第一部「風船」/第五話
第五に。
それから、僕はいじめ撲滅委員会を見学すべく、その部室である進路相談室を目指したわけだが、その前に僕がいじめ撲滅委員会に入る事を決めた経緯を説明しておく。
その前日、僕は帰宅して、それから夕食までの時間をその日のノルマをこなすのに当てていた。ノルマというのは母親から毎日提示される課題で、僕の机の上に線形代数学の参考書が一冊置かれていたから、今日はこれを終わらせろということらしかった。僕は興味のない分野には全く力を入れられない性分だから、線形代数学なんて退屈な分野、本来の僕なら「行列だのベクトルだのそんな単語すら見たくない」とかなんとか言って、全く手をつけないのであるが、ノルマとなると話は別である。というのは、ノルマというのは決して大袈裟な意味でなく、達成できなかった場合にはそれ相応の責任が発生するのだ。そしてその責任をどう取るかといえば、即座に両親の指定するエリート私立中学に転校、という訳である。そもそもこのノルマ自体が、公立中学進学の条件として示されたもので、両親としては怠け者の僕がさっさとノルマを放棄して、じゃあわかりました大人しく私立中学で勉強します、と言い出すのを期待しているということだろうが、ノルマも地獄、私立エリート校も地獄となれば、時間が短い方を選択するのは当然である。というか、大学レベルの参考書を毎日一冊終わらせられる僕が、今更日本の私立中学校に行ったところで、勉学的に何かを学べるとは思わないが。それでも両親がエリート校を熱烈に推すのは、やはり世間体を気にしてのことなのだろう。
神童。
――いや、話が逸れた。ともかく、僕は地獄に舞い戻るなんて御免蒙るから、どんなにノルマが嫌だろうと雑念を振り払って参考書に取り組むのだった。
幸いその日の参考書は入門書だったお陰で難解な部分は無く、三時間ほどで終了した。部屋の掛け時計が午後八時を指していたから、そろそろ姉が帰ってくる頃だ、と僕は玄関へ向かった。ちなみに、両親はまだあと一時間くらい帰ってこない。
姉は僕より三つ年上で、僕が第八中学校に入学したのと同じ日に
玄関を開けて入ってきた姉さんの印象は、第一に汚い、だった。着崩した制服や身体の至るところに土が付着している。
「お帰り、姉さん。疲れたでしょ、お風呂沸かすよ」
制服に滲んだ汗を見て、同時期に入学したというのにこの学校生活の差は何なのだ、と少しばかり情けなくなって、僕はそんなことを言った。
「お、殊勝なことを言うじゃないか、
姉はスニーカーを脱ぎながら早口で(僕は早口だと思っているのだが、姉に言わせれば僕がゆったりなのだとか。確かに姉はいつもこのスピードで話すので、これが姉にとっては普通なのだろう)そう言って、どたどたとお風呂場へ走って行った。
慌しいな、と思いつつその後姿と軌跡を眺めていると、
「輪善! 悪いけど、鞄とかいろいろここに置いとくから、あたしの部屋に持っておいてくれない?」
なんてほとんど命令のようなお願いが脱衣所から飛んできたのだった。パシリである。けれどもお風呂を沸かすという申し出が失敗した代わりとしてはちょうどいいだろうと思ったので、僕は姉のエナメルバッグと革の鞄をなんとか二階、一番奥の部屋へ運んだ。なんとか、という表現に違和感を覚えたかもしれないが、姉の鞄(或いはバッグ)には教科書やら部活の道具やら何やらがめいっぱいに詰め込まれているので、非力な、ひ弱な僕では、持つ、というか地面から浮かせるのが精一杯で、そこから任意の場所へ、今回の場合は階段を上って二階へ移動させるなんてまったく、無理難題なのである。それでも了解した以上運ばなければならないので、僕が採った手段といえば、姉の鞄をロープ(は無かったのでここでは縄跳び用のビニル製のやつで代用した)で括って、階段の上から引き上げた。もちろん鞄の通り道は階段であるから、つまりスロープではないのだから、それはもう鞄にとっては悪路どころか道でないような悲惨な通路だったとは思うけれど、それでも何とか二階へ運びきったのだから、許してほしい。見たところ外傷はなかったし、まあぞんざいに扱ったことに違いは無いだろうけど、乱暴に扱うな、と姉から言われていたわけではない。いや、そんなことは言わずもがなの暗黙の了解、常識この上ないことだったから姉が言わなかったというのが真実だろうことはもちろん知っているし、だから僕の、言われてなかった、というのは言い訳にすらなっていないことは承知している。けれどもあえて僕がそう言ったのは、姉の普段の鞄の扱い方が、僕が今こうして乱暴にぶつけたり無理やり引きずったりしたり、そんな生易しいぞんざいさじゃあないってことを、僕が知っているからだ。姉は高校生になったけれど、まるで男子小学生が、ランドセルを抛って遊んだり、ランドセルの上に座ったり、ランドセルを虫眼鏡の実験で焦がしてみたりするのを、高校生レベルにまで暴力的にのみレベルアップさせたような扱いなのだ。普通は精神的に成長して、或いは体力的に退化して、鞄に対してアグレッシブに接することはだんだん減っていくはずなのだが、姉は違う。先述したが、男勝りなのだ。だって、男子高校生だって、十二キログラムの鞄を垂直にどれだけ高く投げられるかゲーム、なんてやらないだろう。万一やる男子高校生がいたとして、しかし姉の記録は超えられないだろうと、僕は信じている。
そんなわけで、姉からのクエストは無事達成したということで、僕は手持ち無沙汰になってしまった。いやはや。趣味の一つもあれば時間なんていくらでも潰せるのだろうけれど、むしろ趣味に耽溺してしまって寝る時間すらなくなってしまうのだろうけれど、僕には幸か不幸か趣味が無いので、というか自発的にやりたいと思ったことが生まれてこの方一つもないので、趣味どうのこうのは杞憂というか、妄想というか、ともかく僕が今考えねばならないのは趣味云々ではなくて、どう時間を潰すか、だった。
僕は自室に戻って辺りを見渡してみたけれど、時間を潰せるような代物は無かった。教科書、参考書、問題集、専門系の雑誌、そんなものばかりが堆く積まれていて、中学校で耳に挟む年相応の娯楽、例えば漫画とか、そんなものは無い。そりゃそうだ、そんなものに興味は無いし、興味があったとしても両親は買ってくれないし、お小遣いだって貰っていない。どう転んだって僕の部屋に娯楽が存在することは無かっただろうし、これからも無い。別にだからといって困ることは無いのだが、こうして時間が余ってしまった時、どうして良いかわからなくなるのだ(それって困っているじゃあないか、と僕は自分につっこんだ)。娯楽があったなら時間を潰せる、なんて話はしていない。僕は娯楽というやつを良くは知らないが、いくら面白いらしいとはいえ、好きでもないものに時間を注ぎ込めるとは思えない。考えをまとめると、こうして時間を潰す必要性に迫られた時、僕には二つの対策案があるようだ。一つは娯楽でも勉強でも何でもいいから、何かを好きになること。もう一つは、暇な時間を好きになること。どちらにしろ何かを好きにならなくてはならなくて、そしてそういうことをこれまでして来なかったし、また、出来ない(だろうと確信している)僕は、そもそも時間が余らないように計算して動かなければならないのかもしれない。それはそれで面倒だが、しかしそれが最良の結果をもたらしてくれるのであれば、試してみるのは吝かじゃあない。
「なに部屋の真ん中で突っ立ってんの? なんかの儀式?」
「うわあ!」
意識はすっかり思考の方へ向いていたから突然の呼びかけにびっくりして、柄にも無く間抜けに大声を出してしまったが、見れば半分下着姿の姉がドアの隙間から覗いていた。半分、というのは、上半身は白Tシャツ、下半身はピンクのスキャンティ、という姉の恰好を、僕なりに(とまでオリジナリティを主張できるものではとても無いが、というか凡庸極まりないが)表現してみたものだ。姉のお風呂上りはいつもこの恰好でうろうろしている。外では恰好つけている姉だから、姉の知人の殆どはこのだらしない恰好を知らないに違いない。まあ、だからといって、一般に知られていない姉の一面を見られて嬉しい、とかそんなことはまったく無いし、そう思うと、やっぱり身内なんだなあ、と改めて実感する。そしてそれが少し残念でもある。もしも姉が他人だったなら(姉なのに他人なんてありえないけれど)、或いは血が繋がっていなかったなら、もしかしたら色気を感じて幸せだったかもしれないのに、実の姉ではだらしないなあ、と思うばかりで、ポジティブな感想はあまり出てこない。しかし姉は姉で、願ったところで変わらない前提なのだから、これはこれで、ありのままを受け入れるしかないのだろうし、というか既にすっかり慣れてしまって今ではなんとも思わないのだけれど、ともかく、改善云々の話ではないだろう。姉は姉。姉として自由なのだから。
「儀式じゃなくて、考え事、というか暇を持て余してたんだよ。何、何か用?」
あれだけ派手に驚いてしまって、恥ずかしく思った僕はどうにか平静を装ってみたものの、自分でも分かるくらいにその出来は良くなかった。
「照れ隠しって可愛いよね、輪善がやってもそうでもないけど」
「うるさい」
案の定姉にもつっこまれてしまう。ニヤニヤしやがって――と思わなくもないけれど、梅野とかそういう奴らが相手であったら、きっと「うへぇ、マジで? 照れ隠しとか、かっわいー!」などと囃し立てられることは必至だっただろうと想像するに、姉のこういうつっこみというのは、じゃれ合いとしては素直と言うか、質の悪くない、気持ちの良いものだ。こういうところに姉の優しさがあるのだろう。
「で、僕に何か用なの?」
僕は問う。これがこの場における核だからだ。姉が僕に何か用があるのなら、僕の余った時間が潰れて万々歳だし、無いのならそのだらしない恰好で部屋の前にいないで欲しい。ただ、姉がこうして僕の部屋に顔を出すのは珍しいことなので(僕は大体の時間を勉強に充てているし、その邪魔をすると姉は両親にこっぴどく叱られることになるのだ)、姉に何か、重要な用件があるのは殆ど確実だった。
「相談というか、お願いがあるんだよね」
果たして姉は真面目な顔で言ったのだった。
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