破片

 俊介が玄関扉の鍵穴に鍵を差し込もうとすると、携帯電話から彩乃の鋭い金切り声が、耳から頭を突き抜けた。その声に心臓が止まりそうになり、思わず鍵の束が手から離れる。それがポーチのタイルに落ちると同時に、ガシャンッ!という派手なガラスの破壊音が聞え、さらに悲痛な叫びが耳を襲った。


「彩乃?!」


 俊介は自室の窓が割れたのかと思い、咄嗟に庭に引き返し、雨の降りしきる中、二階を見上げた。しかし窓ガラスは何ともなかった。ブラインドも閉じられたまま。ルーバーのわずかな隙間からは、部屋の明りがノートの罫線のように白く横に伸びているのが見えるだけ。


「彩乃、どうした?何か割れた??」


 しかしそれに対する答えは無く、叫び声が今度は携帯からだけでなく、窓の方からもはっきり聞えた。そして光の罫線がチラチラ揺れ出し、絡み合う二つの影が見えた気がした。


 誰か入ってきたの。家に…… 


 彩乃の言葉が頭をよぎる。


 そんな、まさか……!!


 俊介は血相を変え、飛ぶようにポーチに戻ると落としたキーホルダーを拾い上げ、急いで家の鍵を探し始めた。すると激しい雨音に混ざり、携帯電話から再び彩乃の切羽詰まった声が聞こえた。


『人魚が、人魚が、、、ああっ!!どうしよう……きゃぁぁぁっ!!!」


 ただ事ではない声色に俊介まで気があおられて動転し、見慣れたはずの鍵がどうしても見つからない。ポーチの中まで吹き込む雨で、背中があっという間にびしょ濡れになる。


「くそっ!!何で……」


 また空が青白い光りを放ち、庭と屋敷を一瞬照らした。


『痛っ!!』


 携帯電話から短く鋭い叫びが聞こえた。

 そして『ゴツッ』という鈍い音の後、彩乃の声が遠ざかった。


「彩乃!……彩乃?!どうしたっ??」


 ようやく鍵を見つけだし、俊介は耳に携帯電話を強く押しつけながら、それを格子戸の鍵穴にやみくもに突っ込み、大きな声で呼びかけた。心臓の鼓動が速まり、血管の脈打つ音が頭の中で反響し、そこに遠くから、ひぃっ、ひぃっ、と空気の洩れたような声が重なる。


『……人魚に……噛まれた……痛い、血が、血がぁ、あぁ……しゅんすけ……助けてぇ……』


 状況がさっぱり理解できない。けれどとにかく彩乃は怪我をした。鍵がようやく解け、格子戸を乱暴に開くと、閉じるのも忘れて家の中に飛び込んだ。靴を脱ぎ捨て、階段を駆け登る。そしてわずかに開いた部屋の扉を勢いよく開く。


「あやのっ!」


 冷んやりとした空気が、息を切らした俊介の体をするりと撫で、長い廊下へ抜けていった。


 誰もいない。


「……?」


 エアコンの、低い吹き出し音が聞える。

 それから、すすり泣く微かな声が。


「彩乃?!」


 急いで声のする方に向かうと、ベッドの陰に彩乃がいた。

 床は水浸し。そこに額を付け、正座の膝を崩した形でうつぶせに倒れている。長い髪は乱れ、濡れた床に黒い蛇の群れのように広がり、その毛束の間から美しく白い二本の腕が、すんなりと伸びていた。そして手は固く一つに握られ、その指と指の間から、赤いとろりとした筋が床に散った水と繋がり、フローリングの上にもやもやとした血溜ちだまりを作っている。

 いったい何が起きたのか。

 絶望的な気持ちを振り払い、俊介は彩乃の側に駆け寄った。

 もう一度名前を呼び、肩に手を掛ける。すると細い肩がビクッと震え、嗚咽はぴたりと収まった。


「大丈夫だよ、俺だよ……」

「……」

「俺だよ、彩乃。ごめんね……ゆっくり起きて……手、見せてごらん」


 震える肩を抱いてそっと起こし、怪我の程度を見ようとする。すると傍らで、何か濡れた物の跳ねるピチピチという音が聞えた。

 その音に目をやると、勉強机の脇にガラス鉢が落ちているのが見えた。

 そして砕けた鋭い破片の中に、金魚が跳ねているのが見えた。


 あ……


 白い金魚は真っ赤な血に染まっていた。

 そして苦しそうに口をパクパクさせながら、長いひれを振り上げて、助けを求めるようにもがいていた。

 思わず息を飲む。俊介は眉根を寄せて、その無残な姿を見つめた。

横たわった黒い小さな片目が、きょろりと俊介の方を見る。

 

 ごめん……


 俊介は大きく息を吸い込み、そのまま金魚から目を逸らすと彩乃の耳に顔を寄せ、小声でそっと囁いた。


「彩乃、傷の手当てをしよう。下のキッチンに行くよ。さあ、立って……」




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