第一部「風船」/第七話

   第七に。


 今にして思えば、とんでもない急展開だったと思うけれど、そして強引過ぎる出会いだったと思うけれど、とにもかくにも僕はそれから、月摘るつみと部活見学をして回ったのだ。彼女の容姿から、てっきり運動部ばかり回るものだと思って内心うんざりというか、はらはらしていたのだけれど、彼女は手当たり次第に部活へ突っ込んで行ったので、文化部も相当回った。というか、イジ撲以外全部回ったのではないだろうか。あ、いいや、野球部だけは回っていない。女子は野球部に入れないというのもあるが(その代わりにソフトボール部があるのだ)、それ以上に僕が懇願したのだ。本来なら前者の理由だけで、月摘が野球部見学に行かない十分な理由になり得るのだが、そして実際に月摘は野球部には行かないつもりだったのだが、廊下に運悪く貼ってあった野球部勧誘の張り紙の『マネージャーも募集!(可愛い子希望)』の文字に、月摘はなぜか妙なやる気を出してしまって、それで野球部へいざ、という方向になったのだ。僕も月摘の希望を聞いたそのときは、別にいいかな、なんて暢気に思っていたのだけれど、ふと、野球部には梅野がいることを思い出して、考えた。さて、梅野に今の状況を見られたらどうなるか。火を見るより明らかである。自分の誘いを断って、女子と二人で部活見学なんて、格好の餌食ではないか。翌日には学校中に、僕と月摘が付き合ってる、みたいな噂が蔓延していること請合いである。そんな事態は是が非でも回避せねばならない。僕のためにも月摘のためにも。そんなわけで、我ながら何ともみっともないというか情けないというか、月摘に縋って頼んだのである。文字通りに引っ付いて。月摘は「きゃー、馬鹿、スカート、このやろ、おい、スカートがずれ落ちるか破れるかするぞ、死ね、マジで、宍倉くん、いや、まだ早いって、ほんとほんと」とかなんとか喚いていたけれど、そんなものは無視して(一言一句覚えている時点で無視しきれていなかったことは明らかだけれども、少なくともそういうつもりだったのだ、それにしても女子の喚きというのは耳に刺さるものだなあ)、ともかく無我夢中で、野球部だけは思いとどまってくれ、僕にも君にもどうしても都合の悪いことがあるんだ、いや、君には何が都合の悪いことなのか見当も付かないだろうけれど、実現してしまったら相当に苦しい思いをするだろうことは確実だ、と断言できてしまうくらいに都合の悪いことがきっと起こるから、どうにか野球部だけは諦めてくれ、それに君はマネージャーなんかで満足するような人間には見えない、どう見てもプレイヤー向きだ、主役向きだ、僕を引きずって学校中を回れるほどの運動能力があるのだから、是非ともそれを生かすべきだ、だからつまり野球部には入るべきではないのだ、そして入らない部活動をわざわざ見学する必要はあるまい、むしろ見学してはなるまい、時間の無駄だし、野球部の人たちに迷惑だ、そんな行為は冷やかしに過ぎないのだから――云々、と、ひたすら説得、というか一方的にわちゃわちゃ言って、行きたくない、という意志を全力で発信する、なんて目的はすっかり忘れてしまっていたけれど、ひたすらに駄々をこねたのだ。すると僕のひたむきな言葉、或いは態度に気持ちが動いてくれたらしく(いいや、きっと面倒に思ったのだろう)、月摘は野球部の見学を止めてくれたのだった。やあ、ありがとう、と僕は述べて、それから、何故僕がここまで必死になるのかその訳を訊かないのか、と尋ねた。すると彼女は、照れたように笑って、

「面倒だからいい」

 と言ったのだった。彼女のこういうところに、僕は好感が持てた。僕がイジ撲に入ろうというその理由を訊いてこないのもそうだが、彼女はこの年代の少女にしては珍しく、遠慮があった。噂好きの女子は、関係の無いことまで根掘り葉掘り訊いてくるものだが(その上それを多分にアレンジして流すというのだから性質たちが悪い)、彼女はその点、さばさばしていた。自覚的に、人の領域に侵入することを避けているようであった。その動機が彼女の言葉通り、面倒だからなのかどうかは判断しかねるが、これは随分平和的だと言える。戦争というのは二つの立場が干渉しあうから勃発するのだ。ちょうどプレートが引き摺りあって、そこに生まれた歪みが撥ねるのと同じだ。最初から触れ合わねば、歪みなど生まれようが無いのだ。小学校時代の女子には月摘のようなタイプはいなかった。おそらく体育会系の人間が一人もいなかったからだろう。文化系の人間はいけない。僕も含めてそうだが、大体が菌類のようなジメジメした奴らである。性格がジメジメしているというのではない。文化系の人間は、失った野生的な部分を知識やら何やら、ともかく理屈に求めるから、思考ばっかりが渦巻いて、脳味噌の隙間に、知識やら思想やらを思考が喰らったその残滓が、泥のようにこびりつくのだ。従って彼らの言葉に純粋さは無い。濁った言葉ばかりが吐瀉される。それが仮にポジティブなものに聞こえたとしても、それは単に受け手が濁りを濁りとして聞かなかっただけである。思考が餌を欲するから、知識として価値の無い情報まで蓄えようとする。即ち、根掘り葉掘り訊く。するとますます思考は悪食になって、泥がどんどん溜まる。さばさばさの欠片もない。或いは、こんな奴も小学校時代にいたかもしれないが、本当は体育会系なのに文化系を押し付けられている人間はもっといけない。やりたくも無い勉強を押し込まれている人間は、自分の中ですら摩擦が生じ、歪みを孕んでいる。そういう奴らは根が暗い。見た限りでは明るくとも、だ。腹黒い、と言ったほうが良いか。本来発散されるはずのエネルギーが、身体の中に淀み溜まって、腹を、脳味噌を、精神を、黒く染める。そうして病んでいく。有り余るアグレッシブなエネルギーが、悪口やら噂やら、そういう形で洩れる。欲求が本来の形を歪めて具現されるのであるから、発散は決してされない。こういう連中がさばさば出来るはずがない。どろどろに腐っていくのが関の山だ。

 そう考えると、もしかしたら彼女のように健康的に欲求を叶えている体育会系、という、殆ど唯一さばさばできる女子っていうのは、相当に珍しいのではないか、という気がしてきた。するとますます僕の彼女に対する評価は高くなった。出会って数時間ではあるが、僕は彼女に殆ど尊敬のような感情を抱いていた。そして、この時は気付かなかったが、僕が尊敬した他人というのは、彼女が初めてだったのである。

「ありがとう」

 僕は、気付けば再度お礼を述べていた。何について礼を述べたのかについては、心当たりが多すぎて、ここに列挙する気は無い。

 さて、この日の主なイベントはそれで全て終了した。月摘のハードな連れ回しにすっかりへとへとになってしまった僕は、生徒玄関で月摘に別れの挨拶をして、それから自転車でゆっくりと帰宅することにした(本当はすぐにでも帰って布団に潜り込みたい気分であったが、ペダルを速く漕ごうにも、すっかり棒になってしまっていた僕の脚は、言うことを聞いてくれなかったのである)。月摘に一緒に帰りたいと言われたが、残念なことに家の位置が学校を挟んで正反対だったから、その話は叶わなかった。

 僕は他の人と一緒にいようがいろいろ考えてしまうような性質だから、一人ならなおさらで、午後四時の畦道を進みながら、つい先ほどの出来事を思い返していた。裸の田の土の色や、その脇に茂る草々、そこにチラチラと見える色とりどりの花、温く甘い風、柔らかい日差し、鳥のさえずり、そういった外界からの刺激の全てが、僕の外界への意識をぼんやりとさせ、その分意識や思考のベクトルを、内面へと向けさせる。心地良い。月摘との会話が、頭の中で鮮明に再生された。――しかし不思議な人であった。こんなにも自然体で会話できた人は初めてであった。僕は家族以外の他人と話す時、発言する前にその目的と内容をしっかり吟味する癖があるが、彼女は僕のその癖を、あっという間に取り除いてしまった。分かりやすく言えば、彼女は僕と部活を回った短い時間の間に、僕の他人に対する警戒心を解いてしまったのだ。つまり、これは、僕が彼女を、たった数時間で姉と同じくらいに親しい人間だと認識した、ということを意味する。これは全く不思議だが――しかしその仕組みを解明することは無意味のように思えた。これは科学ではない、人と人の心の話である。それを普遍的な法則などで説明してたまるか、と僕は思った。なんとなく、それは彼女を貶める行為のような気がしたのだ。

 明日も彼女に会える。そう思うと、僕の脚は妙に軽くなって、残り半分の帰路は、むしろいつもより速く自転車を漕げたのだった。

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