェがそもそも思想家なのだから、あなたがどんな思想を持とうとそれが過剰だとか傾倒しているとか、そんなことは単純な評価としては言えないわ。言おうとすれば、それはどうしても批判になってしまう。けれど批判をするということは、批判をする側にも何らかの思想があるということだし――」

 先輩の声はロボットのままである。僕の高揚した声調に、その声は奇妙なコントラストで部屋の中を滑っていた。しかしその内容は僕の耳に、そして脳味噌に、まったく自然に流れてくる。その噛み合っていないおかしな感じが、僕には小気味良かった。

 僕は、サイボーグになったような心地がしていた。

「ええ、しかし、話を戻せば、フィクションとは言い切れない、つまり実際に存在することが十分に仮定し得る存在である神様が、第三の目を有している、ということは事実として理解できましたが、それが、先輩が障害者でないという根拠というか基盤に、どうしてなるのですか」

「前提として、神が人より高等な生物である、という、宗教家には怒られてしまいそうなものを置いて考えると、というのはそうでもしなければ進化論を適用できないからそうするのだけれど、でもそうして考えると、神こそ健常で、人は皆障害者ということになるでしょう? 生物として当然あるべきものが、つまりこの場合においては第三の目が、無いのだから」

「冒涜的ですね」

 僕は、そうは言ったが、しかし先輩の言いたいことは理解できたような気がした。彼女の比喩は、正直随分と無理があるような気がするけれど、なるほど、神様を引き合いに出したのは皮肉ということだろうか。

「つまり、先輩が言いたいのは、あくまで障害だの何だのというのは相対的な評価であって、『あるべきもの』というのがそもそもおかしいという事ですね。人は生まれながらにそれが完全な身体で、そこにアイデンティティが宿ると」

「大体、そんなところ。もちろん先天的な『障害』に限るけれど。それにアイデンティティまで言及できるかどうかは微妙なところ」

 僕が言うと、先輩は人間らしく声を上げて笑って、それから無機質に、

「そう、そういうこと。もちろんヒンドゥー教はその限りではないけれど」

 と加えた。

「そうですね」

 僕が同意すると、彼女の頬のあたりの筋肉が、だんだんと力を失って、そこに宿っていた表情が褪せていく。そしてすっかり無表情になってしまった。

 スイッチが切れたようであった。

 と、そこへ、ガラガラと扉を開けて何者かが進路指導室に進入してきた。ちょうど会話が途切れたところだったから、そのタイミングの良さに感謝した。話の途中にこられてあの楽しかった会話を遮られても困るし、このまま次の会話へと発展せず、殆ど永遠のような時間を沈黙に溺れても困る。僕はもともと人との会話は苦手だし、特に女子、さらに年上となるともうどうしようもないというのが正直な僕の能力の限界なので、先輩とここまで会話できたというのは奇跡に限りなく近い出来事なのだった。それが単なる偶然の産物だったのか、それとも先輩が変人だからなのか(注釈するまでもないかもしれないが、ロボット先輩は僕の中でこの時既にしっかり変人認定されている。この短時間で不名誉な称号を僕の中でではあるが得てしまった彼女には申し訳ない気持ちが無いわけではないが、人間第一印象が大事だと聞くしこれも仕方のないことだと彼女には諦めてもらいたい)、或いは昨日の月摘とのことを思えば僕が変わってきているのか、ともかくこれが歓迎したいことなのは強く自覚するところだったので、なんだか嬉しくなってしまう。この調子なら僕に彼女が出来るのもそんなに遠い日のことではないかもしれない。そうすれば僕に有り余っている時間は自動的に解消されるだろう。それもあらゆる大人が人生最大の娯楽快楽と言う思春期の恋愛によって。なんて健全だろうか。無趣味の僕が一転、誰もがうらやむリア充ライフを送ることにもなりかねない。素敵である。

 そんな妄想(具体的な内容までは思い浮かべていないものの、奇跡レベルだと自覚している現象から都合の良い未来を予測して幸せな気分に浸るのは十分妄想の範疇だろう)を思わずニヤニヤしながらしていたのだが、しかし僕は重要なことを忘れていた。それは、平常時進路指導室として使われているこの教室が、放課後この時間に限って、学校一(いろいろな意味で)恐れられているいじめ撲滅委員会の部室であるということだ。そしてその教室に入ってくる人間というのは、ロボ先輩の証言を信じて考えれば入部希望の一年生しかいないのだ。しかも、僕のように特殊な事情がきっと無いのに、このおかしな部活に入部したいと思うような人――。

 すなわち、堂々と部室に入ってきた何者かというのは、

「仕事をして下さい!」

 とか初対面で叫んでしまうような変人だということだ。

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