第一部「風船」/第二話
次に。
空気のおいしい季節がやってきていた。
入学式を終えてまだ一週間だというのにすっかり散ってしまった桜は、こうして遠く教室から眺めていてもなんだか寂しくて、だから見ていて飽きない。僕が飽きないのか桜が飽きさせないのかは分からないが、僕はそもそも満開の桜よりも、散って枝のみとなった桜の方が好きで、さらに言えば、葉っぱが青々と鮮やかに揺れる初夏の桜が一番好きで、つまり僕は皆が観賞しない桜が好きなのだ。もっと言うと、桜自体が好きというわけではなくて、皆にそっぽを向かれてしまった可哀想な桜が好きなのだ。同情しているというわけではないのだろうけど、でも逆に考えて、満開の桜だけを愛でるというのは桜に対してあまりにも勝手ではないだろうか。そりゃあピンク色に染まった桜は豪快だし悠々としているけれど、桜の花がああして立派に咲き乱れるのは四季を通して桜が生きているからで、桜の春の一面を褒めちぎるくせに、夏、秋、冬の桜を無視するのでは桜の努力が報われない。たまたま春の姿が人間にとって美しく感じられるだけなのだから、いつだって懸命に生きている桜の他の姿も感謝をこめて愛でるべきだ。と、そんな風に考えるということもあって、僕はこうして授業中であろうと桜を見ている。気の抜けた授業よりも桜を愛でるほうを僕は選ぶ。心まで優しく包んでくれる温かな陽気と、漂う甘い春の香りに、どうしてものほほんとしてしまうが、僕はもっと真剣な動機で桜を見ているのだ。とはいえ、小気味良い鳥の囀りが、「なぜか眠くなる目覚まし時計の原理」(そう、もはやそれは法則どころか原理なのである)で、ただでさえ重いまぶたをうとうとと閉じさせる。明滅する視界にちらちらと眩しく見える桜は、何だか蓬莱の木のようで幻想的だった。
なんて、良い気分に浸っていたところに邪魔が入った。
「おい、
そういう自分を曲げない、みたいなのは嫌いじゃないけど、と言いつつこちらを睨んでいる(だろう)若い男の先生は、数学教師でもあり我らが一年五組の担任でもある
「はあ、知らねえぞ、テストで爆死しても」
ほら、案の定、衛藤は授業を再開する。やれやれと言った風を装っているが、どうだか、腹の底ではそんなことは少しも思っていないに違いない。何故ってあの先生にはやる気が無いのだから。注意の言葉も形だけ。
そんなものだ。大体の大人は。
欲しいものだけ貪って、要らないものは容赦なく捨てる。全ては自分のため、自分の得となることだけを選択する。花びらの散ってしまった桜に、些かの興味も示さないように。僕はそうした大人の残酷さを良く知っている。
――なんだか桜を愛でるような気分ではなくなってしまった。
というか、本当に許されてしまった。授業中にあらぬ方向を向いて、まるで話を聞いていないなんて、自分にとっても損益であるし(少なくとも内申点は期待できない)、また先生にとっても不快であろう、そんなどちらにも得の無い状況を、先生はしかし許した。しかもこれが初めてではない。授業は今日から開始されたが、同じように人の話を聞かず、ぼーっとしていたのは委員会決めや係決めなどのホームルームでも毎度のことだった。であるのにも拘らず、あの衛藤は僕を許してしまうのだ。理解できない。衛藤にやる気が無いとは言え、公立の、つまり福祉国家の一部たる、直接に国家と国民の契約を果たしうる、言わば還元機関である地域が運営している教育現場で、このような事態が発生するというのは全くおかしなことである。おかしいというか、あってはならないことである。或いはもしかして、公立だからなのだろうか。私立中学ならこんなぬくぬくとした指導は言語道断、一切存在しないのではないだろうか。この中学校は思っていたものと何もかもが違って、一言で言えば、平和だ。平和というか、退屈だ(一言ではなくなってしまった)。あまりにも何も無さ過ぎて、僕が意識的にやらねばならないことが無い。小学生の時は真逆であった。何もかも神経を張り巡らせて行わねばならなかった。勉強するのも会話をするのも、針に糸を何本も連続して通すような、そんな苦行だった。半歩違えば殺されるような戦争状態であった。それが良かったなんてこれっぽっちも思わないし、だからこそ僕を東京の私立に通わせたがる親を何とか説得して地元の公立中学校に進学したのだけれど、しかしここまでぬるいとは思ってもみなかった。これならばあの地獄のような日々の方がまだマシだったかもしれないなどと考えてしまうほどだ。公立の学校はこれが普通なのだろうか。小学校があれだけ厳しかったのは私立だったからなのだろうか。そうであれば、私立も公立もダメ、僕にとって「ちょうどいい」学校は日本に存在しないことになる。
そんなわけはあるまい。
いじめだとかそういう理由でなく学校に馴染めないという事態に陥る子供はレアケースだ。学校が性に合わない、と思っている子供はほどほどにいるかもしれないが、しかしそれで実際に学校に行けなくなるとか、行かなくなってしまうというのは稀なケースだ――と僕は思う。確かなソースがあるわけではないから憶測に過ぎないことは百も承知だけれど、少なくとも僕がこれまで生きてきてそういうケースに出遭ったりそういう話を聞いたりしたことは無い。そして僕がそのレアケースである可能性はゼロだ。実際小学校を無事卒業しているのだし、そもそも僕がそんな特別な部類に入るはずが無い。然り而して、僕が「日本には僕に合う学校が無い」なんて思ったのは間違いであるし思い上がりである。反省せねばなるまいし、考え直さねばなるまい。
そもそも何故僕はこの学校が合わないと思っているのだろうか。それは、もう幾度となく想起したように、この学校がぬるいからだ。ぬるいというのは、つまり僕が何かしら働きかけねばならないことがないということだ。先週のオリエンテーション然り今受けている授業然り、僕は空気のようにただ居ればよかった。例えるならコントローラーを握らずにアクションゲームをクリアできてしまう感じだ。つまらないことこの上ない。もちろんハードやソフトを買ってくるとか、ゲームを起動するとか、敵キャラを選択するとか、その程度の作業はあるが、肝心の部分については難易度が限りなく低く、もはやゲームと呼んでよいのかどうかも怪しい。この学校もそうだ。学校と呼んで良いのかどうか迷ってしまうレベルなのだ。
ふと僕は黒板へ顔を向けた。
衛藤が数直線を書いて、「ここがマイナス1だ」なんてやっている。
まさか。ここに通っている生徒たちはアナログの温度計とかそういうものを見たことがないのだろうか。時代が時代だからそういうことも万が一にはあるかもしれないが、それでも負の数くらい知っているだろうし、理解しているだろうに。
「チッ」
小さく舌打ちして校庭に目線を戻す。この程度なのだ。この程度のレベルなのだ、公立の学習指導要領は。私立は違う。文部科学省の学習指導要領が私立にも適用されることは知っているが、僕の通っていた私立も含めてほとんどの私立は学習指導要領を踏まえたうえで独自のカリキュラムを組んでいる。少子化の時代、そうせねば生き残れないのだ。僕の通っていた私立は特に海外の飛び級のような制度を取り込んだカリキュラムを売りにしていた。正確には分からないが、僕は多分少なくとも高校修了程度までは教え込まれたと思う。本来十二年間で学ぶべきものをその半分の期間で詰め込まれたのだ。そう考えると地獄だったのもうなずける。そして、この中学校がぬるく感じられるのも。
「はあ」
もうこうなったらこの中学校に期待できるのはやはり部活動だけだなあ、などと思いつつ僕は裸の桜を眺める。そこで無機質なチャイムが授業の終了を報せた。
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