第3章

水面に映る

 ガラス鉢も、水も血も、何もかもきれいに片づけ、机の上で割れずに無事だった風鈴をブラインドの上端にぶら下げた頃には、雷は遠のき、雨もほとんど止んでいた。

 俊介は効き過ぎのエアコンを切って窓を開け、ようやくリビングに彩乃を迎えに行った。すると彩乃はソファーの上で丸くなり、すでに半分、眠りかけていた。

 気の毒に思い、そのまま抱き上げて部屋まで運んでやりたかったが、

俊介の男としての自信の無さがそれをさせなかった。そして結局ゆさぶり起こし、目を擦る彩乃の手を引き、のろのろと階段を上った。

 時はすでに夜中の1時を回っていた。

 クローゼットから自分の分と、彩乃に貸すパジャマを出して振り向くと、彩乃はベッドにちょこんと腰かけながら、もう、うつらうつらとしていた。

 指でほんの少し突ついたら、そのままぱたりと倒れてしまいそうに危うい。

 何となく、また心がザワつきそうで、「はい。着替えて」と事務的な声で言うと、一組のパジャマをつっけんどんに渡した。

 彩乃はとろんとした目でそれを受け取り、そしていきなり、その場でするすると血の付いたショートパンツを脱ぎ始めた。

 俊介は驚き、慌てて後ろを向いた。しかし、その時には既に、彩乃の身に着けていた白いレースの下着が目にくっきりと焼き付いてしまった。

 俊介は軽く咳払いすると、後ろ向きのまま、自分の着るパジャマを意味も無く広げたり裏返したりしてみた。

 その間、ベッドの上ではゴソゴソと布の擦れ合う音とスプリングの軋む音が

しばらく続き、それから急に静かになった。

 俊介は「終わった?」と遠慮がちに訊ねた。しかし一向に返事が無いので恐る恐る振り返ると、彩乃はすでにベッドカバーを捲ってその中に潜り込み、横になっていた。

 それを見て、俊介は少し戸惑い、それから意を決したように自分もその横にモゾモゾ入ると、まだシャワーも浴びていない、雨やら血やら埃やら、今日という

ややこしい一日の汚れにまみれたままの右腕を、彩乃にそっと差し出した。

 彩乃は眠そうな目で「お休みなさい」と言うと、俊介の腕を、ただ枕として引き寄せ下敷きにし、そのまま目を閉じて眠ってしまった。

 俊介は、慣れない腕枕に体を緊張させながら、窓の外をじっと見つめていた。

 そして色んな事を考えていた。

 開け放された窓から時折、雨に洗われた涼しい風が優しく吹き込む。

 ブラインドの隙間からは、柔らかな月明かりが差し込み、夜に鳴く蝉の声が響いてきた。

 俊介は眠る前には、わざとブラインドのルーバーを開いておく。そうすると朝になれば徐々に陽が射し、アラームをセットしなくても、明るさで自然に目が覚める。

 そして眠れない夜には、ブラインド越しに見える月と笹薮の陰が揺れるのを、ベッドからぼんやりと眺めながら物思いにふける。

 しかし近頃は、そんな生易しいことでは済まないような、切実な肉体の渇きを感じる日々が続いていた。

 彩乃の服を脱がせ、下着を外し、全てを見たい。

 そして柔らかい体の隅々まで触れ、自分の欲望の塊りを、彩乃の中に押し込む事を妄想しながら、自慰にふける毎日だった。

 けれど今、ようやくベッドの中で彩乃と一緒にいるというのに、予想外の出来事のせいで、俊介の描いた妄想は、全く思った通りに進まなかった。

 夢にまで見た状況が、今ここにあるというのに、ケガをしていると思うと、結局、目の前の唇にこっそりキスすることすらできない。

 自分のふがいなさを責める気持ちと、これが人として正しいんだという気持ちが交互に押し寄せ、さっきから何度も溜息をついていた。


 俊介は窓の外の景色から、彩乃の方へそっと視線を移した。

 彩乃は相変わらず、腕枕の上でスヤスヤと眠っている。

 天使のように優しい吐息が、俊介のパジャマの胸に、ふわふわと舞い降り続ける。

 寝ぼけまなこで留めたと思われる前ボタンは一つ飛ばして掛け違い、大きく開いた襟元から、押し潰されて盛り上がったふたつの胸の肉と、その間の深い谷間がはっきり見えた。

 それを見て、再び疼きだす自分の体に心から嫌気がさして眉をひそめた。

 しかしそれとは裏腹に、雷雨の中、キッチンで、何かに取り憑かれたように艶めかしく見えた彩乃の姿を思い出してしまった。


 あの時の、あの目つき……あの声……


 あんな彩乃は見た事が無かった。

 そして唇と、濡れた舌の生々しい感触が、すぐに下半身に、節操も無く転送される。

 あのまま、もし落雷が無かったら、俊介はケガの事も忘れて、後先も考えずにキッチンの床に彩乃を押し倒してしまったかもしれない。

 普段の臆病な自分とは全く対照的な、抑えきれない獣のような部分を思うと

俊介はさらに重いため息が出た。

 それと共に、その一瞬の停電の間に見た、もう一つの獣の姿が頭に蘇る。


 獣…というよりは異形の何か……


 そして俊介は、すぐに腕の中の彩乃の顔を確かめた。

 けれどその愛らしい寝顔に変わりはなかった。

 ホッとして、それを目に焼き付け、瞼を閉じる。


 あれは彩乃じゃない……


 そうだ、絶対に彩乃じゃなかった……


 あの瞬間、あの時間だけ、何かがおかしかったんだ。


 何かが歪んだ……


 彩乃はきっと、本当に何かを感じて怖がってたんだ。


 そういえば…… 庭から見えた……


 部屋の中に人影が……  二つ……


 誰かいるって…… 確かに……


 誰が……   誰か……


 泣いてる……


 一体、どこで…… 




 どうして……  泣ク ……




 オマエ ……




 俊介の意識が、次第に混濁していく。

 少し強めの風が吹き、ブラインドが乾いた音を立てて揺れた。

 つられて小さく 風鈴が鳴る。



 チリリン……




 静寂のあと、部屋の扉が微かに開いた。






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