傷
右腕に、彩乃が確かにそこにいるという重みを感じながら、俊介はその長い髪を指で
たいして逞しい腕でも無い。痩せた自分の骨っぽいような腕枕は、寝心地が悪くは無いだろうか。そんな事を思いながら、俊介は彩乃の寝顔をじっと見つめた。
包帯を巻いてやった白い右手が、砂浜に置き去りにされた月夜の貝殻のようにそっと、俊介の胸に乗っている。
なんで、人魚に噛まれたなんて言ったんだろう……
鎮痛剤の作用もあってか、今はスヤスヤと眠る彩乃の静かな寝息を聞きながら、俊介はさっきまでの一連の事を思い返していた。
何かのはずみで怪我をした彩乃。声も発せず、ぐったりと
カウンターキッチンのシンクの中に腕を出させ、蛇口を捻り、ぬるま湯で傷ついた右手を洗うと、銀色に光るステンレスの上を、赤い水が溶いた絵具のように流れていく。指を強引に広げ、傷の状態を確かめる。どうやら傷口は一か所。中指の腹が、斜めにサックリ切れている。
「ちょっと我慢してね」
そう言うと、俊介は出血する中指を、根元から強く握りしめた。痛みで彩乃の唇がひきつる。けれど俊介は握った手を緩めることなく、空いた片手で近くにあった木製の踏み台を手繰り寄せ、そこに彩乃を座らせた。そして自分はその正面に立つと、赤く染まった腕を再び心臓より高い位置まで挙げさせて、肘に手を添え、ようやく出血の鈍くなった傷口を慎重に見た。
割れたガラスで切った傷。どう見ても、噛まれたり食いちぎられたような
でも、もし血が止まらなかったら……
縫う必要があったら……
頭の中が、不安と迷いでいっぱいになる。
父親がいれば、あっという間に判断してくれるのに。と、俊介は親の不在に、やましい計画を実行した事を悔やんだ。
万が一血が止まらなくても、縫う手順も、使用すべき針や糸の太さも分かっている。大学では、まだ動物の死骸相手に、切り裂くばかりの解剖実習しかしていなかったが、父親の診療所では助手として、区内の非営利団体や、俊介の所属する動物保護センターから請け負った、野良猫の避妊手術を手伝っていた。
父は、そういった猫達にも、縫合機は使用せず、針と糸を使って手で縫う。犬や猫なら、多少傷口がよれたとしても、いずれ毛が生えてきて覆われてしまうので、わりと雑に済ませる獣医師も多い。ましてや飼い主のいない猫の腹なんて、ホチキスのような機械で簡単に閉じてしまった方が早くて簡単である。それでも俊介の父親は、毛を刈られ、望んで手術台の上にいるわけではない猫の、腹の肌目をきちんと合わせ、一針一針縫っていく。
そんな父のポリシーと的確な手技を、俊介は尊敬していた。そしていつも、その縫合を食い入るように見て学んでいた。
実際に縫わせてもらった事はもちろんまだ無い。けれど、麻酔するほどの大ケガでも無いし、指先をほんの2針分縫うくらい、自分にも出来るだろう。
しかし相手が彩乃となると、俊介は迷わずにはいられなかった。
まだ資格のない俊介が、彩乃の体に針を通す。それは明らかに医療行為で、違法である。
ほっそりとした綺麗な指先に、醜い縫合痕が残ったら。
もし後で、細菌感染して何かあったら……。
そう思うと、止血だけして救急病院に連れて行ってしまいたかった。そしてそれが、人の医師では無く、しかもまだ獣医でさえ無い学生の俊介がとるべき、正しい行動だった。けれど、
『下神井戸動物病院の息子が、夜間救急に、人魚に噛まれたと泣き叫ぶ女を連れてきた』
そんなウワサが立つのではないかという妄想に駆られ、それが家族や近所に知られるのが怖ろしかった。
どうか止まってくれ……
俊介は後悔の念に
「ァ・・ァ・・・」
不意に、今まで魂が抜けたように無言だった彩乃の口から、乾いた声が発せられ、俊介はハッと顔を上げた。
すると目の前に、俊介をじっと見つめる黒々とした瞳があった。
顔にかかる、乱れた前髪の隙間からのぞく二つの目。
それが、深い井戸の底のような強烈な吸引力を持って、俊介を見つめていた。
どこかでこんな色をした鉱石を見た事がある……
それが何だったか思い当たる前に、彩乃の口が、パクパク動いた。
「ァ・・・シュ……スケ・・・シュン…スケ・・・」
生まれて初めて母親の名を呼ぶ赤ん坊のように、ぎこちなく曖昧な声。
「何?どうした?…指、痛い??」
強い視線と対照的な、不明瞭で頼り無さげなその声に、思わず手の力が緩みそうになる。しかし、まだ手を離すわけにはいかない。今、離したら、せっかく止まりかけた血が再び溢れ出てしまう。
「もう少しの我慢だから、ごめんね……」
謝りながら俊介は、彩乃の血まみれの肘に添えていた左手を外し、その手で顔にかかる髪をそっと払い、静かに頭を撫でてやった。すると彩乃は怪我の事など忘れたように、うっとりと気持ち良さそうに目を細め、口元に薄ら笑いを浮かべた。
「シュン・スケ・・・」
「ん……?」
そのたどたどしい声と妖しげな眼差しに、一瞬戸惑い、髪を撫でる手が止まる。
すると彩乃は、どこか焦点の合わない、夢の中のような表情で俊介を見つめながら、止まったままの左手に、自分の左手を重ねてきた。
そして重なり合った二つの手を、糸で繰るようにゆっくりと、口元に導いた。
互いに握り合う、傷ついた右手と、血糊のうつった左手が、見つめ合う二人の目と目の間で交差する。
彩乃の微かに開いた唇から赤い舌がのぞき、それが、唇に辿り着いた俊介の親指に触れた。
俊介の体に震えが走る。
その濡れた感触は、夜の闇を揺さぶる雷光のように、一瞬にして俊介の体の奥底の、本能の部分にまで鋭く届いた。
それはあの神社で、綿あめの付いた甘い指先を無意識に舐める彩乃の姿を見た時より、遥かに現実感を伴って、俊介の体を突き上げた。
咄嗟に言葉を失い、間近に迫る、虚ろな彩乃の顔から視線を逸らして下を俯く。
ベビーピンクのルームウェアーが目に入る。
薄いタオル地のショートパンツから伸びた長い脚は、両膝を内側に傾けるように力無く開かれ、その合わせ目に、赤い血が所々に滴り落ちていた。
上に着た、同素材のふわりと短いキャミソールの腹部が、水を含んでびっしょりと濡れている。その水滲みの行きつく先を、目が勝手に上へと辿っていく。それを止めることなんてできない。半円形に濡れた生地が上半身にへばりつき、ふっくらと柔らかそうな胸の形をあらわにしていた。その中心に、透けるように浮かぶ小さな乳首が目に入る。そして彩乃は俊介の左手を握りしめ、
その血糊の付いた親指を、舌で愛おしそうに、ゆっくりと舐め続けている。
腰が引ける。
それに反して体はどんどん熱くなる。
この非常時に、どうしてこんな事になってしまうのか。
「彩乃…やめて……」
けれど呻くようなその声は、その時鋭く光った稲妻と雷鳴に弾かれるようにかき消された。
窓の外が真昼のように光り、同時に、神の怒りが地に叩きつけられたかのような凄まじい轟音が響く。
部屋の照明が不安定に揺らいでプツンと消えた。
それからまたすぐに点いた。
しかしその一瞬の闇の中に、俊介は自分の指を口に咥える、見知らぬ女の顔を見た。
それは彩乃ではなかった。
彩乃には見えなかった。
黒い穴のようの小さな目。
のっぺりと
「う、わ……!!」
昂ぶりかけていた体が一気に冷め、俊介は短い悲鳴をあげて、その異形の舌を
振り払うと手を引いた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
束の間の停電。
そしてリビングに再び明りが戻る。
極限まで目を見開いた俊介の前に、同じように目と口をポカンと開いて彩乃が座っていた。
紛れも無く彩乃。美しい彩乃。
当然のようにそこに。
何だったんだ?今見えたのは……
動転し、脈が激しく乱れる。
しかし部屋の明るさが、すぐに俊介の心を正常な思考へ導いた。
稲妻の強烈な光と、停電がもたらした目の錯覚。
そして、雷に打たれたように硬直していた彩乃が、2、3度、まばたきをし、それから口を動かした。
「俊、介……?」
その声に、先ほどまでの不明瞭さは既に無かった。
多少、弱々しくはあったが、いつもの彩乃の声。そして夢から覚めたように、焦点のしっかりと定まった目で俊介を見た。それからケガを負い、握りしめられた自分の右手と、水に濡れ、血に染まった部屋着を見て大きく息を吸い込んだ。
その形良い口から、再び悲鳴が発せられる予感がして、俊介は咄嗟に彩乃の頭を自分の胸に抱き寄せ、背中を軽く叩きながら、
「大丈夫だよ、もう大丈夫だから」
と、何度も何度も繰り返し、彩乃をなだめた。
その言葉は、自分に言い聞かせるためでもあった。
大丈夫だと口にする事で、俊介の心は素早く確実に冷静さを取り戻し、今、しなくてはいけない事を次々と思い出していった。
彩乃は、俊介の胸で再びしゃくりあげ始めたが、もう悲鳴を上げたり、訳のわからない事を口走ったりすることは無かった。
しがみ付く彩乃の右手を、俊介はもう少し高く上げさせた。気付けば随分長い事握っていた気がする。指先がロウのように青白く冷たい。
父さん、頼む、どうか……
俊介は、何故か父に向けて強く祈りながら、そっと止血する手を緩めていった。
彩乃の手に、サッと血の気が蘇る。
傷のある中指が薄いピンク色に変化し、一瞬、膨張したかのように見えたが、
もうそこから血が滲み出ることは無かった。
俊介の口から思わずフーッと、安堵のため息が漏れた。
「彩乃、良かった、血が止まった!」
そのきっぱりとした声を聞き、彩乃は胸にうずめていた顔をあげ、俊介の顔を恐る恐る見上げた。
二つの大きな目は真っ赤に充血していたが、先ほどまでの妖しい光は、跡形も無く消えていた。
「俊介、私、、、どうしたんだろう…
何だか良く分からない……」
「もう心配無いよ。たぶん怖かったのと、出血したせいで放心状態になってたんだ」
どうやら彩乃は、俊介の部屋からキッチンに至るまでの経緯を、覚えていないようだ。それならそれで、今、わざわざ思い出させる必要はない。
「彩乃は薬でアレルギー出た事ってある?」
「ない。多分……」
「そっか。じゃ、パッと消毒しちゃおうね。痛くないから」
俊介はなるべく明るく、そして落ち着いた声で彩乃に話しかけた。そうすることによって俊介自身も、劣情や錯覚にたやすく吹き飛ばされると思い知らされた自分の理性を、しっかりと心の中に繋ぎとめる事が出来た。
俊介はじぶんの両手を改めて石鹸で洗った。それから冷蔵庫の横の食器棚から
小皿と救急箱を持ってきて、清潔なガーゼを袋から一掴み取り出し、小皿の中で消毒薬に浸した。それで彩乃の手にこびりついた乾いた血をきれいに拭う。そして、新しい血が滲んでこない事をもう一度確認し、傷口に化膿止めの軟膏を塗った。それから小さなハサミで医療用テープを細い2ミリほどの短冊型に数枚切り、傷の端と端がピタリと合うように、5枚のテープを使って丁寧に皮を寄せ、貼り合わせた。
その間、彩乃はいつになく気難しそうな表情の俊介を黙ってじっと見つめていた。
傷の処置が終わって包帯を巻くと、俊介は救急箱の中から白い鎮痛剤と抗生物質のカプセルを探し出した。そして、シンクの洗いかごの中からグラスを一つ取り、浄水器からたっぷりと水を注いで彩乃に渡した。彩乃はその錠剤とカプセルを口に入れ、グラスを傾けコクリと喉を鳴らして飲んだ。
それから残った水を一気に飲み干し、
「ありがとう……」
と言って、ようやく口元をほころばせた。
すっかり落ち着きを取り戻した様子の彩乃を見て、俊介はチラリと廊下に視線を走らせた。それから、少しためらいながら切り出した。
「彩乃、俺……二階に行って来て良いかな?」
彩乃の表情がハッと強張る。
それを見て、俊介は慌てたように続けた。
「あ、いや、もしここで待つのがイヤだったら一緒に上に行こう。俺の部屋の外で、片付けるの待っててくれても良い。それとも……」
俊介が言いにくそうに提案するのを、彩乃は黙って聞いていたが、すぐに、
「大丈夫よ俊介。…そうね、ここで待ってる。TV付けて良い?」
と言って、気丈に笑って見せた。
お互い口には出さなかったが、割れたガラス鉢、びしょ濡れで血まみれの床、
そして無残な姿で取り残された金魚を、そのまま放置しておくわけにはいかなかった。
無理に浮かべた彩乃の笑顔を、俊介は申し訳なさそうに見つめると、
「すぐに戻るよ」
と言い、残された彩乃のために、ありったけの照明を付け、リビングのドアを開いたまま二階へ向かった。
自室に戻ると、俊介は一目散に割れたガラス鉢に駆け寄り、そしてその場に、がっくりと膝を付いた。
「あぁ、、、ごめんね……」
思わずそう呟き、下唇を噛んだ。
金魚は、湾曲したガラスの破片の中で、すでにピクリとも動かず、赤い血に染まっていた。
彩乃と金魚から流れ合わさって出来た血だまり。
その受け皿のような形に割れた大きな破片の中から、慎重に金魚を掬い上げて見ると、長く美しかった胸びれはざっくりと裂け、俊介の手のひらから、ダラリと垂れ下がった。
そしてそこから、薄赤い水がポタポタとしたたり落ちるにつれ、金魚は次第に元の白い色に戻っていった。
けれどその色は、神社で老人に最後にひらりと
手を振るように見せた時の、薄桃色を帯びた白ではなく、生命力の抜けた青白さに変わり果ててしまった。
後悔で胸が痛む。
あの時、すぐにバケツでも何でもいいから、食塩水を作って移動してやれば……。それかせめて、睡蓮鉢に投げ込んでやっていれば……。
いや…そんな事今さら言っても仕方ない。あの場合、彩乃を優先させるのは当然だ。今だって、この部屋を片付けたら、すぐに戻って安心させてやらないと……
そうやって気持ちを切り替えようとした時、俊介の手の中で、金魚の胸びれがピクリと動いた。
そしてまん丸い小さな黒目が、わずかだが俊介の方を見た気がした。
「い、生きてる!!」
俊介は飛び上がるように立ち上がった。
そして金魚を乗せた両手を、椀のように丸めて廊下に走り出ると、再び階段を駆け降りた。
そしてリビングの前をドタバタと通り過ぎてから慌てて後戻りし、ドアから顔をのぞかせ、大人しくソファーに座っている彩乃に、
「もうちょっと待っててね!!」
と一声かけ、さっきはあまりにも動転して閉め忘れ、開きっぱなしだった玄関からすぐに飛び出した。
外は相変わらず激しい雷雨が続いていて、斜めに降り注ぐ大きな雨粒で庭の先が霞んで見えない。
俊介は裸足のまま、玄関脇の睡蓮鉢に駆け寄り、蓮の葉の上から両手をそっと水中に沈めた。
手の中で、金魚も一緒に沈んでいく。
浮いてこない。大丈夫かもしれない……!!
大粒の雨が水面を叩いて乱すせいで、裂けた胸びれ以外の傷がどういう状態なのか良く見えない。
仕方なく、自分の体を傘代わりに、鉢の上を覆って雨を避け、もう一度、手の中の金魚を見た。
その時、稲光が再び夜空を裂いた。
それが睡蓮鉢の水面に鏡のように反射する。
手のひらを、スルリと何かが撫でた。
そして水の中で、手の上にあった重みが消えてなくなる。
あ・・・・・・
雷鳴が轟き、光る水面が再び闇の色に返り、腕に、雨粒の当たる痛いような感覚だけが残った。
俊介は、慌てて水面に顔を近づけ、邪魔な蓮の葉を掻き分け、鉢の中を覗き込んだ。
青釉に彩られた大きな睡蓮鉢の中が、まるで底なし沼のように深く感じられる。
しかし、その奥の方でちらりと一瞬、白い人のようなものがよぎって行くのが見えた。
人魚・・・!!
俊介の頭に、咄嗟にその言葉が浮かんだ。
と同時になぜか、
この『子』は死なない
という確信が湧いた。
そして、口の中で何か一人つぶやくと、びしょ濡れのまま再び家の中へ、彩乃の元へと駆け戻ったのだ。
睡蓮鉢に金網を掛けずに
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