第一部「風船」/第四話

   第四に。


 僕の放ったその一言で、がやがやしていた教室が一瞬にして鳴き止んだ。それから数秒の後、今度はひそひそ声が充満していく。チラチラと僕を見るような目線も感じられた。なんとまあ、分かりやすいものである。とは言っても、僕も彼らの立場だったら同じ反応を示すだろうが。

「――マジで? イジ撲?」

 低い声で怪訝に聞き返した梅野は、眉を顰めて僕を見てきた。イジ僕というのはいじめ撲滅委員会の略称であろう。

「マジだよ」

 僕は短くそう言いながら、机の中の荷物を手早く鞄に詰め込んでいく。早くこの場を後にしたい気持ちでいっぱいであった。墓穴どころか立派な墓を建ててしまって、その上自らを火葬したようなものなのだから、逃げたいのは当然の心理というか欲求である。三十六計逃げるにしかず、なんて高尚な策略があるわけじゃあない。ただ逃げなければ死ぬ、そんな戦場の緊迫感が僕を焦らせているだけだ。もちろん、僕の失言は既に僕を殆ど殺してしまっているのだけれど。

「え、お前も見ただろ? 新入生歓迎会の部活動紹介の時、イジ撲だけ先生が紹介してただろ? おかしいって。あれは部員がそれぞれ発表するはずなんによ? それに兄貴も言ってたぜ、いじめ撲滅委員会だけはキチガイだって。いいからやめとけ、やめて野球部に入れ」

 梅野は囁くように、しかし力強く理屈(のようなもの)を並べた。最後の一言ですべて自分の利益へと還元しているちゃっかりした部分は梅野の性根を反映しているが、その他、まったくの正論を、というか一般的にはそう考えるであろう、という思考を主張した部分は、梅野には到底似合わない真剣さ、或いは真面目さだった。

 それだけ、いじめ撲滅委員会という組織が特殊なのだ。異常と言ってもいい。そもそも部活動であるのに『委員会』と堂々と掲げている時点で大分怪しい。新興宗教が科学的根拠を語りだすようなものだ。そんな組織に一体誰が自ら望んで関わろうとするか。自殺行為であるのは殆ど自明なのだから、梅野とて、そりゃあ真剣になるのだ。

「それに、」梅野が声量を一段落とした。「イジ撲の部長は、先輩が言ってたんだけど、口にするのも憚られるような変人、なんだってよ――意味わかんねーけど」

 そうか、あくまで部活動だから『部長』なのか――と、きっと妙なところなのだろう部分に納得しまったから、梅野の教えてくれた情報は殆ど上の空だったけれど、とにかく、いじめ撲滅委員会に悪い噂、或いはそういうイメージがあることは十分に理解できた。そしてそれは、既に僕が同委員会に抱いていたイメージと似通ったものだった。

 けれども。しかし。それでも僕にはいじめ撲滅委員会に入部しなければならない理由がある。それはちょっとやそっとのことでは譲れないものなのだ。

「梅野、俺にとっては野球部よりマシだよ」

 言って、僕は席を立った。梅野の言葉は、全く重大な事由ではなかった。ズズッ、と椅子を引きずった音が、教室に響く。いつの間にか教室は静まり返っていて、なるほど、どうやらクラスメイト達は噂話をするよりも、まず情報を仕入れることを選んだらしい。

「いやいやいやいや、待てって」

 梅野が持ち前のしつこさを発揮して、僕が鞄を肩にちょうど掛けたところで、鼻息荒く言ってきた。

「ガチかよ? やめとけって言ってんだぜ? どうなるかわかんないどころか、酷いことになるのが分かってんだからよ。言ってみれば、一寸先は闇どころか、本当に闇、お先真っ暗、ってことさ。沈む瀬あれども浮かぶ瀬なし、災禍が糾える縄の如し、そんなところに飛び込むなんて正気の沙汰じゃないぜ。何を大袈裟に、なんて思ってんかもしれねーけど、冗談どころの話じゃないんだからよ。ワンチャンもねーよ? とにかく、イジ撲だけはやめとけ」

 身振り手振りが激しい。それだけ、必死、とはいかないまでも、真剣なのだ。驚いたのは、彼にしては知的な(というか単に難しい、或いは知名度の低い)言葉を発したということだ。僕に分かりやすいようにその言葉を選んだのかは分からないが(おそらく違うだろう、それに、別段分かり易くなかった)、おふざけで出てくるようなものではないだろう。本気で、僕を止めようとしている。見れば、梅野の目は少し震えながら、しかし真っ直ぐに僕を睨んでいた。その必死さに、僕は二つ、認識を改めなければならなかった。

 一つは彼がどうやら僕のことを本気で心配しているということ。それだけ彼は僕のことを本気の友達だと思っているらしい。或いは人が好いだけか。ともかく、僕からしてみれば彼はただのクラスメイトに過ぎないわけで、暑苦しいことこの上ない。

 もう一つは、彼がいじめ撲滅委員会を本気で恐れているらしいということだ。僕は彼が悪いイメージを持っている程度だと考えていたが、彼のこの様子は尋常ではない。悪いイメージとか、そういう類の、つまり実害の無いレベルのもので人はこれほど真剣になったりしない。いくら悪印象が強いからといっても、話のネタにされる程度で、むしろ害を被るのは悪印象を抱かれているほうである。しかし、恐怖は違う。人がこうして恐怖するのは、いじめ撲滅委員会が、確固たる、恐怖に足る因子を持っているということ以外にあり得ない。

 ――姉さんの言っていたことが、実感として感じられてきたような気がした。

「余計なお世話」

 僕はそうとだけ言って、彼の手を振り払った。使命感と好奇心が一段階強くなっていたから、もうこれ以上の会話は時間の無駄だとはっきり思えた。梅野に背を向けて、彼と、僕の席から足早に離れていく。

「おい!」

 去り行く僕の背中に梅野の制止がなされたが、僕は無視した。当然である。これ以上しつこくされてたまるか。こういう場合、毅然とした態度を取ることが大切なのである。――なんて考えながら、足取りはスキップをする寸前で、僕はつまるところ、わくわくしていたのであった。

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