第一部「風船」/第六話

   第六に。


 そしてその姉の相談事、お願い事というのがいじめ撲滅委員会に関することだというのは、皆さんの想像の通りで、曰く、姉は去年まで(つまり卒業するまで)いじめ撲滅委員会の部長を務めていて(そんなことは全く知らなかった)、残した後輩のことが心配だから、僕にその子を支えて欲しい、延いてはそのためにいじめ撲滅委員会に入部して欲しい、とのこと。姉が後輩やら何やらを心配することは珍しくないが、実際に介入しようとするのは稀だ。しかも最も姉が信頼しているであろう僕に(自慢じゃあないけれど、実際にそうだろうと殆ど確信している)頼むというのは、もう既に、相当なことがその後輩に起きているのだろう。もちろん他に入りたい部活動があるならそっちを優先させていいし、無理をしてお願いを聞いてくれなくていい、と言われたけれど、姉には大きな借りがあるし、他に入りたい部活は無かったから、快諾とは行かなくとも、普通に受諾した。

 さて、そういう訳で最初は乗り気とは言えなかったこの依頼も、この学校では唯一面白そうなことらしいと気付いてから、なんだかワクワクしてしまって、柄にもなく鼻歌交じりにスキップしながら(人目が無かったのだから問題無いだろう)イジ撲の部室に向かったのだけれども、現実というのはそう簡単にトントン拍子で進んでくれず、進路指導室の扉は固く閉ざされていたのだった。正確にはガタガタと揺らすことは出来るから、固く、というのは適切ではないかもしれないが、安っぽかろうと鍵は鍵、その役目をしっかり果たしていて、どちらにしろ部屋には入れないのだから同じことだ。鍵を借りに職員室に行こうかとも思ったが、鍵を開けたところで、肝心のいじめ撲滅委員会がやっていないのであるから意味が無い。

 となれば、今日は諦めるしかあるまい。帰って、今日のノルマに取り掛かろう、と思い、くるりと身体を左へ四十五度回転、生徒玄関のほうへ歩き出そうとしたその時、

「あの、宍倉君、だよね?」

 と背中から声を掛けられた。

「え、あ、はい」

 咄嗟のことだったので、頭だけ後方へ向けて返事をする。そこにいたのは、ショートカットの女生徒だった。快活な笑顔と、健康的な直立の姿勢は、体育会系であることを強烈に主張していて、太陽のように眩しかった。もやしの僕とは大違いである。上履きの色を見るに、なんともはや、同学年らしい。いじめ撲滅委員会の人、という線は無さそうだ。

「本当なんだね、いじめ撲滅委員会に入るって」

「ええと――誰?」

 突然の話の飛躍に、僕はまず根本の部分を確認しようと、訊いた。

 すると彼女は、驚いて(感情の発露に、まさか『ぎこちない』なんて修飾が当てはまるとはその時まで思ってもみなかったが、彼女は確かに、ぎこちなく目を見開いたのだった)、それから、

「同じクラスの、月摘るつみ涙流るる。よろしくね」

 と頭を少しだけ傾けて爽快に笑った。

 言われて思い出す。確かに教室の窓側後方の隅にこんな女子がいた。自己紹介の時も、変わった名前だなあ、と思いつつ聞いていた気がする。そのことを梅野に話したら、『お前の名前に関する感覚が古いんだ、てか、輪善りんぜんて、お前もなかなかに変な名前だぞ』なんて言われたのだっけ。僕が変わった名前だと思ったのは名字のほうで、下の名前に関しては気に留めていなかったのだけれど、考えてみれば自己紹介の最初のほうでも『安詮院あぜぶ』なんて苗字が登場していた気がしたし、彼の勘違いを修正して再度示したところで何か有益な返答が来るはずも無いことに気付いた僕は、梅野の言葉に単に、そうかな、と返しておいた――なんてことは、今は関係なくて、とにかく、これで合点がいく。彼女が、僕の名前を知っていたことにも、僕の入部希望先を知っていたことにも。

「ああ、ごめん、同じクラスか。実はまだ顔も名前も覚えきれてなくって」

 身体ごと彼女の方向を向いて、弁解する。別に悪いと思っているわけではないのだけれど、こういう時はとりあえず謝っておくべきだと言うことを、僕は小学校時代に嫌というほど叩き込まれている。

「いいよ、別に。わたしだって、さっきの『イジ撲宣言』まで、宍倉君の名前と顔が一致してなかったし」

 月摘はそう言うが、これも形だけの赦しである。そもそも弁解が形だけなのだから、それに対する返事も形だけだというのは至極尤もなのだけれど、殺人犯に対して、僕も殺人した事あるし、気にしなくていいんじゃない? なんて返しはあり得ないように、月摘の言葉は「二人して犯罪者、傷の舐め合いを致しましょう」としか取れない。けれど僕はこれまた小学校時代に、こういう言い回しは「赦す」と言っているのだとしっかり学んだ。まあ、傷の舐め合いが心には一番効くらしいことを臨床心理学の参考書で読んだことがあるし、悪意があって言っているわけではないことは、十分分かる。であるから、あれこれ細かいことを言うべきではないのだろう。

「で、本当なのね、イジ撲入部」

 彼女が本題を再び示した。そんなに気になるのか、とも思ったが、その理由を聞いたところで何か変わるかと言えばそうではなく、大人しく答えることにした。

「そうだよ。教室でも宣言しちゃったじゃん」

「しちゃった、って、するつもりはなかったんだ、やっぱり」

「だって、イジ撲入部をぶっちゃけてしまったら、月摘さんみたいにこうして野次馬に来る人が出てくることは分かっていたし、そうやって悪目立ちするのは嫌だし。まあ、もう手遅れなのだけれども」

「ふうん」

 僕の言い分に何か気になるところがあるのかどうなのか、彼女は目を細めて思案するような素振りを見せたけれど、すぐに、

「宍倉君、一緒に部活を見学して回ろ?」

 と、さらなる笑顔で提案してきたのだった。さらなる笑顔って何だ、と言われても、彼女がずっと笑っているものだから、それより他に表現のしようが無い。強いて言えば、悪戯っ子のような、無邪気さの陰に悪意が潜んだ笑み、だろうか。口が裂けんばかりの笑みである。ともかく、僕の入部先が決まっていることを確認してからの部活見学のお誘い、というのは奇妙というか、それこそ子供の悪戯のような提案だった。これでは彼女は野次馬ではなく、ただの通りすがりではないか。

「なんで? だって俺、イジ撲に入部するんだけど」

 当然の疑問はぶつけておくべきだろう。人は自分の中では当たり前のことを相手に訊かれると、時に怒り出すが、相手が疑問に思って当然、と本人が思っている事項については、むしろ訊かない方が怒り出すのである(これも小学校時代に得た知識だ)。それに、単純に僕が気になった、ということもある。

「まあ、いいじゃん。心変わりする可能性も無いわけじゃないでしょ」

 姉さんからの依頼なのだから、心変わりしてしまったら困るのだけど――と思ったが、断ろうと口を開く前に彼女に腕を掴まれて、そのまま生徒玄関とは反対の方向に引っ張られてしまったから、タイミングを失って、そのまま僕は彼女に、引っ張られるままについていったのだった。

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