第一部「風船」/第三話

   第三に。


 数学の授業が今日の最後の授業であったので、担任である衛藤えとうはそのまま帰りのホームルームを始めた。簡単な連絡事項の列挙、起立、礼、「さようならー」のすぐ後、僕が椅子に座りきる前の中途半端な恰好の時に、梅野うめのが声を掛けてきた。

「よーぅ、神童さんよ、一緒に部活見学に行かね?」

 面倒臭い、というのが正直なところであった。僕はその内心を顔に出さないように気をつけながら、椅子に腰を落ち着ける。

 この梅野という奴、僕は全く覚えていないのだが、彼が言うにはどうやら幼稚園のクラスメイトだったらしく、入学式以来、良く僕に絡んでくる。まだはっきりとした友達がいない僕にとって、彼の存在はありがたいのだが、残念なことに彼の性格はどうにも苦手だ。

彼は典型的なお調子者なのである。悪く言えば馬鹿なのである。僕を「神童」なんて呼んだのがその証拠だ。僕が本気で嫌がっていることに、きっと彼は気付いていない。

今だって坊主頭を嬉しそうに六方に揺らして、満面の笑みを浮かべている。何なのだ、その灰色の頭は。もう野球部に入る気満々ではないか。部活見学と言っても野球部にしか行かないであろうことは明白である。僕が運動音痴であることは言ってあるはずなのに、なぜ僕を誘うか。

全く以って、人の話を聞いていない。人のことを気に留めていない。

けれども僕を見つめる彼のくりくりとした両目に、僕のそうした思いは直接口から出るのを躊躇って、代わりに出てきたのは当たり障りの無い質問だった。

「見学って、どこをまわるの?」

 いや、当たり障りが無いというか、遠まわしに言ったというだけであって、その本質は言いたかったことと些かも変わっていないのだけれど、クラゲ頭の梅野にとって、僕の質問はまったく正常な、厭味の欠片も無いものに聞こえたはずである。そしてそれを裏付ける、梅野の一言が発された。

「野球部」

 そう言って笑みをさらに強烈にする梅野は、きっと僕が乗り気だと思ったに違いない。

 これはある意味コミュ障なのでは?

 ――なんて思ってもみたけれど、さっきと同じように、やっぱり僕は、本心はそのまま言わずにおく――つもりであった。

「ごめん、俺のことを神童なんて呼ぶ奴とは一秒でも早く距離を取りたいから、俺は行かないよ」

 あ、しまった、本心が零れてしまった、なんて自分の口から出た言葉をどこか他人のもののように聞きながら、僕はそんなことをちょっぴり後悔して、思った。零れたというかダダ漏れだ。自分で思っていた以上に梅野に対してフラストレーションが溜まっていたようである。こんな短い間に僕をここまでイラつかせるというのは、なかなか実はすごいことなのではなかろうか。恐るべし梅野、なんて思っておくのが正しいのか。いや、逆に考えて、僕がすっごく短気という可能性も無きにしも非ずである。けれども通常の僕を振り返ってみるに、やっぱりここまで短時間で――つまり一分にも満たない時間で――イラついてしまったことは無い(もちろんぼくがすっかりさっぱり忘れてしまっていることも十分あり得るから断言は出来ないが、そうだと思う)ので、僕が短気だという前提は無茶だろう。或いは、僕が梅野に対してだけ短気だという事もあり得るといえばあり得るが、それはやっぱり梅野の影響だと考えるのが自然だ。

 つまり、僕が何を言いたいのかと言えば、彼が僕の言葉に腹を立てて怒り出したところで、その根本の原因は彼にあるのであって、例え僕がどんな暴言、暴力を浴びせられたとしても、それらは全く不当なものである、ということだ。不当であれば彼は暴言や暴力に対して責任を取らなければならない。教室にまだ残っている二十人弱のクラスメイト達だって、僕の味方をせざるを得ない。彼が事件後にいくら弁解したところで、クラスメイトたちが目撃者として、また正義の番人として、僕の無罪を支持してくれるに違いない。だから、今の僕の失言によって、僕がいじめられたりするなんて事は微塵も起こり得ない。だって僕の失言は正確には失言ではなくて、梅野の人をイラつかせるという特性が引き起こしたものなのだから。自業自得である。そしてそれはこの状況を見ていたクラスメイト達にも分かるくらい、極めて自明なことなのである。

 なんて、屁理屈どころか理屈ですらないことを頭で渦巻かせて、僕は額にジワリと汗を滲ませた。すっかり忘れていたのだ、僕は。教室という場所がどれだけ無秩序に秩序だっているかを、僕はきっちり小学校六年間で身体の芯にまで叩き込まれたはずであったのに、ここ数日のこの中学校の平和具合に、僕は自分の言葉がどれだけ命取りになるかを忘れていた。そして今思い出した。――終わった。そんな気持ちであった。地獄の再来である。空気を読めなかった僕には、もうこの教室の空気を吸うことも許されない。

 息が詰まる。腹から胸にかけて、体内を生温い手で掻き混ぜられているような感覚がした。頭に冷えた血液が上って膨れ上がっていくようで、視界が凸面鏡の像のように歪んだ。

「ご、ごめ――」

「なかなか言うね、神童さん」

 堪らなくなって、藁にも縋る思いで謝ろうとした震えた言葉を、しかしあっさりと梅野は遮って、声を出して快活に笑った。

「え?」

 気の抜けるような僕の声が擦れるように漏れた。

 梅野の返しは想像もしていなかったものであった。僕を責めることもせず、彼は茶化すように言ったのだ。まさか僕のあの言葉の意味が分からなかったのだろうか。いや、それはあるまい。中学生どころか未就学児だって言葉の意味くらい分かるだろう。

では何故怒らなかったのか? ――そもそもその前に、僕の失言から梅野の返事までの間は一体何だったのだろうか?

 と、そこまで考えて、ふと、思い当たることがあった。思い当たるというか、これしかない、という事実を確認した。どうやらまた、思考がブーストしていたらしい。つまり、僕の失言と梅野の答えに時間差はほとんど無かったのである。僕の体感としては十秒くらいの間隔があったけれど、梅野にとっては、さらに言うと僕以外のほとんどの人間には、その間隔は無かったに違いない。昔からこういうことがよくあるのだ。思考の巡るスピードが普段の何倍にもなって、実際よりも時間を長く感じることが。姉には面白がられて『ブースト』なんて名付けられたけれど、この能力、というかこの特性のせいで地獄の六年間だったり神童騒ぎがあったことを思うと、僕にとっては少しも面白くない。

 さて、ということであれば、説明はつく。梅野は僕の失言を冗談として受け取ったのだ。ジョークとして受け取って、それにジョークを返しただけなのだ。まったく、僕にとって『神童』という言葉はジョークにならないのだが、そしてそれを何度も説明したはずなのだが、その説明自体を冗談だと思われているらしい。そう考えるしかないような言動だろう、梅野のこれは。

 すっかり冷静を取り戻した僕の頭は、少し疲れていて、そのためにもう梅野の相手をする気力は失せてしまった。

「なんか目が潤んでね? どうしたん? 泣いてんの?」

 目ざといな。適当に誤魔化そう。

「潤んでないよ、そもそも泣く理由が無いだろ。それと、どうしたって俺は野球部には見学に行かないよ。だって、もう入る部活は決まっているのだから」

 うあ、と。

 言ってから気付いた。すう、と体温が引いていく。

 こればっかりは真に失言である。地雷を踏むどころか、核弾頭に戦闘機で特攻を仕掛けたようなものだ。早く話を切り上げたい、という欲求が、或いは直前のブースとの反動が、もしかしたら梅野の返しに対する僕の動顛が、思考を鈍らせたのだ。悔やんでも悔やみきれない。大袈裟だと思われるかもしれないが、本当に悔やみきれないほどの事を、僕はこの時、してしまったのである。もちろん僕とて未来は読めないから、この瞬間に実際僕がした後悔というのは、単純に、余計なことを言ってしまった、ということに対してのみのものだったけれど、後になって、つまり僕のこの失言がもたらす結果を知って、僕はまさに悔やんでも悔やみきれない、無限大かと思われるような途方も無い質量の後悔を背負うことになるのである。

「え、もう決まってんの? 早っ! どこ? どこに入るつもりなん?」

 梅野が言う。これは当然の反応である。そりゃあ、もう心に決めた部活があると言えば、興味があろうが無かろうがそれを聞くというのが若者のコミュニケーションである。びっくり箱に仕掛けられたバネ付きのピエロのように、ぐよーんびよーん、と揺れる梅野が、本当に憎たらしく見えた。だが仕方ない。もう引き返すことは出来ないのだから、このまま突撃するのが最善というものである。下手にここで渋ったりしたら、余計に窮地に立たされるのは殆ど自明である。

 僕はゆっくり一度深呼吸をしてから、言った。

「いじめ撲滅委員会」

 梅野の動きがぴたりと止まった。

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